鬼は花を知らない

 長月に入った。
 夏が終わった、と気づいたのは、庭の花が変わった朝のことだった。
 夏の間あれほど咲いていた朝顔が、いつの間にか蔓だけになっていた。代わりに、庭の端に白い花が群れていた。秋の七草のひとつだ。
 小春がそれを見つけたのは、夜明けまもない時間だった。
「来た」
 小春は言った。誰に言うわけでもなく。
 精霊の声が、夏のそれとは違う感触になっていた。少し落ち着いた、深みのある声だ。秋の精霊は、夏の精霊ほど賑やかではない。しかし、深い。
 小春は白い花の前にしゃがんだ。
「久しぶりだね」
 精霊が応じた。一年ぶりだ、という気配がした。
「うん。今年もよく来てくれた」
 その声を、廊下の端から朔が聞いていた。
 いつからそこにいたのかは分からない。しかし、小春が花と話す様子を、朔は少し離れたところで聞いていた。
 以前は、その行動を観察していた。監視の任務として。
 今は、違う。
 聞いていたかったから、いた。
 それだけのことだが、以前の朔にはなかったことだ。

 小春が振り返って、朔に気づいた。
「将軍さん、早いですね」
「来たかったから来た」
「また言いましたね、それ」
「言い方が定まってきた」
「定まってきた」
小春が少し笑った。
「将軍さんらしい」
「九十四番目は何の花か」
 小春が少し驚いた顔をした。
「もう続きをやるんですか、今日から」
「秋になったら教えると言っていた。今日から秋だ」
「……よく覚えていますね」
「約束したから」
 小春はまた笑った。今度は少し違う笑い方だった。嬉しそうで、少し温かい笑い方だ。
「では、これが九十四番目です」
 小春は白い花の方を向いた。
女郎花(おみなえし)ではなくて、こっちは男郎花(おとこえし)です。白い方が男郎花」
「似ているのか」
「姉妹花です。黄色いのが女郎花で、白いのが男郎花。同じ秋の七草ですけど、性格が少し違う」
「性格が違うとは」
「女郎花は日当たりのいい場所が好きで、少し派手に咲きます。男郎花は日陰でも咲いて、地味だけど強い」
 朔は白い男郎花を見た。
 確かに地味だ。しかし、群れて咲いている様子には力がある。踏まれても折れない茎の太さがある。
「名前の由来は」
「男の花、という意味ですけど、由来には諸説あって。ただ、男郎花と女郎花は必ず近くに咲くと言われています。好んでそうなるのか、土の性質がそうさせるのかは、分からないですけど」
「必ず近くに咲く」
「はい。片方だけで咲いているのは、あまり見ないです」
 朔は男郎花を見た。少し離れたところに、黄色い花が群れていた。女郎花だ。確かに近い。
「……覚えた。男郎花と女郎花」
「一度に二種類ですね。では九十五と九十六になります」
「九十五と九十六か」
「残り四種類です」
 朔は少し考えた。
「早くなってきた」
「何が」
「残りが減るのが」
 小春が少し止まった。
「……寂しいですか」
「寂しいかどうかは分からない。ただ、終わることを考えると、何かが引っかかる」
「何かが引っかかる、という感覚、分かります」
「それが何かは言えるか」
 小春は少し考えた。
「百種類覚えたら、花の名前を教えるという理由がなくなる。その後も一緒に庭を歩く理由が、別に必要になる。それが引っかかっているのかもしれません」
 朔は、その言葉を持った。
 その後も一緒に庭を歩く理由が必要になる。
「……理由は必要か」
「将軍さんは、どう思いますか」
「理由がなくても歩ける気はするが、なぜそう思うのかが、まだ言葉にならない」
「言葉にならなくても、いいと思います」
「そうか」
「理由なく歩きたいなら、歩けます。ここは庭ですから」
 朔はその言葉を受け取った。
 庭は誰のものでもない。二人が並んで歩くことを、誰も止められない。理由など、元から必要ではなかった。
「……男郎花と女郎花は、必ず近くに咲く」
「はい」
「理由があってそうなるのか、そうなるものだからそうなるのかは、分からないが」
「分からないですね」
「それでいい、ということか」
「それでいいと思います」
 朔は少しの間、男郎花を見た。
 何も言わなかった。しかし今の朔には、黙っていることが以前とは違う重さを持つ気がした。
 言わないことと、言えないことは、違う。
 今は、言わないことを選んでいる。
 その違いが分かることも、変化だと思った。

 その朝の後、篝が報告に来た。
「殿、今朝は随分と早く庭においででしたね」
「来たかったから来た」
「またその言葉ですか」
「定まってきた」
 篝が少し笑った顔をした。
「九十五と九十六を覚えたと伺いました。残り四種類ですね」
「四種類だ」
「それが終わったら、どうされるおつもりですか」
 朔は少し考えた。
「庭を歩く」
「理由なく?」
「理由なく」
 篝がしばらく沈黙した。それから、いつもより少し柔らかい声で言った。
「殿は、少し前まで、全ての行動に理由が必要でしたね」
「そうだった」
「今は、違う」
「違う」
「……良いことですね」
「良いかどうかは」
「良いことです」
 篝が断言した。
「私が言うので、間違いありません」
 朔は篝を見た。
 篝の目に、長年そこにあったものが見えた。心配と信頼と、何か別のものが混じった目だ。
 今日はその中に、安堵がある。
「篝」
「はい」
「あなたは長年、私を見てきた」
「はい」
「その間、どう思っていたのか、今日聞いてもいいか」
 篝が少し目を開いた。予想していなかった問いだったのだろう。
「……どう思っていたか」
「感情を切り離した将軍の傍で、何を感じていたのか」
「それを今、聞くのですか」
「聞いていなかった。聞く必要を感じなかった。だが、今日は聞きたい」
 篝はしばらく黙っていた。
 それから、少し遠くを見るような目になった。
「……淋しかったです」
「淋しかった」
「殿が完璧な判断を下すたびに、この方はどこへ向かっているのだろうと思っていました。どこへも向かっていない。ただ、正しく動いている。それが、淋しかった」
「私がそこにいながら、淋しかったのか」
「はい。傍にいる者が、何も感じていない時、傍にいる意味が分からなくなることがあります」
 朔は篝の言葉を持った。
「……私の傍にいることに、意味を求めていたか」
「求めていました。殿を尊敬していたから。しかし、尊敬だけでは、淋しさが埋まらない」
「今は」
「今は埋まっています」
 篝は朔を見た。
「殿が感じるようになったから。来たかったから来た、と言えるようになったから。淋しくない」
 朔はその言葉を、長い間持っていた。
 篝の淋しさを、朔は知らなかった。知ろうとしなかったのではなく、感情がなかったから、気づけなかった。
「……申し訳なかった」
 初めて言った言葉だった。
 謝ることの意味は以前から知っていた。しかし、感情を伴って言ったのは、今日が初めてだった気がした。
 篝が少し驚いた顔をした。
「殿が、謝るとは」
「淋しい思いをさせた。それは、悪いことだ」
「悪いことかどうかは……」
「悪いことだ。感情がなければ分からないことがある、と篝が言っていた。今はその意味が少し分かる。あなたの淋しさを、感じられなかった。それが悪かった」
 篝は黙っていた。
 目に何かがあった。泣いているのではない。しかし、何かが揺れていた。
「……殿」
「なんだ」
「私は今、とても」
 篝が言葉を探した。
「嬉しい、です」
 その一言が、静かに落ちた。
 朔はその言葉を受け取った。
 嬉しい。篝が嬉しいと言っている。その嬉しさの意味が、今日の朔には少し分かる。
「……そうか」
 朔は言った。
 それだけだったが、今日はそれで十分だった。

