ウィルは眠っているアリスを抱きかかえたまま、屋敷へと戻った。
夜もかなり更けている。
それでも玄関ホールには、まだ数人の使用人たちが残っていた。
扉が開いた瞬間、2人の姿にその場の空気が変わる。
「……旦那様」
最初に声を漏らしたのはクララだった。
ウィルは短く息を吐く。
「アリスを寝かせたい。部屋の準備を頼む」
低い声音だった。
クララは一瞬だけ表情を曇らせ、それでもすぐに使用人たちへ的確に指示を飛ばす。
そこへ、遅れてテリーが姿を現した。
「どうなさいましたか」
普段と変わらぬ穏やかな声音だったが、ウィルの表情を見るなり、その目がわずかに細められる。
ウィルはしばらく答えられなかった。
眠るアリスを見下ろしたまま、喉の奥で苦しげに息を落とす。
「……明後日、アリスはゼリアへ向かうことが決まった」
その言葉に、空気が凍りついた。
ゼリアがアリスを求めていることは、屋敷中に知られていた。
けれど、まさかここまで早く話が進むとは誰も思っていなかった。
「明後日……」
クララが思わず呟く。
周囲の使用人たちも言葉を失っていた。
「それまで、アリスはここへ滞在させる」
低くそう告げる。
やがて準備の整った客室へ入り、ウィルは眠るアリスをそっとベッドへ寝かせる。
目元は赤く、睫毛には涙の痕がまだ薄く残っていた。
その顔を見つめながら、ウィルは両手を痛いほど強く握りしめる。
しばらくして、控えめなノックと共にクララが部屋へ入ってくる。
「アリス様のご様子はいかがですか」
「……泣きつかれて、眠っている」
ウィルはアリスから目を離すことなく言葉を返す。
部屋を静寂が包んだ。
やがて、ウィルが掠れた声を落とす。
「守ると誓ったのに、心すら守れなかった」
誰へ向けた言葉でもなかった。
クララは思わず視線を伏せる。
——旦那様は、まるで宝物を扱うようにアリス様を大切にされていた。そしてアリス様も、少しずつ旦那様に甘えられるようになってきていた。
だからこそ、余計に胸が痛む。
それでも、今は言わなければならない。
「旦那様、少しお休みください」
クララはできるだけ穏やかな声音で続ける。
「アリス様には、私たちが付き添っておりますから」
目の下には隠しきれない疲労が滲み、フィヨルドから戻ったばかりなのは一目で分かった。
だが、ウィルは首を横へ振る。
「……いや」
短い拒絶だった。
視線はずっとアリスへ向けられたままだ。
クララは困ったように眉を下げ、それでも言葉を重ねる。
「お傍にいたいお気持ちは、痛いほど分かっております」
そして、少しだけ声を和らげた。
「ですが、旦那様がお疲れでは、アリス様もきっと心配なさいますから」
その言葉に、ウィルはようやく小さく息を吐いた。
長い沈黙のあと、諦めるように目を閉じる。
「……わかった。後は頼む」
そう言って、名残惜しそうにアリスの髪へ触れた。
やがてウィルはゆっくり立ち上がり、部屋を後にした。
―――――――――――――――
翌朝
深い眠りから目が覚め、ウィルはベッドから身を起こす。
フィヨルドからほとんど休むことなく馬を走らせたせいか、昨日は部屋へ戻り床に就くと、すぐに意識がおちた。
昨日より、頭は少しだけ冷静さを取り戻していた。
苦しさが消えたわけではない。ただ、感情のまま行動したところで、アリスにとって良い結果を得られないことだけは分かり切っていた。
身支度を整えてから、客間へと足を向ける。
部屋の前では、数少ない女性の使用人であるイメルダがちょうど扉を閉めたところだった。
「様子は?」
低い声で問いかける。
「昨晩からぐっすりお休みになられています」
その言葉に、ウィルはほんの少しだけ表情を緩めた。
「……そうか。家の方は大丈夫か」
「一晩くらいでしたら問題ありません。私もアリス様のことが心配でしたから」
イメルダは心配そうに部屋の方へと視線を向ける。
「夫が子どもを見てくれていますので」
「助かった」
短く礼を告げてから、ウィルは客間の扉へ視線を向ける。
「少しの間、交代する」
「わかりました。では、お出かけになられる際にお声かけ下さい」
「あぁ」
このあと、すぐに王宮へ向かわなければならない。
それでも、せめてアリスが目を覚ます瞬間には傍にいようと思った。
ウィルは扉を開け、静かに客間へ足を踏み入れる。
奥の寝台では、アリスがぼんやりと目を開けていた。
「……ウィル、さま」
眠たげな声に、ウィルの表情がわずかに和らぐ。
「すまない、起こしたな」
そう言いながら、ウィルはアリスの頬へそっと触れた。
アリスはくすぐったそうに目を細める。
「いえ、昨日は早く寝てしまったので」
そう言いながら、頬に触れていたウィルの手へ、自身の手をそっと重ねた。
いつもより甘えるようなその仕草に、ウィルの口元がわずかに緩んだ。
「出かける前に話せてよかった」
「お仕事ですか」
「あぁ。……アリスも塔へ――」
ウィルが珍しく言葉につまる。
アリスは重ねた手に少しだけ力を込めると、一瞬目を閉じた。
「私も、支度のために塔へ戻ってもいいですか」
目を開けたアリスの瞳に、もう迷いはなかった。
その言葉が何を意味しているのか、二人とも分かっていた。
ウィルは一瞬だけ苦しげな表情を浮かべる。
「構わない。移動の手配はしておく」
かろうじて淡々とした声で答える。
「夕方には迎えに行く」
そう言って、名残惜しそうにアリスの頬から手を離した。
「はい」
アリスはゆっくりとベッドから身を起こし、一瞬だけ寂しげな表情を浮かべて、部屋を出ていくウィルの背中を見つめていた。



