朔が小春の監視を始めて三日が経った。
その三日間で朔が把握したことは、以下の通りだ。
小春は毎朝、日の出と共に起きる。着替えと身支度を済ませ、部屋の窓を開けて外の空気を確かめる。それから廊下に出て、庭へ向かう。庭では一時間ほど過ごし、草や木に話しかけ、時折しゃがんで土を触る。午の刻を過ぎた頃に自室に戻り、昼餉を取る。午後は庭か、廊下を歩く。夕刻に再び庭を確認し、日が暮れてから部屋に戻る。
行動の規則性は高い。逸脱行動はない。宮廷の禁制区域には近づかない。接触する相手は、庭師の源蔵と、下級女官の千代くらいだ。
把握すべき異常はない。
朔には、一つ問題があった。
小春の行動が、理解できない。
いや、行動そのものは理解できる。庭に行く、草に話しかける、昼餉を取る。個々の行動は把握できる。しかし、その行動の「なぜ」が、把握できない。
なぜ踏まれた草を一本ずつ丁寧に起こすのか。
なぜ枯れた花に水を供えるのか。
なぜ雑草に話しかけて、嬉しそうな顔をするのか。
情報として記録しているが、論理的な動機が見当たらない。感情が動機を形成しているはずだが、朔にはその感情が分からない。
朔は三日目の夜、篝に報告した。
「行動に異常はない。ただ」
「ただ?」
「理解不能な行動が多い」
篝は少し楽しそうな顔をした。
「どのような」
「草に話しかけて、喜ぶ。枯れた花を丁寧に土に埋める。雨が降りそうだと言って、庭の植木鉢を軒下に移動する。雨が降らなかった場合でも、喜んで植木鉢を元に戻す」
「……なるほど」
「その行動の意図が把握できない。任務の遂行に支障はないが、記録の精度に問題がある」
篝が盃を置いた。
「殿」
「なんだ」
「人間ですよ、それ」
朔は篝を見た。
「人間とはそういうものなのか」
「そういうものです。感情で動く生き物ですから」
「感情の動機を理解するには、感情が必要ということか」
「……まあ、乱暴に言えばそうです」
篝は少し考えてから、続けた。
「しかし完全に理解できなくても、観察を続ければ見えてくることもあります。その娘がなぜそう動くのかを、感情ではなく、行動のパターンとして把握することはできる」
「それは既にやっている。しかし答えが出ない」
「では」
と篝は言った。
「答えを求めることを、少し休んでみてはどうですか」
「休む」
「全てに答えを求めなくてもいい、ということです。ただ見ていれば、分かってくることがある」
朔はその助言を処理した。答えを求めないことが、情報収集に有効かどうか。
判断できなかった。ただ、試してみることはできる。
「明日、試してみる」
「はあ」
と篝は言った。
「……将軍が人に言われて「試してみる」と言うのは、珍しいことですね」
「有効な助言だと判断した」
「そうですか」
篝は何か続けようとしたが、やめた。代わりに少し笑って、また酒を飲んだ。
四日目の朝。
朔は庭で、答えを求めないことを試みた。
小春は草に話しかけている。朔はその隣に立ち、観察する。しかしいつものように動機を探しにいくことをしない。ただ見る。
小春がしゃがんだ。霜の中から芽を出している雑草の前だ。
「すごいね。霜の中でも出てくるの?」
声は驚いていた。そして喜んでいた。
朔は顔を見た。目が少し輝いている。驚いた顔の後に、喜ぶ顔が続く。その順序が、朔には新しい観察データだった。
「驚いてから、喜ぶのか」
思わず口に出た。
小春が振り返る。
「え?」
「驚いてから、喜んでいる。その順序が毎回同じだ」
「……そうですか?気にしたことなかったです」
「なぜ驚いた後に喜ぶのか」
「うーん」
小春は少し考えた。
「予想してなかったことが起きると、まず驚いて、それが嬉しいことだと分かったら喜ぶんだと思います。霜の中で芽が出るのは、すごいことだから」
「すごいこととは」
