刺繍の手を止め、ぼんやりと小さな窓から塔の外を眺めていた。
無意識に、鈴蘭のネックレスの飾りへ触れる。
「王女様、昼食をお持ちしました」
部屋がノックされ、侍女が入ってくる。
「ありがとうございます」
いつも通り言葉を返すと、侍女は軽く頷き、食事をテーブルに丁寧に並べた。
その間、彼女は余計な話は一切しない。
準備が終わると、
「では、お食事が終わるころにまた伺います」
そう言って部屋を出ていった。
扉が閉まる音を聞きながら、小さく息を吐く。
先ほどのように食事や掃除のために侍女が訪れることはあるが、交わす言葉は必要最低限の挨拶だけだった。
特別な視線を向けられることはないけれど、侍女たちはいつも一定の距離を保っているように感じた。
あれから三カ月。
今はゼリア王宮から離れた場所に建てられた小さな塔で、ただ日々を過ごしている。
自由はないけれど、少なくとも命を脅かされるようなことはなかった。
ただ、ここへ来てから結局一度も塔の外へは出ていない。
もちろん、リリスのような話し相手はいるはずもなくて。
食事の時間も、本を読んでいる時も、眠る前も、ふとした瞬間に言葉を交わす相手がいないことが、こんなに寂しいなんて……。
最初のうちは、孤独に中々慣れることができなかった。
今更ながら思う――リリスがいたからとても救われていたのだと。
だからこそ、せめてリリスには幸せでいて欲しい。
確か、予定では四か月後だったかしら。リリスの結婚式は……。
きっとドレス姿の彼女は綺麗なのだろうな。
そんなことを考えながら、昼食の席へ着いた。
今の私は、ただ刺繍をして、本を読み、窓の外を眺める。
そんな毎日を繰り返しているうちに、いつのまにか孤独であることが当たり前のように感じるようになっていた。
それが、本来あるべき姿なのだと――。
ふと、ゼリアへ到着した日に浴びた視線を思い出す。
奇異なものを見る目、畏怖の目、そして、隠そうともしない嫌悪の目。
ミルバーグでも社交の場に数回だけ出たことがあった。
けれど、この国ほどひどい視線ではなかったように思う。
幼かったからこそ、当時は余計にひどく感じていただけで――。
少なくとも塔で暮らしていた間、あそこまで露骨な視線を向けられることはなかった。
だからこそ守られていたのだと、今になってようやく分かる。
そして、ゼリア国王。
面会したのはあの時の一度きりだった。
♢♢♢♢♢
玉座へ座るゼリア国王からは、近寄りがたい威圧感が漂っていた。
その視線が私へ向けられる。
まるで値踏みするような、どこか蔑むような眼差しに、胸の奥が冷たくなっていく。
まともに顔を上げることさえできず、震えるような小さな声しか出せなかった。
「ミルバーグ王国第二王女、アリス・ミルバーグでございます。この度は国賓としてお招きいただき、心より感謝申し上げます」
儀礼の挨拶を終えても、視線を上げることができない。
しばらく続く沈黙が、ひどく長く感じられる。
やがて、低く威厳のある声が響いた。
「よく来られた。歓迎しよう。」
「……ありがとうございます。」
「黒髪黒目の王女については、かねてより噂を耳にしておった。実際に会うのは初めてだがな。」
私に対する皮肉のように聞こえて、両手を握りしめる。
何を返したらいいか分からず、言葉が出てこなかった。
「……。」
「そなたの面倒は、そこにいる私の息子、セシリオに任せている。何かあれば申すがよい。」
「……はい。」
俯いたままでは失礼かと思い、恐る恐る顔を上げた。
一瞬だけ、ゼリア国王と視線が合う。
けれど、その視線は一瞬で私を離れた。まるで、見ていたくないものを見るように。
♢♢♢♢♢
今、思い出しても、胸が苦しくなる。
一方で、ゼリアまでの道中を共にしたセシリオ王子には、あの雰囲気が全くなくて。
どちらかと言えば、トルシア国王に近い雰囲気を持った方だった。
トルシア……。
ウィル様の姿が頭に浮かぶ。
♢♢♢♢♢
ゼリアへ向かう直前のことだった。
不安を悟られないようにしよう。
そう決めていたはずなのに、気づけばウィル様の腕へ添えていた指先に、ぎゅっと力が入っていた。
その瞬間、そっと手が重なる。
手の温もりに顔を上げると、ウィル様が心配そうに私を見つめていた。
その優しい眼差しに、不安がほんの少しだけ和らぐ。
大丈夫です――そう伝えたくて、小さく頷いた。
そして、手を離そうとした、その時だった。
ウィル様の手が、離れかけた私の手を引き留める。
一歩だけ距離を縮めると、誰にも聞こえないよう、私の耳元へ囁いた。
「必ず迎えにいく」
思わず息を呑み、ウィル様を見つめる。
翡翠の瞳には迷いがなく、ただ頷いてくれた。
♢♢♢♢♢
こちらへ来た頃は、ウィル様が私にかけてくださった言葉ばかりを思い出して、寂しさを紛らわせていた。
「必ず迎えに行く」
「アリスだけだ」
「待っている」
そう言ってくれたことが嬉しくて――。
けれど、日が経つにつれ、その言葉は時折、胸の奥で重しのようになった。
戻れるかどうかも分からないのに、ウィル様に辛い思いをさせているだけかもしれない。
私に、そこまでの価値があるのだろうか。
ウィル様には幸せになって欲しいと、誰よりも願っている。
いつも無理ばかりで、ご自分のことをあまり考えてくださらない方だから。
だからこそ、きちんとした奥様がいてくれたらと思う。
――きっと、それは私ではない誰か。
婚約披露の日、会場でウィル様を見つめていた女性たち。
やっぱり、あの方たちの方がウィル様には相応しい。
ウィル様の奥様になるなんて、最初から叶わない夢だったのかもしれない。



