卯月の初め。
大祓の日が来た。
夜明け前から、宮廷が動いていた。
篝火が各所に焚かれ、白装束の巫女たちが儀式の場へと向かう。宮廷の中央、最も広い庭を儀式の場として、綾女の指揮のもと、祓いの準備が粛々と進められていた。
朔は宮廷の高台から、その様子を見下ろしていた。
夜明けの空は暗く、星がまだ残っていた。冷えた空気の中に、香の煙が漂い始めた。儀式の始まりを告げる太鼓の音が、遠くから聞こえた。
篝が隣に立った。
「始まります」
「ああ」
「殿、本当にいいのですか」
朔は篝を見なかった。視線を、儀式の場に向けたままだ。
「何が」
「止める、とおっしゃっていた」
「止めるとは言っていない。何かするかもしれないと言った」
「その何かが、何なのか、教えてください。私も動く必要があれば動きます」
朔は少しの間、黙っていた。
「まだ決まっていない」
「……将軍」
篝が珍しく、敬称を省いた。
「私はずっと、殿のそばで仕えてきました。感情を切り離した将軍が、何を守っているのかを、ずっと考えてきました。答えは出なかった。しかし今日、少し見えてきた気がします」
「何が見えた」
「守るべきものが、あるのでしょう」
朔は答えなかった。
篝は続けた。
「感情を切り離したまま守れるものがあります。城も、国も、民の命も。しかしそれだけでは守れないものが、あると分かったのでしょう」
「……」
「私は、殿の判断に従います。どのような判断でも。ただ、一つだけ言わせてください」
「言え」
「後悔するな、と言いたいところですが」篝は少し息を吐いた。
「殿には後悔という感情もないかもしれない。だから、代わりに言います。正しいと思うことを、やってください。殿が今、正しいと感じているものを」
朔は篝を、初めてその朝に見た。
篝の目に、何かがあった。それが何なのかを、朔は今ならば少し分かる。
信頼、という色だ。
「……ああ」
朔は言った。
太鼓の音が大きくなった。儀式が始まろうとしていた。
儀式の場に、綾女が立っていた。
白と金の装束をまとい、髪を高く結い上げた綾女は、その場の中心として、揺るぎない美しさで立っていた。周囲に巫女たちが並び、それぞれが霊的な力を集中させている。
大祓の儀式は、帝国の霊脈を通じて力を送る。帝国中の霊的な汚れを一度に祓う、最大級の行為だ。
綾女は目を閉じた。
力が、動き始めた。
朔はそれを高台から感じた。鬼の血が反応する。巨大な霊的な力の流れが、宮廷の中心から広がり始めている。穢れに敏感な感覚が、その力の性質を告げる。
祓いの力だ。
強大で、精緻で、完璧な祓いの力。
しかし。
朔はその力の中に、何かを感じた。感じた、という言い方が今の朔には以前よりも自然だ。
力が、感情を区別していない。
負の感情から生まれた穢れと、それ以外の感情とを、この力は区別していない。全てを同列に処理しようとしている。
穢れだけを祓うのではない。感情そのものを、薄めようとしている。
小春の部屋で、小春が目を覚ました。
体が、重かった。
重い、というのは正確ではないかもしれない。自分の中の何かが、引っ張られる感覚があった。精霊の声を聞く感覚が、急速に薄れていく。
「……始まった」
小春は床から起き上がった。
窓の外に、儀式の煙が見えた。宮廷の中央から、白い煙が立ち上っている。それが霊的な力を視覚化したものだと、小春には分かった。
庭に行かなければ、と思った。
しかし体が重い。動くたびに、内側が引っ張られる感覚がある。花の精霊と繋がっている感覚が、糸を引き抜かれるように、細くなっていく。
「……花が」
小春は廊下に出た。
廊下を歩く。東の棟から庭へ向かう廊下だ。いつも歩いている道。しかし今朝は、その廊下が遠い気がした。
廊下の端に、鉢植えがある。いつも声をかける花だ。
声をかけた。
返事がなかった。
精霊が、いない。
まだ花は咲いている。枯れてはいない。しかし精霊の気配が、消えている。大祓の力が、宮廷の精霊たちを先に呑み込んでいる。
「……嫌だ」
小春は言った。
独り言だったかもしれない。しかし言葉が出た。嫌だ、という言葉が。
走った。
儀式の場の外れで、朔が動いた。
高台から降り、儀式の場の方へ歩く。止める者はいない。鬼神将軍が動いた、という視線が向くが、誰も声をかけない。
篝が後ろに続いた。
朔は儀式の場の前に立った。
綾女の力が、最高潮に向かっていた。宮廷中に白い霞のようなものが広がり始めている。霊的な力の可視化だ。その霞に触れた花が、音もなく花弁を閉じていくのを、朔は見た。
花弁が閉じる。精霊が退く。
世界から、声が消えていく。
朔の中で、何かが決まった。
論理ではなかった。感情でもまだ言えないかもしれない。しかし、何かが、今、決まった。
合理を捨てる、と思った。
それは損失計算の結果ではない。守るという行為の意味を、まだ完全には理解していないかもしれない。しかしそれでも、動かなければならない、という何かが、朔の中心から来ていた。
「綾女殿」
朔は言った。
綾女が目を開けた。
儀式の力が、頂点に達する直前だった。その瞬間に声をかけられた綾女は、しかし表情を乱さなかった。白い霞が宮廷に広がる中、綾女は朔を見た。
「将軍。儀式の妨げになります」
「妨げるつもりではない。聞いてほしいことがある」
「儀式の最中です」
「では儀式を止めてから聞くか、このまま聞くか、選べ」
綾女の目が、少し動いた。判断をしている目だ。
「……短く言ってください」
「この力は、穢れだけを祓っていない」
綾女が止まった。
「感情の波が大きいことを穢れとして処理している。それは、感情そのものを祓うことになる。それが目的か」
「感情から穢れは生まれます。源を断てば、穢れは生まれない」
「感情の源を断つとは、人から感情を奪うことだ」
「感情を持つことが、なぜ守られなければならないのですか」
綾女の声は穏やかだった。論争を求めているのではなく、問いを投げている。
「感情は争いを生みます。嫉妬、怨念、恐怖。それらが穢れとなり、人を苦しめ、社会を乱す。感情がなければ、穢れも生まれない。完全に清浄な世界が実現できる」
「清浄な世界に、何が残るか」
「秩序が残ります。平和が残ります」
「花が咲くか」
綾女が少し止まった。
「花は」
「感情が消えれば、花の精霊も消える。精霊が消えれば、花は咲いてもただの植物になる。声のない、感じない、世界とつながっていない植物」
「それは比喩に過ぎません」
「比喩ではない。既に起きている。この儀式が始まってから、宮廷の花が弱っている。精霊の声が消えつつある。それはあなたの目には見えないかもしれないが、見える者がいる」
「花巫女の娘のことですか」
「そうだ」
綾女は少し息を吐いた。
「将軍、あなたは感情を持っていない。鬼の血で切り離している。ならばなぜ、感情を守ることに意味を見出すのですか」
朔は答えを探した。
論理的な答えがない。しかしある。
「私には感情がない。その代わりに、感情がある者が世界に何をもたらすかを、最近、観察してきた」
「何をもたらすのですか」
「花が咲く。声が聞こえる。世界が、つながっている」
綾女は動かなかった。
「世界がつながっていることが、なぜ重要なのですか」
「分からない」
朔は正直に言った。
「まだ、完全には分からない。しかしつながっていない世界が何を失うかは、少し分かる。あなたの祓いが完成した後の宮廷を、私は想像できる。静かで、整然としていて、穢れがない。そして、花が咲かない。声がない。空洞だ」
「空洞でも、平和です」
「平和のために、何かを守りたいのではないか。守るべき何かがない平和は、何を守っているのか」
綾女は長い間、朔を見ていた。
その目が、少し揺れた。ほんの一瞬だ。それを、朔は見た。今の朔には見える。
綾女の中にも何かがある。揺れるものがある。
「……儀式を止めることはできません」
綾女は言った。
「帝の承認を得た事業です。私の一存では止められない。将軍がどう言おうと、これは変わらない」
「分かった」
朔は一歩、前に出た。
「では私が止める」
周囲が静まった。
儀式に参加していた巫女たちが、朔を見た。将軍が儀式を止める、と言った。それが何を意味するか、全員が理解した。
帝の命に逆らう行為だ。
「将軍、正気ですか」
綾女の声が、初めて感情の色を帯びた。怒りではなく、驚きに近い色だ。
「正気の定義が分からないが、決めた」
「根拠は」
「感情だ」
朔は言った。
感情。その言葉を自分のこととして使ったのは、初めてだった。あるかどうかも分からない。しかし今、この瞬間に、その言葉以外の言い方がなかった。
「感情で動くのですか、将軍が」
「そうかもしれない」
綾女が止まった。
何かが変わった、という気配が、儀式の場に広がった。
その時、庭の方から声が聞こえた。
