水無月の終わり。
雨が続いていた。
梅雨の雨は、庭師にとって恵みの時期だ。しかし、今年の雨は少し長い。源蔵は軒下で道具の手入れをしながら、空を見ていた。
晴れ間がない。
それだけのことだが、長く庭を見てきた源蔵には、何かが引っかかった。雨の多い年は穢れが流れやすい。流れやすいということは、どこかに溜まりやすいということでもある。
庭の花は、今のところ元気だ。精霊の声も普通に聞こえると、小春が言っていた。
しかし、何かが引っかかる。
源蔵は空を見続けた。
東境の使者が宮廷に到着したのは、水無月の最後の日のことだった。
帝国の東境は、山と川に隔てられた地域で、帝国の直轄ではない。いくつかの里が自治を維持しながら、帝国と交易関係を持っている。五年に一度ほど、国境の取り決めを更新するために使者が来る。今回もそういう建前の訪問だった。
朔は宮廷の玄関で、使者の一行を出迎えた。
四人の一行だった。
先頭に立つのは、年の頃三十半ばの男だ。体格は中くらいで、目立つ外見ではない。しかし、朔の感覚がかすかに反応した。
鬼の血と似た何かが、あの男にある。
次いで、若い女が続いた。二十歳前後で、地味な装いをしている。うつむき加減で歩いている。
後ろに、従者が二人。
「東境の使者、夜叉丸と申します。この度は御拝謁の機会をいただき、光栄に存じます」
男が礼をした。声は穏やかで、物腰が柔らかい。宮廷の礼儀を心得ている。
「鬼神将軍・朔だ。帝の名の下に、歓迎する」
朔は定型の言葉を述べながら、夜叉丸を観察した。
見た目は普通の人間だ。しかし、あの気配は何か。
「こちらは、同行した澪と申します。国境の里の娘で、帝国の言葉が達者なので、連れてまいりました」
夜叉丸が紹介した。澪と呼ばれた女が、浅く頭を下げた。視線が下を向いたまま、朔と目を合わせなかった。
「滞在の間、不自由なく過ごしてください」
朔は言って、案内の者に目配せした。一行が廊下の奥へ案内されていく。
その後ろ姿が遠くなってから、篝が朔の隣に来た。
「殿、あの男、どう見ましたか」
「人間ではない血が混じっている」
「私にも、何か感じました。しかし穢れとも違う」
「鵺の血かもしれない」
篝が少し目を細めた。
「鵺の残滓が、今も人に混じっているとは」
「鬼の血が今も混じっているのと同じことだ」
「……そうですね。しかし、鵺の力は」
「感情を増幅させる」
篝は静かになった。
「穢れを増産できるということですか」
「可能性として」
「なぜそのような者が、使者として来るのですか」
「まだ分からない。しかし、目的がある」
朔は廊下の奥を見た。もう一行の姿はない。
「監視しろ。私も直接、話す機会を持つ」
「はい」
篝が下がった後、朔は一人で考えた。
鵺の血。感情を増幅させる力。今の宮廷は、感情を取り戻し始めている。感情が戻った宮廷に、感情を増幅させる者が来た。
それは偶然ではないかもしれない。
その夜、小春は庭に出た。
雨が止んでいる。久しぶりの星空だった。
庭の花が、夜の光の中に静かにある。精霊の声が、いつもより少し違う感じがした。
「何かいる?」
精霊に聞いた。
返事は、曖昧だった。何か、が来た気配がある。しかしそれが何かを、精霊たちはうまく言えない。
「遠い?近い?」
近い、という気配が来た。
宮廷の中に、何かが来た。
小春は庭から出て、廊下を歩いた。感じようとした。何が来たのかを。
廊下の端、使者たちが案内されたと思われる棟の方向から、かすかな気配があった。
強い感情の気配、ではない。むしろ逆だ。
感情を飲み込んでいる者がいる。
深く、澱のように。
小春は立ち止まった。
その気配が、どこから来るのかを辿ろうとした。使者の棟の方向だが、詳しくは分からない。
引き返そうとした時、廊下の角から人が出てきた。
使者の一行の中にいた若い女だった。澪、と夜叉丸が呼んでいた女だ。
互いに、止まった。
「……」
「……」
澪は小春を見た。視線が合った。しかし澪はすぐに目をそらした。
「夜中に、どうかしましたか」
小春が声をかけた。
澪はしばらく答えなかった。
「眠れなかっただけです」
「慣れない場所は眠れませんよね。私も最初、そうでした」
「……あなたも、ここに来たばかりなのですか」
「半年くらい前ですけど、最初は慣れなくて」
澪が少し小春を見た。
「あなたは、何の役職の方ですか」
「花巫女です。花の精霊と話す役割で」
「花の精霊」
「はい。花や草の気配を感じることができて。……澪さんは、もしかして、似たような感覚がありませんか」
澪が止まった。
「なぜそう思うのですか」
「花が、あなたを認識している気がして。通りすがりの人には、花はあまり関心を示さないんです。でもあなたには」
小春は廊下の端にある鉢植えを見た。夜でも咲いている白い花だ。その花が、澪の方を向いている気がした。
「……気のせいです」
澪は視線を落とした。
「失礼します」
澪は廊下を去った。
小春はその後ろ姿を見た。
感情を飲み込んでいる。強く、深く。長年そうしてきた人の気配だ。
あの女と、花が通じている。
それが何を意味するのかは、まだ分からなかった。
翌朝、朔は小春に報告を受けた。
「東境の使者の中に、感情を飲み込んでいる女がいます。花が関心を示しました」
「澪という娘か」
「はい。小春と似た感覚を持っているかもしれない、でも抑えこんでいる」
朔はそれを処理した。
「夜叉丸という男の方は、何か感じたか」
「はっきりとは。ただ……精霊が、少し遠慮している感じがします。近づきたがらない、という感じ」
「鵺の血を引く者かもしれない」
小春が少し目を広げた。
「鵺の、血」
「鬼の血と同様、鵺の残滓が人に混じることがある。鵺の力は、感情を増幅させる」
「……それは」
「今の宮廷に、その力が来た」
小春はしばらく考えた。
「感情を増幅させることは、悪いことですか」
「目的による」
「喜びを増幅させることもできるし、怨みを増幅させることもできる」
「そうだ」
「……」
小春は窓の外を見た。水無月の曇り空が広がっている。
「その人が、何をしに来たのかが分からないと」
「まだ分からない。しかし、何かある」
「私も気をつけます」
「無理に近づく必要はない。ただ、気配に注意しておいてくれ」
「はい」
朔は立ち上がろうとして、少し止まった。
「小春」
「なんですか」
「今日の庭は、どうだ」
小春が少し驚いた顔をした。
「……雨上がりで、花が喜んでいます。白い桔梗が咲いていましたよ。夏の花です」
「桔梗」
「はい。将軍さんが覚えていない花です。今日、九十二種類目ですね」
朔は少し考えた。
「見に行く時間があれば、見ておく」
小春が小さく笑った。
「じゃあ一緒に行きますか」
「……今は任務がある」
「分かりました。後で私が案内します」
朔は答えなかった。しかしそのまま部屋を出た。
廊下を歩きながら、朔はふと考えた。
桔梗の形を、まだ知らない。
それが、少し気になった。以前は、気になるという感覚自体がなかった。今は、ある。
小さな変化だが、確かにある。
文月の初め。
夜叉丸の滞在が延びた。
国境交渉の内容が複雑で、詳細の確認に時間がかかるという説明だった。帝の側近が対応を続けており、もう十日ほど滞在が続く見込みだと篝が報告した。
その十日の間に、宮廷の空気が、少しずつ変わり始めた。
最初に気づいたのは、小春だった。
文月の三日目の朝、庭に出ると、精霊の声が少し違った。
騒がしい、という感覚だ。精霊たちが落ち着かない。何かが引っかかっている。
「どうしたの」
山茶花の前にしゃがんだ。
返ってくる気配は、困惑に近かった。人の感情が、普段より強くなっている。それが精霊たちに影響している。
小春は庭から宮廷の中を見渡した。
廊下を歩く女官たちが、少し足早だ。昨日より、宮廷の中の緊張感が高い気がする。
「何かあったんですか」
通りかかった女官に聞いた。
「なんだか知らないけど」女官は声を落とした。「昨日の夕方から、あちこちで言い争いが増えていて。食堂でも、昨夜、男たちが口論になったって聞いた」
「口論、ですか」
「珍しいことじゃないけど、でも昨日は数が多かった。急に、皆がいらいらしてるみたいで」
女官は足早に去った。
小春は考えた。
感情が増幅されている。
夜叉丸が来た後から。
朔も異変に気づいていた。
宮廷の武官たちの間で、小さな諍いが増えていた。通常、武官たちは感情の制御が厳しく、宮廷内での口論は少ない。しかし昨日から今日にかけて、三件の報告が上がってきた。
「夜叉丸の力が動いている」
篝に言った。
「根拠は」
「タイミングと、感情の増幅という性質が一致している。あの男が意図的にやっているのか、無意識なのかは分からない。しかし、結果として宮廷の感情が増幅されている」
「穢れの発生状況は」
「綾女に確認しろ」
「はい」
篝が動いた後、朔は一人で考えた。
夜叉丸の目的は何か。
感情を増幅させることで、宮廷を混乱させる。穢れを増産させる。感情の制御が外れた宮廷を、内側から壊す。
可能性として成立する。
しかし確証がない。交渉の目的で来た使者を、根拠なく排除することはできない。
証拠が必要だ。
朔は立ち上がった。
夜叉丸に直接、会いに行く。
使者の棟の廊下で、夜叉丸は朔を迎えた。
驚いた様子はなかった。むしろ、待っていたような顔だった。
「将軍。どうぞ」
室に案内された。二人で向かい合った。
「改まって何事でしょう」
夜叉丸の声は穏やかだ。目は笑っている。しかし笑いの奥に、何かある。朔には今、そのくらいは見える。
「聞きたいことがある」
「何でしょう」
「あなたは鵺の血を引いているか」
夜叉丸が少し止まった。
それから、笑った。
「よく分かりましたね。将軍は鬼の血を引いている。だから感じたのですか」
「答えを確認している」
「そうです。薄いですが、鵺の血が流れています。三代前の先祖が、鵺の残滓を受け継いだと聞いています」
「力は発現しているか」
「多少は。しかし、使うつもりはありません。使者として来たのですから」
「宮廷の感情が増幅されている原因に心当たりはあるか」
夜叉丸の目が、少し動いた。
「心当たりは……ないですが」
「嘘をつかなくていい」
朔は言った。
夜叉丸が朔を見た。
「断言できる根拠がないはずですよ、将軍」
「根拠がなくても、感じたから言っている」
夜叉丸が、少し表情を変えた。
「……将軍が、感じた?」
「そうだ」
「鬼の血を引く将軍が、感情で動くのですか」
「感情で動いているかどうかは分からない。しかし、感じたことを無視しない。最近、それを学んだ」
夜叉丸はしばらく朔を見ていた。
その目の奥に、何かが動いた。
「……面白い将軍ですね」
「目的を話せ」
「まだ話す段階ではありません」
「段階とは」
「もう少し、様子を見ます。将軍が、どこまで感じられるかを」
朔は夜叉丸を見た。
試されている。何かを試している。
「いつまで様子を見る」
「もうしばらく。害はなしません。約束します」
「約束を信用する根拠がない」
「では、一つだけ言いましょう」
夜叉丸が少し前に出た。
「私は、宮廷を壊しに来たわけではありません。ただ、確認しに来た」
「何を確認する」
「感情を持った宮廷が、感情の圧力に耐えられるかどうかを」
朔は少し考えた。
「感情を取り戻した宮廷が、本物かどうかを試しているということか」
夜叉丸が初めて、笑いではない表情をした。
「……鋭い」
「答えることはできないのか」
「まだ。ただ、将軍、一つお願いがあります」
「何だ」
「澪のことを、よろしくお願いします。あの娘は、私が試している間に、何か感じるかもしれない。感じた時に、孤独でないことが、大切です」
「……澪があなたの試しに関係しているのか」
「直接は関係しません。ただ、あの娘には力があります。それが目を覚ます可能性がある。その時に、受け止める者が必要です」
朔は夜叉丸を見た。
まだ情報が足りない。しかし、今はこれ以上聞けない。
「分かった。ただし、害が出れば、その時点で排除する」
「当然です」
朔は部屋を出た。
廊下に出て、少し止まった。
感情を持った宮廷が、感情の圧力に耐えられるかを試している。
それはつまり、大祓の後に宮廷が本当に変わったのかどうかを、外側から確認しているということだ。
なぜ確認する必要があるのか。
朔にはまだ分からなかった。
その日の夕方、朔は小春に伝えた。
「夜叉丸に会った」
「どうでしたか」
「鵺の血を認めた。しかし害を与えるつもりはないと言っている。宮廷を試している、とも」
「試している」
「感情を取り戻した宮廷が、感情の圧力に耐えられるかどうかを」
小春はしばらく考えた。
「……それは、善意から来ることですか。それとも悪意から」
「判断できない。どちらの可能性もある」
「澪さんは」
「あの娘に力がある。何かが目を覚ます可能性があると言っていた。その時に受け止める者が必要だとも」
小春が少し目を細めた。