「……難しいことを、やってのけてる、ってことです。霜は冷たくて、芽には辛い環境のはずで。でもこの子は出てきた。だから、すごい」
朔はその説明を処理した。
困難な状況で目的を達成することを「すごい」と評価する。それは理解できる。戦場での判断と似ている。しかし戦場でそれに「喜ぶ」感情を抱くことは、朔にはない。
「すごいと思うことと、喜ぶことは、別のことではないのか」
小春がまた考えた。少し難しそうな顔をした。
「……同じかどうか分からないけど、つながってる気がします。すごいと思ったら、うれしくなる。うれしいって、自分の中が明るくなる感じがして」
「自分の中が明るくなる」
「暗いより明るい方がいいから、うれしい。……うまく説明できないですけど」
朔は黙った。
明るいより暗い方がいいという理由が、朔にはなかった。明るさも暗さも、光の強度の問題に過ぎない。しかし小春にとっては、それが感情の比喩として機能している。
感情を持たないと、その比喩が分からない。
朔は初めて、自分に欠けているものの具体的な形を、うっすらと感じた。感じた、という表現が正確かどうかも分からないが、それ以外の言い方がなかった。
小春は草に向き直って、また話しかけている。
朔はその横に立ち続けた。
その夜、篝が報告を聞いた後で言った。
「今日の様子は、いつもと少し違いますね」
「そうか」
「いつもは、行動に異常なし、だけですが、今日は観察の内容が多い」
朔は考えた。確かに、今日は篝に伝える情報量が多かった。草の芽のこと、小春の表情の変化、驚きと喜びの順序、感情の比喩について。
「答えを求めるのをやめたら、見えるものが増えた」
「ほう」
「しかし答えは出ない」
「それでいいんです」
篝は言った。
「答えを求めないことの意味は、そういうことです。見えることが増える。答えは後からついてくることもあるし、来ないこともある」
「後から来ない答えは、どうするのか」
「……抱えたままにします」
「非効率だ」
「人間は、非効率なものを抱えて生きています」
朔は篝を見た。篝は真面目な顔をしていた。
「殿は、そうは思いませんか」
「私は人間ではないかもしれない」
篝が静かになった。
それは珍しいことだった。篝は通常、朔の言葉に何かしら応じる。しかし今回は少しの間、黙っていた。
「……人間ですよ、殿は」
やがて篝は言った。
「鬼の血が流れていても。人間です」
朔は答えなかった。
その夜、朔は床に就きながら、驚きと喜びの順序について、しばらく考えた。考えても答えは出なかった。しかし考えること自体を、止められなかった。
それが何を意味するのかも、朔には分からなかった。
霜月の末。
宮廷に小さな事件が続いた。
まず、東の棟の廊下に水が撒かれた。
小春が通る時間帯を狙ったように、廊下の石畳が濡れている。小春は気づかずに踏んで、足を滑らせた。転ぶほどではなかったが、草履が濡れた。
次の日は、小春の食膳に砂が混じっていた。
食べかけて気づき、それ以上食べなかった。昼餉を取れなかった。
三日目は、小春の部屋の前に縄が張られた。高さが低く、夜に廊下を歩いた時に足を引っかけるように。小春は縄に気づいて避けたが、それは偶然だった。暗がりの中で、精霊の気配が妙だと感じて足を止めたのだ。
朔はこれらを全て観察していた。
犯人の特定は難しかった。複数の人間が関与しているように見え、一人を特定しても意味がない。宮廷内の「空気」がそうさせている。命じた者があるとすれば、命令は口頭だ。証拠はない。
四日目の朝、小春は廊下で立ち止まった。
前方に、三人の女官がいた。廊下の幅いっぱいに立ち、わざと通れないようにしている。
小春は止まって、しばらく待った。女官たちは動かない。
「……すみません、通っても良いですか」
小春が言った。声は穏やかだった。