小春の声だった。
庭へ続く廊下を走ってくる音がして、小春が儀式の場の手前に出てきた。息を切らしていた。顔が青い。
しかし立っていた。
小春は儀式の場を見た。白い霞が広がる中心に綾女が立ち、その前に朔がいる。
「将軍さん」
小春が言った。
「来るな、今は」
「でも」
「危ない」
「分かってます。でも」
小春は朔を見た。朔と目が合った。
その一瞬に、何かが通った。言葉ではない何かが。
小春は前に出た。
「止めるなと言った」
「止まれません」
小春は綾女の前に立った。霞が小春に触れた。内側が引っ張られる感覚が、また来た。しかし今度は逃げなかった。
「綾女様」
小春は綾女を見た。
「消さなくても、いいんですよ」
綾女が止まった。
「何を言っているのですか」
「穢れは、消さなくていい。流れていけばいい。感情も、消さなくていい。ちゃんと受け止めて、流れていけば、大地に還っていく。消えるんじゃなくて、還る。だから、消さなくていい」
「消さなければ、再び穢れになります」
「還ったものはまた生まれてきます。でもそれは繰り返しであって、終わりじゃない。終わらせることと、繰り返すことは、違います」
「繰り返しに意味がありますか」
「花が毎年咲くのは、繰り返しです。それに意味がありますか、と聞かれたら」
小春は一拍置いた。
「あります、と言います」
綾女は動かなかった。
白い霞が、少し薄れた気がした。綾女の力が、一瞬、揺れた。
その揺れを、朔は感じた。
鬼の血が、霊的な力の変化を感知した。綾女の力が頂点に達する直前で、揺れている。
この瞬間だ、と思った。
朔は動いた。
儀式の場の中心に向かって、一歩踏み出した。霞の中に入る。鬼の血が反応して、身体が重くなる感覚がある。祓いの力が、朔の中の鬼の血に反応している。
しかし、止まらなかった。
朔は自分の中を見た。感情を切り離した場所。長年、空白のままにしておいた場所。
そこに、何かがあった。
薄い。かすかだ。感情と呼べるかどうかも分からない。しかし確かに、そこにある。
守りたい、という何か。
消えてほしくない、という何か。
そのままでいてほしい、という何か。
名前のない何かが、朔の中の空白を、少しだけ満たしていた。
それを、感情と呼んでいいのかどうか。
今は分からなくていい。
ある。それだけで、十分だ。
朔は儀式の中心に立った。
大祓の儀式は、止まった。
正確に言えば、止まったのではなく、朔が中心に立ったことで、力の流れが変わった。
鬼の血を持つ者が大祓の中心に立つことで、力が行き場を失った。穢れを感知する血と、穢れを祓う力が、同じ点に集中したことで、互いが干渉し合った。物理的な衝突ではない。霊的な干渉だ。
白い霞が、ゆっくりと散り始めた。
綾女が目を閉じた。力を収めようとしているのか、それとも状況を理解しようとしているのか、その表情からは読めなかった。
巫女たちが後退した。
宮廷が静かになった。
その静けさの中で、小春が前に出た。
小春は儀式の場の中心に立った。
霞が触れる。内側を引っ張る感覚がある。精霊の声が、遠くなりかけている。
しかし、まだある。
まだ、聞こえる。
小春は目を閉じた。
感じようとした。宮廷の全ての声を。花の精霊の声を。人々の感情の気配を。弱くなりかけている全てのものを。
受け取ろうとした。消そうとするのではなく。排除しようとするのではなく。ただ、受け取る。
それが小春の力の根だ。
消さない。流す。受け流す。大地に還す。
人の感情も、穢れも、喜びも、悲しみも、怒りも、恐れも。全部を受け取って、流す。川のように。大地に染み込ませるように。
力が動き始めた。
いつもとは違う大きさの力だ。今まで使ったことのない規模。宮廷全体の、積み重なった感情の重さが、小春の中に流れ込んでくる。
重かった。
痛かった。
人の感情は軽くない。笑いも涙も怒りも怨みも、全部が重い。それを一人で受け取ろうとしていた。
「消さなくても、いいんだよ」
小春は言った。声に出したのか、心の中で言ったのか、自分でも分からなかった。
宮廷の全てに向かって言った。
大地に向かって言った。
流れていいよ。還っていいよ。消えなくていい。
感情は、生きることから生まれる。生きることは、自然の一部だ。自然の一部は、自然に還る。還ったものは、また生まれる。それが繰り返しで、繰り返しが命だ。
力が、流れた。
朔は、その力を感じた。
小春から発せられた力は、綾女の祓いとは全く違う性質を持っていた。綾女の力は鋭く、精緻で、指向性がある。穢れを特定して切り取る、外科的な力だ。
小春の力は、違った。
広く、柔らかく、どこへでも流れる。川の水が地形に従うように、存在するものの形に沿って流れる。抵抗しない。押しのけない。ただ、流れる。
その力が、白い霞の中に入っていった。
白い霞が、変わった。
消えるのではなく、薄まった。輪郭を失って、広がって、宮廷の空気に溶け込んでいった。綾女の力が凝縮していたものが、小春の力によって希釈されていく。
穢れが消えたのではない。流れていったのだ。
朔には、その違いが分かった。
今の朔には、その違いが分かる。
消えることと流れることは、違う。消えた先には何もない。流れた先には、何かに還っていくものがある。
どちらが正しいかは、まだ言えない。しかし、どちらを選ぶかは、今の朔には分かった。
庭の山茶花が、動いた。
風が吹いたわけではない。しかし花弁が、ふるりと震えた。
その震えが、隣の蝋梅に伝わった。蝋梅の枝が揺れた。石畳の隙間の雑草が、空気を吸うように広がった。庭の端の名のない小花が、蕾を少し開いた。
精霊の声が、戻り始めた。
かすかだ。薄い。しかし確かにある。
源蔵は庭の端から、その様子を見ていた。老いた庭師は、声を出さずに、ただ見ていた。目に何かがあった。
三十年、庭を見てきた目が、今見ているものを確認していた。
庭が、息を吹き返している。
花が、戻ってきている。
宮廷の廊下を歩いていた人々が、立ち止まった。
何かが変わった、という感覚があった。感覚、という言葉が適切かどうかも分からないが、何かが緩んだ気がした。張り詰めていた何かが、少し解けた気がした。
女官の一人が、隣の女官の顔を見た。何日も感情のない目で仕事をしていた女官の目に、今日は少し違うものがあった。
別の廊下では、食堂で黙って飯を食べていた男たちが、一人が何かを言い、もう一人が笑った。久しぶりに聞く笑い声だった。
帝都の街でも、似たようなことが起きた。
市場の売り手が、少し声を張り上げた。子供が一人、路地を走った。酒場の中で、誰かが何かを言って、小さな笑い声が起きた。
大きな変化ではない。劇的な変化でもない。
ただ、少し、声が戻った。
儀式の場で、小春が膝をついた。
力を使いすぎた。足に力が入らない。
朔が小春の傍に来た。
「大丈夫か」
「……大丈夫じゃないかもしれないです」
「どこが」
「全部、少し」
朔はしゃがんで、小春と目線を合わせた。
小春の顔は青白かった。目が疲れている。しかし何かが、目の奥にあった。疲れていても、消えていない何かが。
「終わったか」
「はい。……うまくいきましたか」
「力は散った。霞は消えた」
「精霊は」
「庭の花が動いた。精霊が戻り始めている」
小春の目が、少し緩んだ。
「よかった」
その二文字が、小春の今の全てを示していた。自分が疲弊していても、膝をついていても、最初に出た言葉が「よかった」だった。
朔はそれを見た。
それを見て、朔の中の何かが動いた。
いつもと違う動き方をした。
鬼の血が反応したのではない。論理が動いたのでもない。
朔の中で、長年閉じていた場所が、少し動いた気がした。
儀式の場が静まった後、綾女が朔の前に立った。
周囲に巫女たちがいる。篝も後ろにいる。宮廷の役人たちが、遠巻きに見ている。
「将軍」
「綾女殿」
「あなたは帝の承認を得た儀式を妨げました。理由を述べてください」
「述べる」
朔は真っすぐに綾女を見た。
「感情を消すことに、反対だからだ」
「将軍自身が、感情を持っていないのに」
「だから言える」
綾女が少し止まった。
「持っていないから言える、とはどういう意味ですか」
「感情がなければ、何を失うかは分からない。私は長年、失ったものに気づかなかった。しかしここ数ヶ月で、気づき始めた。感情がなければ分からないことがある。分からないことがあると知らなかった」
「それは、個人の問題です。帝国全体の秩序には──」
「秩序のために守るべきものが、秩序の外にある。それが分からなければ、守るべきものを誤る」
綾女は黙った。
「私は戦場で多くの判断をしてきた。感情なく、合理的に。それが正しい判断だと思っていた。しかし何のために戦ったのかを、誰かに聞かれても、今まで答えられなかった」
「将軍に答えられない問いが?」