「私に澪さんと話してほしいということですか」
「私の判断ではない。夜叉丸がそう求めた。どうするかはあなたが決める」
「将軍さんの判断は」
「あなたが決めた方がいい問題だ。花の力に関わることだから」
小春はまた少し考えた。
「……話してみます。私も気になっていたので」
「無理はするな」
「はい」
小春が部屋を出ようとして、ふと振り返った。
「将軍さん、桔梗、見ましたか」
朔は少し止まった。
「……見ていない」
「まだ咲いてます。明日、一緒に行きましょう」
「明日は早朝に会議がある」
「会議の後でも」
「…………」
「桔梗は、午後まで咲いてますから」
朔は答えなかった。しかし、答えなかった理由が、断りたいからではなかった。
小春はそれを分かっているような顔で、部屋を出た。
文月の半ば。
宮廷の感情の増幅は、続いていた。
しかし朔が予測したような混乱は、起きていなかった。
女官たちが口論をする。武官が声を荒らげる。食堂が賑やかになりすぎる。そういったことは起きた。しかし、それを綾女が対処した。増幅された穢れを、素早く祓う。小春が花の声で異変を知らせ、綾女が動く。二人の連携が、増幅された感情の影響を最小限に抑えていた。
宮廷が、感情の圧力に耐えていた。
夜叉丸はその様子を、どこかから観察しているようだった。朔は篝を通じてその行動を把握していたが、夜叉丸は宮廷内を静かに歩き、交渉の席に出て、部屋に戻る。それ以外の動きはない。
しかし、何かを考えている目だ。
篝が言った。
「手を替えるかもしれません」
「そうかもしれない」
「次は、何を仕掛けるか」
「まだ分からない。しかし、宮廷全体への増幅が効かないなら、個別に来る可能性がある」
「個別、とは」
「特定の人間の感情を、狙い撃ちにする」
篝は黙った。
「誰を狙うと思いますか」
「最も効果が大きい者を」
二人の間に沈黙があった。
答えは、言わなくても分かった。
小春と澪が初めて正式に話したのは、文月の十日のことだった。
庭で偶然会った形を取ったが、小春としては少し準備をしていた。どう話しかけるかではなく、どう受け取るかを準備した。
「おはようございます、澪さん」
「……おはようございます」
澪は今日もうつむき加減だ。しかし逃げなかった。
「庭に来たんですか」
「宿舎から見えたので。花が多いですね」
「夏は特に。あの白いのが桔梗で、赤いのが石榴の花で、奥の紫が朝顔です」
澪が少し顔を上げた。
「花の名前を、よく知っているんですね」
「私の仕事ですから。それに最近、一緒に覚えている人がいて」
「誰と」
「将軍さんと。花の名前を教えていて、まだ途中なんです」
澪が少し驚いた顔をした。
「……将軍と、花の名前を?」
「はい。変ですか」
「変というか……あの方は、厳しそうで」
「厳しいですけど、変なことを笑ったりしません。花を見る時、ちゃんと見ます」
澪がまた黙った。
小春は桔梗の前に行って、しゃがんだ。
「澪さん、もし良かったら、ここに来てもらえますか」
澪は少し迷ったが、近づいた。
桔梗の前でしゃがんだ。
「この花、里でも咲いていましたか」
「……咲いていました。川の近くに」
「好きですか」
「……好き、という感情が正しいかどうか分かりませんが」
澪が少し止まった。自分の言ったことに、気づいたような顔をした。
「正しいかどうかは、関係ないと思います。ただ、好きかどうかで十分です」
「そういうものですか」
「感情は正しいとか間違いとか、ないと思っています、私は」
澪がゆっくりと桔梗を見た。
「……好きです」
小声だった。
桔梗の精霊が、かすかに反応した。小春にはそれが分かった。澪の言葉に、桔梗が応じた。
「澪さん」
「はい」
「花の気配を感じませんか。この子が、あなたに応えた」
「……気配」
「声ではないですけど。感じる人には、感じます」
澪は桔梗を見た。長い間、見ていた。
「……感じる、かもしれません」
小声で、ゆっくりと言った。
「前から、感じていましたか」
「……子どもの頃から。でも、そういうことは言わない方がいいと教わったので」
「誰に」
「夜叉丸に」
小春は少し止まった。
「夜叉丸が、言わない方がいいと?」
「人と違う感覚があると、危険なことがあると。だから表に出さないようにと」
小春は澪を見た。
感情を飲み込んでいる理由が、分かった気がした。
夜叉丸が、そうさせていた。
夜、小春は朔に報告した。
「澪さんは、花の気配を感じる力があります。でも夜叉丸に、言わない方がいいと教わって、ずっと抑えていた」
「夜叉丸が抑えさせていた」
「はい。なぜでしょう」
朔は考えた。
「鵺の血と、花の力が近い性質を持つなら、夜叉丸は澪の力を知っている可能性がある。その力を、自分の目的のために使おうとしているか、または使われないように管理しているか」
「どちらかが分からない」
「まだ分からない。しかし、夜叉丸が澪に「受け止める者が必要だ」と言ったのは、澪の力が解放される可能性を知っているからかもしれない」
「解放とは」
「長年抑え込んだ感情の力が、一度に溢れること。感情の増幅が続いている今の宮廷で、それが起きる可能性がある」
小春が顔を曇らせた。
「澪さんが、苦しむということですか」
「可能性として」
「……それは、嫌です」
「嫌か」
「助けたいです。あの人も、感じているはずで。でもずっと、飲み込んできた。それは辛いことだから」
朔は小春を見た。
嫌だ、と言った。助けたい、と言った。それが自然に出てきた言葉だということが、朔には分かる。
「あなたが澪に関わることを、続けてくれるか」
「はい」
「危険があれば、すぐに知らせろ」
「将軍さんは、どうするんですか」
「夜叉丸と、もう一度話す。今度は、もう少し正直に話させる」
「正直に話させる方法がありますか」
朔は少し考えた。
「ある」
「どんな」
「私が変わったことを、見せる」
小春が少し首を傾けた。
「……将軍さんが、変わったことを?」
「夜叉丸は、感情を持った宮廷が感情の圧力に耐えられるかを試していると言った。試している対象には、私も含まれているかもしれない。鬼の血を引いて、感情を切り離した将軍が、それでも感じることができるようになったかどうかを」
小春は少しの間、朔を見た。
「……見せる、というのは」
「言葉にすることだ。まだ上手くできるか分からないが」
「何を言葉にするんですか」
朔は少し考えた。
「まだ言えない。練習が必要かもしれない」
「練習」
「言葉にすることは、訓練が必要だと思う。今の私には」
小春が少し笑った。
「将軍さんらしいです」
「何がか」
「言葉にするのを、訓練って言う」
「実際にそうではないか」
「そうですけど……じゃあ、練習相手になりますよ、私が」
朔は少し止まった。
「練習相手とは」
「言葉にする練習。何か感じたら、私に言う。上手く言えなくてもいいので」
「それが役に立つのか」
「上手く言えなくても、言おうとすることが大事だと思うので」
朔はその言葉を処理した。言おうとすることが、大事。言葉の精度ではなく、言おうとする行為そのものに意味がある。
「……分かった」
「じゃあ、一つだけ」
「今ここでか」
「今じゃなくてもいいです。でも今日中に、一つ、何か感じたことを言ってみてください」
朔は考えた。
今日感じたこと。
「……桔梗の話を聞いた時、見たいと思った」
「桔梗を?」
「まだ見ていないから。名前だけ知っていて、形を知らない。それが、引っかかっている」
小春はしばらく朔を見た。
「……明日、一緒に行きましょう」
「明日は」
「分かってます、会議があるんでしょう。会議の後でいいです」
朔は答えなかった。
しかし今夜は、黙って立ち去らなかった。
文月の二十日。
朔は夜叉丸を再び訪ねた。
今度は、違う聞き方をした。
「あなたが東境から来た本当の理由を聞かせろ」
「国境交渉の」
「それだけではないと知っている。それも今更否定しないだろう」
夜叉丸が朔を見た。
「……今日は少し違いますね、将軍」
「何が違う」
「前回は探りを入れていた。今回は、対話しようとしている」
「そうだ」
「なぜ対話しようとするのですか」
「話を聞かなければ、判断できないからだ。あなたの目的が、宮廷を壊すことなのか、それとも別のことなのかを」
「どちらだと思いますか」
「まだ分からない。しかし、あなたが澪に受け止める者が必要だと言ったことは、壊すための言葉ではない気がする」
夜叉丸が少し目を細めた。
「気がする、か。将軍が気がすると言うとは」
「最近、気がすることが増えた」
「それは、変化ですね」
「話せ」
夜叉丸はしばらく朔を見ていた。それから、少し姿勢を変えた。探りを入れるのをやめた姿勢だ。
「……帝国は、三十年前に東境を浄化した」
「知っている。東境の里に穢れが溜まり、祓いの儀式を行ったと記録にある」
「記録には、そう書いてある。しかし実際は」
夜叉丸が言葉を選んだ。
「穢れを祓ったのではなく、感情を持つ者を排除した。怨みを持つ者、悲しむ者、強く愛する者。そういった者たちが、穢れを発生させると判断されて、東境から追い払われた。あるいは、別の形で処理された」
朔は少し考えた。
「綾女の大祓と、同じことが三十年前に起きた」
「はい。あの儀式は、今回が初めてではない。三十年前、東境でやったことを、今回は帝都でやろうとしていた」
「……あなたが生まれた頃の話か」
「私が五歳の時です。父は東境の里の者で、鵺の血を引いていた。感情を増幅させる力があった。それが危険視されて、里を追われました」
朔は黙って聞いた。
「父は帝都には来なかった。山に入って、私を育てた。しかし、帝国への怨みは持っていた。その怨みを、私は増幅して感じてきた」
「感情の増幅が、自分自身にも働くのか」
「血縁者には、特に強く。父の怨みが、私には倍になって伝わっていた」
「それで、帝国を」
「憎んでいました。長い間。帝国が感情を消しにくると、怨みを持つ者を追い払うのだと、父から聞かされて育った。だから、帝国を壊そうとしていた時期もあった」
「今は違うのか」
夜叉丸がまた少し止まった。
「大祓の話を聞いた時、また来るかと思って、確認しに来た。帝国がまた感情を消しにくるなら、壊す覚悟で来た。しかし」
「しかし?」
「来てみたら、違った。宮廷に花が咲いていた。笑い声があった。感情を持った人間が、ちゃんと生きていた。それが、私には少し、驚きだった」
朔は夜叉丸を見た。
「それで、試すことにした」
「はい。本物かどうか。感情の圧力をかけた時に、宮廷が壊れるなら、それは表面だけの変化だった。耐えられるなら、本物の変化だった」
「結果は」
「今のところ、耐えている。綾女という巫女と、花巫女の娘の連携が機能している。私が想定していたより、よく機能している」
朔は少し考えた。
「あなたの試しは、いつ終わる」
「もうしばらく。ただ、将軍に一つ謝らなければならないことがある」
「何を」
「澪のことです」
夜叉丸が目を伏せた。
「あの娘は私の遠縁にあたります。両親を失って、私が引き取った。花の気配を感じる力があることは、分かっていた。しかし私は、その力を抑えさせた」
「なぜ」
「帝国が、そういう力を持つ者を排除すると思っていたからです。だから、言うな、出すなと教えた。あの娘がずっと感情を飲み込んできたのは、私のせいです」
「……帝国への怨みを、澪に向けてしまったということか」
「違う形で。危険から守るつもりで、結果として力を封じた」
朔は少しの間、夜叉丸を見た。
「父から怨みを増幅して受け取ったあなたが、今度は澪に不安を増幅して伝えた」
「……そうなるかもしれません」
「気づいているか」
「今は、気づいています。だから、あの娘に受け止める者が必要だと言った。私では、もう、あの娘を受け止められない。私が傍にいると、増幅してしまう」
朔は夜叉丸の言葉を、しばらく持っていた。
「……花巫女の娘が、澪に関わっている」
「知っています。それは、良いことだと思っています」
「あなたは澪に、何もしてやれないのか」
「今は、離れることが最善かもしれない。近くにいると、増幅する。でも離れると、あの娘が一人になる。だから、受け止める者が必要だと言った」
朔は考えた。
「あなた自身は、どうするのか」
「宮廷が本物だと確認できれば、東境に帰ります。帝国への怨みは、今は薄れている。薄れた、というか」
夜叉丸が少し首を振った。
「将軍に言っても分からないかもしれませんが、怨みが、流れていっている気がするんです。宮廷を見ていて、少しずつ」
「流れていく」
「穢れが大地に還るように、とは言えないかもしれないが。でも、花巫女の娘が言っていたことと、少し似ているかもしれない」
朔は夜叉丸を見た。
「あの娘の話を聞いたのか」
「遠くから。澪と話しているのを見ていました。盗み聞きではなく、庭に出ていたので自然に聞こえて」
「何を聞いた」
「消さなくていい、と言っていた。流れていけばいい、と」