 神無月の半ば。
 秋が深まった。
 庭の葉が色づき始めた。緑が黄に、黄が橙に、橙が赤に変わっていく。その変化を、小春は毎日報告した。
「今日は楓が半分、赤くなりました」
「昨日は三割だったか」
「はい。早いですね」
「気温の変化が急だったからだ」
「将軍さん、そういうことも考えるんですね」
「葉の色づきは気温と光の量で変わる。以前から知っていた」
「でも以前は、気にしなかった」
「気にしなかった」
「今は気にする」
「今は気にする」
 小春が少し笑った。
「じゃあ、九十七番目に行きましょう。秋の花、三種類残っています」
「どれから始めるか」
「これです」
 小春が庭の一角を指した。そこには、細く長い茎の先に、薄紫の小さな花が群れていた。
竜胆(りんどう)です」
「竜胆」
「秋の終わりに咲く花で、冬が来る前の最後の色、とも言います。色は薄紫か青紫が多くて、花弁が筒状に閉じた形です」
「閉じているのか」
「晴れた日中だけ開きます。曇りや夜は閉じています。恥ずかしがり屋さんと言われることもあります」
 朔は竜胆を見た。確かに、筒状の花弁が少しだけ開いている。今日は晴れているからだ。
「今日は開いているな」
「はい。晴れているから。……将軍さん、竜胆の花言葉、知っていますか」
「花言葉は教わっていない」
「悲しんでいるあなたを愛する、という意味があります」
 朔が少し止まった。
「悲しんでいるあなたを」
「はい。どんな状態でも、そのままを愛する、という意味で。悲しみも含めて、という」
 朔は竜胆を見た。
 薄紫の花弁が、秋の光の中に静かに開いている。
「……感情があっても、愛せるということか」
「そうだと思います。穢れがなければ愛せる、ではなく。感情があるままで」
「感情があるままで」
「はい」
 朔は少し考えた。
「それは、今の宮廷のことでもあるな」
「そうですね。感情を消してから愛するのではなく、感情があるままで」
「綾女が向かおうとしていたのは、消してから愛する、ということだった」
「そうかもしれない。でも今の綾女さんは、少し違ってきている気がします」
「あなたにはそれが分かるのか」
「綾女さんの話し方が、少し変わってきました。穢れを祓う時に、これは誰かの悲しみだと言うようになりました。以前は言わなかった」
 朔はその情報を持った。
 綾女が変わり続けている。大祓の日から、ゆっくりと。
「竜胆、覚えた」
「九十七番目です」
「残り三種類」
「はい」
 朔は竜胆の前に立ち続けた。
 悲しんでいるあなたを愛する。
 その花言葉が、何かを示している気がした。何を示しているかは、まだ言えない。しかし、引っかかっている。
 引っかかっていることを、今日は消さないでおこうと思った。

 霜月の初め。
 九十八番目と九十九番目を、小春は同じ日に教えた。
 九十八番目は、菊だった。
「菊は、将軍さんも知っている花ですよね」
「知っている。帝国の紋にも使われている」
「はい。でも花として見たことはありましたか」
「紋として見ていた。花としては、あまりない」
「では今日、花として見ましょう」
 庭の菊は、白と黄と淡い紫が混じって咲いていた。秋の深い色の中に、菊の白が際立っている。
「菊は長く咲きます。秋の初めから冬の手前まで。他の花が終わっても、菊だけが残っていることがある」
「強い花なのか」
「強いというか、粘り強い、かな。霜が降りても枯れないことがある」
「霜に耐える」
「はい。花巫女としての仕事を始めた頃、冬の庭に菊だけが残っているのを見て、すごいと思いました。あの時の将軍さんみたいだと思って」
 朔が小春を見た。
「私のようだと」
「はい。霜の中でも立っている。感情がなくても、折れない。……今は少し違うかもしれないですけど」
「今はどう違うのか」
「今の将軍さんは、霜の中で立っているだけじゃなくて、少しずつ、咲いている気がします」
 朔はその言葉を持った。
 咲いている。
 それが何を意味するのかは、言葉では言えない。しかし、そう言われた時に、朔の中の何かが温かくなった。
 これが何かは、もう少しで言えそうな気がした。
「九十九番目は何か」
「これです」
 小春が庭の奥に歩いた。朔がついていく。
 庭の隅に、低木があった。その枝に、白い小さな花がびっしりと咲いていた。
「白玉椿です。普通の椿より早く咲く種類で、霜月に花をつけます」
「椿は以前に覚えた」
「寒椿は覚えていますね。これは白玉椿といって、花弁の形が少し違います。寒椿より丸くて、小さい」
 朔は白玉椿を見た。確かに小さい。丸い白い花弁が、枝いっぱいに咲いている。
「名前の由来は」
「白い玉のような形から。椿は春の花のイメージがありますけど、この種類は秋から冬に咲きます。冬でも咲き続ける」
「冬に咲く椿」
「はい。この花も、霜の中で咲いています。でも菊とは少し違って」
「何が違う」
「菊は一人で立っている感じがするけど、白玉椿は枝全体で咲いている感じがします。一つ一つは小さいけど、集まって咲いている」
 朔はその説明を聞いた。
「集まって咲く方が、強いのか」
「強さが違う気がします。菊は一人の強さ、椿は一緒にいる強さ」
「どちらが良いのか」
「どちらも良いと思います。でも……」
 小春が少し考えた。
「一人の強さと、一緒にいる強さ、両方ある方が、より良いとは思います」
「両方を持てるのか」
「持てると思います。将軍さんは、菊のような強さを持っていました。今は、それに何かが加わってきている気がします」
「何が加わってきているのか」
「まだ言葉にしにくいですけど……一人ではない、という感じがすることが、増えてきていませんか」
 朔は考えた。
 一人ではない、という感じ。
「……ある気がする。以前は、傍に誰かいても、一人だった。今は、傍に誰かいると、その誰かがいる」
「そうです。それが、一緒にいる強さの始まりだと思います」
 朔は白玉椿を見た。
 枝いっぱいに、小さな白い花が咲いている。一つ一つは小さい。でも、集まると枝が白く輝くように見える。
「九十九番目、覚えた」
「白玉椿ですね。残り一種類です」
「最後は何の花か」
 小春が少し間を置いた。
「最後は、将軍さんが自分で決めてください」
「私が決める」
「百種類目の花は、あなたが選んだ花にしたいと思っています。覚えるのではなく、選ぶ」
 朔は少し止まった。
「選ぶとは」
「この宮廷の庭に咲いている花の中で、将軍さんが一番好きな花を、百種類目にします。それが何かを教えてください」
「好きな花を選ぶのか」
「はい。好きかどうか、今は感じられますか」
 朔は庭を見渡した。
 長月から今まで、庭の花を見てきた。精霊の声は聞こえないが、形と名前と、今の朔には少し分かる何かを感じながら、見てきた。
「……考えさせてくれ」
「はい。いつまでも待ちます」
「いつまでも待つとは、どういう意味だ」
「急がなくていい、という意味です。将軍さんが決めた時が、百種類目の時です」
 朔はその言葉を受け取った。
 急がなくていい。決めた時が、その時だ。
 それが今の朔には、何か大切なことを言っている気がした。
 花の名前だけの話ではない、という気がした。

