鬼は花を知らない

 年が明けた。
 清め祭は、つつがなく終わった。
 小春が供えた花は、儀式の間を通じて咲き続けた。他の巫女が供えた花が早々に萎れていく中で、小春の選んだ山茶花も蝋梅も寒椿も、儀式の最後まで色を失わなかった。それを見た帝が、小春に短い言葉をかけた。よく務めたという、それだけの言葉だった。
 小春はその後、部屋に戻って泣いた。
 朔はそれを廊下から知った。扉の向こうで、小さな声が聞こえたのだ。泣き声、と朔が判断するまでに少し時間がかかった。そういう音を、近くで聞いたことがなかったからだ。
 扉を叩くべきか、そのまま立ち去るべきか。
 朔は少しの間、廊下に立っていた。
 やがて泣き声が止んだ。少しして、扉が開いた。小春が出てきた。目が赤いが、顔は穏やかだった。
「……嬉しくて泣くこともあるんです」
 小春が言った。朔の顔を見て、表情を読もうとしているのだと気づいたのだろう。
「嬉しいのに泣くのか」
「嬉しいが溢れると、泣く形で出てくることがあります」
「感情が形を変えるのか」
「変える、というか。嬉しいと悲しいの涙は、少し違うけど、でも似てるんです」
 朔は処理した。感情の表出が、種類を問わず涙という形式を取ることがある。それは把握できた。しかし、嬉しいが溢れるという量的な表現は、まだ分からなかった。
「将軍さんも、よかったと思いましたか」
 小春が問うた。
 朔は少し考えた。
「花が最後まで咲いていた。それは任務の成功として記録できる」
「……任務の成功」
「否定的な意味ではない」
「分かってます」
 小春は少し笑った。
「将軍さんらしい言い方だと思って」
 朔には、将軍さんらしいという評価の意味が分からなかった。しかしそれを問わなかった。

 清め祭の翌週から、綾女が動き始めた。
 動き始めた、というのは朔の判断だ。具体的には、宮廷内での「穢れの精密調査」が開始された。綾女の提言によるもので、帝の承認を得た正式な事業だ。
 内容は、宮廷の全区画において、穢れの程度を測定し、濃度の高い箇所を特定して集中的に祓う、というものだった。
 論理的だ。合理的だ。批判する根拠がない。
 しかし朔は、その事業の外縁に、何か別のものを感じた。
「穢れの精密調査について、篝の見解を聞かせ」
「宮廷の浄化という名目は正当です。しかし──」
 篝が少し声を落とした。
「穢れの測定基準が、従来のものとは違います。従来は、怨念や強い負の感情が凝り固まったものを穢れとしていました。今回の基準は、それに加えて、感情の波が大きいこと自体を、穢れの予備軍として分類しています」
「感情の波が大きいことを、穢れとするのか」
「予備軍として。つまり、強く喜んだり、深く悲しんだりする人間を、穢れを生み出しやすい者として管理するということです」
 朔は考えた。
「それは、感情を持つことを危険視するということか」
「そうなります」
 沈黙があった。
「宮廷の中で、感情の波が大きい者から順に、祓いの対象として優先される、ということだ」
「はい。表向きはそう言っていませんが、測定の結果を見れば、そういう順位になります」
「……そのリストに、小春は入っているか」
「高い順位で入っています」
 朔は少し考えた。
「分かった」
「どうされますか」
「観察する。まだ動く段階ではない」
「はい」
 篝は下がったが、出口の前で振り返った。
「殿。これは、感情そのものを排除しようとする動きです。完成すれば、宮廷から感情が消える」
「……それが帝国の目指す姿か」
「綾女様は、そう考えているのかもしれません」
 篝は部屋を出た。
 朔は一人になった。
 感情が消える宮廷。穢れのない、完璧に清浄な場所。
 朔には、それが良いことなのか悪いことなのかが、分からなかった。感情がないのだから、その判断もできない。
 ただ、何かが違う気がした。
 違う、という感覚が、何を根拠にしているのかも、分からなかった。

 睦月の半ば。
 穢れの精密調査が本格化した。
 綾女の率いる巫女団が、宮廷の各所を回り始めた。祓いの儀式を行いながら、同時に人々の「感情の波の大きさ」を測定する。その測定の結果は、記録されて綾女の手元に集まった。
 宮廷の人々は最初、それを単なる浄化事業として受け取っていた。しかし徐々に、変化が現れ始めた。
 大きな声で笑っていた女官が、急に笑い方を控えめにした。廊下で口論をしていた男たちが、声を出さなくなった。宮廷の食堂で、賑やかだった昼時の会話が、少しずつ静かになっていった。
 誰も命令されていない。ただ、測定されていることが知れ渡り、感情を出すことへの警戒が、空気として広がっていった。
 朔はそれを観察した。
 効率的だと思った。次に、それだけかと思った。