「感情が動機を持つ問いには、感情なしには答えられない。篝に言われて、最初は分からなかった。だが、最近少し、分かってきた」
綾女が朔を見た。その目に、以前とは違う色があった。
「花の娘が、変えたのですか」
「変えたのかどうか、まだ判断できない。ただ、気づかせた」
「何を」
「感じることは、弱さではない、ということを」
綾女が動かなかった。
その沈黙の中で、朔は続けた。
「あなたは感情から穢れが生まれると言った。正しい。しかし感情から、花も咲く。声も生まれる。世界がつながる。穢れだけを取り出して消すことはできない。感情を消せば、穢れも消えるが、花も消える」
「完璧な清浄のためには、やむを得ない代償です」
「代償の意味を、あなたは理解しているか」
「理解しています」
「では花が咲かない宮廷で、あなたは何を守るつもりなのか」
綾女は答えなかった。
長い沈黙があった。
その沈黙の中で、朔は綾女の目を見た。
揺れている。
綾女の中にも、何かがある。感情がある。それが揺れている。綾女の論理は完璧だが、論理の外側に、揺れているものがある。
「綾女殿」
「……なんですか」
「あなたが怖いものは何か」
綾女が止まった。
「怖い」
「穢れを徹底的に排除しようとするのは、穢れが怖いからではないか。穢れに触れることが、怖いのではないか」
「…………」
「感情は、穢れを生む。しかしその感情を持っているのは、あなた自身も同じだ。あなたの中にも、感情がある。穢れを生む可能性がある。それが怖い」
綾女の表情が、少し崩れた。
「将軍に、人の心を読む権限はない」
「権限ではない。感じたから言っている」
「……感じた、と」
「私が感じるとは思っていなかったか。私も、以前はそう思っていた」
綾女は長い間、朔を見た。
その目の中で、何かが戦っていた。論理と、何か別のものが。
「……今日のところは、儀式を収めます」
綾女は言った。
「しかし、将軍のしたことは報告します。帝の御前で判断を仰ぎます」
「構わない」
「覚悟があると」
「ある」
綾女は最後に一度だけ、小春を見た。小春はまだ膝をついたまま、篝に支えられて立とうとしていた。その様子を、綾女は見た。
その目が何を見ていたのか、朔には分からなかった。しかし何かを、見ていた。
綾女は踵を返した。
巫女たちが後に続いた。
儀式の場が、空になった。
篝が小春を支えながら、朔の隣に来た。
「殿。帝への報告の前に、一度話し合いが必要です。どう弁明されるつもりで」
「弁明はしない」
「では」
「起きたことを述べる。理由を述べる。帝が判断する」
「最悪、将軍の職を失う可能性も」
「分かっている」
「……本当に、いいのですか」
朔は篝を見た。
「いい、という感情が分かれば答えるが、まだ分からない。ただ、やった。それは変わらない」
「後悔は」
「後悔という感情も、まだよく分からない。しかし、後悔に似た何かがあるかと言えば、ない」
篝が少し目を細めた。それが何の感情なのかを、朔は今なら少し分かる。
「……よかった」
篝は言った。小春と同じ言葉だった。
小春が、支えられながら朔を見た。
「将軍さんは、大丈夫ですか」
「私は」
朔は少し考えた。
「大丈夫かどうかは分からない。しかし、今は何かがある」
「何かって」
「説明できない。しかし、ある」
小春は少しの間、朔を見た。それから小さく笑った。疲れていても、笑えた。
「よかったです」
また、よかった、という言葉だった。
朔はその言葉を、受け取った。
受け取り方が正しいかどうか分からない。しかし受け取った。それで十分な気がした。
その夜、朔は一人で庭に立った。
卯月の夜の庭だ。大祓の霞は散り、空気が澄んでいる。月が出ていた。
山茶花の前に立った。
花弁が、少し色を取り戻していた。今日の昼間より、はっきりしたピンクだ。精霊が戻り始めているからだろう。
朔は花を見た。
きれいだ。
その言葉が浮かんだ。しかし今夜は、言葉だけではなかった。
何かが、温かい気がした。
温かいという感覚が身体的なものではなく、別の場所から来ている気がした。胸の辺りから、来ている気がした。それが何なのかは、まだ分からない。
感情と呼んでいいのかもしれない。
まだ、薄い。まだ、かすかだ。長年閉じていた場所に光が入るのに、それだけの時間がかかる。一日で変わるものではない。
しかしある。
あることが、分かった。
朔は山茶花の前にしばらく立っていた。それから、しゃがんだ。
庭師のように。小春のように。
花と同じ高さで、花を見た。
精霊が、かすかに応じた気がした。言葉ではない。ただ、気配として。
朔には、それが何を意味するのか分からなかった。しかし、拒絶ではない気がした。
月の光の中で、山茶花が静かに咲いていた。
朔はしばらくそこにいた。
帝への報告は、翌日行われた。
朔は御前に出て、起きたことを述べた。大祓の力が感情そのものを祓う性質であること。霊的な干渉によって儀式を止めたこと。その理由。
帝は静かに聞いていた。
綾女も同席していた。その表情は変わらなかったが、御前に入る時から、朔には綾女の中の何かが昨日と違う気がした。揺れが続いている。
帝が口を開いた。
「朔よ」
「はい」
「花の娘の言う、感情を受け流すとは、そういうことか」
「帝の御理解の通りかと」
「消すのではなく、流す。それで穢れは収まるのか」
「完全には分かりません。しかし、宮廷と帝都に感情が戻りつつあることは、昨日から観察できます。それでも穢れの発生がないかどうか、経過を見る必要があります」
「綾女よ」
帝が綾女に向いた。
「はい」
「昨日、将軍の言葉に何を感じたか」
綾女は少し間を置いた。
「……感じた、とは」
「感じたものがあるなら、正直に言え」
綾女は帝を見た。それから視線を少し落とした。
「……恐れていたのかもしれません。穢れを」
「穢れが怖かったか」
「感情から穢れが生まれることを、ずっと恐れていました。感情そのものが、危険だと思っていました。しかし──」
綾女が少し止まった。
「昨日、将軍に言われた時、私の中で何かが揺れました。それが何かは、まだ分かりません。しかし、揺れた。感情が揺れたのだとすれば、私にも感情がある。私自身が、危険だということになる。その矛盾に、昨夜ずっと向き合っていました」
帝が頷いた。
「花の娘を呼べ」
小春が御前に呼ばれた。昨日より顔色が良かった。疲れは残っているが、立っている。
「よく働いた」
帝が言った。清め祭の時と同じ言葉だが、今日はその言葉の重さが違った。
「……ありがとうございます」
「そなたの力を、正式に宮廷の役割として認める。ただし、役割の内容は、これまでとは違う。穢れを祓うのではなく、宮廷の霊的な状態を見守る役割だ。花の声を聞き、宮廷の異変を知らせる。それがそなたの任だ」
「はい」
「綾女と共に働けるか」
小春は少し驚いた顔をしてから、綾女を見た。綾女も小春を見た。
「……努力します」
小春が言った。
「私も」
綾女が言った。
その二文字が、御前に静かに落ちた。
帝は頷いた。
「朔よ。そなたのしたことは、命令違反だ。だが、理由は認める。今回は不問とする。ただし、今後は帝に相談した上で動け」
「はい。ありがとうございます」
「礼を言うとは珍しい」
「言うべき時に言えるようになりました」
帝が少し笑った。珍しいことだった。
「そうか。では下がれ」
朔は退出した。
廊下に出ると、篝が待っていた。
「無事でしたか」
「不問となった」
「よかった」
三度目の「よかった」だった。
朔にはその言葉の意味が、今日は少し分かる気がした。
よかった、というのは、安堵と喜びが混じった感情の表れだ。望んでいた結果が出た時に、人はそう言う。
篝は、朔の無事を望んでいた。
それが分かる。
そのことが、朔の中の何かを、また少し温めた気がした。
卯月の半ばを過ぎた頃、宮廷が少しずつ変わり始めた。
劇的な変化ではない。誰かが号令をかけたわけでもない。
ただ、少しずつ。
廊下で話す声が、以前より少し大きくなった。食堂での食事が、少し賑やかになった。女官たちが、廊下ですれ違う時に、視線を向けるようになった。
笑い声が戻ってきた。
怒鳴り声も、少し戻ってきた。それも含めて、宮廷が生きた場所に近づいていた。
庭では、花が咲き直した。
冬の間に弱っていた山茶花が、卯月の陽の中で色を取り戻した。蝋梅は満開を過ぎたが、その代わりに春の花が次々と開いてきた。石畳の隙間の雑草が、力強く伸びてきた。
精霊の声が、戻ってきた。
小春は毎朝、庭に来た。声を聞いた。嬉しそうな顔をした。
源蔵は庭師として、いつも通りに働いた。しかし以前より、庭に活気があることを、老いた目でちゃんと確認していた。
伊吹は、少しずつ顔が柔らかくなった。感情を捨てようとする訓練を、やめたわけではないかもしれない。しかし強さへの向かい方が、少し変わっていた。
