不吉を呼ぶ姫は愛されないはずだった ―王弟が望んだのは、ただ一人の婚約者―


国境付近の空気は、この数日ずっと張りつめていた。

ゼリア国側に大きな軍の動きはない。

だが、小競り合いにも満たない不自然な報告が続いている。

見張りの交代直後にだけ人影があった。

足跡だけが残されていた。

夜半に火が見えたが、朝には何もない。

どれも決定打にはならない。厄介だなと、ウィルは思った。

林の奥へ視線を向けながら、周囲の気配を探る。

今回連れてきたのは、騎士団の中でも特に腕の立つ者たちだ。

数は少ないが、連携の精度は高い。

トルシア国騎士団の理念は、無意味な殺生を好まない。

相手が引くなら追い詰めない、降伏するなら命を奪わない。

だが、戦闘になれば話は別だった。

躊躇して守るべきものを失う方が、よほど愚かだ。

「妙ですね」

斜め後ろに控えていた騎士が低く言った。

「そうだな」

ウィルは短く答えた。

人の気配はある。だが、姿を見せる気配が薄すぎる。

国境の緊張を煽るためだけの動きなら、ここまで執拗ではない。

「少し開くぞ」

その一言で、騎士たちが散る。

右へ三人、左へ三人。

残る二人がウィルの半歩後ろについた。

その直後だった。

林の奥から黒い影が飛び出す。

「来ます!」

声と同時に、刃が閃いた。

ゼリア兵、数は多くない。

精鋭だけを選んだ暗殺部隊らしい動きだった。

罠か、とウィルは一瞬で状況を判断する。

国境の不穏な空気は、俺をおびき出す囮だったわけか。

「右を抑えろ」

短い指示に、騎士たちが即座に動く。

一人が敵の剣を受け、もう一人が足を払う。

体勢を崩した敵の腕を、別の騎士が剣の柄で打ち据えた。

武器が落ちる。そのまま喉元へ刃を突きつけ、動きを封じる。

左手側でも同じだった。

敵が木陰から短剣を振るうより早く、騎士が間合いを潰す。

肩を打ち、膝を払って倒し、武器を取り上げる。

ウィル自身も剣を振るう。

一人目。刃を受け流し、そのまま手首を返して相手の剣を弾く。

腹に蹴りを入れ、倒れた男の喉元へ剣先を向けた。

もう一人。横から入った斬撃を半身でかわし、肘を打つ。

短く息が漏れた瞬間、首筋の横に剣の峰を叩き込み、意識を飛ばす。

敵の動きは速い、だが焦りがある。

数人が倒れたところで、残った者たちの呼吸が乱れた。

「団長、左、抜けます!」

声が飛ぶ。

「行かせるな」

ウィルが言うより早く、騎士が二人で進路を塞いだ。

一人が正面を押さえ、もう一人が横から足を払う。

倒れた相手の背を押さえつけ、そのまま拘束する。

ウィルは一瞬だけ周囲を見渡した。

敵は残りわずか、すでに撤退を選び始めている。

その時、風を裂く音がした。

矢だと分かった瞬間、角度が見えた。

自分を狙っている。

だが、このまま避ければ、後ろの騎士に当たる。

半歩ずれれば避けられる、それは分かっていた。

それでも、ウィルは動かなかった。

次の瞬間、肩口に衝撃が走る。

鈍い痛みと同時に、体の奥へ何かが沈んでいく感覚。

毒か。

「団長!」

後ろの騎士の声が響く。

「下がれ!」

ウィルは短く命じ、剣を握り直した。

視界がわずかに揺れる。

熱が、急に体の内側から立ち上がってくる。

だが、まだ倒れるわけにはいかなかった。

逃げかけた敵が最後に放った矢だ。

つまり狙いは最初からこれだったのだろう。

こちらをおびき出し、乱戦に紛れて暗殺する。

「囲め」

声が低くなる。

それでも騎士たちは迷わなかった。

一人が前へ出て敵の退路を塞ぎ、もう一人が横から体を当てる。

最後の一人が剣を弾かれた瞬間、ウィルが踏み込んだ。

一閃、男の手から武器が飛ぶ。

そのまま足を払って地面へ叩きつけ、喉元へ剣先を向ける。

「終わりだ」

低い声に、男は動きを止めた。

戦闘が終わった頃には、肩口の痛みより熱の方が勝っていた。

騎士たちが素早く周囲を確保し、拘束した敵を縛り上げていく。

「矢を抜きます」

「頼む」

短く答える。

矢を抜いた瞬間、視界が一度大きく揺れた。

そのとき、指先に触れたものがあった。

深い緑と金の糸、三日月の守り紐だった。

ほんの一瞬、それを見つめる。

細い月。

緑と金。

夜のベンチ。

遠慮深げな瞳。

だが、そこで意識は大きく沈んだ。

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目を開けたとき、天井が見えた。

見慣れた自室の天井ではない、国境付近の詰所だ。

薬草の匂いが鼻につく。

肩口にはまだ鈍い痛みが残っており、倦怠感もあるが先刻よりは引いている。

「お目覚めですか」

傍らに控えていた医師がほっとしたように言う。

「解毒剤は効いています。熱はまだありますが、峠は越えました」

「そうですか」

起き上がろうとすると、医師にすぐ止められた。

「まだ無理はなさらないでください」

「死にはしないのだろう?」

「えぇ、そこは断言できます」

医師の返答に、ウィルは小さく息をついた。

死なないのなら、それで十分だった。

部屋に他の者がいなくなった後、ウィルは枕元へ視線を落とした。

三日月の守り紐が置かれていた。治療時も外されずに残っていたらしい。

手を伸ばして拾い上げる。

熱の残る指先でそれを眺めながら、アリスのことを思い出していた。

あの姫は、幼い頃に会ったときと雰囲気がほとんど変わらない。

覚えているのは、どうやらオレだけらしいが――

何より、噂とは程遠い。

むしろ、普通すぎるほど普通の女性だった。

根拠のない噂に振り回され、塔に閉じ込められて育った姫。

不吉だと言われ続けてきたせいだろうか、あれほど所在なさげなのは。

それでも、あの姫は誰かを恨むこともなく、遠慮がちで、こちらの顔色を窺ってばかりいた。

そして、いらなければ捨ててくれていいと言いながら、守り紐を渡してきた。

思い出して、ウィルはわずかに目を伏せた。

何度も林のベンチで一緒になったが、隣に座っていても、不思議と居心地は悪くなかった。

会話がなくても苦にならず、彼女は空や木々を眺め、その傍らで本を読む時間が、なぜか妙に落ち着いた。

それが少し厄介だと思う。

こちらは彼女の噂を利用していることには変わりない。

ゼリアが明らかに動きを鈍らせている理由の一つが、あの姫の存在なのだから。

守り紐を指先でなぞる。

本来なら、これを受け取る資格などない。

それでも――

手放そうとは思わなかった。