 その頃、小春は庭にいた。
 庭は変わらなかった。花は咲き、草は生きている。精霊の声も変わらない。しかし庭の外の空気が、少し違ってきていた。
「なんか、静かですね」
 小春は源蔵に言った。
「静かですな」
 源蔵は同意した。
「人の声が減りました」
「悲しいとか、楽しいとかが、伝わってこない。花の精霊が、少し不安がっています」
「精霊が不安がる?」
「花は人の感情を感じます。感情が薄くなると、花も元気がなくなるんです。逆に言うと、人が生き生きしている場所の方が、花もよく育つ」
 源蔵は庭を見渡した。
 確かに、ここ数日で、庭の草の色が少し変わった気がした。枯れてはいない。しかし、以前より少し元気がない。
「……穢れの調査とやらで、宮廷の空気が変わっている」
「何かが、おかしいですか」
「私のような老いた庭師には分かりません。ただ、三十年この庭を見ていて、植物が元気のない時には、必ず理由があった」
 源蔵は庭の土を、手で触れた。
「土は正直です。人の手が入りすぎると、草が窒息する。草に必要なのは、適度な手入れと、放っておかれる時間です」
「宮廷の人も、同じかもしれません」
「かもしれませんな」
 二人は少しの間、庭を見ていた。
 朔はその会話を、少し離れたところで聞いていた。

 如月に入った。
 宮廷の外、帝都の街にも、穢れの調査が広がった。
 綾女の提言によるもので、宮廷だけでなく帝都全体を清浄化するという事業だ。帝が承認し、宮廷巫女団が帝都各所に散った。
 朔は視察のために帝都を歩いた。
 街の様子が、変わっていた。
 以前の帝都は、騒がしかった。市場では売り手が声を張り上げ、子供たちが路地を走り、酒場からは笑い声が漏れていた。不満の声も怒鳴り声もあった。様々な感情が、街の空気を満たしていた。
 今の帝都は、違った。
 静かだった。
 市場の売り手は声を抑えている。子供たちが走っていない。酒場は開いているが、中が静かだ。人々が話していないわけではない。しかし、声の大きさが変わった。笑う者はいるが、笑い方が変わった。
 整然としていた。
 秩序があった。
 穢れがない、とも言えた。
 朔は街を歩きながら、処理を続けた。変化の原因は測定と祓いによる空気の変容だ。人々は自発的に感情の表出を抑制している。治安は向上しているかもしれない。口論も騒ぎも減っている。
 良いことだ、と言えるかもしれない。
 しかし朔には、何かが引っかかった。
 引っかかる、という感覚が、何を根拠にしているのかが分からない。ただ、何かが足りない気がした。
「……足りないのは何か」
 朔は独りごちた。
 答えは出なかった。

 帝都の市場の端で、朔は立ち止まった。
 花屋があった。
 冬の花が並んでいる。山茶花、蝋梅、それから干した花。以前なら通り過ぎた場所だ。今は、足が止まった。
 店主の老婆が朔を見た。将軍の甲冑を見て、少し緊張した顔をした。
「……山茶花は、いくらか」
 朔は問うた。自分でも、なぜ問うたか分からなかった。
「は、はい。こちらは……」
 老婆が値段を言った。朔はそれを聞いて、しばらく立っていた。
 花を買う理由がない。監視の任務に花は必要ない。戦場に花は持っていかない。
 しかし、そこで立ち止まったことが、何かを意味している気がした。
 朔は踵を返した。
 花は買わなかった。
 だが、その花屋の前に立ったことが、朔の中で何かを示した気がした。何かを、とは言えない。ただ、以前の朔なら、そこで立ち止まらなかった。