千代は、東の棟から別の棟に移った。小春と廊下で会うことは少なくなった。しかしある朝、庭のそばで出会った時、千代は小春に頭を下げた。言葉はなかった。
小春は笑顔で頷いた。
それだけだった。それで十分だった。
綾女は、変わった。
変わった、と言い切るには早いかもしれない。しかし何かが、あの日から違う。
宮廷の浄化は続けている。穢れを祓う仕事は、今も綾女の役割だ。しかし感情の波を穢れとして測定することは、止めた。穢れは穢れとして対処する。感情は感情として、別に扱う。
それだけの変化だが、宮廷の空気は大きく変わった。
綾女自身は、まだ揺れている。長年信じてきた論理と、揺れ始めた何かの間で。しかしその揺れを、今は押し込もうとしていない。
揺れていることを、許している。
それが、綾女にとって初めての変化だった。
数ヶ月後。
皐月の宮廷に、春が満ちていた。
庭には様々な花が咲いていた。冬を越えた山茶花は今は葉だけになっているが、代わりに藤が紫に垂れ、石楠花が赤く咲いていた。雑草は青々と茂り、石畳の隙間からも緑が覗いていた。
精霊の声は、あの日よりずっとよく聞こえると、小春は言った。大祓の前よりも、よく聞こえると。
宮廷の変化は、穏やかに続いていた。感情の波が戻ったことで、小さな口論も、笑い声も、怒鳴り声も戻ってきた。穢れの発生も、以前の水準に戻った。それを綾女が対処する。小春が花の声で異変を知らせ、綾女がそれに対応する。
二人の連携は、ぎこちなかったが、機能していた。
朔の役割は変わっていなかった。将軍として、帝国の安全を守る。しかし何かが、確かに変わっていた。
変わったのかどうか、朔自身には分からなかった。ただ、篝がそう言った。
「殿が変わった」
「何が変わったか、教えてくれ」
「目が、少し違います」
「目の何が」
「何かを見ている目です。以前は、情報を処理している目でした。今は、見ている目です」
その違いが何かは、朔には分からなかった。しかし篝が言うなら、そうなのかもしれない。
皐月の朝。
小春が庭の小道を歩いていた。
石畳の脇に、小さな花が群れて咲いている。春の名のない花だ。丈が低く、踏まれやすい場所に咲いている。
後ろから、足音が来た。
朔の足音だ。小春には、もう聞き分けられる。
朔が小春に近づいてきた。
二人は並んで歩き始めた。
小春は前を向いていたが、横目で朔の足元を見た。
朔が、花を避けて歩いていた。
意識しているのかしていないのか、小春には分からなかった。しかし踏まなかった。石畳の脇に咲く小さな花を、足が自然に避けて通っていた。
小春は少し立ち止まった。
「将軍さん」
「なんだ」
「踏まなかったね」
朔が足元を見た。
花があった。石畳の端に、小さく群れて咲いている。朔の足は、その手前で止まっていた。無意識に、避けていたらしい。
「……ああ」
朔は言った。
それだけだった。
小春はまた歩き始めた。朔も歩いた。
二人は並んで、庭の小道を歩いた。小春が花に話しかける。朔がその名前を言う。小春が少し驚く。朔が名前を覚えていることを説明する前に、小春が笑う。
「石楠花」
「そうです。よく分かりましたね」
「以前に教えた」
「覚えてたんですか」
「全部覚えている」
「……百種類、全部?」
「まだ九十一種類だ。続きを教えると言っていた」
小春が笑った。
「そうでした。じゃあ続きをやりましょう。次は──」
「待て」
「え?」
「今日は」
朔は少し考えた。
「ただ、歩きたい」
小春が朔を見た。
ただ歩きたい、と言った。目的のない行動を、朔が選んだ。
「……うん」
小春は言った。
二人はまた歩き始めた。庭の小道を、ゆっくりと。
石楠花が赤く咲いている。藤が紫に垂れている。雑草が青々と茂っている。精霊の声が、あちこちから聞こえる。今日は嬉しそうな声が多い。
小春にはそれが分かる。
朔には分からない。しかし、何かがある気がした。
庭の空気が、温かい気がした。それは皐月の気温のせいだろう。しかし気温だけではない何かが、そこにある気がした。
ある、と言っていい気がした。
朔は歩きながら、自分の足元を見た。
花が、石畳の端に咲いている。踏もうとしていない。踏まないことを、選んでいる。
なぜ選んでいるのかは、言葉では言えない。
しかし選んでいる。
それで十分だ。
今の朔には、そう思える。
庭の端で、源蔵が花の世話をしていた。
二人が並んで歩く様子を、老いた庭師は横目で見ていた。声をかけなかった。必要のない時は、黙っているのが庭師の流儀だ。
しかし心の中で思った。
花は、育てるものではない。育つものだ。庭師はただ、育つ手助けをする。水を与え、土を緩め、邪魔なものをどけてやる。
それだけでいい。
あとは、花が自分で育つ。
源蔵は道具を持ち直して、また花の世話を続けた。
皐月の朝の光が、庭に満ちていた。
その日の夕方、朔は部屋で篝の報告を聞いた後、少しの間黙っていた。
「殿?」
「何でもない」
「何か、考えておられましたか」
朔は少し考えた。
「感情、というものが、少し分かってきた気がする」
「ほう」
「何かを望む。何かを大切に思う。失いたくないと思う。それらが、感情の形なのかもしれない」
「そうだと思います」
「まだ全部ではない。まだ薄い。しかし、ある」
「それで十分ですよ、殿」
朔は篝を見た。
「十分かどうかは、分からない」
「まだ増えます。感情は、時間をかけて育つものです。急ぐ必要はない」
「育つ、か」
「はい」
朔はその言葉を持った。
育つ。花が育つように。庭師が急かさなくても、水と光があれば、花は自分で育つ。
感情も、同じかもしれない。
気づいていなかっただけで、水と光は、ここ数ヶ月にあった。小春が水を持ってきて、庭が光を与えた。
だから今、ここに、何かがある。
朔は窓の外を見た。
夕暮れの庭が見えた。石楠花の赤が、夕光に濃くなっていた。
きれいだ、と思った。
それは今、思っただけではない。感じている気がした。
感じている。
その言葉を、今日の朔は、少し自信を持って使えた。
まだ薄い。しかし、確かに、感じている。
夜になった。
小春は部屋の窓を開けて、庭を見ていた。
夜の庭は暗いが、月があれば花の輪郭が見える。今夜は月がある。
山茶花は今は葉だけだが、その葉が月光に光っていた。
精霊が、何かを言っている気がした。言葉ではない。ただ、気配として。
小春には、その気配が、嬉しい、に近いものだと分かった。
「よかったね」
小春は言った。
それから少し笑った。
よかった、という言葉を、今日何度使っただろう。朝に将軍さんが花を踏まなかったこと、昼に藤の精霊の声が戻っていたこと、夕方に千代が遠くから手を振ってきたこと。
小さいことばかりだ。
しかし小さいことが、大切だ。
小さいことが積み重なって、世界ができている。
宮廷はまだ完璧ではない。穢れはまだ生まれる。争いも起きる。悲しいことも、辛いことも、これからも来る。
でも花が咲く。声が聞こえる。
それで十分だ。
「おやすみ」
小春は庭に向かって言った。
精霊の気配が、柔らかく応じた気がした。
小春は窓を閉めて、床についた。
春の夜の宮廷に、静けさが満ちていた。今夜の静けさは、感情がない静けさではない。満ちた静けさだ。夜の庭に精霊がいて、廊下のどこかで女官が寝息を立てていて、遠くで門番が見回りをしていて、そういう全てが静かにある中の、満ちた静けさ。
小春には、その違いが分かる。
それが小春の力だ。
同じ夜、朔も床についた。
眠る前に、今日あったことを思い返した。
庭を歩いた。小春が話しかけていた。花の名前を言った。小春が笑った。
それだけのことだ。
しかしその記憶が、温かい気がした。
温かい記憶が、ある。
それが何かを意味するとすれば。
朔は少し考えた。そして、考えることをやめた。
今夜は、答えを求めなくていい。
篝が言っていた。答えを求めないことで、見えるものが増える。答えは後からついてくることもある。
今夜は、ただある。
温かい記憶が、ある。
それで十分だ。
朔は目を閉じた。
春の宮廷の夜が、静かに過ぎていった。
鬼は花を知らなかった。
感情を切り離した男は、美しいという言葉の意味を知らず、悲しいという痛みを持たず、嬉しいという温かさを感じなかった。
長年、そうやって戦い、勝ち続けてきた。
しかし、花は、知られるのを待っていた。
踏まれても。声を聞かれなくても。精霊が弱っても。
根が残っていれば、花は再び咲く。
人もそうかもしれない。
感情を封じていても。感情から逃げていても。感情を消そうとしても。
どこかに根が残っていれば、芽が出る。
時間がかかっても。誰かが水を持ってきてくれれば。
宮廷に春が来た。
鬼神将軍は、今日も花を踏まない。
それがなぜなのかは、まだ言葉にならない。