朔は少しの間、その言葉を持っていた。
「……同じことを言っていたか、大祓の時に」
「はい。宮廷を壊すつもりで来た私に、その言葉が刺さりました。消さなくていい。怨みも、流れていけばいい。私の父の怨みも、私が引き継いだ怨みも」
夜叉丸の目に、何かがあった。感情の増幅を持つ者が、自分自身の感情を抱えている。その矛盾が、長年その男を形作っていた気がした。
「……話してくれた」
朔は言った。
「将軍が変わったから、話せました」
「私が変わったから、か」
「感じている将軍に、話しても無駄ではないと思って」
朔は少し考えた。
「一つ言う」
「はい」
「怨みを長年増幅して生きてきたあなたには、怨みが薄れることが怖いかもしれない。それが自分の根だったから」
「……将軍は、なぜそれを言うのですか」
「感じたから」
夜叉丸が目を細めた。
「……そうです。怨みがなくなると、自分が何なのか分からなくなる気がします」
「私も、感情がなければ自分が何なのか分からなかった。今も、まだよく分からない。しかし、感情がなかった頃より、今の方が少し、答えに近い気がしている」
「……それは、良いことですか」
「良いかどうかは、まだ分からない。しかし、前より悪いとは思っていない」
夜叉丸はしばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「……ありがとうございます、将軍」
朔は頷いた。
その夜、朔は篝に今日の対話を伝えた。
篝は最後まで聞いて、少し目を細めた。
「殿が、夜叉丸に、感情がなかった頃より今の方が良いと言ったのですか」
「言った」
「……自分のことを、そう言えるようになったのですね」
「言葉にすることは、訓練が必要だと言ったら、驚くか」
「はい、驚きます」
「小春が練習相手になると言った」
篝がしばらく無言でいた。
「殿」
「なんだ」
「一つだけ聞いていいですか」
「言え」
「小春殿のことを、どう思っておられますか」
朔は少し考えた。
「どう、とは」
「感情として、どう感じているのかを」
「……まだ言葉にならない」
「言葉にならないのに、練習相手になってもらっているのですか」
「言葉にするために、練習している。まだ途中だ」
篝が少し笑った。
「……じれったいですね」
「じれったいとは」
「なんでもありません。殿らしいです」
その言い方が何かを意味していることは分かったが、朔には詳細が分からなかった。
しかし今夜は、それを問わなかった。問わなくても、何かがある、ということは、分かった。
それで今夜は十分だ。
文月の末。
澪が、倒れた。
朝の庭で、突然だった。
小春と源蔵が庭にいた時、使者の棟の方向から澪が走ってきた。走ってきた、というより、よろめきながら歩いてきた、という方が正確だ。顔が青く、目が焦点を失っていた。
「澪さん!」
小春が駆け寄った。
澪は小春の手をつかんだ。
「聞こえる」
澪が言った。
「何が聞こえますか」
「全部。全部、聞こえる。うるさい」
源蔵が澪の体を支えた。
澪の両手が震えていた。顔が苦しそうだ。
「宮廷の人たちの感情が、聞こえているんですか」
「声じゃない。でも聞こえる。誰かが怒っている。誰かが悲しんでいる。誰かが怖い。全部が、来る」
花の感応力が、急に解放された。夜叉丸の力が続いていた増幅の影響で、宮廷中の感情が澪に流れ込んでいる。
「大丈夫です。私も最初、怖かったです」
「最初?」
「力があると気づいた最初の頃は、感じすぎて辛かったです。でも、今は大丈夫です」
「どうやって」
「受け取って、流す。消そうとしない。聞こえてきたものを、そのまま、通り過ぎさせる。川みたいに」
「通り過ぎさせる」
「怒りを聞いたら、聞いた、とだけ思う。自分の中に溜めない。自分のものにしない。ただ通り過ぎさせる」
澪はまだ震えていた。しかし少しずつ、呼吸が落ち着いてきた。
「……難しい」
「最初は難しいです。でも、できます」
「なぜ言い切れるのですか」
「あなたが花の気配を感じる力を持っているから。同じ根を持つ力だと思うので」
澪は小春を見た。震えながら、見た。
「……怖い、です」
「はい」
「感じることが、怖い。ずっと、押さえてきた。感じると、夜叉丸に言った通り、危険なことになると思っていた」
「危険なことには、なりません。ここでは」
「なぜ分かるのですか」
「花が咲いているからです」
澪が少し止まった。
「花が咲いていると、なぜ」
「感情を持つ者が安全でいられる場所には、花が咲きます。私の感覚では。この庭の花は、元気です。だからここは、感じていても、大丈夫な場所です」
澪は庭を見た。
夏の花が、朝の光の中に咲いている。桔梗が白く、石榴が赤く、朝顔が紫に。精霊の声が、穏やかに満ちている。
「……感じます」
澪が言った。
「何を」
「花が、怖くないと言っている気がします」
「そうです」
「……そんなことが、あるんですね」
澪の目から、何かが溢れた。泣いているのかどうか、澪自身も分からなそうだった。ただ、何かが溢れた。
小春は澪の手を持っていた。
源蔵は黙って、二人の傍にいた。
庭の精霊たちが、静かに集まっていた。
その後、澪は部屋に戻って休んだ。
小春が報告に来た時、朔は既に庭の様子を篝から聞いていた。
「大丈夫でしたか」
「はい。力が急に解放されて、驚いたようです。でも、少し話せて、落ち着いてきました」
「夜叉丸に伝えた方がいいか」
「……澪さんが、しばらく会いたくないと言っていました。夜叉丸のことを、整理したいと」
「整理とは」
「長年、感情を抑えるように言われてきたことを、どう受け取るかを」
朔は考えた。
「夜叉丸は、澪を守るためにそうしたと言っていた」
「はい。でも澪さんには、まだそれが分からない。分かるのに、時間が必要かもしれない」
「そうかもしれない」
小春は少しの間、庭の方を見ていた。
「将軍さん」
「なんだ」
「今日、澪さんに、受け取って流すと言いました。感じてきたものを、自分の中に溜めないで、通り過ぎさせると」
「うん」
「将軍さんは、感情を切り離してきた。私は感情を受け流す。やり方は違うけど、似ている気もします」
「どこが似ているのか」
「感情を、自分が全部背負おうとしないところ。切り離すと受け流すは違うけど、感情に飲み込まれないという結果は少し似ている」
朔はその言葉を持った。
「……しかし、切り離した感情は、どこにも行かない」
「そうですね」
「受け流した感情は、大地に還る。切り離した感情は、どこへ行くのか」
小春は少し考えた。
「……切り離した感情は、まだそこにある気がします。どこかに、ある。だから、戻れる」
「戻れる」
「はい。切り離していても、なくなったわけじゃない。だから、将軍さんは今、感じることができてきている。戻ってきているんだと思います」
朔はその言葉を、長い間持っていた。
切り離した感情は、なくなったわけじゃない。どこかにある。戻ってくることができる。
「……そうかもしれない」
朔は言った。
「そうですよ」
小春は確信したように言った。
朔には、その確信の根拠を問う気がしなかった。
ただ、そうかもしれないと思ったことが、今日の朔には少し温かかった。
その夜遅く、澪が庭に来た。
月のある夜だった。
一人で庭に立ち、桔梗を見ていた。
そこに朔が来た。
澪が振り返り、少し緊張した顔をした。
「将軍……夜中に、すみません」
「構わない。眠れなかったのか」
「はい。考えていました」
「何を」
「夜叉丸のことと、自分のことと」
朔は澪の隣に立った。桔梗を見た。
夜の中の桔梗は、昼とは違う白さだ。月光を受けて、静かに光っている。
「……桔梗を初めて見ましたか」
「はい」
「小春が、桔梗が咲いていると教えてくれた。昼間、見に来るつもりで来られなかった」
澪がまた少し驚いた顔をした。
「……将軍は、花の名前を覚えているんですか」
「九十二種類。残りを小春に教わっている」
「なぜ覚えるのですか」
「小春が、名前は関係の始まりだと言っていた。名前を知ることで、つながりができると」
澪は少し桔梗を見た。
「……夜叉丸は、花の名前を教えてくれませんでした」
「そうか」
「里の花のことは、自分で覚えました。誰にも言わずに。感じることを隠していたので、花の名前を知っていると言えなくて」
「今は、言えるか」
「……ここでは、言えるかもしれないです」
朔は澪を見た。
「花と話す力が、ある」
「ある、と思います。今日、初めてちゃんと感じました。怖かったですけど、花が怖くないと言っていた気がして」
「怖くない、と花が言った」
「はい。……変ですか」
「変ではない」
澪が少し朔を見た。
「将軍は、変ではないと言ってくれますね」
「事実の可能性を否定する根拠がないからだ。小春にも同じことを言った、最初に」
「そうですか」
「あなたの力は、今後、宮廷に必要になるかもしれない。小春と似た力を持つ者が、もう一人いることは、宮廷の霊的な状態を見守る上で利点がある」
澪が静かになった。
「……夜叉丸に、宮廷に残れと言われているわけではないですよね」
「そうではない。これは私の判断だ。しかし判断を急ぐ必要はない。今は休んでいい」
「はい」
澪は少しの間、桔梗を見ていた。
「将軍さん、一つ聞いてもいいですか」
「なんだ」
「夜叉丸は、悪い人ですか」
朔は少し考えた。
「悪い人かどうかは判断できない。しかし、あなたを守ろうとしていたことは、本当だと思う」
「でも、私の力を封じた」
「封じた理由は、恐れから来ていた。帝国への恐れが、あなたへの誤った判断になった」
「……恐れから来た誤りは、許せますか」
朔は少し考えた。
「小春に聞いた方がいい問いかもしれないが、私が言えることは」
「はい」
「恐れから来た誤りを、誤りとして認めることができるなら、それは変わることができる」
「夜叉丸が、認めるかどうか」
「今日の対話では、認めていた」
澪は長い間、桔梗を見ていた。
「……もう少し、考えます」
「そうしろ」
「ありがとうございました、将軍」
澪は頭を下げて、使者の棟の方向へ戻っていった。
朔は桔梗の前に残った。
月光の中の桔梗。白い、五枚の花弁。星形に開いている。
きれいだと思った。
今夜は感じた。
感じている、と言えた。自分に向かって。まだ小声だが、言えた。
九十二番目の花の名前を、今夜ようやく、形と共に覚えた。
桔梗。
朔はその名前を、静かに繰り返した。
葉月の初め。
夜叉丸が、宮廷を去る前日のことだった。
最後の国境交渉が終わり、一行は翌朝に発つ予定だった。
夜叉丸は綾女に会いたいと申し出た。朔が同席した。
三人が向かい合った。
夜叉丸が最初に口を開いた。
「綾女殿、あなたの祓いの力を、私は長年怖れていました」
「怖れていた」
「帝国が感情を持つ者を追い払う時、その前に祓いが来る。私の父もそうだった。だから、この宮廷に祓いの巫女がいると知って、最も警戒していた相手があなただった」
綾女は静かに聞いていた。
「来てみたら、違った」
「何が違ったのですか」
「あなたの祓いが、変わっていた。感情を選別していない。穢れを、穢れとして対処している。感情は感情として、別に扱っている」
「……半年前からの変化です」
「知っています。大祓の時に何があったかも、およそ想像できます」
綾女は朔を見た。朔は何も言わなかった。
「あなたは、怨みを持って来たのですか」
綾女が問うた。
「はい。壊す覚悟も、あった」
「今は」
「今はない。少なくとも、今の宮廷を壊したいとは思っていない」
「なぜ」
「花が咲いているから」
綾女が少し止まった。
「花巫女の娘と同じことを言いますね」
「あの娘に、教わったかもしれません。直接ではなく、聞いていただけですが」
「消さなくていい、という言葉ですか」
「はい。怨みを消そうとしてきた。なくそうとしてきた。しかし消えなかった。なぜなら、根があったから」
「根とは」
「父を失ったことへの悲しみです。それが怨みになっていた。怨みをなくそうとしても、悲しみがある限り、怨みは消えない。しかし、悲しみを流せば、怨みも薄れる」
「悲しみを流すとは」
「悲しんでいいと認めること、だと今は思っています。怨みを増幅させる力を持ちながら、自分の悲しみは飲み込んでいた。それが矛盾でした」
綾女はしばらく黙っていた。
「……私にも、似たことがあります」
夜叉丸が少し驚いた顔をした。
「穢れを排除しようとしてきた。しかし、穢れを恐れていたのは、自分の中にも感情があって、穢れを生む可能性があることを、恐れていたから」
「自分を排除しようとしていたのですか」
「そうなるかもしれません。まだ、整理できていない部分もある」
「……整理できなくても、いいのではないですか」
綾女が夜叉丸を見た。
「整理できないことを、抱えていていい。それも流れていくなら」
「流れていくかどうかは、分からないです」
「花巫女の娘は、流れると言っていました。信じてみることもできます」