 帝都から戻った夜、篝に報告した。
「街が静かになっている」
「はい。私も視察しました」
「整然としている。しかし──」
「しかし?」
 朔は少し考えた。
「以前の街の騒がしさが、消えている。それが問題かどうか、判断できない」
「私には問題に見えます」
「理由を」
「笑い声がない街というのは、恐ろしい場所です。笑い声がなくなることは、人が生きることをやめ始めることと、どこか似ています」
 朔はその表現を処理した。
「笑い声がなくなることと、生きることをやめることは、別のことではないか」
「感情の表出が消えることは、感情そのものが消えることの始まりです。外に出せないものは、内側で萎んでいく」
 朔は考えた。
「感情がなくなることは、問題か」
「殿には問題ないかもしれません。最初から切り離しておられるから。しかし、感情を持って生まれた人間が、感情を失っていく過程というのは」
 篝が言葉を探した。
「どういうことか」
「……空洞になります。外側は人間の形をしているが、中身が少しずつ抜けていく。それは、死ぬことよりも、もしかしたら辛いことかもしれません」
 朔は長い間、考えた。
「それを体験している人間が、今の帝都にいるということか」
「少しずつ、増えています」
 朔は窓の外を見た。帝都の夜が遠くに広がっている。
 空洞。外側は形を保っているが、中が抜けている。
 それは朔が、長年の戦で見てきたものとは違う。戦場で死ぬ人間は、外側から壊れる。篝が描写したのは、内側から消えていく過程だ。
「……分かった」
「何が分かったのですか」
「まだ、全部は分からない。しかし、何かが分かった」
 篝はその曖昧な答えに、それ以上問わなかった。

 如月の半ば。
 宮廷の廊下で、朔は伊吹に会った。
 少年は以前より直立していた。背筋が伸び、表情が整っている。一見、成長したように見える。
「殿」
 伊吹が礼をした。声から、何かが減っていた。
「伊吹。顔色が悪い」
「問題ありません。健康です」
「そうではない。目に何かが足りない」
 伊吹は少し止まった。
「……訓練の成果です。感情の起伏を抑制することで、判断が安定します。殿のように」
「私のように?」
「殿は感情なく戦われる。それが理想と思っています。私もそうなりたい」
 朔は伊吹を見た。
 半年前の伊吹は、戦場で声を上げた。怖い、という声だったかもしれない。あるいは興奮の声だったかもしれない。いずれにせよ、何かを感じていた。今の伊吹は、声が出ない。
「私を理想とするのか」
「はい」
「なぜ」
「感情がなければ、迷わない。迷わなければ、最適な判断ができる」
 朔は少し考えた。
「迷わないことが、最適な判断につながるとは限らない」
 伊吹が驚いた顔をした。
「しかし殿は……」
「私は感情を切り離した。しかし切り離した代わりに、何を失ったかを、最近考えている」
「何を失ったのですか」
 朔は答えを持っていなかった。ただ、失った、という感覚が、最近少しずつある。
「まだ分からない。しかし、感情を捨てることを急ぐな」
「……はい」
 伊吹は礼をして去った。
 その後ろ姿が、以前より少し小さく見えた。成長したはずなのに、小さく見える。その理由が、朔には何となく分かった気がした。

 如月の終わり。
 庭の花が、おかしくなり始めた。
 小春が最初に気づいたのは、山茶花だった。花弁の色が薄い。まだ咲いているが、色が抜けたように見える。
「どうしたの」
 小春は山茶花の前にしゃがんだ。精霊の声を聞こうとした。
 聞こえなかった。
 正確には、声がない、のではなく、声が小さすぎて聞こえない。水底に沈んだような、遠くからの気配しか届かない。
「……」
 小春は手を伸ばして、花弁に触れた。花弁が冷たい。冬だから冷たいのは当然だが、それとは違う冷たさがある。
 蝋梅の前に移動した。同じだった。色が薄く、声が遠い。
 寒椿。同じ。
 小春は庭の中を歩き回った。どの花も、どの草も、以前より声が小さくなっている。精霊の声が遠い。
「……なんで」
 答えは、しばらく考えてから来た。
 人の感情が薄くなっているからだ。
 花は人の感情を感じる。感情が豊かな場所では花が育ち、感情が失われると花が弱る。それは小春が里にいた頃から知っていたことだった。喜びも悲しみも、感情は花の養分だ。それが宮廷から消えていく。だから花が弱る。
「……将軍さん」
 小春は立ち上がって、庭の入り口に向かった。朔が立っていた。
「花が弱っています」
「原因は」
「宮廷の人の感情が薄くなっているから。穢れの調査が始まってから、人の感情が消えていって、花の精霊の声が聞こえにくくなりました」
 朔は庭を見た。
「花の変化は、具体的にどの程度か」
「色が薄い。声が遠い。精霊の言葉が届きにくい」
「私の感覚では変化を確認できないが、あなたの感応はどう判断しているか」
「このまま続いたら、春には咲かないかもしれない。精霊が弱りきってしまったら、再び声が聞こえるようになるまでに、何年もかかるかもしれない」
「精霊が弱るとは、どういうことか」
「……消える、ということだと思います。精霊が消えた花は、ただの植物です。生きているけど、声がない。感じない。話しかけても、何も返ってこない」
 朔は少し考えた。
「それは、花にとって困ることなのか」
 小春は朔を見た。
「困るって言えるかどうか……でも、私には、寂しいです」
「寂しい」
「精霊がいる花と、いない花は、見た目は同じかもしれない。でも全然、違います。精霊がいる花は、世界とつながっています。精霊がいない花は、つながっていない。ただ、そこにある」
 朔はその言葉を処理した。
 世界とつながっている。つながっていない。
 その差が何を生み出すのかは、まだ分からなかった。しかし、その差がある、ということは、把握できた気がした。