大祓の日が来た。
夜明け前から、宮廷が動いていた。
篝火が各所に焚かれ、白装束の巫女たちが儀式の場へと向かう。宮廷の中央、最も広い庭を儀式の場として、綾女の指揮のもと、祓いの準備が粛々と進められていた。
朔は宮廷の高台から、その様子を見下ろしていた。
夜明けの空は暗く、星がまだ残っていた。冷えた空気の中に、香の煙が漂い始めた。儀式の始まりを告げる太鼓の音が、遠くから聞こえた。
篝が隣に立った。
「始まります」
「ああ」
「殿、本当にいいのですか」
朔は篝を見なかった。視線を、儀式の場に向けたままだ。
「何が」
「止める、とおっしゃっていた」
「止めるとは言っていない。何かするかもしれないと言った」
「その何かが、何なのか、教えてください。私も動く必要があれば動きます」
朔は少しの間、黙っていた。
「まだ決まっていない」
「……将軍」
篝が珍しく、敬称を省いた。
「私はずっと、殿のそばで仕えてきました。感情を切り離した将軍が、何を守っているのかを、ずっと考えてきました。答えは出なかった。しかし今日、少し見えてきた気がします」
「何が見えた」
「守るべきものが、あるのでしょう」
朔は答えなかった。
篝は続けた。
「感情を切り離したまま守れるものがあります。城も、国も、民の命も。しかしそれだけでは守れないものが、あると分かったのでしょう」
「……」
「私は、殿の判断に従います。どのような判断でも。ただ、一つだけ言わせてください」
「言え」
「後悔するな、と言いたいところですが」篝は少し息を吐いた。
「殿には後悔という感情もないかもしれない。だから、代わりに言います。正しいと思うことを、やってください。殿が今、正しいと感じているものを」
朔は篝を、初めてその朝に見た。
篝の目に、何かがあった。それが何なのかを、朔は今ならば少し分かる。
信頼、という色だ。
「……ああ」
朔は言った。
太鼓の音が大きくなった。儀式が始まろうとしていた。
儀式の場に、綾女が立っていた。
白と金の装束をまとい、髪を高く結い上げた綾女は、その場の中心として、揺るぎない美しさで立っていた。周囲に巫女たちが並び、それぞれが霊的な力を集中させている。
大祓の儀式は、帝国の霊脈を通じて力を送る。帝国中の霊的な汚れを一度に祓う、最大級の行為だ。
綾女は目を閉じた。
力が、動き始めた。
朔はそれを高台から感じた。鬼の血が反応する。巨大な霊的な力の流れが、宮廷の中心から広がり始めている。穢れに敏感な感覚が、その力の性質を告げる。
祓いの力だ。
強大で、精緻で、完璧な祓いの力。
しかし。
朔はその力の中に、何かを感じた。感じた、という言い方が今の朔には以前よりも自然だ。
力が、感情を区別していない。
負の感情から生まれた穢れと、それ以外の感情とを、この力は区別していない。全てを同列に処理しようとしている。
穢れだけを祓うのではない。感情そのものを、薄めようとしている。
小春の部屋で、小春が目を覚ました。
体が、重かった。
重い、というのは正確ではないかもしれない。自分の中の何かが、引っ張られる感覚があった。精霊の声を聞く感覚が、急速に薄れていく。
「……始まった」
小春は床から起き上がった。
窓の外に、儀式の煙が見えた。宮廷の中央から、白い煙が立ち上っている。それが霊的な力を視覚化したものだと、小春には分かった。
庭に行かなければ、と思った。
しかし体が重い。動くたびに、内側が引っ張られる感覚がある。花の精霊と繋がっている感覚が、糸を引き抜かれるように、細くなっていく。
「……花が」
小春は廊下に出た。
廊下を歩く。東の棟から庭へ向かう廊下だ。いつも歩いている道。しかし今朝は、その廊下が遠い気がした。
廊下の端に、鉢植えがある。いつも声をかける花だ。
声をかけた。
返事がなかった。
精霊が、いない。
まだ花は咲いている。枯れてはいない。しかし精霊の気配が、消えている。大祓の力が、宮廷の精霊たちを先に呑み込んでいる。
「……嫌だ」
小春は言った。
独り言だったかもしれない。しかし言葉が出た。嫌だ、という言葉が。
走った。
儀式の場の外れで、朔が動いた。
高台から降り、儀式の場の方へ歩く。止める者はいない。鬼神将軍が動いた、という視線が向くが、誰も声をかけない。
篝が後ろに続いた。
朔は儀式の場の前に立った。
綾女の力が、最高潮に向かっていた。宮廷中に白い霞のようなものが広がり始めている。霊的な力の可視化だ。その霞に触れた花が、音もなく花弁を閉じていくのを、朔は見た。
花弁が閉じる。精霊が退く。
世界から、声が消えていく。
朔の中で、何かが決まった。
論理ではなかった。感情でもまだ言えないかもしれない。しかし、何かが、今、決まった。
合理を捨てる、と思った。
それは損失計算の結果ではない。守るという行為の意味を、まだ完全には理解していないかもしれない。しかしそれでも、動かなければならない、という何かが、朔の中心から来ていた。
「綾女殿」
朔は言った。
綾女が目を開けた。
儀式の力が、頂点に達する直前だった。その瞬間に声をかけられた綾女は、しかし表情を乱さなかった。白い霞が宮廷に広がる中、綾女は朔を見た。
「将軍。儀式の妨げになります」
「妨げるつもりではない。聞いてほしいことがある」
「儀式の最中です」
「では儀式を止めてから聞くか、このまま聞くか、選べ」
綾女の目が、少し動いた。判断をしている目だ。
「……短く言ってください」
「この力は、穢れだけを祓っていない」
綾女が止まった。
「感情の波が大きいことを穢れとして処理している。それは、感情そのものを祓うことになる。それが目的か」
「感情から穢れは生まれます。源を断てば、穢れは生まれない」
「感情の源を断つとは、人から感情を奪うことだ」
「感情を持つことが、なぜ守られなければならないのですか」
綾女の声は穏やかだった。論争を求めているのではなく、問いを投げている。
「感情は争いを生みます。嫉妬、怨念、恐怖。それらが穢れとなり、人を苦しめ、社会を乱す。感情がなければ、穢れも生まれない。完全に清浄な世界が実現できる」
「清浄な世界に、何が残るか」
「秩序が残ります。平和が残ります」
「花が咲くか」
綾女が少し止まった。
「花は」
「感情が消えれば、花の精霊も消える。精霊が消えれば、花は咲いてもただの植物になる。声のない、感じない、世界とつながっていない植物」
「それは比喩に過ぎません」
「比喩ではない。既に起きている。この儀式が始まってから、宮廷の花が弱っている。精霊の声が消えつつある。それはあなたの目には見えないかもしれないが、見える者がいる」
「花巫女の娘のことですか」
「そうだ」
綾女は少し息を吐いた。
「将軍、あなたは感情を持っていない。鬼の血で切り離している。ならばなぜ、感情を守ることに意味を見出すのですか」
朔は答えを探した。
論理的な答えがない。しかしある。
「私には感情がない。その代わりに、感情がある者が世界に何をもたらすかを、最近、観察してきた」
「何をもたらすのですか」
「花が咲く。声が聞こえる。世界が、つながっている」
綾女は動かなかった。
「世界がつながっていることが、なぜ重要なのですか」
「分からない」
朔は正直に言った。
「まだ、完全には分からない。しかしつながっていない世界が何を失うかは、少し分かる。あなたの祓いが完成した後の宮廷を、私は想像できる。静かで、整然としていて、穢れがない。そして、花が咲かない。声がない。空洞だ」
「空洞でも、平和です」
「平和のために、何かを守りたいのではないか。守るべき何かがない平和は、何を守っているのか」
綾女は長い間、朔を見ていた。
その目が、少し揺れた。ほんの一瞬だ。それを、朔は見た。今の朔には見える。
綾女の中にも何かがある。揺れるものがある。
「……儀式を止めることはできません」
綾女は言った。
「帝の承認を得た事業です。私の一存では止められない。将軍がどう言おうと、これは変わらない」
「分かった」
朔は一歩、前に出た。
「では私が止める」
周囲が静まった。
儀式に参加していた巫女たちが、朔を見た。将軍が儀式を止める、と言った。それが何を意味するか、全員が理解した。
帝の命に逆らう行為だ。
「将軍、正気ですか」
綾女の声が、初めて感情の色を帯びた。怒りではなく、驚きに近い色だ。
「正気の定義が分からないが、決めた」
「根拠は」
「感情だ」
朔は言った。
感情。その言葉を自分のこととして使ったのは、初めてだった。あるかどうかも分からない。しかし今、この瞬間に、その言葉以外の言い方がなかった。
「感情で動くのですか、将軍が」
「そうかもしれない」
綾女が止まった。
何かが変わった、という気配が、儀式の場に広がった。
その時、庭の方から声が聞こえた。
小春の声だった。