 その夜、朔は一人で庭を歩いた。
 霜月の夜の庭は冷えている。しかし朔は寒さを理由に立ち止まらなかった。
 庭の花を、一つ一つ見た。
 男郎花はもう枯れ始めている。竜胆はまだ残っていた。菊が白と黄で咲いている。白玉椿が枝に白い花をつけている。
 そして。
 庭の中央に、一本の木があった。
 山茶花だ。
 冬の初めに咲く、濃いピンクの花。小春が最初に教えてくれた花で、朔が初めてきれいだと思った花だ。
 今夜は、まだ咲いていない。蕾の状態で、枝についている。
 朔はその前に立った。
 蕾を見た。
 丸く、堅く閉じている。その中に、花が準備されている。咲く時を待っている。急がずに、ただ待っている。
 朔は少し考えた。
 百種類目の花は、これだ。
 山茶花だ。
 最初に教わって、きれいだと思って、ずっとこの庭で見てきた花だ。感情の最初の気配が生まれた花の前だ。
 しかし、今夜は蕾だ。
 咲いていない時の山茶花を、百種類目として選ぶのは、どういう意味があるのか。
 朔は考えた。
 咲いていなくても、花はある。根があって、茎があって、蕾がある。春になれば咲く。冬の間は、ただある。それが花の在り方だ。
 感情も、似ているかもしれない。
 まだ言葉にならないものがある。まだ形にならないものがある。しかしある。蕾のように、ある。
 いつか咲く。
 朔はそう思った。確信ではないかもしれない。しかし、そう思った。
 それが今夜の朔に、できることだった。

 霜月の下旬。
 小春が庭に来た朝、朔が先にいた。
「今日、決めた」
 小春が立ち止まった。
「百種類目ですか」
「ああ」
 朔は歩き始めた。小春がついてくる。
 向かった先は、庭の中央だった。
 山茶花の木の前に、朔は立った。
 今朝、山茶花の蕾が、一つだけ開いていた。霜月の朝に、一輪だけ、濃いピンクの花が咲いていた。
「……山茶花」
 小春が言った。
「そうだ。百種類目は、これだ」
「なぜ山茶花にしたんですか」
「最初に教わった花だから」
「それだけですか」
 朔は少し考えた。
「それだけではない。しかし、最初に教わった花が最後になることが、正しい気がした」
「正しい、という感覚がありましたか」
「ある。論理ではない。しかし、正しい気がした」
 小春は山茶花を見た。一輪だけ咲いている濃いピンクの花が、霜月の朝の光の中に、静かに開いている。
「将軍さんが山茶花を見て、最初に何かを感じた時のことを覚えていますか」
「覚えている。きれいだと思った。しかし感じたのか思ったのかが分からなかった」
「今は分かりますか」
 朔は山茶花を見た。
「今は、感じている。きれいだと感じている。分かる」
「何が違うのですか、以前と今とで」
 朔は少し考えた。
「以前は、きれいという言葉が浮かんだだけだった。今は、きれいという言葉に何かが伴っている。胸の辺りから来る何かが、言葉と一緒にある」
「それが、感情です」
 小春が静かに言った。
「そうか」
「将軍さんの中に、感情が戻ってきています。まだ薄いかもしれないけど、確かに、ある」
 朔は山茶花を見続けた。
「……長かったな」
「何年ですか、感情を切り離してから」
「十五年以上だ。どこかで切り離した。いつかは分からない。しかし、長かった」
「長い間、それで戦ってきた」
「それで十分だと思っていた」
「今は」
「十分ではなかったと思う。しかし、十分ではなかったと分かるのも、感情が戻ってきたからだ」
 小春はうなずいた。
「感情がなければ、感情の不在に気づけない」
「そうだ。気づいていなかった間は、失っていることも分からなかった」
「今は分かる」
「今は、少し分かる」
 二人の間に、しばらく静けさがあった。
 霜月の朝の庭だ。冷えているが、山茶花が一輪、その中に咲いている。
「小春」
「はい」
「一つ聞いていいか」
「はい」
「あなたはなぜ、私に花の名前を教えようとしたのか」
 小春が少し驚いた顔をした。
「なぜですか、今更」
「以前は聞かなかった。必要を感じなかったから。今は聞きたい」
 小春は少し考えた。
「……最初は、将軍さんから何も感じなかったことが、不思議だったんです」
「私から感情の気配がなかったから」
「はい。でも、何も感じないということは、何もないということではないと思って。川の水が流れていないのではなく、ただ表面が凍っているだけで、水の流れは下にある、という感じがして」
「凍っている川か」
「はい。だから、春になれば解けると思っていました。最初から」
「確信があったのか」
「確信というより……感じていました。何かがある、と。それを信じました」
 朔は小春を見た。
「信じる根拠があったのか」
「ありませんでした」
 小春は少し笑った。
「根拠なく信じました。花の精霊と話せることも、最初は根拠なく信じてもらえなかった。だから、根拠なく信じることの意味を、知っていたのかもしれません」
「根拠なく信じることが、正しいのか」
「全部が正しいわけではないですけど。でも将軍さんのことは、正しかったと思います」
 朔は山茶花に目を戻した。
「……信じてくれたことに、感謝している」
 言った後、少し考えた。
 感謝、という言葉を使った。以前も使ったことはある。しかし今日は、その言葉に何かが伴っている。小春が自分のことを、根拠なく信じてくれたことへの、感謝が、ある。
「どういたしまして」
 小春が言った。それだけだった。
 その簡単な返事が、今日の朔には十分だった。
「百種類、揃った」
「はい」
「これで終わりか」
「花の名前を教えることは、終わりです」
「しかし」
「しかし?」
「庭はまだある」
 小春が朔を見た。
 朔は山茶花を見たまま、続けた。
「理由なく歩ける、と言っていた」
「言いました」
「ならば、まだ歩ける」
「……はい、歩けます」
「今日も、歩くか」
 小春が少し止まった。
 それから、うなずいた。
「歩きましょう」
 二人は庭を歩き始めた。
 百種類の花の名前が揃った庭を、理由なく、ただ歩いた。