綾女は少し考えた。
「……信じてみる、というのは、力技が要りますね」
「そうですね」夜叉丸が少し笑った。「私もまだ、練習中です」
朔はその二人の会話を、静かに聞いていた。
感情を抱えた人間が、感情について話している。その場に、感情を取り戻しつつある鬼の将軍が、ただいる。
それが、今の朔には、少し不思議な光景だった。
しかし不思議なだけで、不快ではなかった。
むしろ、何かが温かい気がした。
その夜、小春に話した。
「夜叉丸が明日、帝都を発つ」
「そうですか。澪さんは」
「澪も帰る」
小春が少し黙った。
「……残念ですね」
「残念か」
「また会えると思いますけど、でも少しだけ寂しい」
朔は少し考えた。
「寂しいとは、どういう感覚だ」
「何かが足りなくなる予感がすることかな。今はまだいるけど、いなくなることが見えていて、そのいなくなった後の感じが、先に来る感じです」
「いなくなった後の感じが、先に来る」
「うまく言えないですけど」
「いや、少し分かる気がする」
小春が朔を見た。
「分かりますか、将軍さんに」
「明日、一行が発った後、庭が少し違う感じになるかもしれないと、今、思った。それが寂しいということかどうかは分からないが、似ているかもしれない」
「それ、寂しいです」
「そうか」
「寂しいって、悪いことじゃないと思います。大事なものがあったという証拠だから」
朔はその言葉を持った。
大事なものがあったという証拠。
「……花巫女と澪が、短い間に何かを通わせたということか」
「はい。私も、澪さんから教わりました」
「何を」
「感情を長く飲み込んできた人が、花に「怖くない」と感じる時の顔が、どんな顔かを」
「どんな顔だった」
「……驚いていて、泣きそうで、でも少し安堵している。そういう全部が一緒に来る顔」
朔は少し考えた。
「それは、美しい顔か」
小春が少し止まった。
「将軍さんが、美しいと言うんですか」
「言葉として使ったことはあるが、意味が分かったのは最近かもしれない。何かを見た時に感じる、温かい引きずられ方のことが、美しい、なのかと思って」
「温かい引きずられ方」
「あの顔を想像した時に、何かが引っかかる感覚がある。それが美しいと思う感覚に近いのかと、試しに言ってみた」
小春はしばらく朔を見た。
それから静かに笑った。
「正解だと思います」
「そうか」
「美しいって、そういう感覚です。将軍さんが言った通りです」
「覚えた」
「……覚えた、って」
「美しいの意味を、覚えた」
小春がまた笑った。今度は少し声が出た。
「将軍さんは、本当に、将軍さんらしいですね」
「それは」朔は少し止まった。「良いことか、悪いことか」
「良いことです」
小春は迷いなく言った。
朔は少しの間、その言い方を持っていた。
良いことです、という言い方が、何かを置いていった。良い、という言葉が、朔の中の何かに触れた。
「……一つ、言う」
「はい」
「練習中だから、上手くないかもしれない」
「分かってます」
「小春と話していると、何かが温かくなる感じがする。その感じが、何なのかはまだ言えないが、悪い感じではない」
小春は何も言わなかった。
少しの間、朔を見ていた。
それから、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
それだけ言った。
二人の間に、しばらく沈黙があった。
夏の夜の庭から、精霊の声がした。嬉しそうな声だった。
翌朝。
夜叉丸の一行が、宮廷の門を出た。
朔は門の前に立って、見送った。
夜叉丸が最後に振り返った。
「将軍、世話になりました」
「また来ることがあれば、正直に目的を言え」
「次に来る時は、もう少し正直な目的で来ます」
「澪を頼む」
「はい。あの娘の力が、ここで認められたことを、ちゃんと伝えます」
澪が朔に頭を下げた。
「将軍、ありがとうございました」
「また来い。花の名前を教える者が、もう一人増えてもいい」
澪が少し驚いた顔をした。それから、初めて見る顔をした。
泣きそうで、笑っているような顔。
「……はい」
一行が門の外に消えた。
篝が朔の隣に来た。
「見送りに来られたのですか」
「来たかったから来た」
「……そうですか」
篝が少し笑った顔をした。
「殿は変わりましたね」
「そうか」
「来たかったから来た、と言える将軍は、以前はいなかった」
「以前は、来たいという感覚がなかったからだ」
「今は、ある」
「今は、ある」
篝はまた少し笑って、
「そうですか」
と言った。
朔には篝が何を嬉しがっているのかの理由が、今はだいたい分かる。
以前は分からなかったことが、少しずつ分かるようになっている。
それが良いことかどうかは、まだ全部は言えない。
しかし前より悪いとは思っていない、と夜叉丸に言った言葉は、今も本当だ。
葉月の半ば。
宮廷は夏の盛りを過ぎていた。
夜叉丸の試しが終わって、増幅の影響もなくなり、宮廷の感情は通常の状態に戻っていた。通常の状態、とは言っても、半年前と比べれば大きく違う。笑い声があり、口論もあり、涙もある。感情が生きている宮廷だ。
綾女は相変わらず穢れを祓い続けている。しかし以前と違い、穢れを祓いながら、その穢れが何から来たのかを考えるようになった。誰かの悲しみか、誰かの怒りか。穢れを祓う時に、少し、その感情を受け取るようになった。
伊吹は、訓練の仕方を変えた。感情を切り捨てることをやめ、感情がある状態で判断する訓練を始めた。難しかった。しかし面白いとも感じていた。面白いという感覚が訓練に混じることが、以前はなかった。
千代は別の棟で働いていた。小春とはほとんど会わない。しかしある日、廊下ですれ違った時、小春が「こんにちは」と言い、千代が「こんにちは」と言い返した。それだけだった。それだけで、何かが少し軽くなった気がした、と千代は一人で思っていた。
源蔵は庭を育てていた。夏の庭は手入れが忙しい。しかし今年の庭は、花が特によく咲いていると、老いた庭師は思っていた。
葉月のある朝、小春が朔に言った。
「花の名前、続きをやりましょう」
「そうだった」
「九十三番目です」
「何の花か」
「一緒に見に行きます。庭に咲いてるので」
二人は庭に出た。
夏の庭を歩く。精霊の声が豊かだ。夏は精霊が活発だと、小春が言っていた。
小春が立ち止まった場所に、橙色の花があった。
「撫子です」
「撫子」
「はい。名前の由来は、撫でるように可愛らしい、という意味と、子供を撫でるような柔らかさという説があります」
「撫でる、か」
「はい。将軍さんは、撫でるという行為を、どう思いますか」
朔は少し考えた。
「したことがない」
「ないですか」
「人を撫でる習慣がなかった。戦場では不要な行為だ」
「そうですね。……でも、今は」
「今は、どうなのかは、まだ分からない」
小春が少し笑った。
「撫子の精霊は、穏やかです。怒ることがない花で、ただ咲いている」
「ただ咲いている、とはどういうことか」
「目的を持って咲いていない。見てほしいから咲くわけでも、誰かのために咲くわけでもなく、ただ咲くことが、この花の在り方です」
「目的のない在り方が、あるのか」
「ある、と花に教わりました。人は何かのために生きると言うけど、花はただ生きている。それが羨ましいというか、そういう在り方もあるんだと、花を見ていると感じます」
朔は撫子を見た。
橙色の五枚の花弁。中心が少し濃い色だ。風に揺れている。
「……美しい」
朔は言った。
以前は言えなかった言葉だ。意味が分からなかったから。しかし今は、少し分かる。温かい引きずられ方をする時に、使う言葉だ。
「はい、美しいです」
小春が言った。朔が美しいと言ったことに、驚いた顔をしなかった。
「驚かないのか」
「以前は驚いたかもしれないですけど、今は将軍さんがそう言うことが、自然に感じるので」
「自然に感じるということは、変化したということか」
「はい。将軍さんが変わった、ということを、私が受け取った、ということだと思います」
朔はその言葉を持った。
小春が受け取った。朔の変化を、小春が感じている。それが自然になっている。
「……小春は、変わったか」
「私も変わりましたよ」
「何が変わった」
「宮廷に来た時は、誰も拒まないことが優しさだと思っていました。何があっても受け入れる。それが自分だと思っていた」
「今は違うのか」
「今は……誰も拒まないことと、ちゃんと自分を持つことは、両立すると思っています。受け入れることと、流されることは違う。そこが変わりました」
「何がそれを変えたのか」
小春は少し考えた。
「将軍さんかもしれないです」
「私が」
「将軍さんは、私の言うことを全部受け入れるわけじゃないです。おかしいと思ったら、おかしいと言う。でも、頭から否定しない。それが、ちゃんと受け取ってもらっている感じがして、だから私も、ちゃんと自分を持っていいんだと思えてきました」
朔はその言葉を受け取った。処理という言い方が今は違う気がした。
受け取った。ただ、受け取った。
「……変えたつもりはなかった」
「そうですよね。でも、変わりました、私が」
「私も、変えられた」
「誰に」
「小春に」
小春が止まった。
朔はその言葉を言った後、少し考えた。言葉にすることの練習の結果が、今の言葉だった気がした。
「……言葉にするのが、前より少し、できるようになってきた」
「はい」
「まだ上手くはない」
「上手くなくていいです」
「上手くなくても」
「言おうとすることが大事、と前に言いました。今日の言葉は、ちゃんと言えていました」
朔は撫子を見た。
橙色の花が、風に揺れている。ただ咲いている。目的もなく、ただそこにある。
今の朔には、その在り方が少し分かる気がした。
感情の意味を探し続けることをやめて、ただある、という時間が、今、少しある。
それが何かは、まだ言えない。
しかしある。
「九十三番目、覚えた」
「撫子ですね」
「撫子。由来は、撫でるような柔らかさ」
「正解です」
「残り七種類だ」
「はい。あと七つで、百種類です」
「早く覚えたいわけではないが」
「でも、気になりますよね」
「……気になる」
小春がまた笑った。
「じゃあ、続きは明日にしますか。今日は撫子だけで」
「今日は撫子だけでいい」
「はい」
二人は撫子の前に立っていた。
精霊の声が、夏の空気の中に満ちていた。
朔には聞こえない。しかし何かが、そこにある気がした。
あの精霊が何を言っているのかを、今は小春に聞こうと思わなかった。
ただ、ある、ということで、今日は十分だった。
そういう在り方が、少し分かってきた。
その夜、源蔵が一人で庭を見ていた。
夏の夜の庭だ。虫の声がする。
撫子が月光に橙色の影を作っている。
老いた庭師は、しばらくそれを見ていた。
長く庭師をやってきて、分かることがある。
花は、急いで咲かない。
土が整えば、水があれば、光があれば、自分の時間で咲く。急かしても、咲くものではない。
人も、似たところがある、と最近思うようになった。
変わる時間が、人によって違う。急かすと、曲がって育つ。ただ、そこにいて、水を与えて、光が当たるように邪魔なものをどける。それが庭師の仕事だ。
将軍が変わった。半年でここまで来るとは、思っていなかった。
花巫女の娘も変わった。受け入れるだけではなく、ちゃんと自分を持つようになってきた。
まだ、百種類の花の名前の途中だ。
それで良いのだ、と源蔵は思った。
途中であることが、まだ続きがある、ということだから。
葉月の終わり。
小春は部屋の窓を開けて、夜の庭を見ていた。
精霊の声が、穏やかだ。夏の終わりの気配がある。次に来るのは、秋だ。
「次は秋の花を教えます」
窓の外に向かって言った。
誰かに言っているような、独り言のような、境界が分からない言い方だった。小春にはいつもそうだ。
翌朝、廊下で朔と会った。
「次は秋の花ですよ」
「秋の花か」
「はい。将軍さんの知らない花が、まだあります」
「九十四番目は何か」
「秋になったら教えます。今はまだ夏です」
「夏が終わるのが早いのか遅いのか、感覚が分からない」
「早い年も遅い年もあります。でも必ず終わって、必ず秋が来ます」
「それは確かか」
「花が知っています。精霊に聞いてみましょうか」
「……聞いてくれ」
小春が少し嬉しそうな顔をした。
「将軍さんが精霊に聞いてと言うのは、初めてですね」
「そうか」
「以前は、精霊の話は聞いていませんでした」
「今は、聞く気になっている。それが変化だ」
「はい」
小春は少しの間、朔を見た。
それから廊下の端の花の方を向いた。精霊に、何かを聞いた。
「秋は、今年も来ると言っています」
「そうか」
「必ず来ると」
「分かった」
朔は歩き始めた。
小春が後ろからついてきた。並んで歩いた。
廊下の外から、夏の光が入っていた。
まだ夏だ。秋の花はまだ先だ。
しかし秋が来るのは確かだ。
その確かさが、今の朔には少し温かく感じた。
