●夜霧の里、林の中、夜
日向の異能、神速を使って瞬間移動した三人。
天音「…ここは?」
煌葉「お館様の屋敷裏の、林の中だな」
煌葉の言うとおり、少し進んだ先に立派な母屋の裏側が見えた。
天音「お館様って?」
日向「俺たちの師匠であり、育ての親でもある人なんです」
鬼面をしていて表情が見えない日向が、明るく答えた。
煌葉はそっと天音を地面に下ろす。そこで天音は、移動の直前に聞いた言葉の意味を尋ねる。
天音「…あの。さっきの“俺の妻”ってどういう意味?」
天音に顔を覗き込まれた煌葉は、動揺することなく説明する。
煌葉「忘却の水を回避する方法。それは俺の家族になることだ」
天音「家族?だから、妻……?」※きょとんとする
悩ましい表情をする天音に、煌葉はさらに補足する。
煌葉「もちろん偽装夫婦だ。殺し屋と結婚なんて嫌だろうけど、天音を助ける方法はそれしかない」
煌葉が視線を落とす。天音は何かに勘付いて申し訳なく思いながら答える。
天音「私は嫌じゃないよ。知らない人ならともかく、煌葉は幼なじみなんだし」
煌葉「え…」
天音「それより、煌葉が本当にいいの?」
心配そうに見つめられて、思わず煌葉の胸が音を立てた。
天音「想いを寄せる女の子がいるんじゃないの?だったら無理に偽装結婚しなくても」
煌葉「……は?」
天音「“生き別れの姉”も立派な家族になるし、だから私なんかを妻にする必要ないと思――」
煌葉「俺は天音以外を妻にするつもりはないっ」
天音の言葉に被せてきた煌葉が、ここへきて初めて感情を露わにしたようだった。
突然のことに天音が驚いていると、見兼ねた日向が助言する。
日向「煌葉に両親兄弟、親戚がいないことは俺もお館様も知ってる。だから“生き別れの姉”は通用しないっすよ」
天音「そ、そうなんだ…」
日向「というより、天音さんはどちらかというと煌葉の“妹”だと思うけど」
日向が笑いながら言うと、天音は恥ずかしそうに反論する。
天音「で、でも誕生日は私が二ヶ月早いのよ。実際に弟もいるし頼もしい姉を十年……」
煌葉「姉にも妹にもしない。天音は俺の妻。以上」
天音「っ……」
煌葉が無理やり話を終わらせた。これは偽装結婚、自分たちは偽装夫婦とわかっていても、なんだか求愛されているような感覚になる。
天音「わ、わかったから…そんな本気になって言わないで」※照れる
煌葉「本気だ」※真顔
噛み合っていないことを察して、すぐさま日向が笑顔で割って入る。
日向「まあまあ。お館様に偽装結婚のことを知られたら三人仲良くあの世逝きだからさ」
天音「え」※固まる
日向「天音さんも煌葉くらい本気で挑んだほうがバレずに済むっすよ」
天音「そ、そっか…」
(偽装結婚だけど本物の夫婦のように徹底したほうがいいってことね)
(私と煌葉が夫婦…。あれ、つまり同じ家で過ごすってこと?寝室はさすがに別だよね?偽装夫婦だもの、うん……)
色々不安要素が浮かんできた天音だが、もう後戻りはできない。
煌葉「まずはお館様に面会して、始末報告と結婚の許しをもらう」
日向「そこで夫婦の契りを結び、正式に夫婦として認められるってわけだな」
天音(通常の祝言より簡単…。二人の師であり育ての親のお館様ってことは、怖い人なのかな)
偽装結婚がバレないように、天音が気を引き締める。
日向がこっそりと煌葉に耳打ちした。
日向「まさか天音さんと結婚したくてわざと面を外したんじゃ?」
煌葉「ち、違う…。思わぬ再会に動揺して色々と対応が遅れただけ、決してわざとでは…」※少し焦りながら
日向「まあどっちでもいいけどさ。よかったな、長年想い続けていた幼なじみを妻にできて」