庭へ続く廊下を走ってくる音がして、小春が儀式の場の手前に出てきた。息を切らしていた。顔が青い。
しかし立っていた。
小春は儀式の場を見た。白い霞が広がる中心に綾女が立ち、その前に朔がいる。
「将軍さん」
小春が言った。
「来るな、今は」
「でも」
「危ない」
「分かってます。でも」
小春は朔を見た。朔と目が合った。
その一瞬に、何かが通った。言葉ではない何かが。
小春は前に出た。
「止めるなと言った」
「止まれません」
小春は綾女の前に立った。霞が小春に触れた。内側が引っ張られる感覚が、また来た。しかし今度は逃げなかった。
「綾女様」
小春は綾女を見た。
「消さなくても、いいんですよ」
綾女が止まった。
「何を言っているのですか」
「穢れは、消さなくていい。流れていけばいい。感情も、消さなくていい。ちゃんと受け止めて、流れていけば、大地に還っていく。消えるんじゃなくて、還る。だから、消さなくていい」
「消さなければ、再び穢れになります」
「還ったものはまた生まれてきます。でもそれは繰り返しであって、終わりじゃない。終わらせることと、繰り返すことは、違います」
「繰り返しに意味がありますか」
「花が毎年咲くのは、繰り返しです。それに意味がありますか、と聞かれたら」
小春は一拍置いた。
「あります、と言います」
綾女は動かなかった。
白い霞が、少し薄れた気がした。綾女の力が、一瞬、揺れた。
その揺れを、朔は感じた。
鬼の血が、霊的な力の変化を感知した。綾女の力が頂点に達する直前で、揺れている。
この瞬間だ、と思った。
朔は動いた。
儀式の場の中心に向かって、一歩踏み出した。霞の中に入る。鬼の血が反応して、身体が重くなる感覚がある。祓いの力が、朔の中の鬼の血に反応している。
しかし、止まらなかった。
朔は自分の中を見た。感情を切り離した場所。長年、空白のままにしておいた場所。
そこに、何かがあった。
薄い。かすかだ。感情と呼べるかどうかも分からない。しかし確かに、そこにある。
守りたい、という何か。
消えてほしくない、という何か。
そのままでいてほしい、という何か。
名前のない何かが、朔の中の空白を、少しだけ満たしていた。
それを、感情と呼んでいいのかどうか。
今は分からなくていい。
ある。それだけで、十分だ。
朔は儀式の中心に立った。
大祓の儀式は、止まった。
正確に言えば、止まったのではなく、朔が中心に立ったことで、力の流れが変わった。
鬼の血を持つ者が大祓の中心に立つことで、力が行き場を失った。穢れを感知する血と、穢れを祓う力が、同じ点に集中したことで、互いが干渉し合った。物理的な衝突ではない。霊的な干渉だ。
白い霞が、ゆっくりと散り始めた。
綾女が目を閉じた。力を収めようとしているのか、それとも状況を理解しようとしているのか、その表情からは読めなかった。
巫女たちが後退した。
宮廷が静かになった。
その静けさの中で、小春が前に出た。
小春は儀式の場の中心に立った。
霞が触れる。内側を引っ張る感覚がある。精霊の声が、遠くなりかけている。
しかし、まだある。
まだ、聞こえる。
小春は目を閉じた。
感じようとした。宮廷の全ての声を。花の精霊の声を。人々の感情の気配を。弱くなりかけている全てのものを。
受け取ろうとした。消そうとするのではなく。排除しようとするのではなく。ただ、受け取る。
それが小春の力の根だ。
消さない。流す。受け流す。大地に還す。
人の感情も、穢れも、喜びも、悲しみも、怒りも、恐れも。全部を受け取って、流す。川のように。大地に染み込ませるように。
力が動き始めた。
いつもとは違う大きさの力だ。今まで使ったことのない規模。宮廷全体の、積み重なった感情の重さが、小春の中に流れ込んでくる。
重かった。
痛かった。
人の感情は軽くない。笑いも涙も怒りも怨みも、全部が重い。それを一人で受け取ろうとしていた。
「消さなくても、いいんだよ」
小春は言った。声に出したのか、心の中で言ったのか、自分でも分からなかった。
宮廷の全てに向かって言った。
大地に向かって言った。
流れていいよ。還っていいよ。消えなくていい。
感情は、生きることから生まれる。生きることは、自然の一部だ。自然の一部は、自然に還る。還ったものは、また生まれる。それが繰り返しで、繰り返しが命だ。
力が、流れた。
朔は、その力を感じた。
小春から発せられた力は、綾女の祓いとは全く違う性質を持っていた。綾女の力は鋭く、精緻で、指向性がある。穢れを特定して切り取る、外科的な力だ。
小春の力は、違った。
広く、柔らかく、どこへでも流れる。川の水が地形に従うように、存在するものの形に沿って流れる。抵抗しない。押しのけない。ただ、流れる。
その力が、白い霞の中に入っていった。
白い霞が、変わった。
消えるのではなく、薄まった。輪郭を失って、広がって、宮廷の空気に溶け込んでいった。綾女の力が凝縮していたものが、小春の力によって希釈されていく。
穢れが消えたのではない。流れていったのだ。
朔には、その違いが分かった。
今の朔には、その違いが分かる。
消えることと流れることは、違う。消えた先には何もない。流れた先には、何かに還っていくものがある。
どちらが正しいかは、まだ言えない。しかし、どちらを選ぶかは、今の朔には分かった。
庭の山茶花が、動いた。
風が吹いたわけではない。しかし花弁が、ふるりと震えた。
その震えが、隣の蝋梅に伝わった。蝋梅の枝が揺れた。石畳の隙間の雑草が、空気を吸うように広がった。庭の端の名のない小花が、蕾を少し開いた。
精霊の声が、戻り始めた。
かすかだ。薄い。しかし確かにある。
源蔵は庭の端から、その様子を見ていた。老いた庭師は、声を出さずに、ただ見ていた。目に何かがあった。
三十年、庭を見てきた目が、今見ているものを確認していた。
庭が、息を吹き返している。
花が、戻ってきている。
宮廷の廊下を歩いていた人々が、立ち止まった。
何かが変わった、という感覚があった。感覚、という言葉が適切かどうかも分からないが、何かが緩んだ気がした。張り詰めていた何かが、少し解けた気がした。
女官の一人が、隣の女官の顔を見た。何日も感情のない目で仕事をしていた女官の目に、今日は少し違うものがあった。
別の廊下では、食堂で黙って飯を食べていた男たちが、一人が何かを言い、もう一人が笑った。久しぶりに聞く笑い声だった。
帝都の街でも、似たようなことが起きた。
市場の売り手が、少し声を張り上げた。子供が一人、路地を走った。酒場の中で、誰かが何かを言って、小さな笑い声が起きた。
大きな変化ではない。劇的な変化でもない。
ただ、少し、声が戻った。
儀式の場で、小春が膝をついた。
力を使いすぎた。足に力が入らない。
朔が小春の傍に来た。
「大丈夫か」
「……大丈夫じゃないかもしれないです」
「どこが」
「全部、少し」
朔はしゃがんで、小春と目線を合わせた。
小春の顔は青白かった。目が疲れている。しかし何かが、目の奥にあった。疲れていても、消えていない何かが。
「終わったか」
「はい。……うまくいきましたか」
「力は散った。霞は消えた」
「精霊は」
「庭の花が動いた。精霊が戻り始めている」
小春の目が、少し緩んだ。
「よかった」
その二文字が、小春の今の全てを示していた。自分が疲弊していても、膝をついていても、最初に出た言葉が「よかった」だった。
朔はそれを見た。
それを見て、朔の中の何かが動いた。
いつもと違う動き方をした。
鬼の血が反応したのではない。論理が動いたのでもない。
朔の中で、長年閉じていた場所が、少し動いた気がした。
儀式の場が静まった後、綾女が朔の前に立った。
周囲に巫女たちがいる。篝も後ろにいる。宮廷の役人たちが、遠巻きに見ている。
「将軍」
「綾女殿」
「あなたは帝の承認を得た儀式を妨げました。理由を述べてください」
「述べる」
朔は真っすぐに綾女を見た。
「感情を消すことに、反対だからだ」
「将軍自身が、感情を持っていないのに」
「だから言える」
綾女が少し止まった。
「持っていないから言える、とはどういう意味ですか」
「感情がなければ、何を失うかは分からない。私は長年、失ったものに気づかなかった。しかしここ数ヶ月で、気づき始めた。感情がなければ分からないことがある。分からないことがあると知らなかった」
「それは、個人の問題です。帝国全体の秩序には──」
「秩序のために守るべきものが、秩序の外にある。それが分からなければ、守るべきものを誤る」
綾女は黙った。
「私は戦場で多くの判断をしてきた。感情なく、合理的に。それが正しい判断だと思っていた。しかし何のために戦ったのかを、誰かに聞かれても、今まで答えられなかった」
「将軍に答えられない問いが?」