 夜、朔は篝に小春の話を伝えた。
「花が弱っているとのことです。原因は、宮廷から感情が失われていることだと」
「……花が示しているわけですか。人の変化を」
「そういうことになる」
「炭鉱の炭坑夫が鳥籠にカナリアを持っていくのに、似ていますね」
「カナリア?」
「毒ガスに敏感で、先に倒れる。それで鉱夫が異常を知る。花が先に弱るなら、花が警告を発しているようなものです」
 朔はその比喩を処理した。
「花巫女の力は、精霊と話すことだけではないかもしれない」
「どういう意味ですか」
「花を通じて、世界の状態を感じ取る力かもしれない。帝国の霊的な健全性を、花の状態として把握する」
「それは、宮廷にとって重要な力ですね」
「しかし綾女はその力を危険視している」
「……綾女様にとって、今起きていることを知られることが、都合が悪いのかもしれません」
 朔は少し考えた。
「花が警告を出している、ということが、綾女の事業の問題を示している」
「そうなります」
「それを排除したい」
「可能性としては」
 朔は窓の外を見た。
「小春は、今、宮廷に必要な者だ」
 それは命令でも報告でもなく、ただ朔が確認した事実だった。篝はそれを聞いて、少しの間黙っていた。
「……殿が、誰かをそう言うのは、初めて聞きました」
「事実の確認だ」
「はい」
 篝の目に、また何かがあった。朔にはその意味が、少しずつ分かり始めていた。
 嬉しい、という色だ。

 その後しばらくして、小春は自室で一人、気づいたことを考えていた。
 自分の力が弱まっている。
 花の精霊の声が遠くなっているだけではない。小春自身の感応力が、少しずつ薄れている気がする。宮廷の空気が、小春の中にも影響を与えているのかもしれない。
 感情を抑えた人々の中にいると、感情が萎縮する。それは小春にとって、力を失うことと同じだ。力の根源が感情にあるからだ。受け流す力も、感じる力も、感情があってこそ働く。
 小春は窓の外を見た。
 庭の山茶花が、薄暗い中で見えた。色が薄い。
「ごめんね」
 小春は言った。
 何に謝っているのか、自分でも分からなかった。花に、か。宮廷の人々に、か。それとも、何もできていない自分に、か。
 窓の外に、夜の冷たさがあった。