女官の一人が笑った。嘲るような笑い方だ。
「あら、聞こえなかったわ。もう一度言ってくれる?」
小春はまた言った。
「通っても良いですか」
「でも私たちも用事があって、ここを通らないといけないの。困ったわねえ」
女官たちは動かなかった。
朔は少し後ろに立って、観察していた。どう処理するのか、把握する。
小春は少しの間考えた。それから言った。
「じゃあ、私が先に行っていいですか。その後、みなさんも行けますよ」
「……は?」
「道は一つだから、どちらかが先に行くしかないですよね。私が急いでいないので、後でもいいですけど」
女官たちは顔を見合わせた。侮ることも、突き放すこともできない反応だ。小春は逆らっていない。怒ってもいない。ただ、問題の解決策を提示しただけだ。
「……先に行けばいいじゃない」
女官の一人が不機嫌そうに言い、脇に少しだけ体をずらした。
「ありがとうございます」
小春は通り抜けた。その際に、女官の一人が肩を小春にぶつけた。故意に。小春はよろけたが、転ばなかった。振り返らず、歩き続けた。
女官たちの笑い声が後ろから聞こえた。
朔は女官たちを見た。それから小春の後を追った。
庭に出てから、朔は小春に問うた。
「怒らないのか」
「怒ってます」
小春は前を向いたまま言った。
「少し」
「少し怒っているなら、なぜ怒った顔をしないのか」
「顔に出すと、向こうが喜ぶから」
朔はその論理を処理した。感情の表出を抑制することで、相手の目的を達成させないという戦略だ。それは論理的だ。
「ではなぜ、ありがとうございますと言ったのか」
「通してもらったから」
「それは強制的に通させただけだ。感謝すべきことではない」
小春が立ち止まって、朔を見た。
「……将軍さんは、形がどうであれ、結果が良ければいいと思うんですか」
「そうではないか」
「私は、ちょっと違うかな」小春は少し考えてから言った。「私がありがとうございますと言うのは、私が感謝したいからです。相手がどういうつもりだったかじゃなくて、通してもらったことは事実だから、それに対して」
「相手の意図を無視するのか」
「無視してるわけじゃないです。ただ、相手の意図によって私の感謝の気持ちを変える理由がない、ということです」
朔はその論理の構造を解析しようとした。しかし途中で引っかかった。
「感謝の気持ちとは、自分の内側から発生するものなのか」
「そうじゃないですか」
「私は感謝を、相手の行為への評価として認識していた」
「それも感謝だと思いますけど……」
小春はまた考えた。その考える顔は、怒っているわけでも困っているわけでもなく、真剣に何かを整理しようとしている顔だった。
「将軍さんって、全部、外側で判断するんですね」
「外側とは」
「相手の行為がどうだったかで、自分の感情を決める。でも私の感謝は、外側と関係ない場所から来てる気がするんです。相手が嫌な人でも、結果的に通してもらったことへの、自分の中の気持ち、みたいな」
朔は長い間、考えた。
感情が内側から来る、という感覚を、朔は持っていない。感情がないからだ。しかし小春の説明は、感情の発生が外部の評価とは独立している、ということを示している。それは朔の理解の外側にある。
「……よく分からんが、把握した」
小春がふっと笑った。
「把握した、って言い方、面白いですね」
「何が」
「感情の話を、把握した、って」
朔にはその何が面白いのかが分からなかった。しかし、小春が笑ったことは記録した。
その日の夕方、水を撒いた廊下の事件について、朔は宮廷の管理担当に申し立てた。
「廊下の水撒きを取り締まれ。転倒事故が起きれば管理責任の問題になる」
感情ではなく、管理上の問題として処理した。
夜に篝に報告したところ、篝は少し目を細めた。
「廊下の水撒きに申し立てをされたそうですね」