雨が続いていた。
梅雨の雨は、庭師にとって恵みの時期だ。しかし、今年の雨は少し長い。源蔵は軒下で道具の手入れをしながら、空を見ていた。
晴れ間がない。
それだけのことだが、長く庭を見てきた源蔵には、何かが引っかかった。雨の多い年は穢れが流れやすい。流れやすいということは、どこかに溜まりやすいということでもある。
庭の花は、今のところ元気だ。精霊の声も普通に聞こえると、小春が言っていた。
しかし、何かが引っかかる。
源蔵は空を見続けた。
東境の使者が宮廷に到着したのは、水無月の最後の日のことだった。
帝国の東境は、山と川に隔てられた地域で、帝国の直轄ではない。いくつかの里が自治を維持しながら、帝国と交易関係を持っている。五年に一度ほど、国境の取り決めを更新するために使者が来る。今回もそういう建前の訪問だった。
朔は宮廷の玄関で、使者の一行を出迎えた。
四人の一行だった。
先頭に立つのは、年の頃三十半ばの男だ。体格は中くらいで、目立つ外見ではない。しかし、朔の感覚がかすかに反応した。
鬼の血と似た何かが、あの男にある。
次いで、若い女が続いた。二十歳前後で、地味な装いをしている。うつむき加減で歩いている。
後ろに、従者が二人。
「東境の使者、夜叉丸と申します。この度は御拝謁の機会をいただき、光栄に存じます」
男が礼をした。声は穏やかで、物腰が柔らかい。宮廷の礼儀を心得ている。
「鬼神将軍・朔だ。帝の名の下に、歓迎する」
朔は定型の言葉を述べながら、夜叉丸を観察した。
見た目は普通の人間だ。しかし、あの気配は何か。
「こちらは、同行した澪と申します。国境の里の娘で、帝国の言葉が達者なので、連れてまいりました」
夜叉丸が紹介した。澪と呼ばれた女が、浅く頭を下げた。視線が下を向いたまま、朔と目を合わせなかった。
「滞在の間、不自由なく過ごしてください」
朔は言って、案内の者に目配せした。一行が廊下の奥へ案内されていく。
その後ろ姿が遠くなってから、篝が朔の隣に来た。
「殿、あの男、どう見ましたか」
「人間ではない血が混じっている」
「私にも、何か感じました。しかし穢れとも違う」
「鵺の血かもしれない」
篝が少し目を細めた。
「鵺の残滓が、今も人に混じっているとは」
「鬼の血が今も混じっているのと同じことだ」
「……そうですね。しかし、鵺の力は」
「感情を増幅させる」
篝は静かになった。
「穢れを増産できるということですか」
「可能性として」
「なぜそのような者が、使者として来るのですか」
「まだ分からない。しかし、目的がある」
朔は廊下の奥を見た。もう一行の姿はない。
「監視しろ。私も直接、話す機会を持つ」
「はい」
篝が下がった後、朔は一人で考えた。
鵺の血。感情を増幅させる力。今の宮廷は、感情を取り戻し始めている。感情が戻った宮廷に、感情を増幅させる者が来た。
それは偶然ではないかもしれない。
その夜、小春は庭に出た。
雨が止んでいる。久しぶりの星空だった。
庭の花が、夜の光の中に静かにある。精霊の声が、いつもより少し違う感じがした。
「何かいる?」
精霊に聞いた。
返事は、曖昧だった。何か、が来た気配がある。しかしそれが何かを、精霊たちはうまく言えない。
「遠い?近い?」
近い、という気配が来た。
宮廷の中に、何かが来た。
小春は庭から出て、廊下を歩いた。感じようとした。何が来たのかを。
廊下の端、使者たちが案内されたと思われる棟の方向から、かすかな気配があった。
強い感情の気配、ではない。むしろ逆だ。
感情を飲み込んでいる者がいる。
深く、澱のように。
小春は立ち止まった。
その気配が、どこから来るのかを辿ろうとした。使者の棟の方向だが、詳しくは分からない。
引き返そうとした時、廊下の角から人が出てきた。
使者の一行の中にいた若い女だった。澪、と夜叉丸が呼んでいた女だ。
互いに、止まった。
「……」
「……」
澪は小春を見た。視線が合った。しかし澪はすぐに目をそらした。
「夜中に、どうかしましたか」
小春が声をかけた。
澪はしばらく答えなかった。
「眠れなかっただけです」
「慣れない場所は眠れませんよね。私も最初、そうでした」
「……あなたも、ここに来たばかりなのですか」
「半年くらい前ですけど、最初は慣れなくて」
澪が少し小春を見た。
「あなたは、何の役職の方ですか」
「花巫女です。花の精霊と話す役割で」
「花の精霊」
「はい。花や草の気配を感じることができて。……澪さんは、もしかして、似たような感覚がありませんか」
澪が止まった。
「なぜそう思うのですか」
「花が、あなたを認識している気がして。通りすがりの人には、花はあまり関心を示さないんです。でもあなたには」
小春は廊下の端にある鉢植えを見た。夜でも咲いている白い花だ。その花が、澪の方を向いている気がした。
「……気のせいです」
澪は視線を落とした。
「失礼します」
澪は廊下を去った。
小春はその後ろ姿を見た。
感情を飲み込んでいる。強く、深く。長年そうしてきた人の気配だ。
あの女と、花が通じている。
それが何を意味するのかは、まだ分からなかった。
翌朝、朔は小春に報告を受けた。
「東境の使者の中に、感情を飲み込んでいる女がいます。花が関心を示しました」
「澪という娘か」
「はい。小春と似た感覚を持っているかもしれない、でも抑えこんでいる」
朔はそれを処理した。
「夜叉丸という男の方は、何か感じたか」
「はっきりとは。ただ……精霊が、少し遠慮している感じがします。近づきたがらない、という感じ」
「鵺の血を引く者かもしれない」
小春が少し目を広げた。
「鵺の、血」
「鬼の血と同様、鵺の残滓が人に混じることがある。鵺の力は、感情を増幅させる」
「……それは」
「今の宮廷に、その力が来た」
小春はしばらく考えた。
「感情を増幅させることは、悪いことですか」
「目的による」
「喜びを増幅させることもできるし、怨みを増幅させることもできる」
「そうだ」
「……」
小春は窓の外を見た。水無月の曇り空が広がっている。
「その人が、何をしに来たのかが分からないと」
「まだ分からない。しかし、何かある」
「私も気をつけます」
「無理に近づく必要はない。ただ、気配に注意しておいてくれ」
「はい」
朔は立ち上がろうとして、少し止まった。
「小春」
「なんですか」
「今日の庭は、どうだ」
小春が少し驚いた顔をした。
「……雨上がりで、花が喜んでいます。白い桔梗が咲いていましたよ。夏の花です」
「桔梗」
「はい。将軍さんが覚えていない花です。今日、九十二種類目ですね」
朔は少し考えた。
「見に行く時間があれば、見ておく」
小春が小さく笑った。
「じゃあ一緒に行きますか」
「……今は任務がある」
「分かりました。後で私が案内します」
朔は答えなかった。しかしそのまま部屋を出た。
廊下を歩きながら、朔はふと考えた。
桔梗の形を、まだ知らない。
それが、少し気になった。以前は、気になるという感覚自体がなかった。今は、ある。
小さな変化だが、確かにある。
文月の初め。
夜叉丸の滞在が延びた。
国境交渉の内容が複雑で、詳細の確認に時間がかかるという説明だった。帝の側近が対応を続けており、もう十日ほど滞在が続く見込みだと篝が報告した。
その十日の間に、宮廷の空気が、少しずつ変わり始めた。
最初に気づいたのは、小春だった。
文月の三日目の朝、庭に出ると、精霊の声が少し違った。
騒がしい、という感覚だ。精霊たちが落ち着かない。何かが引っかかっている。
「どうしたの」
山茶花の前にしゃがんだ。
返ってくる気配は、困惑に近かった。人の感情が、普段より強くなっている。それが精霊たちに影響している。
小春は庭から宮廷の中を見渡した。
廊下を歩く女官たちが、少し足早だ。昨日より、宮廷の中の緊張感が高い気がする。
「何かあったんですか」
通りかかった女官に聞いた。
「なんだか知らないけど」女官は声を落とした。「昨日の夕方から、あちこちで言い争いが増えていて。食堂でも、昨夜、男たちが口論になったって聞いた」
「口論、ですか」
「珍しいことじゃないけど、でも昨日は数が多かった。急に、皆がいらいらしてるみたいで」
女官は足早に去った。
小春は考えた。
感情が増幅されている。
夜叉丸が来た後から。
朔も異変に気づいていた。
宮廷の武官たちの間で、小さな諍いが増えていた。通常、武官たちは感情の制御が厳しく、宮廷内での口論は少ない。しかし昨日から今日にかけて、三件の報告が上がってきた。
「夜叉丸の力が動いている」
篝に言った。
「根拠は」
「タイミングと、感情の増幅という性質が一致している。あの男が意図的にやっているのか、無意識なのかは分からない。しかし、結果として宮廷の感情が増幅されている」
「穢れの発生状況は」
「綾女に確認しろ」
「はい」
篝が動いた後、朔は一人で考えた。
夜叉丸の目的は何か。
感情を増幅させることで、宮廷を混乱させる。穢れを増産させる。感情の制御が外れた宮廷を、内側から壊す。
可能性として成立する。
しかし確証がない。交渉の目的で来た使者を、根拠なく排除することはできない。
証拠が必要だ。
朔は立ち上がった。
夜叉丸に直接、会いに行く。
使者の棟の廊下で、夜叉丸は朔を迎えた。
驚いた様子はなかった。むしろ、待っていたような顔だった。
「将軍。どうぞ」
室に案内された。二人で向かい合った。
「改まって何事でしょう」
夜叉丸の声は穏やかだ。目は笑っている。しかし笑いの奥に、何かある。朔には今、そのくらいは見える。
「聞きたいことがある」
「何でしょう」
「あなたは鵺の血を引いているか」
夜叉丸が少し止まった。
それから、笑った。
「よく分かりましたね。将軍は鬼の血を引いている。だから感じたのですか」
「答えを確認している」
「そうです。薄いですが、鵺の血が流れています。三代前の先祖が、鵺の残滓を受け継いだと聞いています」
「力は発現しているか」
「多少は。しかし、使うつもりはありません。使者として来たのですから」
「宮廷の感情が増幅されている原因に心当たりはあるか」
夜叉丸の目が、少し動いた。
「心当たりは……ないですが」
「嘘をつかなくていい」
朔は言った。
夜叉丸が朔を見た。
「断言できる根拠がないはずですよ、将軍」
「根拠がなくても、感じたから言っている」
夜叉丸が、少し表情を変えた。
「……将軍が、感じた?」
「そうだ」
「鬼の血を引く将軍が、感情で動くのですか」
「感情で動いているかどうかは分からない。しかし、感じたことを無視しない。最近、それを学んだ」
夜叉丸はしばらく朔を見ていた。
その目の奥に、何かが動いた。
「……面白い将軍ですね」
「目的を話せ」
「まだ話す段階ではありません」
「段階とは」
「もう少し、様子を見ます。将軍が、どこまで感じられるかを」
朔は夜叉丸を見た。
試されている。何かを試している。
「いつまで様子を見る」
「もうしばらく。害はなしません。約束します」
「約束を信用する根拠がない」
「では、一つだけ言いましょう」
夜叉丸が少し前に出た。
「私は、宮廷を壊しに来たわけではありません。ただ、確認しに来た」
「何を確認する」
「感情を持った宮廷が、感情の圧力に耐えられるかどうかを」
朔は少し考えた。
「感情を取り戻した宮廷が、本物かどうかを試しているということか」
夜叉丸が初めて、笑いではない表情をした。
「……鋭い」
「答えることはできないのか」
「まだ。ただ、将軍、一つお願いがあります」
「何だ」
「澪のことを、よろしくお願いします。あの娘は、私が試している間に、何か感じるかもしれない。感じた時に、孤独でないことが、大切です」
「……澪があなたの試しに関係しているのか」
「直接は関係しません。ただ、あの娘には力があります。それが目を覚ます可能性がある。その時に、受け止める者が必要です」
朔は夜叉丸を見た。
まだ情報が足りない。しかし、今はこれ以上聞けない。
「分かった。ただし、害が出れば、その時点で排除する」
「当然です」
朔は部屋を出た。
廊下に出て、少し止まった。
感情を持った宮廷が、感情の圧力に耐えられるかを試している。
それはつまり、大祓の後に宮廷が本当に変わったのかどうかを、外側から確認しているということだ。
なぜ確認する必要があるのか。
朔にはまだ分からなかった。
その日の夕方、朔は小春に伝えた。
「夜叉丸に会った」
「どうでしたか」
「鵺の血を認めた。しかし害を与えるつもりはないと言っている。宮廷を試している、とも」
「試している」
「感情を取り戻した宮廷が、感情の圧力に耐えられるかどうかを」
小春はしばらく考えた。
「……それは、善意から来ることですか。それとも悪意から」
「判断できない。どちらの可能性もある」
「澪さんは」
「あの娘に力がある。何かが目を覚ます可能性があると言っていた。その時に受け止める者が必要だとも」
小春が少し目を細めた。