 弥生に入った。
 春の気配は、しかし宮廷には薄かった。外の山では梅が咲き始め、野には霞がかかり始めているというのに、宮廷の空気は冬のままだった。感情が薄くなった場所は、季節の変わりも遅い。精霊の流れが鈍くなるから、と小春は思った。
 伊吹が、小春に話しかけてきたのは、そんな弥生の朝のことだった。
 廊下で、少年は小春の前に立った。
「花巫女殿」
「はい」
「少し、聞いてもいいですか」
 小春はうなずいた。
 二人は廊下の端に移動した。人通りが少ない場所だ。伊吹は少し迷うような顔をしてから、口を開いた。
「感情を、捨てるとどうなるのですか」
 小春は伊吹を見た。十五の少年の顔は、見た目より疲れていた。
「捨てようとしているんですか」
「……はい。訓練しています。感情の起伏を抑制して、判断を安定させる。殿のように」
「将軍さんのように」
「はい。感情があると、迷う。恐れる。後悔する。それらがなければ、もっと良い判断ができると思って」
 小春は少し考えた。
「捨てると、迷わなくなりますか」
「そう思っています」
「でも」
 小春は伊吹の目を見た。
「迷うことが、どうして悪いんですか」
 伊吹が止まった。
「迷うというのは、複数の選択肢の間に、それぞれ大事なものがあるということだと思うんです。全部どうでもいければ、迷わない。大事なものがあるから、迷う。だから、迷えるというのは、大事なものを持っている証拠じゃないですか」
「しかし迷うことで、判断が遅れる」
「遅れることも、あるかもしれない。でも、迷わずに出した答えが、必ず正しいわけじゃない」
「感情がない方が、正確だ」
「将軍さんは、感情がないから正確なんじゃなくて、感情がなくても判断できる訓練をしてきたんだと思います。それは将軍さんにしかできないことで」
 伊吹が朔について話す時、小春の中で何かが動いた。朔のことを、少年が理想として追いかけている。その理想の形が、少し違う気がした。
「それを、あなたに聞いていいですか」
「はい」
「本当に望んでいますか。感情を捨てることを」
 伊吹が固まった。
「望んで……います」
「本当に?」
「……」
 少年の表情が、少し揺れた。揺れた、ということは、固めていた何かが崩れたということだ。
「本当は」
 伊吹が小声で言った。
「怖い、んです。感情が残っている自分が。戦場で怖いと感じたり、悲しいと感じたりする。それが弱さだと思って。捨てた方がいいと思って」
「弱さじゃないと思います」
「でも──」
「怖いと思うのは、守りたいものがあるから。悲しいのは、大切なものがあるから。それが弱さなら、大切なものを持つことが弱さになってしまう」
 伊吹は答えなかった。
 小春は続けた。
「私、感情を受け流すことが力だと言われます。穢れを消さずに流す。でもそれは、感情を消すことじゃないんです。感情は流れた先でも生き続けて、薄まって、大地に還っていく。消えてなくなるわけじゃない。消えてなくなったら、怖いんです、私は」
「……なぜ怖いのですか」
「感情がなくなった世界は」
 小春は窓の外を見た。薄い春の光が差し込んでいる。
「花が咲かないと思うから」
 沈黙があった。
 伊吹が、小さく息を吐いた。それが何を意味するのかは、小春にも分からなかった。しかし少年の肩が、少し下がった。緊張が、少し解けたように見えた。
「……考えます」
「はい」
「花巫女殿は、どうして、私みたいな者にそういうことを言ってくれるんですか」
「聞いてくれたから」
 伊吹はしばらく小春を見ていた。それから礼をして、廊下を去った。
 その背中を、朔が少し先から見ていた。
 会話の内容は聞こえなかった。しかし伊吹の肩が下がったことは見えた。それが何を意味するのか、朔には分からなかった。しかし、以前より何かを感じることができる気がした。
 感じることができる気がした。
 その言い方が、今の朔には以前より不自然ではなかった。

 その夜、小春は久しぶりに源蔵と話した。
「庭が」
「はい。弱ってきています」
「私の力も、少し弱まってる感じがします。宮廷の空気が変わって」
 源蔵は黙って聞いていた。
「どうすればいいか、分からないです」
「庭師として言えることがあるとすれば」
 源蔵は庭の方を見た。夜の庭だ。闇の中に、花の形が見えている。
「花を育てる時に、最も大切なことは、引っこ抜かないことです。弱っていても、根があれば必ず戻る。しかし根を抜いてしまったら、もう戻らない」
「根を抜かない」
「あなたが感じていることを、感じ続けることです。それがあなたの根だと思います」
 小春はその言葉を聞いた。
 感じ続けること。宮廷の空気が変わっても、人々が感情を抑えても、小春自身が感じることをやめない。それが、力の根だ。
「はい」
 小春は言った。
「やってみます」
「無理はしないでください」
 源蔵は言った。
「しかし、諦めないでください」
 その言葉は短かったが、小春にはずしりと重かった。
 いい意味で。

 弥生の中頃。
 綾女の事業は、次の段階に進んだ。
 穢れの精密調査の結果が出た。高濃度の「感情の波」を持つ者のリストが作成され、綾女の手元に届いた。そのリストの上位に、二つの名前があった。
 一つは花巫女候補・小春。
 もう一つは、下級女官・千代。
 千代がリストに入ったのは、小春と接触を持ち続けていたためだ。小春の「感情の波」の影響を受けていると判断された。
 女官頭が千代を呼んだのは、そういう経緯だった。