「感情が動機を持つ問いには、感情なしには答えられない。篝に言われて、最初は分からなかった。だが、最近少し、分かってきた」
綾女が朔を見た。その目に、以前とは違う色があった。
「花の娘が、変えたのですか」
「変えたのかどうか、まだ判断できない。ただ、気づかせた」
「何を」
「感じることは、弱さではない、ということを」
綾女が動かなかった。
その沈黙の中で、朔は続けた。
「あなたは感情から穢れが生まれると言った。正しい。しかし感情から、花も咲く。声も生まれる。世界がつながる。穢れだけを取り出して消すことはできない。感情を消せば、穢れも消えるが、花も消える」
「完璧な清浄のためには、やむを得ない代償です」
「代償の意味を、あなたは理解しているか」
「理解しています」
「では花が咲かない宮廷で、あなたは何を守るつもりなのか」
綾女は答えなかった。
長い沈黙があった。
その沈黙の中で、朔は綾女の目を見た。
揺れている。
綾女の中にも、何かがある。感情がある。それが揺れている。綾女の論理は完璧だが、論理の外側に、揺れているものがある。
「綾女殿」
「……なんですか」
「あなたが怖いものは何か」
綾女が止まった。
「怖い」
「穢れを徹底的に排除しようとするのは、穢れが怖いからではないか。穢れに触れることが、怖いのではないか」
「…………」
「感情は、穢れを生む。しかしその感情を持っているのは、あなた自身も同じだ。あなたの中にも、感情がある。穢れを生む可能性がある。それが怖い」
綾女の表情が、少し崩れた。
「将軍に、人の心を読む権限はない」
「権限ではない。感じたから言っている」
「……感じた、と」
「私が感じるとは思っていなかったか。私も、以前はそう思っていた」
綾女は長い間、朔を見た。
その目の中で、何かが戦っていた。論理と、何か別のものが。
「……今日のところは、儀式を収めます」
綾女は言った。
「しかし、将軍のしたことは報告します。帝の御前で判断を仰ぎます」
「構わない」
「覚悟があると」
「ある」
綾女は最後に一度だけ、小春を見た。小春はまだ膝をついたまま、篝に支えられて立とうとしていた。その様子を、綾女は見た。
その目が何を見ていたのか、朔には分からなかった。しかし何かを、見ていた。
綾女は踵を返した。
巫女たちが後に続いた。
儀式の場が、空になった。
篝が小春を支えながら、朔の隣に来た。
「殿。帝への報告の前に、一度話し合いが必要です。どう弁明されるつもりで」
「弁明はしない」
「では」
「起きたことを述べる。理由を述べる。帝が判断する」
「最悪、将軍の職を失う可能性も」
「分かっている」
「……本当に、いいのですか」
朔は篝を見た。
「いい、という感情が分かれば答えるが、まだ分からない。ただ、やった。それは変わらない」
「後悔は」
「後悔という感情も、まだよく分からない。しかし、後悔に似た何かがあるかと言えば、ない」
篝が少し目を細めた。それが何の感情なのかを、朔は今なら少し分かる。
「……よかった」
篝は言った。小春と同じ言葉だった。
小春が、支えられながら朔を見た。
「将軍さんは、大丈夫ですか」
「私は」
朔は少し考えた。
「大丈夫かどうかは分からない。しかし、今は何かがある」
「何かって」
「説明できない。しかし、ある」
小春は少しの間、朔を見た。それから小さく笑った。疲れていても、笑えた。
「よかったです」
また、よかった、という言葉だった。
朔はその言葉を、受け取った。
受け取り方が正しいかどうか分からない。しかし受け取った。それで十分な気がした。
その夜、朔は一人で庭に立った。
卯月の夜の庭だ。大祓の霞は散り、空気が澄んでいる。月が出ていた。
山茶花の前に立った。
花弁が、少し色を取り戻していた。今日の昼間より、はっきりしたピンクだ。精霊が戻り始めているからだろう。
朔は花を見た。
きれいだ。
その言葉が浮かんだ。しかし今夜は、言葉だけではなかった。
何かが、温かい気がした。
温かいという感覚が身体的なものではなく、別の場所から来ている気がした。胸の辺りから、来ている気がした。それが何なのかは、まだ分からない。
感情と呼んでいいのかもしれない。
まだ、薄い。まだ、かすかだ。長年閉じていた場所に光が入るのに、それだけの時間がかかる。一日で変わるものではない。
しかしある。
あることが、分かった。
朔は山茶花の前にしばらく立っていた。それから、しゃがんだ。
庭師のように。小春のように。
花と同じ高さで、花を見た。
精霊が、かすかに応じた気がした。言葉ではない。ただ、気配として。
朔には、それが何を意味するのか分からなかった。しかし、拒絶ではない気がした。
月の光の中で、山茶花が静かに咲いていた。
朔はしばらくそこにいた。
帝への報告は、翌日行われた。
朔は御前に出て、起きたことを述べた。大祓の力が感情そのものを祓う性質であること。霊的な干渉によって儀式を止めたこと。その理由。
帝は静かに聞いていた。
綾女も同席していた。その表情は変わらなかったが、御前に入る時から、朔には綾女の中の何かが昨日と違う気がした。揺れが続いている。
帝が口を開いた。
「朔よ」
「はい」
「花の娘の言う、感情を受け流すとは、そういうことか」
「帝の御理解の通りかと」
「消すのではなく、流す。それで穢れは収まるのか」
「完全には分かりません。しかし、宮廷と帝都に感情が戻りつつあることは、昨日から観察できます。それでも穢れの発生がないかどうか、経過を見る必要があります」
「綾女よ」
帝が綾女に向いた。
「はい」
「昨日、将軍の言葉に何を感じたか」
綾女は少し間を置いた。
「……感じた、とは」
「感じたものがあるなら、正直に言え」
綾女は帝を見た。それから視線を少し落とした。
「……恐れていたのかもしれません。穢れを」
「穢れが怖かったか」
「感情から穢れが生まれることを、ずっと恐れていました。感情そのものが、危険だと思っていました。しかし──」
綾女が少し止まった。
「昨日、将軍に言われた時、私の中で何かが揺れました。それが何かは、まだ分かりません。しかし、揺れた。感情が揺れたのだとすれば、私にも感情がある。私自身が、危険だということになる。その矛盾に、昨夜ずっと向き合っていました」
帝が頷いた。
「花の娘を呼べ」
小春が御前に呼ばれた。昨日より顔色が良かった。疲れは残っているが、立っている。
「よく働いた」
帝が言った。清め祭の時と同じ言葉だが、今日はその言葉の重さが違った。
「……ありがとうございます」
「そなたの力を、正式に宮廷の役割として認める。ただし、役割の内容は、これまでとは違う。穢れを祓うのではなく、宮廷の霊的な状態を見守る役割だ。花の声を聞き、宮廷の異変を知らせる。それがそなたの任だ」
「はい」
「綾女と共に働けるか」
小春は少し驚いた顔をしてから、綾女を見た。綾女も小春を見た。
「……努力します」
小春が言った。
「私も」
綾女が言った。
その二文字が、御前に静かに落ちた。
帝は頷いた。
「朔よ。そなたのしたことは、命令違反だ。だが、理由は認める。今回は不問とする。ただし、今後は帝に相談した上で動け」
「はい。ありがとうございます」
「礼を言うとは珍しい」
「言うべき時に言えるようになりました」
帝が少し笑った。珍しいことだった。
「そうか。では下がれ」
朔は退出した。
廊下に出ると、篝が待っていた。
「無事でしたか」
「不問となった」
「よかった」
三度目の「よかった」だった。
朔にはその言葉の意味が、今日は少し分かる気がした。
よかった、というのは、安堵と喜びが混じった感情の表れだ。望んでいた結果が出た時に、人はそう言う。
篝は、朔の無事を望んでいた。
それが分かる。
そのことが、朔の中の何かを、また少し温めた気がした。
卯月の半ばを過ぎた頃、宮廷が少しずつ変わり始めた。
劇的な変化ではない。誰かが号令をかけたわけでもない。
ただ、少しずつ。
廊下で話す声が、以前より少し大きくなった。食堂での食事が、少し賑やかになった。女官たちが、廊下ですれ違う時に、視線を向けるようになった。
笑い声が戻ってきた。
怒鳴り声も、少し戻ってきた。それも含めて、宮廷が生きた場所に近づいていた。
庭では、花が咲き直した。
冬の間に弱っていた山茶花が、卯月の陽の中で色を取り戻した。蝋梅は満開を過ぎたが、その代わりに春の花が次々と開いてきた。石畳の隙間の雑草が、力強く伸びてきた。
精霊の声が、戻ってきた。
小春は毎朝、庭に来た。声を聞いた。嬉しそうな顔をした。
源蔵は庭師として、いつも通りに働いた。しかし以前より、庭に活気があることを、老いた目でちゃんと確認していた。
伊吹は、少しずつ顔が柔らかくなった。感情を捨てようとする訓練を、やめたわけではないかもしれない。しかし強さへの向かい方が、少し変わっていた。