「私に澪さんと話してほしいということですか」
「私の判断ではない。夜叉丸がそう求めた。どうするかはあなたが決める」
「将軍さんの判断は」
「あなたが決めた方がいい問題だ。花の力に関わることだから」
小春はまた少し考えた。
「……話してみます。私も気になっていたので」
「無理はするな」
「はい」
小春が部屋を出ようとして、ふと振り返った。
「将軍さん、桔梗、見ましたか」
朔は少し止まった。
「……見ていない」
「まだ咲いてます。明日、一緒に行きましょう」
「明日は早朝に会議がある」
「会議の後でも」
「…………」
「桔梗は、午後まで咲いてますから」
朔は答えなかった。しかし、答えなかった理由が、断りたいからではなかった。
小春はそれを分かっているような顔で、部屋を出た。
文月の半ば。
宮廷の感情の増幅は、続いていた。
しかし朔が予測したような混乱は、起きていなかった。
女官たちが口論をする。武官が声を荒らげる。食堂が賑やかになりすぎる。そういったことは起きた。しかし、それを綾女が対処した。増幅された穢れを、素早く祓う。小春が花の声で異変を知らせ、綾女が動く。二人の連携が、増幅された感情の影響を最小限に抑えていた。
宮廷が、感情の圧力に耐えていた。
夜叉丸はその様子を、どこかから観察しているようだった。朔は篝を通じてその行動を把握していたが、夜叉丸は宮廷内を静かに歩き、交渉の席に出て、部屋に戻る。それ以外の動きはない。
しかし、何かを考えている目だ。
篝が言った。
「手を替えるかもしれません」
「そうかもしれない」
「次は、何を仕掛けるか」
「まだ分からない。しかし、宮廷全体への増幅が効かないなら、個別に来る可能性がある」
「個別、とは」
「特定の人間の感情を、狙い撃ちにする」
篝は黙った。
「誰を狙うと思いますか」
「最も効果が大きい者を」
二人の間に沈黙があった。
答えは、言わなくても分かった。
小春と澪が初めて正式に話したのは、文月の十日のことだった。
庭で偶然会った形を取ったが、小春としては少し準備をしていた。どう話しかけるかではなく、どう受け取るかを準備した。
「おはようございます、澪さん」
「……おはようございます」
澪は今日もうつむき加減だ。しかし逃げなかった。
「庭に来たんですか」
「宿舎から見えたので。花が多いですね」
「夏は特に。あの白いのが桔梗で、赤いのが石榴の花で、奥の紫が朝顔です」
澪が少し顔を上げた。
「花の名前を、よく知っているんですね」
「私の仕事ですから。それに最近、一緒に覚えている人がいて」
「誰と」
「将軍さんと。花の名前を教えていて、まだ途中なんです」
澪が少し驚いた顔をした。
「……将軍と、花の名前を?」
「はい。変ですか」
「変というか……あの方は、厳しそうで」
「厳しいですけど、変なことを笑ったりしません。花を見る時、ちゃんと見ます」
澪がまた黙った。
小春は桔梗の前に行って、しゃがんだ。
「澪さん、もし良かったら、ここに来てもらえますか」
澪は少し迷ったが、近づいた。
桔梗の前でしゃがんだ。
「この花、里でも咲いていましたか」
「……咲いていました。川の近くに」
「好きですか」
「……好き、という感情が正しいかどうか分かりませんが」
澪が少し止まった。自分の言ったことに、気づいたような顔をした。
「正しいかどうかは、関係ないと思います。ただ、好きかどうかで十分です」
「そういうものですか」
「感情は正しいとか間違いとか、ないと思っています、私は」
澪がゆっくりと桔梗を見た。
「……好きです」
小声だった。
桔梗の精霊が、かすかに反応した。小春にはそれが分かった。澪の言葉に、桔梗が応じた。
「澪さん」
「はい」
「花の気配を感じませんか。この子が、あなたに応えた」
「……気配」
「声ではないですけど。感じる人には、感じます」
澪は桔梗を見た。長い間、見ていた。
「……感じる、かもしれません」
小声で、ゆっくりと言った。
「前から、感じていましたか」
「……子どもの頃から。でも、そういうことは言わない方がいいと教わったので」
「誰に」
「夜叉丸に」
小春は少し止まった。
「夜叉丸が、言わない方がいいと?」
「人と違う感覚があると、危険なことがあると。だから表に出さないようにと」
小春は澪を見た。
感情を飲み込んでいる理由が、分かった気がした。
夜叉丸が、そうさせていた。
夜、小春は朔に報告した。
「澪さんは、花の気配を感じる力があります。でも夜叉丸に、言わない方がいいと教わって、ずっと抑えていた」
「夜叉丸が抑えさせていた」
「はい。なぜでしょう」
朔は考えた。
「鵺の血と、花の力が近い性質を持つなら、夜叉丸は澪の力を知っている可能性がある。その力を、自分の目的のために使おうとしているか、または使われないように管理しているか」
「どちらかが分からない」
「まだ分からない。しかし、夜叉丸が澪に「受け止める者が必要だ」と言ったのは、澪の力が解放される可能性を知っているからかもしれない」
「解放とは」
「長年抑え込んだ感情の力が、一度に溢れること。感情の増幅が続いている今の宮廷で、それが起きる可能性がある」
小春が顔を曇らせた。
「澪さんが、苦しむということですか」
「可能性として」
「……それは、嫌です」
「嫌か」
「助けたいです。あの人も、感じているはずで。でもずっと、飲み込んできた。それは辛いことだから」
朔は小春を見た。
嫌だ、と言った。助けたい、と言った。それが自然に出てきた言葉だということが、朔には分かる。
「あなたが澪に関わることを、続けてくれるか」
「はい」
「危険があれば、すぐに知らせろ」
「将軍さんは、どうするんですか」
「夜叉丸と、もう一度話す。今度は、もう少し正直に話させる」
「正直に話させる方法がありますか」
朔は少し考えた。
「ある」
「どんな」
「私が変わったことを、見せる」
小春が少し首を傾けた。
「……将軍さんが、変わったことを?」
「夜叉丸は、感情を持った宮廷が感情の圧力に耐えられるかを試していると言った。試している対象には、私も含まれているかもしれない。鬼の血を引いて、感情を切り離した将軍が、それでも感じることができるようになったかどうかを」
小春は少しの間、朔を見た。
「……見せる、というのは」
「言葉にすることだ。まだ上手くできるか分からないが」
「何を言葉にするんですか」
朔は少し考えた。
「まだ言えない。練習が必要かもしれない」
「練習」
「言葉にすることは、訓練が必要だと思う。今の私には」
小春が少し笑った。
「将軍さんらしいです」
「何がか」
「言葉にするのを、訓練って言う」
「実際にそうではないか」
「そうですけど……じゃあ、練習相手になりますよ、私が」
朔は少し止まった。
「練習相手とは」
「言葉にする練習。何か感じたら、私に言う。上手く言えなくてもいいので」
「それが役に立つのか」
「上手く言えなくても、言おうとすることが大事だと思うので」
朔はその言葉を処理した。言おうとすることが、大事。言葉の精度ではなく、言おうとする行為そのものに意味がある。
「……分かった」
「じゃあ、一つだけ」
「今ここでか」
「今じゃなくてもいいです。でも今日中に、一つ、何か感じたことを言ってみてください」
朔は考えた。
今日感じたこと。
「……桔梗の話を聞いた時、見たいと思った」
「桔梗を?」
「まだ見ていないから。名前だけ知っていて、形を知らない。それが、引っかかっている」
小春はしばらく朔を見た。
「……明日、一緒に行きましょう」
「明日は」
「分かってます、会議があるんでしょう。会議の後でいいです」
朔は答えなかった。
しかし今夜は、黙って立ち去らなかった。
文月の二十日。
朔は夜叉丸を再び訪ねた。
今度は、違う聞き方をした。
「あなたが東境から来た本当の理由を聞かせろ」
「国境交渉の」
「それだけではないと知っている。それも今更否定しないだろう」
夜叉丸が朔を見た。
「……今日は少し違いますね、将軍」
「何が違う」
「前回は探りを入れていた。今回は、対話しようとしている」
「そうだ」
「なぜ対話しようとするのですか」
「話を聞かなければ、判断できないからだ。あなたの目的が、宮廷を壊すことなのか、それとも別のことなのかを」
「どちらだと思いますか」
「まだ分からない。しかし、あなたが澪に受け止める者が必要だと言ったことは、壊すための言葉ではない気がする」
夜叉丸が少し目を細めた。
「気がする、か。将軍が気がすると言うとは」
「最近、気がすることが増えた」
「それは、変化ですね」
「話せ」
夜叉丸はしばらく朔を見ていた。それから、少し姿勢を変えた。探りを入れるのをやめた姿勢だ。
「……帝国は、三十年前に東境を浄化した」
「知っている。東境の里に穢れが溜まり、祓いの儀式を行ったと記録にある」
「記録には、そう書いてある。しかし実際は」
夜叉丸が言葉を選んだ。
「穢れを祓ったのではなく、感情を持つ者を排除した。怨みを持つ者、悲しむ者、強く愛する者。そういった者たちが、穢れを発生させると判断されて、東境から追い払われた。あるいは、別の形で処理された」
朔は少し考えた。
「綾女の大祓と、同じことが三十年前に起きた」
「はい。あの儀式は、今回が初めてではない。三十年前、東境でやったことを、今回は帝都でやろうとしていた」
「……あなたが生まれた頃の話か」
「私が五歳の時です。父は東境の里の者で、鵺の血を引いていた。感情を増幅させる力があった。それが危険視されて、里を追われました」
朔は黙って聞いた。
「父は帝都には来なかった。山に入って、私を育てた。しかし、帝国への怨みは持っていた。その怨みを、私は増幅して感じてきた」
「感情の増幅が、自分自身にも働くのか」
「血縁者には、特に強く。父の怨みが、私には倍になって伝わっていた」
「それで、帝国を」
「憎んでいました。長い間。帝国が感情を消しにくると、怨みを持つ者を追い払うのだと、父から聞かされて育った。だから、帝国を壊そうとしていた時期もあった」
「今は違うのか」
夜叉丸がまた少し止まった。
「大祓の話を聞いた時、また来るかと思って、確認しに来た。帝国がまた感情を消しにくるなら、壊す覚悟で来た。しかし」
「しかし?」
「来てみたら、違った。宮廷に花が咲いていた。笑い声があった。感情を持った人間が、ちゃんと生きていた。それが、私には少し、驚きだった」
朔は夜叉丸を見た。
「それで、試すことにした」
「はい。本物かどうか。感情の圧力をかけた時に、宮廷が壊れるなら、それは表面だけの変化だった。耐えられるなら、本物の変化だった」
「結果は」
「今のところ、耐えている。綾女という巫女と、花巫女の娘の連携が機能している。私が想定していたより、よく機能している」
朔は少し考えた。
「あなたの試しは、いつ終わる」
「もうしばらく。ただ、将軍に一つ謝らなければならないことがある」
「何を」
「澪のことです」
夜叉丸が目を伏せた。
「あの娘は私の遠縁にあたります。両親を失って、私が引き取った。花の気配を感じる力があることは、分かっていた。しかし私は、その力を抑えさせた」
「なぜ」
「帝国が、そういう力を持つ者を排除すると思っていたからです。だから、言うな、出すなと教えた。あの娘がずっと感情を飲み込んできたのは、私のせいです」
「……帝国への怨みを、澪に向けてしまったということか」
「違う形で。危険から守るつもりで、結果として力を封じた」
朔は少しの間、夜叉丸を見た。
「父から怨みを増幅して受け取ったあなたが、今度は澪に不安を増幅して伝えた」
「……そうなるかもしれません」
「気づいているか」
「今は、気づいています。だから、あの娘に受け止める者が必要だと言った。私では、もう、あの娘を受け止められない。私が傍にいると、増幅してしまう」
朔は夜叉丸の言葉を、しばらく持っていた。
「……花巫女の娘が、澪に関わっている」
「知っています。それは、良いことだと思っています」
「あなたは澪に、何もしてやれないのか」
「今は、離れることが最善かもしれない。近くにいると、増幅する。でも離れると、あの娘が一人になる。だから、受け止める者が必要だと言った」
朔は考えた。
「あなた自身は、どうするのか」
「宮廷が本物だと確認できれば、東境に帰ります。帝国への怨みは、今は薄れている。薄れた、というか」
夜叉丸が少し首を振った。
「将軍に言っても分からないかもしれませんが、怨みが、流れていっている気がするんです。宮廷を見ていて、少しずつ」
「流れていく」
「穢れが大地に還るように、とは言えないかもしれないが。でも、花巫女の娘が言っていたことと、少し似ているかもしれない」
朔は夜叉丸を見た。
「あの娘の話を聞いたのか」
「遠くから。澪と話しているのを見ていました。盗み聞きではなく、庭に出ていたので自然に聞こえて」
「何を聞いた」
「消さなくていい、と言っていた。流れていけばいい、と」