 庭の端で、源蔵が道具を持ったまま、二人の後ろ姿を見ていた。
 声をかけなかった。
 長年庭師をやってきて、花が咲いた瞬間に何かを言う必要はないと知っている。
 ただ、咲いている。
 それで十分だ。
 源蔵は手元に目を戻し、道具の手入れを続けた。

 師走の初め。
 宮廷に初雪が降った。
 朝に目を覚ました小春が窓を開けると、庭が白かった。昨夜のうちに降ったらしい。薄い雪だったが、庭の全てを覆っていた。
 小春はすぐに庭へ向かった。
 花が心配だった。
 庭に出ると、山茶花の花弁に薄く雪が積もっていた。しかし花は折れていない。重みで頭を少し垂れているが、咲いている。
「大丈夫?」
 精霊に聞いた。
 返事は穏やかだった。大丈夫だ、という気配がした。
「よかった」
 小春は雪を花弁から払った。指で、そっと。
 足音が来た。
 振り返ると、朔だった。
「早いですね」
「初雪だったから」
「庭が心配でしたか」
「……そういうことだ」
 朔は小春の傍に来て、山茶花を見た。
「咲いている」
「はい。雪の中でも咲いています」
「強い花だ」
「強くて、美しい」
 朔が少し止まった。
「美しい、か」
「はい」
「私も、そう思う」
 小春は朔を見た。
 朔は山茶花を見ている。その横顔に、以前はなかったものがある。今の小春には、それが何か分かる。
 感じている顔だ。
 何かを感じながら、花を見ている顔だ。

 その日の午後、綾女が庭に来た。
 珍しいことだった。綾女が庭に来ることは、あまりない。
 小春が声をかけた。
「珍しいですね、庭に」
「……少し、見たくなりました」
「どうぞ。今日は山茶花が綺麗ですよ」
 綾女は山茶花の前に立った。雪の白と花の濃いピンクが、師走の光の中に並んでいる。
「……きれいですね」
 綾女が言った。
 以前の綾女は、花をきれいと言わなかった。言葉として使うことはあっても、今日の言い方とは違った。今日の言い方には、何かが伴っている。
「綾女さん、最近、少し変わりましたね」
「そうですか」
「穢れを祓う時に、これは悲しみから来た、と言うようになりましたね」
「……分かりますか」
「はい。いつ頃から?」
 綾女はしばらく黙っていた。
「夜叉丸が来てからです。あの男と話して、自分の恐れを少し認められるようになりました。それからです」
「恐れを認めると、変わるものですね」
「変わります。穢れを祓う時に、ただ排除するのではなく、これは誰かが感じたことだと思うようになりました。排除するのではなく、整える、という感覚に近くなっています」
「整える、良い言葉ですね」
「庭師の源蔵に言われました。庭師は草を消すのではなく、整える、と。それが腑に落ちました」
 小春は綾女を見た。
 以前の綾女は、人の言葉をすぐに論理に変換していた。しかし今日の綾女は、腑に落ちた、という言い方をした。
「綾女さんも、感情で受け取るようになりましたね」
「……そうかもしれません。怖いですが」
「怖い?」
「感情で受け取ると、傷つくことがある。傷つくことが、怖い」
「それは正直な言葉ですね」
「以前は、怖いとは言えませんでした。言うべきではないと思っていました」
「今は言えた」
「今は、言えました。……これが変化ですか」
「そうだと思います」
 綾女はまた山茶花を見た。
「花巫女殿に一つ聞いていいですか」
「はい」
「感情があることは、良いことですか」
 小春は少し考えた。
「良いことだと思います。ただ、全部が良いわけではないです。悲しいことも、怖いことも、嫌なことも来ます」
「それでも、良いのですか」
「それでも。感情があることで、花の声が聞こえます。世界がつながります。それが、感情のある理由だと思っています」
 綾女はしばらく黙っていた。
「……世界がつながる、か」
「はい」
「私は長年、世界を整えようとしてきました。穢れを消して、清浄にして。しかしそれは、つながりを断つことでもあったかもしれない」
「でも今は、整える、に変わってきている」
「変わろうとしています。まだ、完全には変われていないかもしれない」
「完全に変わらなくていいと思います」
「なぜですか」
「変わり続けることが大事で、完全に変わった状態というのは、止まった状態だと思うので」
 綾女が少し目を細めた。
「……変わり続けることが、良いと」
「変わり続けることが、生きていることと、似ている気がします」
 綾女はそれ以上は言わなかった。
 しかし山茶花の前に、しばらく立ち続けた。

 夕方、伊吹が小春を探してきた。
「花巫女殿、少しよいですか」
「はい」
「聞いてほしいことがあって」
 小春は伊吹を見た。以前より顔が柔らかい。感情を捨てようとしていた少年の顔ではなく、何かを模索している人間の顔をしていた。
「今日、訓練で初めて、怖いと思いながら正しい判断ができました」
「そうですか」
「以前は、怖いと思うと判断が歪むと思っていました。しかし今日は、怖いと感じながら、それでも判断できました」
「感情があっても、判断できた」
「はい。怖いという感情が、判断を悪くするのではなく、判断に必要な情報になっていた、という感じがして。怖いということは、ここが危ない、という情報だと思えば、判断に使える」
「素晴らしいですね」
「それを、誰かに言いたくて。篝様には言いましたが、花巫女殿にも言いたくて」
「なぜ私に」
「花巫女殿が言っていたことが、繋がった気がしたから。感情は弱さじゃない、と言っていたことが」
 小春は少し考えた。
「私が言ったことが、伊吹さんに繋がったんですね」
「はい。だから、ありがとうと言いに来ました」
「どういたしまして」
 伊吹が立ち去ろうとして、振り返った。
「花巫女殿、もう一つだけ」
「はい」
「将軍殿も、変わっていますよね」
「そうですね」
「以前の将軍殿は、感情を全部遮断していて、それが強さだと思っていました。今も、将軍殿は強い。でも今の強さは、少し違う気がします」
「どう違いますか」
「……温かい、気がします」
 小春は少しの間、伊吹を見た。
「その通りだと思います」
「それが、感情のある強さ、ということですか」
「そうかもしれないですね」
 伊吹は頷いて、去っていった。
 その後ろ姿を見ながら、小春は思った。
 この宮廷で、少しずつ、色々なものが育っている。
 花だけではなく。