 千代の部屋は東の棟の端にある。小春の部屋から遠くない場所だ。
 女官頭が去った後、千代は部屋の中に一人でいた。
 提示された選択肢は明快だった。小春の行動を報告すること。正確には、清め祭の際に小春が行ったことの詳細を、文書として提供すること。それが宮廷の秩序への貢献となり、千代自身のリストからの削除につながる、と女官頭は言った。
 千代は、前回断った。
 しかし今回は違う。リストに載っている。それは、次の段階で綾女の祓いの対象になるということだ。祓いを受けた人間が、どうなるかを千代は知っていた。
 変わる。感情が薄くなる。静かになる。穏やかになる。笑わなくなる。
 それを千代は、「空洞になる」と内側で思っていた。なぜそう思うのか、上手く説明できなかった。ただ、変わった女官たちを見ていて、何か大切なものが失われた気がした。
 千代は机の引き出しを開けた。
 白紙の文書がある。文書を提供するためには、書かなければならない。

 翌朝。
 千代は廊下で小春と出会った。
 いつものように、小春は庭へ向かっていた。抱えているのは、花の世話道具だ。顔は穏やかだが、目の下に少し疲れがあった。毎日、花の弱っていく様子を見ているからだろう。
「千代さん、おはようございます」
 小春が言った。いつもと変わらない声だった。
 千代は止まった。
 小春も止まった。千代の顔を見て、何かを感じたのだろう。
「……どうかしましたか」
「いえ」
「顔色が悪いです」
「そうですか」
「眠れなかったんですか」
 千代は答えなかった。
 小春がしばらく千代を見た。その目に、何があるのかを千代は知っていた。心配している目だ。千代が眠れなかった理由を知らないのに、ただ、心配している。
「……小春様」
「はい」
「ずっと、気にかけていただいて、ありがとうございます」
 小春が少し驚いた顔をした。
「どうして急に」
「言えなかったから。言っておきたくて」
「千代さん……」
「私は、弱い人間です。宮廷の空気に流されてしまう。正しいことが分かっていても、できないことがある」
 小春は千代を見続けていた。
「私を許してください」
 千代は言った。
 小春の目が、少し揺れた。
「……千代さんは、何かしましたか」
「これから、するかもしれません。いや」
 千代は目を閉じた。
「もう、しました」
 文書を、昨夜書いた。今朝、女官頭に渡した。清め祭での小春の行動。花の精霊との会話の内容。綾女が求めていた情報を、千代は提供した。
「……そうですか」
 小春の声は、変わらなかった。変わらないことが、千代には辛かった。怒った声の方が、まだよかった。
「怒らないんですか」
「怒る、とは少し違います。悲しいです。でも」
 小春は千代を見た。
「千代さんが追い詰められていたことは、分かります。だから、仕方なかった部分もあると思います」
「仕方なくない」
 千代は言った。
「私が選んだんです。それは、仕方なかったことじゃない」
「……そうですね」
「責めてください。怒ってください」
「私には、千代さんを責める気持ちがわかないんです」
 千代は目を伏せた。
「なぜですか」
「私だったら、同じことをしていたかもしれない」
 千代は顔を上げた。
「……そんなことは」
「分からないんです。自分がどこまで強くいられるか。千代さんが選んだことを、私は責められない」
 沈黙があった。
 千代の目に、何かがあった。泣いているのかもしれなかったし、泣こうとして泣けないのかもしれなかった。
「私は」
 千代は言った。
「これからも、宮廷で生きていきます。あなたのそばにはいられないかもしれない。でも、今日のことは、ずっと覚えています」
「はい」
「ありがとうございました」
 千代は礼をして、廊下を去った。振り返らなかった。
 小春は廊下に一人残った。
 しばらくの間、動かなかった。
 朔は少し先の廊下の角から、その様子を見ていた。
 小春の背中が、少し細く見えた。感情の読み取り方を小春から少しずつ学んでいた朔には、今の小春が泣いていないが泣きたいのだということが、分かった。
 朔は近づいた。
「小春」
 名前を呼んだのは、初めてだった。
 小春が振り返った。
「……将軍さん」
「聞いていた」
「全部?」
「全部」
 小春は少しの間、朔を見た。その目に何があるかは、朔にも分からなかった。しかし何かが、朔の中で動いた。
「庭に行くか」
 朔は言った。
 小春は少し驚いた顔をしてから、うなずいた。
「はい」
 二人は廊下を歩いた。
 朔は何も言わなかった。小春も何も言わなかった。ただ並んで歩いた。
 それだけのことが、その朝の廊下では、十分だった。