朔は少しの間、その言葉を持っていた。
「……同じことを言っていたか、大祓の時に」
「はい。宮廷を壊すつもりで来た私に、その言葉が刺さりました。消さなくていい。怨みも、流れていけばいい。私の父の怨みも、私が引き継いだ怨みも」
夜叉丸の目に、何かがあった。感情の増幅を持つ者が、自分自身の感情を抱えている。その矛盾が、長年その男を形作っていた気がした。
「……話してくれた」
朔は言った。
「将軍が変わったから、話せました」
「私が変わったから、か」
「感じている将軍に、話しても無駄ではないと思って」
朔は少し考えた。
「一つ言う」
「はい」
「怨みを長年増幅して生きてきたあなたには、怨みが薄れることが怖いかもしれない。それが自分の根だったから」
「……将軍は、なぜそれを言うのですか」
「感じたから」
夜叉丸が目を細めた。
「……そうです。怨みがなくなると、自分が何なのか分からなくなる気がします」
「私も、感情がなければ自分が何なのか分からなかった。今も、まだよく分からない。しかし、感情がなかった頃より、今の方が少し、答えに近い気がしている」
「……それは、良いことですか」
「良いかどうかは、まだ分からない。しかし、前より悪いとは思っていない」
夜叉丸はしばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「……ありがとうございます、将軍」
朔は頷いた。
その夜、朔は篝に今日の対話を伝えた。
篝は最後まで聞いて、少し目を細めた。
「殿が、夜叉丸に、感情がなかった頃より今の方が良いと言ったのですか」
「言った」
「……自分のことを、そう言えるようになったのですね」
「言葉にすることは、訓練が必要だと言ったら、驚くか」
「はい、驚きます」
「小春が練習相手になると言った」
篝がしばらく無言でいた。
「殿」
「なんだ」
「一つだけ聞いていいですか」
「言え」
「小春殿のことを、どう思っておられますか」
朔は少し考えた。
「どう、とは」
「感情として、どう感じているのかを」
「……まだ言葉にならない」
「言葉にならないのに、練習相手になってもらっているのですか」
「言葉にするために、練習している。まだ途中だ」
篝が少し笑った。
「……じれったいですね」
「じれったいとは」
「なんでもありません。殿らしいです」
その言い方が何かを意味していることは分かったが、朔には詳細が分からなかった。
しかし今夜は、それを問わなかった。問わなくても、何かがある、ということは、分かった。
それで今夜は十分だ。
文月の末。
澪が、倒れた。
朝の庭で、突然だった。
小春と源蔵が庭にいた時、使者の棟の方向から澪が走ってきた。走ってきた、というより、よろめきながら歩いてきた、という方が正確だ。顔が青く、目が焦点を失っていた。
「澪さん!」
小春が駆け寄った。
澪は小春の手をつかんだ。
「聞こえる」
澪が言った。
「何が聞こえますか」
「全部。全部、聞こえる。うるさい」
源蔵が澪の体を支えた。
澪の両手が震えていた。顔が苦しそうだ。
「宮廷の人たちの感情が、聞こえているんですか」
「声じゃない。でも聞こえる。誰かが怒っている。誰かが悲しんでいる。誰かが怖い。全部が、来る」
花の感応力が、急に解放された。夜叉丸の力が続いていた増幅の影響で、宮廷中の感情が澪に流れ込んでいる。
「大丈夫です。私も最初、怖かったです」
「最初?」
「力があると気づいた最初の頃は、感じすぎて辛かったです。でも、今は大丈夫です」
「どうやって」
「受け取って、流す。消そうとしない。聞こえてきたものを、そのまま、通り過ぎさせる。川みたいに」
「通り過ぎさせる」
「怒りを聞いたら、聞いた、とだけ思う。自分の中に溜めない。自分のものにしない。ただ通り過ぎさせる」
澪はまだ震えていた。しかし少しずつ、呼吸が落ち着いてきた。
「……難しい」
「最初は難しいです。でも、できます」
「なぜ言い切れるのですか」
「あなたが花の気配を感じる力を持っているから。同じ根を持つ力だと思うので」
澪は小春を見た。震えながら、見た。
「……怖い、です」
「はい」
「感じることが、怖い。ずっと、押さえてきた。感じると、夜叉丸に言った通り、危険なことになると思っていた」
「危険なことには、なりません。ここでは」
「なぜ分かるのですか」
「花が咲いているからです」
澪が少し止まった。
「花が咲いていると、なぜ」
「感情を持つ者が安全でいられる場所には、花が咲きます。私の感覚では。この庭の花は、元気です。だからここは、感じていても、大丈夫な場所です」
澪は庭を見た。
夏の花が、朝の光の中に咲いている。桔梗が白く、石榴が赤く、朝顔が紫に。精霊の声が、穏やかに満ちている。
「……感じます」
澪が言った。
「何を」
「花が、怖くないと言っている気がします」
「そうです」
「……そんなことが、あるんですね」
澪の目から、何かが溢れた。泣いているのかどうか、澪自身も分からなそうだった。ただ、何かが溢れた。
小春は澪の手を持っていた。
源蔵は黙って、二人の傍にいた。
庭の精霊たちが、静かに集まっていた。
その後、澪は部屋に戻って休んだ。
小春が報告に来た時、朔は既に庭の様子を篝から聞いていた。
「大丈夫でしたか」
「はい。力が急に解放されて、驚いたようです。でも、少し話せて、落ち着いてきました」
「夜叉丸に伝えた方がいいか」
「……澪さんが、しばらく会いたくないと言っていました。夜叉丸のことを、整理したいと」
「整理とは」
「長年、感情を抑えるように言われてきたことを、どう受け取るかを」
朔は考えた。
「夜叉丸は、澪を守るためにそうしたと言っていた」
「はい。でも澪さんには、まだそれが分からない。分かるのに、時間が必要かもしれない」
「そうかもしれない」
小春は少しの間、庭の方を見ていた。
「将軍さん」
「なんだ」
「今日、澪さんに、受け取って流すと言いました。感じてきたものを、自分の中に溜めないで、通り過ぎさせると」
「うん」
「将軍さんは、感情を切り離してきた。私は感情を受け流す。やり方は違うけど、似ている気もします」
「どこが似ているのか」
「感情を、自分が全部背負おうとしないところ。切り離すと受け流すは違うけど、感情に飲み込まれないという結果は少し似ている」
朔はその言葉を持った。
「……しかし、切り離した感情は、どこにも行かない」
「そうですね」
「受け流した感情は、大地に還る。切り離した感情は、どこへ行くのか」
小春は少し考えた。
「……切り離した感情は、まだそこにある気がします。どこかに、ある。だから、戻れる」
「戻れる」
「はい。切り離していても、なくなったわけじゃない。だから、将軍さんは今、感じることができてきている。戻ってきているんだと思います」
朔はその言葉を、長い間持っていた。
切り離した感情は、なくなったわけじゃない。どこかにある。戻ってくることができる。
「……そうかもしれない」
朔は言った。
「そうですよ」
小春は確信したように言った。
朔には、その確信の根拠を問う気がしなかった。
ただ、そうかもしれないと思ったことが、今日の朔には少し温かかった。
その夜遅く、澪が庭に来た。
月のある夜だった。
一人で庭に立ち、桔梗を見ていた。
そこに朔が来た。
澪が振り返り、少し緊張した顔をした。
「将軍……夜中に、すみません」
「構わない。眠れなかったのか」
「はい。考えていました」
「何を」
「夜叉丸のことと、自分のことと」
朔は澪の隣に立った。桔梗を見た。
夜の中の桔梗は、昼とは違う白さだ。月光を受けて、静かに光っている。
「……桔梗を初めて見ましたか」
「はい」
「小春が、桔梗が咲いていると教えてくれた。昼間、見に来るつもりで来られなかった」
澪がまた少し驚いた顔をした。
「……将軍は、花の名前を覚えているんですか」
「九十二種類。残りを小春に教わっている」
「なぜ覚えるのですか」
「小春が、名前は関係の始まりだと言っていた。名前を知ることで、つながりができると」
澪は少し桔梗を見た。
「……夜叉丸は、花の名前を教えてくれませんでした」
「そうか」
「里の花のことは、自分で覚えました。誰にも言わずに。感じることを隠していたので、花の名前を知っていると言えなくて」
「今は、言えるか」
「……ここでは、言えるかもしれないです」
朔は澪を見た。
「花と話す力が、ある」
「ある、と思います。今日、初めてちゃんと感じました。怖かったですけど、花が怖くないと言っていた気がして」
「怖くない、と花が言った」
「はい。……変ですか」
「変ではない」
澪が少し朔を見た。
「将軍は、変ではないと言ってくれますね」
「事実の可能性を否定する根拠がないからだ。小春にも同じことを言った、最初に」
「そうですか」
「あなたの力は、今後、宮廷に必要になるかもしれない。小春と似た力を持つ者が、もう一人いることは、宮廷の霊的な状態を見守る上で利点がある」
澪が静かになった。
「……夜叉丸に、宮廷に残れと言われているわけではないですよね」
「そうではない。これは私の判断だ。しかし判断を急ぐ必要はない。今は休んでいい」
「はい」
澪は少しの間、桔梗を見ていた。
「将軍さん、一つ聞いてもいいですか」
「なんだ」
「夜叉丸は、悪い人ですか」
朔は少し考えた。
「悪い人かどうかは判断できない。しかし、あなたを守ろうとしていたことは、本当だと思う」
「でも、私の力を封じた」
「封じた理由は、恐れから来ていた。帝国への恐れが、あなたへの誤った判断になった」
「……恐れから来た誤りは、許せますか」
朔は少し考えた。
「小春に聞いた方がいい問いかもしれないが、私が言えることは」
「はい」
「恐れから来た誤りを、誤りとして認めることができるなら、それは変わることができる」
「夜叉丸が、認めるかどうか」
「今日の対話では、認めていた」
澪は長い間、桔梗を見ていた。
「……もう少し、考えます」
「そうしろ」
「ありがとうございました、将軍」
澪は頭を下げて、使者の棟の方向へ戻っていった。
朔は桔梗の前に残った。
月光の中の桔梗。白い、五枚の花弁。星形に開いている。
きれいだと思った。
今夜は感じた。
感じている、と言えた。自分に向かって。まだ小声だが、言えた。
九十二番目の花の名前を、今夜ようやく、形と共に覚えた。
桔梗。
朔はその名前を、静かに繰り返した。
葉月の初め。
夜叉丸が、宮廷を去る前日のことだった。
最後の国境交渉が終わり、一行は翌朝に発つ予定だった。
夜叉丸は綾女に会いたいと申し出た。朔が同席した。
三人が向かい合った。
夜叉丸が最初に口を開いた。
「綾女殿、あなたの祓いの力を、私は長年怖れていました」
「怖れていた」
「帝国が感情を持つ者を追い払う時、その前に祓いが来る。私の父もそうだった。だから、この宮廷に祓いの巫女がいると知って、最も警戒していた相手があなただった」
綾女は静かに聞いていた。
「来てみたら、違った」
「何が違ったのですか」
「あなたの祓いが、変わっていた。感情を選別していない。穢れを、穢れとして対処している。感情は感情として、別に扱っている」
「……半年前からの変化です」
「知っています。大祓の時に何があったかも、およそ想像できます」
綾女は朔を見た。朔は何も言わなかった。
「あなたは、怨みを持って来たのですか」
綾女が問うた。
「はい。壊す覚悟も、あった」
「今は」
「今はない。少なくとも、今の宮廷を壊したいとは思っていない」
「なぜ」
「花が咲いているから」
綾女が少し止まった。
「花巫女の娘と同じことを言いますね」
「あの娘に、教わったかもしれません。直接ではなく、聞いていただけですが」
「消さなくていい、という言葉ですか」
「はい。怨みを消そうとしてきた。なくそうとしてきた。しかし消えなかった。なぜなら、根があったから」
「根とは」
「父を失ったことへの悲しみです。それが怨みになっていた。怨みをなくそうとしても、悲しみがある限り、怨みは消えない。しかし、悲しみを流せば、怨みも薄れる」
「悲しみを流すとは」
「悲しんでいいと認めること、だと今は思っています。怨みを増幅させる力を持ちながら、自分の悲しみは飲み込んでいた。それが矛盾でした」
綾女はしばらく黙っていた。
「……私にも、似たことがあります」
夜叉丸が少し驚いた顔をした。
「穢れを排除しようとしてきた。しかし、穢れを恐れていたのは、自分の中にも感情があって、穢れを生む可能性があることを、恐れていたから」
「自分を排除しようとしていたのですか」
「そうなるかもしれません。まだ、整理できていない部分もある」
「……整理できなくても、いいのではないですか」
綾女が夜叉丸を見た。
「整理できないことを、抱えていていい。それも流れていくなら」
「流れていくかどうかは、分からないです」
「花巫女の娘は、流れると言っていました。信じてみることもできます」