 師走の半ば。
 朔は一人、執務の部屋にいた。
 書類が机に積まれている。帝国の各地からの報告書、国境の現状、軍の状況。いつもの仕事だ。
 しかし今日は、書類が進まなかった。
 進まない理由を、朔は考えた。
 集中できていない。集中できていない理由は、何かが頭に引っかかっているからだ。引っかかっているものは何か。
 考えた。
 小春のことだ。
 正確には、小春に言えていないことがある、という感覚だ。
 何を言えていないのか。
 練習してきた。感じたことを言葉にする練習を、何ヶ月もしてきた。竜胆の花言葉を聞いた時に何かを感じた。百種類目に山茶花を選んだ時に何かを感じた。小春と庭を歩く時に何かが温かくなると言った。
 それらは全部、本当だった。
 しかし、まだ言えていないことがある。
 それが何かは、分かっている。
 分かっているが、言葉にするのが難しい。難しいというより、怖い気がする。
 怖い。
 朔はその感覚を確認した。怖い、という感覚が、今の朔にある。以前はなかった感覚だ。
 怖いことは、何か大切なものがある証拠だ、と小春が言っていた。
 大切なものがあるから、怖い。
 それが何かは、もう言えない理由がない。

 その日の夕方、朔は庭に行った。
 師走の庭だ。雪が残っている。花は少ない。しかし山茶花がまだ咲いていた。白玉椿も、枝に白い花を残していた。
 小春がいた。
 一人で庭の真ん中に立って、空を見ていた。師走の夕暮れの空だ。橙と紫が混じった色が、冬の空に広がっている。
 朔は小春に近づいた。
 小春が気づいて振り返った。
「将軍さん、どうかしましたか」
「話したいことがある」
「はい」
「練習してきた。言葉にする練習を。上手くできるかどうかは分からないが、言う」
 小春が朔を見た。真剣な顔だ、と小春には分かった。
「聞きます」
 朔は少し考えた。
 長い間、ここまで来た。感情を切り離してから十五年以上。花の名前を覚え始めて、一年が経とうとしている。
「小春の傍にいると、何かが温かくなると言った」
「はい」
「その何かが何なのかを、まだ言えていなかった」
「はい」
「今日、言える気がする。言葉が正しいかどうかは分からないが、言う」
「分かりました」
 朔は山茶花を見た。
 霜月に一輪だけ咲いた山茶花が、師走になっても咲き続けている。強い花だ。
「小春のことを、大切に思っている」
 言った。
 言った後、少し止まった。
 小春が何も言わなかった。
 朔は続けた。
「大切に思うという感情が、正しい名前かどうか分からない。しかし他の言い方が見つからない。花の名前を教えてもらった。庭を歩いた。花の意味を教えてもらった。感情の言葉を教えてもらった。その全部が、今の私に残っている」
「はい」
「残っているということは、消えていないということだ。消えていないということは、大切に持っているということだと思う」
「そうですね」
「だから、大切に思っている、という言い方になった。これが正しいかどうかを聞きたい」
 小春は少しの間、朔を見た。
 その目に、何かがあった。泣きそうで、でも笑っているような何かが。
「正しいです」
 小春は言った。
「そうか」
「将軍さんが大切に思っているということが、私にも伝わっています」
「伝わっているか」
「はい。ずっと前から」
 朔は少し止まった。
「ずっと前から、分かっていたのか」
「言葉では聞いていませんでしたが。でも感じていました。将軍さんから何も感じないと思っていた頃から、少しずつ、何かが伝わってくるようになって。今日は、言葉でも届きました」
「言葉で届くことは、違うか」
「違います。言葉で届くことは、特別です」
 朔は山茶花に目を向けた。
「……私も、大切に思っています」
 もう一度、言った。
 言い方を変えたわけではない。しかし、もう一度言いたかった。言えることが分かったから、もう一度言いたかった。
「はい」
 小春が言った。
「私も」
 それだけだった。
 二人の間に、しばらく静けさがあった。
 師走の夕暮れの庭だ。雪が少し残っていて、山茶花が咲いていて、空が橙から紫に変わっていく。
 精霊の声が、穏やかに満ちていた。
 朔には聞こえない。しかし何かがそこにある気がした。
 以前よりも、確かに、ある気がした。

 少し離れたところで、篝が庭の端に立っていた。
 二人の様子が見えた。話している。夕暮れの光の中で、二人が並んで山茶花を見ている。
 篝は一人で思った。
 よかった。
 それだけだった。それで十分だった。
 篝は静かに庭を去った。
 二人の邪魔をしないように、音を立てずに。

 師走の末。
 宮廷の大晦日の夜だ。
 一年の最後の夜に、宮廷では小さな集まりがあった。帝の主催する形式的なものとは別に、東の棟の者たちが庭の軒下に集まって、年の終わりを過ごすのが習慣になっていた。
 小春が始めたことだ。清め祭の後から、少しずつそうなった。
 今夜は、源蔵がいた。篝がいた。伊吹がいた。千代もいた。そして綾女が、今年は初めて来た。
「来たんですか」
 小春が少し驚いた。
「……来てみようと思いました」
「よかった」
「花巫女殿に言いたいことがあって」
「はい」
 綾女は少し間を置いた。
「今年一年、ありがとうございました。あなたがいなければ、私はまだ、感情を恐れたままだったと思います」
「私は何もしていないです。綾女さんが自分で変わったんです」
「きっかけはあなたでした」
「きっかけなら、将軍さんもそうです。将軍さんが感情を取り戻そうとしていなければ、私も気づかなかったことがたくさんある」
 朔が少し止まった。
「私が、あなたのきっかけになったのか」
「なりました。感情がなかった人が感じようとすることを、傍で見ていて、感じることを怖れる理由がないと思えてきました」
「……そうか」
 朔は少し考えた。
「私も変えられた。小春に、篝に、源蔵に、伊吹に、綾女に。全員に」
「変えられる、というのは」
「良いことだと思っている」
 綾女が少し目を細めた。
「……将軍がそう言うとは」
「感情がなければ、変えられることに気づかない。変えられてきたことが、今は分かる」
 軒下の集まりは、静かだった。賑やかではないが、寂しくもない。満ちた静けさだ。
 源蔵が徳利を取り出した。
「お酒でも飲みましょうか。私の故郷の酒です」
「源蔵さん、そんなものを持っていたんですか」
「大晦日くらいは」
 盃が回った。朔も今夜は受け取った。
「将軍さん、飲まないんですか」
「今日は飲む」
「なぜ今日は」
「今日の気分がそうだから」
 小春が少し笑った。
「今日の気分、という言い方ができるようになりましたね」
「覚えた言葉を使っている」
「気分は、覚えた言葉じゃないですよ。感じることです」
「……そうかもしれない」
 朔は盃を口に運んだ。
 温かい酒だった。体の中に入って、広がる感じがした。
「……おいしいとは、こういうことか」
「そうです!」
 小春の声が少し大きくなった。庭の静けさに、その声が広がった。
「小春が前に言っていた。おいしいとは、外側のものが自分の中に入って来る嬉しさだと」
「覚えてたんですか、そんなことまで」
「全部覚えている」
「……全部」
「全部だ」
 小春は少しの間、朔を見た。それから夜空を見た。
 師走の夜空は、星が多い。
「きれいですね」
「そうだ」
「将軍さんは、今、何を感じていますか」
 朔は少し考えた。
「温かい」
「それだけですか」
「……温かくて、何かが満ちている感じがする。何が満ちているかは言えないが、空ではない感じがする」
「それが、幸せというものかもしれません」
「幸せか」
「将軍さんにとって、今夜の感覚が幸せです。私には分かります」
 朔は夜空を見た。
 幸せ。
 その言葉が、今夜の朔には、遠くない気がした。