煌葉「……」
微かに頬を赤くする煌葉の肩をぽんと叩き、日向は屋敷のある方へ歩きはじめた。
日向「てなわけで、これからお館様の屋敷にお邪魔するよ!天音さんついてきてー」
天音「う、うん…!」
ぴんと背筋を伸ばした天音が日向についていく。その背中を見つめながら、煌葉も後を追った。
●屋敷内の大広間、夜
夜霧の里を見渡せる小高い丘に建つ大きな屋敷。広い敷地は塀に囲まれ庭園や蔵が存在し、正面には立派な門構えがある。
天音は二人に連れられ、大広間にやってきた。
跪く煌葉と日向。その後ろに、天音がちょこんと正座する。
上段の間には一人の人物が座っていた。肩にかかった白銀の髪に深緑色の着物を纏う成人男性が、穏やかな顔で三人を迎え入れる。
煌葉と日向がお館様と呼ぶ、宝生左近だ。
左近「そろそろ帰ってくる頃だと思っていたよ。ご苦労様」
天音(この人が、お館様…)
想像よりもずっと穏やかそうな人物に、天音が胸を撫で下ろす。
煌葉「任務は無事完了いたしました。それと、私事なのですが一つご報告があります」
左近「後ろにいる女性について、だね」
煌葉「はい」
左近は全て見透かしているような表情で天音を見る。緊張の中、天音が頭を下げて名乗る。
天音「松垣天音と申します!あの、私…」
左近「煌葉の幼なじみ。以前から話は聞いているよ」
天音「え?あ、はい…」
煌葉は日向だけでなく、左近にも天音のことを話していたらしい。
天音(煌葉は一体、私の何を話していたの?)※煌葉をチラッと見る
煌葉「任務中に幼なじみの天音と再会し、俺の不注意で顔を晒してしまいました」
左近「なるほど。煌葉の心情的にも彼女に忘却の水は飲ませられなかったか」
煌葉「申し訳ございませんでした」
深々と頭を下げた煌葉が顔を上げると、覚悟を決めた目をしていた。
煌葉「ですので以前からお伝えしていた通り、幼なじみの天音に結婚を申し込みました」
天音(ん?以前からお伝え…って、どういうこと?)
左近「そうか。煌葉の初恋がようやく実ったんだな。おめでとう」
煌葉「ありがとうございます」
天音(は、初恋…??そういう設定でいくの?)
混乱する天音だが、ここで偽装結婚と知られるわけにはいかなくて必死に平常心を保つ。
左近「それでは夫婦の契りを結ぶ。天音さんの拘束を解きなさい」
許しをもらうと、日向が天音の手を縛っていた縄を解いた。
同時に女性の使用人が大広間に入ってくる。両手で三方を持ち、煌葉の目の前に置くと一礼して退出した。
三方には一つの盃のみが乗せられ、少量の酒が注がれている。
煌葉「天音、俺の隣に」
天音「は、はい」
呼ばれた天音は、何をするのだろうと疑問に思いながら煌葉の隣に座り直した。
左近「その酒を口移しで分け合い、夫婦の契りとする」
天音(…ん?今、なんと…?)
天音がきょとんとする中、煌葉は左近に向いていた体を隣の天音に向けた。
煌葉「……」
天音(え?待ってよ、口移しってつまり……)
煌葉は盃を手に持ちゆっくりと口に寄せた。注がれていた酒はすべて、煌葉の口に含まれる。
空になった盃を三方に戻し、煌葉が天音の両肩を掴んだ。
天音「っ!!」
(うそ!本当に、するの⁉︎)
煌葉の赤い瞳に天音が映る。鼓動が一気に加速して思考が追いつかない。
天音(偽装結婚なのに、偽装夫婦なのに。このまま、煌葉と口付けしてしまうの⁉︎)
混乱する天音に気づいていた煌葉だが後には引けない。それに――。
煌葉(ここまで長かった。やっと、俺だけの天音にできる)
意を決した煌葉が軽く首を傾けると、左近の視線を遮るようにして天音に鼻先を近づけた。