綾女は少し考えた。
「……信じてみる、というのは、力技が要りますね」
「そうですね」夜叉丸が少し笑った。「私もまだ、練習中です」
朔はその二人の会話を、静かに聞いていた。
感情を抱えた人間が、感情について話している。その場に、感情を取り戻しつつある鬼の将軍が、ただいる。
それが、今の朔には、少し不思議な光景だった。
しかし不思議なだけで、不快ではなかった。
むしろ、何かが温かい気がした。
その夜、小春に話した。
「夜叉丸が明日、帝都を発つ」
「そうですか。澪さんは」
「澪も帰る」
小春が少し黙った。
「……残念ですね」
「残念か」
「また会えると思いますけど、でも少しだけ寂しい」
朔は少し考えた。
「寂しいとは、どういう感覚だ」
「何かが足りなくなる予感がすることかな。今はまだいるけど、いなくなることが見えていて、そのいなくなった後の感じが、先に来る感じです」
「いなくなった後の感じが、先に来る」
「うまく言えないですけど」
「いや、少し分かる気がする」
小春が朔を見た。
「分かりますか、将軍さんに」
「明日、一行が発った後、庭が少し違う感じになるかもしれないと、今、思った。それが寂しいということかどうかは分からないが、似ているかもしれない」
「それ、寂しいです」
「そうか」
「寂しいって、悪いことじゃないと思います。大事なものがあったという証拠だから」
朔はその言葉を持った。
大事なものがあったという証拠。
「……花巫女と澪が、短い間に何かを通わせたということか」
「はい。私も、澪さんから教わりました」
「何を」
「感情を長く飲み込んできた人が、花に「怖くない」と感じる時の顔が、どんな顔かを」
「どんな顔だった」
「……驚いていて、泣きそうで、でも少し安堵している。そういう全部が一緒に来る顔」
朔は少し考えた。
「それは、美しい顔か」
小春が少し止まった。
「将軍さんが、美しいと言うんですか」
「言葉として使ったことはあるが、意味が分かったのは最近かもしれない。何かを見た時に感じる、温かい引きずられ方のことが、美しい、なのかと思って」
「温かい引きずられ方」
「あの顔を想像した時に、何かが引っかかる感覚がある。それが美しいと思う感覚に近いのかと、試しに言ってみた」
小春はしばらく朔を見た。
それから静かに笑った。
「正解だと思います」
「そうか」
「美しいって、そういう感覚です。将軍さんが言った通りです」
「覚えた」
「……覚えた、って」
「美しいの意味を、覚えた」
小春がまた笑った。今度は少し声が出た。
「将軍さんは、本当に、将軍さんらしいですね」
「それは」朔は少し止まった。「良いことか、悪いことか」
「良いことです」
小春は迷いなく言った。
朔は少しの間、その言い方を持っていた。
良いことです、という言い方が、何かを置いていった。良い、という言葉が、朔の中の何かに触れた。
「……一つ、言う」
「はい」
「練習中だから、上手くないかもしれない」
「分かってます」
「小春と話していると、何かが温かくなる感じがする。その感じが、何なのかはまだ言えないが、悪い感じではない」
小春は何も言わなかった。
少しの間、朔を見ていた。
それから、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
それだけ言った。
二人の間に、しばらく沈黙があった。
夏の夜の庭から、精霊の声がした。嬉しそうな声だった。
翌朝。
夜叉丸の一行が、宮廷の門を出た。
朔は門の前に立って、見送った。
夜叉丸が最後に振り返った。
「将軍、世話になりました」
「また来ることがあれば、正直に目的を言え」
「次に来る時は、もう少し正直な目的で来ます」
「澪を頼む」
「はい。あの娘の力が、ここで認められたことを、ちゃんと伝えます」
澪が朔に頭を下げた。
「将軍、ありがとうございました」
「また来い。花の名前を教える者が、もう一人増えてもいい」
澪が少し驚いた顔をした。それから、初めて見る顔をした。
泣きそうで、笑っているような顔。
「……はい」
一行が門の外に消えた。
篝が朔の隣に来た。
「見送りに来られたのですか」
「来たかったから来た」
「……そうですか」
篝が少し笑った顔をした。
「殿は変わりましたね」
「そうか」
「来たかったから来た、と言える将軍は、以前はいなかった」
「以前は、来たいという感覚がなかったからだ」
「今は、ある」
「今は、ある」
篝はまた少し笑って、
「そうですか」
と言った。
朔には篝が何を嬉しがっているのかの理由が、今はだいたい分かる。
以前は分からなかったことが、少しずつ分かるようになっている。
それが良いことかどうかは、まだ全部は言えない。
しかし前より悪いとは思っていない、と夜叉丸に言った言葉は、今も本当だ。
葉月の半ば。
宮廷は夏の盛りを過ぎていた。
夜叉丸の試しが終わって、増幅の影響もなくなり、宮廷の感情は通常の状態に戻っていた。通常の状態、とは言っても、半年前と比べれば大きく違う。笑い声があり、口論もあり、涙もある。感情が生きている宮廷だ。
綾女は相変わらず穢れを祓い続けている。しかし以前と違い、穢れを祓いながら、その穢れが何から来たのかを考えるようになった。誰かの悲しみか、誰かの怒りか。穢れを祓う時に、少し、その感情を受け取るようになった。
伊吹は、訓練の仕方を変えた。感情を切り捨てることをやめ、感情がある状態で判断する訓練を始めた。難しかった。しかし面白いとも感じていた。面白いという感覚が訓練に混じることが、以前はなかった。
千代は別の棟で働いていた。小春とはほとんど会わない。しかしある日、廊下ですれ違った時、小春が「こんにちは」と言い、千代が「こんにちは」と言い返した。それだけだった。それだけで、何かが少し軽くなった気がした、と千代は一人で思っていた。
源蔵は庭を育てていた。夏の庭は手入れが忙しい。しかし今年の庭は、花が特によく咲いていると、老いた庭師は思っていた。
葉月のある朝、小春が朔に言った。
「花の名前、続きをやりましょう」
「そうだった」
「九十三番目です」
「何の花か」
「一緒に見に行きます。庭に咲いてるので」
二人は庭に出た。
夏の庭を歩く。精霊の声が豊かだ。夏は精霊が活発だと、小春が言っていた。
小春が立ち止まった場所に、橙色の花があった。
「撫子です」
「撫子」
「はい。名前の由来は、撫でるように可愛らしい、という意味と、子供を撫でるような柔らかさという説があります」
「撫でる、か」
「はい。将軍さんは、撫でるという行為を、どう思いますか」
朔は少し考えた。
「したことがない」
「ないですか」
「人を撫でる習慣がなかった。戦場では不要な行為だ」
「そうですね。……でも、今は」
「今は、どうなのかは、まだ分からない」
小春が少し笑った。
「撫子の精霊は、穏やかです。怒ることがない花で、ただ咲いている」
「ただ咲いている、とはどういうことか」
「目的を持って咲いていない。見てほしいから咲くわけでも、誰かのために咲くわけでもなく、ただ咲くことが、この花の在り方です」
「目的のない在り方が、あるのか」
「ある、と花に教わりました。人は何かのために生きると言うけど、花はただ生きている。それが羨ましいというか、そういう在り方もあるんだと、花を見ていると感じます」
朔は撫子を見た。
橙色の五枚の花弁。中心が少し濃い色だ。風に揺れている。
「……美しい」
朔は言った。
以前は言えなかった言葉だ。意味が分からなかったから。しかし今は、少し分かる。温かい引きずられ方をする時に、使う言葉だ。
「はい、美しいです」
小春が言った。朔が美しいと言ったことに、驚いた顔をしなかった。
「驚かないのか」
「以前は驚いたかもしれないですけど、今は将軍さんがそう言うことが、自然に感じるので」
「自然に感じるということは、変化したということか」
「はい。将軍さんが変わった、ということを、私が受け取った、ということだと思います」
朔はその言葉を持った。
小春が受け取った。朔の変化を、小春が感じている。それが自然になっている。
「……小春は、変わったか」
「私も変わりましたよ」
「何が変わった」
「宮廷に来た時は、誰も拒まないことが優しさだと思っていました。何があっても受け入れる。それが自分だと思っていた」
「今は違うのか」
「今は……誰も拒まないことと、ちゃんと自分を持つことは、両立すると思っています。受け入れることと、流されることは違う。そこが変わりました」
「何がそれを変えたのか」
小春は少し考えた。
「将軍さんかもしれないです」
「私が」
「将軍さんは、私の言うことを全部受け入れるわけじゃないです。おかしいと思ったら、おかしいと言う。でも、頭から否定しない。それが、ちゃんと受け取ってもらっている感じがして、だから私も、ちゃんと自分を持っていいんだと思えてきました」
朔はその言葉を受け取った。処理という言い方が今は違う気がした。
受け取った。ただ、受け取った。
「……変えたつもりはなかった」
「そうですよね。でも、変わりました、私が」
「私も、変えられた」
「誰に」
「小春に」
小春が止まった。
朔はその言葉を言った後、少し考えた。言葉にすることの練習の結果が、今の言葉だった気がした。
「……言葉にするのが、前より少し、できるようになってきた」
「はい」
「まだ上手くはない」
「上手くなくていいです」
「上手くなくても」
「言おうとすることが大事、と前に言いました。今日の言葉は、ちゃんと言えていました」
朔は撫子を見た。
橙色の花が、風に揺れている。ただ咲いている。目的もなく、ただそこにある。
今の朔には、その在り方が少し分かる気がした。
感情の意味を探し続けることをやめて、ただある、という時間が、今、少しある。
それが何かは、まだ言えない。
しかしある。
「九十三番目、覚えた」
「撫子ですね」
「撫子。由来は、撫でるような柔らかさ」
「正解です」
「残り七種類だ」
「はい。あと七つで、百種類です」
「早く覚えたいわけではないが」
「でも、気になりますよね」
「……気になる」
小春がまた笑った。
「じゃあ、続きは明日にしますか。今日は撫子だけで」
「今日は撫子だけでいい」
「はい」
二人は撫子の前に立っていた。
精霊の声が、夏の空気の中に満ちていた。
朔には聞こえない。しかし何かが、そこにある気がした。
あの精霊が何を言っているのかを、今は小春に聞こうと思わなかった。
ただ、ある、ということで、今日は十分だった。
そういう在り方が、少し分かってきた。
その夜、源蔵が一人で庭を見ていた。
夏の夜の庭だ。虫の声がする。
撫子が月光に橙色の影を作っている。
老いた庭師は、しばらくそれを見ていた。
長く庭師をやってきて、分かることがある。
花は、急いで咲かない。
土が整えば、水があれば、光があれば、自分の時間で咲く。急かしても、咲くものではない。
人も、似たところがある、と最近思うようになった。
変わる時間が、人によって違う。急かすと、曲がって育つ。ただ、そこにいて、水を与えて、光が当たるように邪魔なものをどける。それが庭師の仕事だ。
将軍が変わった。半年でここまで来るとは、思っていなかった。
花巫女の娘も変わった。受け入れるだけではなく、ちゃんと自分を持つようになってきた。
まだ、百種類の花の名前の途中だ。
それで良いのだ、と源蔵は思った。
途中であることが、まだ続きがある、ということだから。
葉月の終わり。
小春は部屋の窓を開けて、夜の庭を見ていた。
精霊の声が、穏やかだ。夏の終わりの気配がある。次に来るのは、秋だ。
「次は秋の花を教えます」
窓の外に向かって言った。
誰かに言っているような、独り言のような、境界が分からない言い方だった。小春にはいつもそうだ。
翌朝、廊下で朔と会った。
「次は秋の花ですよ」
「秋の花か」
「はい。将軍さんの知らない花が、まだあります」
「九十四番目は何か」
「秋になったら教えます。今はまだ夏です」
「夏が終わるのが早いのか遅いのか、感覚が分からない」
「早い年も遅い年もあります。でも必ず終わって、必ず秋が来ます」
「それは確かか」
「花が知っています。精霊に聞いてみましょうか」
「……聞いてくれ」
小春が少し嬉しそうな顔をした。
「将軍さんが精霊に聞いてと言うのは、初めてですね」
「そうか」
「以前は、精霊の話は聞いていませんでした」
「今は、聞く気になっている。それが変化だ」
「はい」
小春は少しの間、朔を見た。
それから廊下の端の花の方を向いた。精霊に、何かを聞いた。
「秋は、今年も来ると言っています」
「そうか」
「必ず来ると」
「分かった」
朔は歩き始めた。
小春が後ろからついてきた。並んで歩いた。
廊下の外から、夏の光が入っていた。
まだ夏だ。秋の花はまだ先だ。
しかし秋が来るのは確かだ。
その確かさが、今の朔には少し温かく感じた。