 年が明けた。
 元日の夜明けに、朔は一人で庭に出た。
 新年の最初の朝だ。
 庭は雪が残っている。しかし空は晴れていた。冬の朝の光が、庭に差し込んでいる。
 山茶花が咲いていた。
 師走から咲き続けている、あの一輪だ。雪の中でも、霜の中でも、咲き続けている。
 朔はその前に立った。
 しゃがんだ。花と同じ高さで見た。
 精霊の気配が、あるような気がした。
 以前は、精霊を感じることができなかった。今も聞こえるわけではない。しかし、何かがそこにある、という感覚が、今の朔にはある。
「……咲いているな」
 朔は言った。
 花に話しかけた。
 初めてのことだった。誰かに聞かれれば、奇妙なことだと言われるかもしれない。しかし今朝は、言いたかった。
「よく咲いた」
 花は答えない。精霊の声は聞こえない。
 しかし、何かが返ってきた気がした。
 温かい何かが、かすかに。
 朔はしゃがんだまま、山茶花を見続けた。
 新年の光が、庭に満ちていた。

 少し後に、小春が庭に来た。
 朔がしゃがんでいるのを見て、立ち止まった。
 朔が山茶花に話しかけているのが、遠目に分かった。
 小春はしばらく、そこに立っていた。近づかなかった。
 この景色を、ちゃんと覚えておきたいと思った。
 感情を切り離していた将軍が、元日の朝に庭に来て、山茶花にしゃがんで、話しかけている。
 長かった、と思った。
 長かったが、来た。
 冬を越えて、春が来るように。
 必ず、来る。
 小春の目から、何かが溢れた。泣いているのかどうか、自分でも分からなかった。嬉しいのか、安堵しているのか、全部が混じっていた。
 精霊の声が、今朝は特に豊かだった。
 山茶花の精霊が、何かを言っている気がした。
 朔に、言っているのかもしれない。
 よく来た、と言っているような気がした。
 長い間、待っていた、と言っているような気がした。

 朔が振り返ると、小春がいた。
 少し離れたところに立って、こちらを見ていた。
 目が赤かった。
「泣いているのか」
「……嬉しくて泣くことがある、と最初に言いました」
「言っていた。最初の清め祭の後に」
「覚えているんですか」
「全部覚えている」
 小春が少し笑った。その笑い方が、涙と一緒にあった。
「将軍さんが、花に話しかけていました」
「……見ていたのか」
「はい。邪魔しないようにしていました」
「邪魔ではなかった」
「でも、あの時間は将軍さんだけの時間だった気がしたので」
 朔は立ち上がった。
「話しかけてみた。初めて」
「どんな気持ちでしたか」
「……奇妙な感じがした。しかし、悪い奇妙さではなかった。何かが返ってきた気がした」
「精霊が、応えたんです」
「聞こえなかったが」
「聞こえなくても、応えています。花は、話しかけてくれる人を大切にします」
「そうか」
「将軍さんは今、花に大切にされています」
 朔はその言葉を受け取った。
 大切にされている。
 以前は意味が分からなかっただろう言葉が、今は少し分かる。何かが温かくなる感じがする。
「小春」
「はい」
「今年も、庭を歩くか」
「はい」
「一緒に」
「はい」
 朔はうなずいた。
 二人は並んで、元日の庭を歩き始めた。
 雪の残る石畳を、ゆっくりと。
 花を踏まないように。

 睦月が過ぎ、如月が過ぎた。
 弥生に入った。
 庭の梅が咲いた。
 梅は毎年この時期に咲く。当たり前のことだ。しかし今年の梅は、朔に違って見えた。
「去年の梅と、違うか」
 篝に問うた。
「同じ梅です。しかし、殿の見方が違うのでしょう」
「私の見方が変わったのか」
「変わりました。明らかに」
「どう変わったか」
「一言で言えば、見ている目が、今は生きています」
 朔はその言葉を持った。
 生きている目。
「感情がある目、ということか」
「そうです」
「感情があると、梅が違って見える」
「そうです。同じ梅ですが、感じながら見ると、違います」
 朔は梅の木を見た。
 白い花が、弥生の光の中に咲いている。
 きれいだ、と思った。感じた。その二つが、今の朔には区別できる。
「……感じることは、こういうことだったか」
「どういうことですか」
「世界が、少し多くなる感じがする。以前は、情報として見ていた。今は、情報に加えて何かが来る。その何かが、世界を多くしている気がする」
「うまく言いますね」
「小春に教わったことの応用だ」
「応用できているなら、もう練習じゃなくて、本物ですよ」
「本物か」
「はい」
 朔は梅の木を見た。
 本物の感情が、今の朔にある。まだ薄い部分もある。まだ言葉にならない部分もある。しかし、本物だ。
「……一年かかった」
「何がですか」
「感情が戻るまで」
「早い方だと思います」
「そうか」
「十五年切り離していて、一年で戻ってきたんですよ。早い」
「それは、小春のおかげだ」
「将軍さんが来たかったから来た、からです。私は庭にいただけです」
「庭にいてくれた」
「はい」
「それが大事だったんだと思う」
 小春は少し止まった。
「……将軍さん、それ、とても良いことを言いました」
「そうか」
「ただいてくれることが、大事。その通りです」
「小春も、ただいてくれた。庭に。宮廷に。花の傍に。私の傍に」
「はい」
「感謝している」
「どういたしまして」
 二人は梅の木の前に立っていた。
 弥生の光が、庭に満ちていた。
 精霊の声が、あちこちから聞こえていた。春の精霊は賑やかだ。一斉に目覚めたように、声が増える。
 小春にはそれが分かる。
 朔には聞こえない。しかし、庭の空気が変わった気がした。何かが増えた気がした。
「何かが来た」
「春です」
「春の気配か」
「はい。精霊たちが喜んでいます」
「聞こえないが、感じる気がする」
 小春が朔を見た。
「感じる気がする、ですか」
「まだ確かではないが、何かがある気がする」
「それで十分です」
「そうか」
「感じる気がする、は感じていることです。確かかどうかは、関係ない」
 朔はその言葉を受け取った。
 感じる気がする、は感じていること。
「……では、感じている」
「はい」
「春の気配を、感じている」
「はい、将軍さんは今、春を感じています」
 朔はうなずいた。
 弥生の庭に、二人で立っていた。
 梅が咲き、精霊が喜び、朔が春を感じていた。
 それは、一年前には想像できなかった景色だった。