 庭に出た。
 弥生の朝の庭に、薄い光が差していた。花の色は薄い。声は遠い。しかし消えてはいなかった。
 小春はしゃがんで、山茶花の前に座った。
「まだいるよ」
 花に声をかけた。
 精霊の返事は、かすかだった。しかし、ある。
「まだいる」
 小春は繰り返した。
 朔はその横に立っていた。
 何かを言うべきか、言わなくていいか、判断できなかった。しかし今は、判断できないことを、そのままにしておいた。
 小春がしゃがんだまま言った。
「千代さんのこと、嫌いになれないんです。それが不思議で」
「なぜ嫌いになれないのか」
「怖かったから、でしょうね。千代さんも、怖かった。私だって、同じ状況にあったら怖い。そう思うと、責める気持ちが出てこない」
「しかし、あなたは傷ついた」
「傷ついても、嫌いにはなれない。二つは別のことです」
 朔はその論理を処理しようとした。傷つけた相手を嫌いにならないことは、朔の知る戦場の論理とは全く違う。しかし小春の言葉には、反駁できる根拠がなかった。
「……それは、優しさなのか」
「どうでしょう。優しいというより、そうするしかないというか。嫌いになることで、何かが変わるわけじゃないし」
「何かが変わらなくても、嫌いになる感情は発生し得る」
「発生しない人もいます。私はそっちみたいで」
 小春は山茶花の花弁に、そっと触れた。
「この花も、踏まれても、踏んだ人を嫌いにならないと思います。ただ、踏まれたという事実だけが残って、根が残ってれば、また起き上がろうとする」
「花に感情はあるのか」
「精霊はいます。でも、恨まないんですよね。恨みという感情を、持たないのかもしれない」
「なぜ持たないのか」
「大地に還っていくからじゃないかって、思います。恨みも、大地に還れば薄まる。花の精霊は、それを知っているから、恨まないのかもしれない」
 朔は長い間、その言葉を持っていた。
 大地に還る。薄まる。恨みが消えるのではなく、薄まって自然に戻る。
 穢れを消すのではなく、受け流す。小春の力の根拠が、そこにある気がした。
「小春」
「はい」
「あなたの力は、宮廷に必要だ」
 小春が朔を見た。
「以前にも言ってましたね、それ」
「今の方が、理由が少し分かっている」
「どんな理由ですか」
 朔は少し考えた。
「警告を出しているからだ。宮廷が間違った方向に向かっているとき、花が弱ることで、それを示している。その警告が読める者が、あなただ」
「花が教えてくれているということですね」
「そういうことだ」
 小春は少しの間、朔を見た。それから花の方を向いた。
「……将軍さんは、花のことを、ちゃんと見てくれるようになりましたね」
「花の名前を覚えている」
「それだけじゃなくて。花が意味を持つことを、認めてくれてる」
「以前は認めなかったのか」
「以前は、把握しただけでした」
 小春はちょっと笑った。
「今は、少し違う気がします」
 朔は何も言わなかった。
 しかし、その言葉が、何かを確認させた。自分の中で何かが変わっている。それが何かは、まだ全ては言葉にならない。
 庭の山茶花が、朝の光の中で薄く桃色に見えた。
 色が薄い。しかし咲いている。
 朔はその色を、きれいだと思った。今度は、思っただけではなかった。何か、感じる手前のものがあった気がした。感情ではないかもしれないが、何も感じないよりは、違う何かが、そこにあった。

 弥生の末。
 綾女の動きが、最終段階に入った。
 大祓の儀式の準備が始まった。
 大祓とは、帝国において数十年に一度行われる大規模な祓いの儀式だ。宮廷から帝都全体、さらには帝国の各地の霊脈を同時に浄化するための、最大級の儀式。
 綾女がその儀式を今行うことを提言したのは、穢れの調査の結果が、従来の想定以上に高い数値を示したから、という理由だった。帝は、詳細の検討を経て、承認した。
 大祓の日は、卯月の初め。十日後だ。

 朔は大祓の内容を確認した。
 宮廷巫女の総力を結集した大規模な儀式。帝国の霊脈に沿って力を走らせ、広域の穢れを一度に祓う。その規模は、通常の祓いとは比較にならない。
 朔には、一つのことが引っかかった。
「この儀式の後、感情の波が大きい者への対処は、どうなるのか」
 篝に問うた。
「儀式の後に、改めてリストに基づいた個別の祓いが行われる予定だと聞いています」
「つまり、大祓で宮廷全体を清め、その後に個別に対象者の感情を祓う、ということか」
「そう理解しています」
「リストの上位者は誰か」
「……小春殿が最上位です」
 朔は少しの間、考えた。
「篝」
「はい」
「大祓の後に小春が祓いを受けると、どうなるか」
「……精霊と会話する力の根拠が、感情にあるとすれば」
「感情を祓われれば、力を失う」
「そう考えられます。力だけでなく」
「力だけでなく、何か」
「……その人が、その人でなくなるかもしれません。感情は、人格の根幹にある」
 朔は長い間、何も言わなかった。
 篝も何も言わなかった。
 部屋の外で、弥生の風が通った。