千代は、東の棟から別の棟に移った。小春と廊下で会うことは少なくなった。しかしある朝、庭のそばで出会った時、千代は小春に頭を下げた。言葉はなかった。
小春は笑顔で頷いた。
それだけだった。それで十分だった。
綾女は、変わった。
変わった、と言い切るには早いかもしれない。しかし何かが、あの日から違う。
宮廷の浄化は続けている。穢れを祓う仕事は、今も綾女の役割だ。しかし感情の波を穢れとして測定することは、止めた。穢れは穢れとして対処する。感情は感情として、別に扱う。
それだけの変化だが、宮廷の空気は大きく変わった。
綾女自身は、まだ揺れている。長年信じてきた論理と、揺れ始めた何かの間で。しかしその揺れを、今は押し込もうとしていない。
揺れていることを、許している。
それが、綾女にとって初めての変化だった。
数ヶ月後。
皐月の宮廷に、春が満ちていた。
庭には様々な花が咲いていた。冬を越えた山茶花は今は葉だけになっているが、代わりに藤が紫に垂れ、石楠花が赤く咲いていた。雑草は青々と茂り、石畳の隙間からも緑が覗いていた。
精霊の声は、あの日よりずっとよく聞こえると、小春は言った。大祓の前よりも、よく聞こえると。
宮廷の変化は、穏やかに続いていた。感情の波が戻ったことで、小さな口論も、笑い声も、怒鳴り声も戻ってきた。穢れの発生も、以前の水準に戻った。それを綾女が対処する。小春が花の声で異変を知らせ、綾女がそれに対応する。
二人の連携は、ぎこちなかったが、機能していた。
朔の役割は変わっていなかった。将軍として、帝国の安全を守る。しかし何かが、確かに変わっていた。
変わったのかどうか、朔自身には分からなかった。ただ、篝がそう言った。
「殿が変わった」
「何が変わったか、教えてくれ」
「目が、少し違います」
「目の何が」
「何かを見ている目です。以前は、情報を処理している目でした。今は、見ている目です」
その違いが何かは、朔には分からなかった。しかし篝が言うなら、そうなのかもしれない。
皐月の朝。
小春が庭の小道を歩いていた。
石畳の脇に、小さな花が群れて咲いている。春の名のない花だ。丈が低く、踏まれやすい場所に咲いている。
後ろから、足音が来た。
朔の足音だ。小春には、もう聞き分けられる。
朔が小春に近づいてきた。
二人は並んで歩き始めた。
小春は前を向いていたが、横目で朔の足元を見た。
朔が、花を避けて歩いていた。
意識しているのかしていないのか、小春には分からなかった。しかし踏まなかった。石畳の脇に咲く小さな花を、足が自然に避けて通っていた。
小春は少し立ち止まった。
「将軍さん」
「なんだ」
「踏まなかったね」
朔が足元を見た。
花があった。石畳の端に、小さく群れて咲いている。朔の足は、その手前で止まっていた。無意識に、避けていたらしい。
「……ああ」
朔は言った。
それだけだった。
小春はまた歩き始めた。朔も歩いた。
二人は並んで、庭の小道を歩いた。小春が花に話しかける。朔がその名前を言う。小春が少し驚く。朔が名前を覚えていることを説明する前に、小春が笑う。
「石楠花」
「そうです。よく分かりましたね」
「以前に教えた」
「覚えてたんですか」
「全部覚えている」
「……百種類、全部?」
「まだ九十一種類だ。続きを教えると言っていた」
小春が笑った。
「そうでした。じゃあ続きをやりましょう。次は──」
「待て」
「え?」
「今日は」
朔は少し考えた。
「ただ、歩きたい」
小春が朔を見た。
ただ歩きたい、と言った。目的のない行動を、朔が選んだ。
「……うん」
小春は言った。
二人はまた歩き始めた。庭の小道を、ゆっくりと。
石楠花が赤く咲いている。藤が紫に垂れている。雑草が青々と茂っている。精霊の声が、あちこちから聞こえる。今日は嬉しそうな声が多い。
小春にはそれが分かる。
朔には分からない。しかし、何かがある気がした。
庭の空気が、温かい気がした。それは皐月の気温のせいだろう。しかし気温だけではない何かが、そこにある気がした。
ある、と言っていい気がした。
朔は歩きながら、自分の足元を見た。
花が、石畳の端に咲いている。踏もうとしていない。踏まないことを、選んでいる。
なぜ選んでいるのかは、言葉では言えない。
しかし選んでいる。
それで十分だ。
今の朔には、そう思える。
庭の端で、源蔵が花の世話をしていた。
二人が並んで歩く様子を、老いた庭師は横目で見ていた。声をかけなかった。必要のない時は、黙っているのが庭師の流儀だ。
しかし心の中で思った。
花は、育てるものではない。育つものだ。庭師はただ、育つ手助けをする。水を与え、土を緩め、邪魔なものをどけてやる。
それだけでいい。
あとは、花が自分で育つ。
源蔵は道具を持ち直して、また花の世話を続けた。
皐月の朝の光が、庭に満ちていた。
その日の夕方、朔は部屋で篝の報告を聞いた後、少しの間黙っていた。
「殿?」
「何でもない」
「何か、考えておられましたか」
朔は少し考えた。
「感情、というものが、少し分かってきた気がする」
「ほう」
「何かを望む。何かを大切に思う。失いたくないと思う。それらが、感情の形なのかもしれない」
「そうだと思います」
「まだ全部ではない。まだ薄い。しかし、ある」
「それで十分ですよ、殿」
朔は篝を見た。
「十分かどうかは、分からない」
「まだ増えます。感情は、時間をかけて育つものです。急ぐ必要はない」
「育つ、か」
「はい」
朔はその言葉を持った。
育つ。花が育つように。庭師が急かさなくても、水と光があれば、花は自分で育つ。
感情も、同じかもしれない。
気づいていなかっただけで、水と光は、ここ数ヶ月にあった。小春が水を持ってきて、庭が光を与えた。
だから今、ここに、何かがある。
朔は窓の外を見た。
夕暮れの庭が見えた。石楠花の赤が、夕光に濃くなっていた。
きれいだ、と思った。
それは今、思っただけではない。感じている気がした。
感じている。
その言葉を、今日の朔は、少し自信を持って使えた。
まだ薄い。しかし、確かに、感じている。
夜になった。
小春は部屋の窓を開けて、庭を見ていた。
夜の庭は暗いが、月があれば花の輪郭が見える。今夜は月がある。
山茶花は今は葉だけだが、その葉が月光に光っていた。
精霊が、何かを言っている気がした。言葉ではない。ただ、気配として。
小春には、その気配が、嬉しい、に近いものだと分かった。
「よかったね」
小春は言った。
それから少し笑った。
よかった、という言葉を、今日何度使っただろう。朝に将軍さんが花を踏まなかったこと、昼に藤の精霊の声が戻っていたこと、夕方に千代が遠くから手を振ってきたこと。
小さいことばかりだ。
しかし小さいことが、大切だ。
小さいことが積み重なって、世界ができている。
宮廷はまだ完璧ではない。穢れはまだ生まれる。争いも起きる。悲しいことも、辛いことも、これからも来る。
でも花が咲く。声が聞こえる。
それで十分だ。
「おやすみ」
小春は庭に向かって言った。
精霊の気配が、柔らかく応じた気がした。
小春は窓を閉めて、床についた。
春の夜の宮廷に、静けさが満ちていた。今夜の静けさは、感情がない静けさではない。満ちた静けさだ。夜の庭に精霊がいて、廊下のどこかで女官が寝息を立てていて、遠くで門番が見回りをしていて、そういう全てが静かにある中の、満ちた静けさ。
小春には、その違いが分かる。
それが小春の力だ。
同じ夜、朔も床についた。
眠る前に、今日あったことを思い返した。
庭を歩いた。小春が話しかけていた。花の名前を言った。小春が笑った。
それだけのことだ。
しかしその記憶が、温かい気がした。
温かい記憶が、ある。
それが何かを意味するとすれば。
朔は少し考えた。そして、考えることをやめた。
今夜は、答えを求めなくていい。
篝が言っていた。答えを求めないことで、見えるものが増える。答えは後からついてくることもある。
今夜は、ただある。
温かい記憶が、ある。
それで十分だ。
朔は目を閉じた。
春の宮廷の夜が、静かに過ぎていった。
鬼は花を知らなかった。
感情を切り離した男は、美しいという言葉の意味を知らず、悲しいという痛みを持たず、嬉しいという温かさを感じなかった。
長年、そうやって戦い、勝ち続けてきた。
しかし、花は、知られるのを待っていた。
踏まれても。声を聞かれなくても。精霊が弱っても。
根が残っていれば、花は再び咲く。
人もそうかもしれない。
感情を封じていても。感情から逃げていても。感情を消そうとしても。
どこかに根が残っていれば、芽が出る。
時間がかかっても。誰かが水を持ってきてくれれば。
宮廷に春が来た。
鬼神将軍は、今日も花を踏まない。
それがなぜなのかは、まだ言葉にならない。