 源蔵は庭の端で、その様子を見ていた。
 道具を手に持ったまま、動いていない。
 長く庭師をやってきて、花が咲いた瞬間に声をかける必要はないと知っている。
 しかし今日は、少し目が潤んでいた。
 老いた庭師は、誰にも見られないうちに、目を拭った。
 それから道具を持ち直して、また働き始めた。
 庭師の仕事は続く。春になっても、夏になっても。
 花は育つ。
 人も育つ。
 それで十分だ。
 それが、十分なのだ。

 弥生の終わり。
 宮廷の庭に、様々な花が咲いていた。
 梅は盛りを過ぎたが、代わりに桜の蕾が膨らみ始めていた。石畳の隙間から、雑草が青々と伸びていた。庭の端に、小さな名のない花が群れていた。
 精霊の声が、庭じゅうに満ちていた。
 小春は朝の庭を歩いていた。
 一つ一つの花に声をかけながら。
「おはよう」
「久しぶり」
「元気だった?」
 精霊たちが答える。嬉しそうな声ばかりだ。
 石畳の小道を歩いていると、後ろから足音が来た。
 朔だ。
「おはよう」
 小春が言った。
「ああ」
 朔が並んで歩き始めた。
 二人は庭の小道を歩いた。
 小春が花に話しかける。朔が名前を言う。百種類の名前は全部覚えている。どれが咲いていても、朔には名前が分かる。
「あの白い花は」
「大根草。野草だ。食べられる」
「将軍さん、食べられるかどうかまで知ってるんですか」
「名前を覚える時に調べた」
「百一種類目ですね」
「そうなるな」
「覚えますか」
「覚えている。もう覚えた」
 小春が笑った。
「将軍さんは、一度見たものは忘れないんですね」
「覚えるべきと思ったものは忘れない」
「大根草も、覚えるべきと思いましたか」
「覚えたかった、というべきかもしれない」
 小春が少し止まって、朔を見た。
「覚えたかった、と言いましたね」
「言った」
「将軍さんが、したかったと言うようになりましたね。来たかったから来た、覚えたかった」
「自然に出てきた言葉だ」
「自然に出てきたなら、本物です」
 朔はうなずいた。
 二人は歩き続けた。
 小道の端に、小さな花の群れが咲いていた。春の、名のない野草の花だ。踏まれやすい場所に咲いている。
 朔の足が、その手前で止まった。
 自然に、止まった。
 小春がそれに気づいた。
 去年の春、同じ場所で、朔が花を踏まなかった。その時と同じだ。
「踏まなかったね」
 小春が言った。
 朔が振り返った。
「……ああ」
 それだけだった。
 去年と同じ言葉だ。しかし、今年の「ああ」には、何かが加わっている。
 気づいているから、踏まない。
 気づいているということは、感じているということだ。
 花がある。踏めば潰れる。踏みたくない。
 その、踏みたくないという感情が、足を止めた。
「去年も踏まなかった」
「覚えていますか」
「覚えている」
「将軍さんが踏まなかった時、嬉しかったです」
「そうか」
「今年も嬉しいです」
 朔は小春を見た。
 嬉しいと言う顔を、一年間、近くで見てきた。驚いた後に喜ぶ顔を、花に話しかける時の顔を、泣きそうで笑っている顔を。
 全部、覚えている。
「小春」
「はい」
「今年の春は、去年の春と違う」
「何が違いますか」
「去年の春は、感じていた。今年の春は、感じていると分かっている」
 小春はその言葉を持った。
「違いが分かりますか」
「感じていることに、気づけている。去年は気づいていなかった部分がある。今年は、感じているということを、ちゃんと知っている」
「それが、一年で変わったことですね」
「そうだ」
「大きな変化です」
「まだ小さいかもしれないが」
「小さくないです」
 小春は言った。
「感じているということを知っていることが、とても大事です。自分の感情に気づくことが、感情を持つことの始まりだと思っているので」
「では、私はまだ始まりにいるのか」
「始まりにいます。でも、始まりにいることは悪いことじゃないです」
「なぜか」
「始まりにいるということは、続きがある、ということだから」
 朔はその言葉を受け取った。
 続きがある。
「……続きは、どこへ向かうのか」
「どこへでも向かえます」
「一緒に向かえるか」
 小春が少し止まった。
 朔を見た。
「一緒に?」
「一人で歩けるが、一緒に歩きたい、と思っている。それが今日の言葉だ」
 小春はしばらく朔を見ていた。
 その目に、今まで見てきた全部の小春の顔が、混じっている気がした。驚いた顔、嬉しい顔、悲しそうな顔、泣いている顔、笑っている顔。
「……はい」
 小春は言った。
「一緒に歩きます」
 朔はうなずいた。
 二人は歩き始めた。
 春の庭を、並んで、ゆっくりと。
 花を踏まないように。
 それはもう、意識しなくてもできることになっていた。

 庭の奥に、山茶花があった。
 今年の春も、まだ咲いていた。
 長く咲き続けた花だ。秋から冬を越えて、春になっても、まだそこにある。
 朔はその前で立ち止まった。
「まだ咲いている」
「はい。今年は特に長く咲きました」
「なぜか」
「精霊に聞いたら」
 小春は少し笑った。
「咲いていたかったから、と言っていました」
「咲いていたかったから」
「はい。目的があって咲いているわけじゃなくて、ただ咲いていたかったから」
 朔は山茶花を見た。
 咲いていたかったから、咲いている。
「……私も、似ている気がする」
「将軍さんが、ですか」
「感じていたかったから、感じているのかもしれない。誰かに言われたわけでも、必要があったわけでもなく。ただ、感じていたかった」
 小春はその言葉を受け取った。
「……はい」
 それだけ言った。
 それだけで、十分だった。
 山茶花が、弥生の光の中に、静かに咲いていた。
 精霊の声が、穏やかに満ちていた。
 朔には聞こえない。しかし今日は、何かが聞こえそうな気がした。
 まだ聞こえない。しかし、近い気がした。
 それで今日は十分だ。
 近い、ということが分かる。
 それが、今の朔に、できることだ。