 その夜、朔は一人で庭に行った。
 月のある夜だった。冷えているが、空気が澄んでいる。
 山茶花の前に立った。
 花の色は薄い。しかしまだ、咲いている。
 朔は花を見た。
 小春がここに来る。花に話しかける。精霊の声を聞く。嬉しそうな顔をする。そういう小春のことを、朔はここ数ヶ月で観察してきた。記録してきた。把握してきた。
 それは監視だった。しかし、今、その記録を振り返ると、ただの情報として見えなかった。
 何が違うのか。
 朔は考えた。
 小春が庭に来る。山茶花を見て、花に触れて、精霊と話す。その様子を見て、朔は何かを感じていた。感じていた、という言い方が正確かどうかは分からない。しかし、他の言い方がない。
 違和感ではなかった。
 違和感は、以前感じていたものだ。理解できない行動に対する、処理できない情報への反応。それとは違う。
 何だ。
 朔は山茶花を見ながら、しばらく考えた。
 答えが来なかった。ただ、何かがあることだけは分かった。
 小春が苦しんでいることは、把握していた。千代の件の後、小春は笑っていたが、笑い方が少し違った。笑えているが、何かが薄い。精霊の声が遠くなることを、小春は感じながら毎日庭に来ている。
 それを、朔は知っている。
 知っている、ということが、何かを生み出している。その何かが、朔の中で動いていた。
 動いている。
 感情ではないかもしれない。しかし、何も感じないのとは、今は違う。
 花が弱るのを見るように、宮廷が間違った方向に向かっているのを示すように、朔の中の何かも、今、何かを示していた。
 何かを、守らなければならない、という感覚。
 それは戦場の判断ではなかった。論理の結論でもなかった。
 朔にはその感覚の名前が分からなかった。しかし、あることは分かった。
 確かに、そこに、あった。

 翌朝。
 小春が庭に来た時、朔は既にそこにいた。
 小春が驚いた顔をした。
「早いですね」
「来たかった」
 小春が少し目を細めた。
「来たかった、って言ったんですか」
「言った」
「……来たかったって、思うんですか、将軍さんも」
「どういう意味だ」
「欲しいとか、したいとか、行きたいとか。そういう気持ちが、あるんですか」
 朔は少し考えた。
「あるかどうか分からない。しかし、来た。それが何かを示している気はする」
「うん」
 小春は少し笑った。以前の笑い方に近い気がした。少し、重さが減った気がした。
「それで十分だと思います」
「何が十分なのか」
「来たいと思って、来た。それで十分です、将軍さんは」
 朔はその言葉を持った。
 十分だ、と言われることの意味が、朔には分からなかった。しかし、言われたことで何かが楽になった気がした。
 楽になった。
 その感覚も、初めてのものだった。
「小春」
「はい」
「大祓の後に、あなたへの個別の祓いが予定されている」
 小春が止まった。
「……知っていましたか」
「今知った。どうするつもりか」
「どうするって……従うしかないですよね。帝の承認を得た事業で、私には逆らう力がない」
「力があれば逆らえるか」
 小春は朔を見た。
「逆らいたい、という気持ちはありますか」
「ある」
 朔は言った。
 小春が少し驚いた顔をした。それから、ゆっくりと何かを受け取るような顔をした。
「……はい」
 小春は言った。
「逆らいたいです。まだここにいたい。花の声が聞こえなくなるのは、嫌です」
「分かった」
「将軍さん、何かするつもりですか」
 朔は少し考えた。
「まだ分からない。しかし、何かするかもしれない」
「帝の命令に逆らうことになるかもしれないですよ」
「分かっている」
「なぜ、私のためにそんなことを」
 朔は答えを探した。論理的な答えがなかった。感情的な答えも、言葉にならなかった。
「……まだ言えない」
「いつか言えますか」
「分からない。しかし、言える時が来るかもしれない」
 小春はしばらく朔を見ていた。その目が、何かを受け取っていた。朔には、小春の目がその時どんな色をしていたか、言葉では表せなかった。ただ、その色を見て、朔の中の何かが動いた。
 初めて「感情」という言葉が、自分のこととして近くなった気がした。
 まだ分からない。まだ遠い。でも、確かに近づいている気がした。
 山茶花が、弥生の朝の光の中で薄く桃色に輝いていた。