不吉を呼ぶ姫は愛されないはずだった ―王弟が望んだのは、ただ一人の婚約者―


遠征から戻ったその日の夕方、ウィルは王宮へ戻るなり国王の執務室へ呼ばれた。

扉を閉めて中へ入ると、エドワードが椅子から立ち上がる。
そしてウィルの姿をゆっくり見渡した。肩口から腕、最後に顔へと視線を移し、小さく息をつく。

「……無事でよかった」

その声は兄のものだった。

「まあ、お前がそう簡単にやられるとは思っていなかったが……それでも、兄としては心臓に悪い報告だったよ」

ウィルはわずかに肩をすくめた。

「ご心配をおかけしました」

「体は大丈夫か?」

「問題ありません」

ウィルが短く答えると、エドワードはうなずいた。

「そうか。それならいい」

椅子へ戻りながら、今度は声の調子を少しだけ整える。

「それで、本題なんだが」

ウィルは黙って続きを待つ。

「ミルバーグの王女のことだ」

エドワードは机に手を置いた。

「姫には、引き続きこの国に滞在してもらうことになった」

ウィルの表情は変わらない。

「ただ……ここ数日、塔に引き込まってしまったらしい」

少し困ったように息をつく。

「おそらく、お前のことがあったからだろう。自分が婚約者になったせいで、お前が襲われた。そう思っているのではないかと——」

ウィルは一度天井を仰ぎ、ため息をついた。

「この国から追い出されると思っているのかもしれないな」

そう続けてからエドワードは弟を見る。

「だから、一度顔を見せてやってくれないか」

「お前が無事な姿を見れば、少しは安心するだろう」

そして言葉を添える。

「ついでに、これからもしばらくこの国に残ってもらうことになると伝えてくれ。頼めるか?」

「分かりました」

ウィルは短く答えた。

本来なら、特別会いに行くつもりはなかった。
そのうち林のベンチで顔を合わせるだろうと思っていたからだ。

だが、国王にそう言われた以上、放っておくわけにもいかない。

そこで翌日、昼のうちに塔を訪れることにした。

応接間の窓からは庭が見え、その向こうには林が広がっている。

ウィルは窓から少し離れた壁を背にして立っていた。

ほどなくして扉が開き、アリスが入ってくる。

案内を受けて急いで降りてきたのだろう。

足を止めたアリスは、ほっとしたようにウィルを見つめた。

「……ウィル様」

その声には驚きより、安堵の色が濃かった。

アリスは慌てて姿勢を整え、軽く礼をした。

「突然の訪問で失礼しました」

「いえ……その……」

言葉が少し途切れる。

隣ではリリスが紅茶の準備を始めていた。

主人同士の会話に口を挟む様子はない。

アリスはおそるおそるウィルを見る。

「もう、大丈夫なのですか?」

「ええ、問題ありません」

簡潔な答えだった。

それを聞いて、アリスはほっと息をついた。

だが、すぐに視線を落とす。

「あの……」

少し言いにくそうに口を開く。

「守り紐……もし、まだお持ちでしたら……外してください」

ウィルは眉をひそめた。

「なぜです?」

アリスは言葉に詰まる。

「それは……」

視線を落としたまま、言い淀む。

ウィルは小さく息をついた。

「……十分守ってくれましたので」

アリスが顔を上げる。

「無事に戻ってこれましたから」

そう言いながら、ウィルは袖口を少し引き、手首を見せた。

深い緑と金の糸が、そこに結ばれていた。

あの夜、渡した守り紐だった。

アリスは息をのむ。

本当に、持っていてくれたのだ、と胸の奥が温かくなる。

何か言葉を返したかったのに、うまく声にならない。

そのときだった。

窓の外の林から、バサッと鳥が飛び立った。

アリスの視線が、正面の窓の方へ自然と向く。

枝が揺れ、その奥で何かが一瞬光った。

次の瞬間だった。

「リリス!」

アリスはとっさにリリスの腕をつかみ、横へ引き倒した。

ヒュッ、と風を切る音が響く。

矢は、つい先ほどまで二人が立っていたあいだを抜け、床に突き刺さった。

一瞬で空気が張りつめる。

ウィルは即座に状況を理解した。

二本目の矢が放たれる。

剣が閃いた。

甲高い音とともに、矢は弾かれて床へ転がる。

ウィルはアリスの腕をつかみ、窓から外れる位置へ自分の後ろに引き寄せた。

「敵襲だ!」

鋭い声が響く。

その声を聞き、外に控えていた二名の護衛騎士が扉を開けて駆け込んできた。

「今の音は!」

「矢だ。二時方向、林の中だ。二人とも追え!」

「はっ!」

騎士たちはすぐに外へ飛び出していった。

ウィルは床に刺さった矢を一瞥する。

「触れないでください。毒の可能性があります」

林の方へ視線を向けるが、すでに人影は見当たらない。

暗殺者は二矢を放った時点で失敗を悟り、すぐに撤退したのだろう。

応接間には、重苦しい沈黙だけが残っていた。