 弥生の末の夕暮れ。
 庭の軒下に、いつのまにか人が集まっていた。
 源蔵が道具を置いて座っていた。篝が来た。伊吹が来た。千代が来た。綾女が、今年も来た。
 小春と朔も、庭から戻ってきた。
 誰も呼ばなかったのに、集まっていた。
「なんですか、今日は」
 小春が言った。
「なんとなく」
 篝が言った。
「春だから」
「春だから集まるものですか」
「今年からはそういうことにしようかと」
 源蔵が徳利を出した。
「また持ってきたんですか、源蔵さん」
「春の酒は格別ですよ」
 盃が回った。
 庭に夕暮れの光が差している。桜の蕾が、もうすぐ開きそうだった。
 小春が庭を見た。
「明日か明後日に、桜が咲きますよ」
「精霊が言っているのか」
「はい。楽しみにしています、と言っています」
「花が楽しみにしているのか」
「咲くことを、楽しみにしています。精霊は、咲く瞬間が好きみたいです」
「なぜ」
「世界につながる瞬間だから、と言っています」
 朔はその言葉を持った。
 世界につながる瞬間。
「感情が動く瞬間と、似ているかもしれない」
「そうですね。感じる瞬間は、世界がつながる瞬間かもしれない」
「感じることは、弱さではない、と最初に言っていたな」
「言いました。覚えていたんですか」
「全部覚えている。あの時、まだ意味が分からなかった。今は少し分かる」
「どう分かりますか」
「感じることは、弱さではなく、世界とつながる力だ。感じていなければ、世界とつながれない。つながっていなければ、守るべきものが見えない」
 小春は朔を見た。
「それが、感情のある将軍さんの言葉ですね」
「そうだ」
「一年前には、言えなかった言葉です」
「言えなかった。感情がなかったから」
「今は言える」
「今は言える」
 軒下の集まりが、静かに続いた。
 誰かが何かを言い、誰かが笑い、誰かが頷く。感情が生きている人間たちが、春の庭の端に集まっている。
 穢れも、時々、生まれるだろう。
 それを綾女が整える。
 異変を花が知らせる。
 それを小春が聞く。
 そうやって、宮廷は続いていく。
 完璧ではない。しかし、生きている。
 それで十分だ。

 夜になって、人が散り始めた。
 最後に残ったのは、朔と小春だった。
 庭の縁側に、二人で座っていた。
 夜の庭に、春の気配がある。桜の蕾が、暗闇の中にある。明日か明後日には咲く。
「将軍さん」
「なんだ」
「今、何を感じていますか」
 朔は少し考えた。
「温かい」
「他には」
「満ちている気がする」
「他には」
「……小春が傍にいる、という感じがする」
 小春が少し動いた。
「それは、感じることなんですね」
「そうだ。傍にいることを、感じている」
「以前は感じなかった」
「以前は、傍にいても、傍にいると感じていなかった。今は感じる」
「何かが変わったんですね」
「変わった」
 二人は庭を見ていた。
 暗い庭だが、月があった。月光の中に、桜の蕾が見えた。
「明日、一緒に桜を見るか」
 朔が言った。
「はい」
「桜は百一種類目か」
「いいえ、桜は最初の方で教えました。三種類目です」
「そうか。では、知っている花だ」
「でも、一緒に見るのは初めてです」
「そうだな」
「将軍さんと一緒に見る桜は、一人で見る桜とは違います」
「何が違うのか」
「一緒に見ると、感じ方が増えます。自分の感じ方に、相手の感じ方が加わって、世界が広くなる気がします」
 朔はその言葉を持った。
 一緒にいると、世界が広くなる。
「それが、一緒にいる理由か」
「理由というより、一緒にいることで起きることです」
「理由がなくても、一緒にいていい」
「はい」
「理由がなくても歩ける、と言っていた。それと同じか」
「同じです」
 朔はうなずいた。
 春の夜の庭に、二人でいた。
 それだけのことだ。
 しかしそれが、今の朔には、何よりも確かなことだった。

 翌朝。
 桜が咲いた。
 一夜で、庭の桜の木が白く染まった。満開ではないが、三分咲きほどに花が開いた。
 朔と小春は、並んで桜の木の前に立った。
 精霊の声が、今朝は特に大きかった。小春には聞こえる。
「何と言っていますか」
 朔が聞いた。
 初めて聞いた。精霊が何を言っているかを、自分から聞いた。
 小春は少し驚いた後、耳を澄ませた。
「……咲けた、と言っています」
「咲けた」
「はい。やっと咲けた、という感じです。長い冬を越えて、やっと」
 朔は桜の花を見た。
 白い花弁が、春の光の中に開いている。
「やっと、か」
「はい」
「花も、長かったのかもしれない」
「そうかもしれません。冬の間は、ただ蕾で、ただ待って、それでやっと咲いた」
「私も、似ているかもしれない」
「はい」
「長い間、蕾のまま、ただいた。それで、やっと」
 朔は言葉を止めた。
 やっと、何か。
 言葉にならなかったが、今日は無理に言葉にしなかった。
 言葉にならないものが、ある。
 それで十分だ。
「……きれいだ」
 朔は言った。
「はい」
「感じている」
「はい」
「春が来た」
「来ました」
「また来たな」
「また来ました。毎年来ます」
「毎年、こうして見るか」
 小春は少しの間、朔を見た。
「毎年」
「来年も、再来年も」
「……はい」
「一緒に」
「はい」
 朔は桜を見た。
 白い花が、光の中に揺れている。精霊が喜んでいる声を、朔は聞けない。しかし何かが、今日は確かにそこにある気がした。
 確かにある。
 感じている。
 これが感情というものだ、と今日の朔には言える。
 完全ではない。まだ薄い部分もある。まだ言葉にならない部分もある。
 しかし、ある。
 根は枯れていなかった。
 冬を越えて、春が来た。
 また来た。
 それで、十分だ。
 十分どころか、それが全てだ。
 鬼は、花を知らなかった。
 感情を切り離した男は、花の名前も知らず、美しいという意味も知らず、傍に誰かいることの温かさも知らなかった。
 しかし根は枯れていなかった。
 どこかに、ずっと、あった。
 水が来て、光が当たれば、芽が出る。
 花が咲く。
 感情を切り離してからどれほど経っても、感情を受け取ってくれる者が傍にいれば、感情は戻ってくる。
 ゆっくりと。確かに。
 宮廷の花は、今日も咲いている。
 桜が咲いた。
 精霊が喜んでいる。
 花巫女はその声を聞いている。
 鬼神将軍は、花を踏まない。
 感情があるから、踏まない。
 感情が戻ってきたから、踏まない。
 それで十分だ。
 それが全てだ。
 春は、また来る。
 毎年、必ず来る。
 花が咲くように。
 感情が戻るように。
 根が残っていれば、必ず。


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