「管理上の問題だ」
「……あの娘のためではなく?」
「管理上の問題だ」
「はあ」
篝は言った。
「そうですか」
その後篝は何も言わなかった。ただ、少し穏やかな顔をしていた。
朔はその顔の意味が分からなかったが、問わなかった。
師走の初め。
小春は千代に声をかけられた。
千代は小春と同い年くらいの下級女官で、これまでも小さな親切を示してきた。しかし言葉を交わしたことはなかった。
「あの、小春様」
廊下の端で、千代は小声で言った。
「はい」
「今度の大晦日の清め祭で、花を供える役を、小春様に頼めないかって話があって。帝がお望みだと聞きました」
小春は驚いた。
「私に?」
「はい。花の精霊と話せる方に、花を選んでいただければと」
小春は少し考えた。清め祭は、帝国が年に一度行う大きな儀式だ。宮廷中の穢れを払い、新年を迎えるための儀式。その場に花を供える役割を与えられることは、小さな仕事だが、宮廷での役割を初めて与えられることを意味した。
「……やります」
「よかった」
千代が少し安堵した顔をした。
「あの、私が言うようなことじゃないんですけど、気をつけてください。綾女様が、あまりよく思っておられないみたいで」
「知ってます」
「それでも、帝のご意向だから止められないはずで。でも、何か妨害があるかもしれないので」
小春は千代を見た。ここまで言ってくれる人が、この宮廷にいることが、少し嬉しかった。
「ありがとうございます。千代さん、いつも気にかけてくれてますよね」
千代が少し驚いた顔をした。
「……気づいてましたか」
「はい。廊下で道を教えてくれた時とか、食事の量が減ってた時に厨房に言ってくれた時とか」
「あれはその……誰でも気づけば言いますよ」
千代は俯いたが、顔が少し赤くなっていた。
「誰でもは言わないです、ここでは」
小春は静かに言った。事実として。
千代はしばらく黙っていた。それから、頑張ってくださいと言い、足早に去った。
朔はこの会話を、少し離れたところで聞いていた。記録する。
誰でもは言わない、ここでは。
小春の言葉が、頭に残った。
師走の半ば。
宮廷に雪が降った。
初雪だった。朝の庭が白く覆われ、木々の枝に雪が積もった。小春はいつもより早く目を覚まし、窓を開けて雪を見た。顔が嬉しそうになり、それから困ったような顔になった。
庭の草が心配と言ったのを、廊下を通りかかった朔が聞いた。
「行くのか」
「行きたいけど、雪の庭に入っていいのかな」
「禁じられてはいない」
「じゃあ行きます」
二人で雪の庭に出た。
小春は雪を踏むたびに、その感触を確かめるように歩いた。急いでいない。草の様子を見て回り、雪に埋もれた小さな芽を手で覆って、温度を伝えようとしていた。
「雪の下は、意外と暖かいって言ってます」
「雪が断熱材として機能するからだ」
「そうなんですか」
小春が驚いた顔をした。
「じゃあ、雪って優しいんですね」
「断熱材が優しいとは言わない」
「でも結果として、草が寒さから守られてるんだから、優しいと思います。意図してなくても」
朔はその論理を記録した。意図のない行為に「優しさ」を付与する思考回路。感情的な解釈の一形態だ。
雪の庭は静かだった。雪が音を吸収するせいで、宮廷の気配が遠くなる。二人の足音だけが、柔らかくあった。
その日の夕刻。
朔が東の棟の廊下を通ると、小春の部屋の前で、女官が膳を置いて立ち去るところだった。
小春が部屋から出て来て、膳を見た。
「将軍さん、一緒に食べますか」
唐突な申し出だった。
朔は考えた。監視の任務として、対象と同じ空間で食事を取ることは、情報収集の観点から有益かもしれない。または逆に、監視の中立性に問題が生じるかもしれない。
「私は食事をここで取る習慣がない」
「そうですか。でも夕餉はまだですよね」
「食事の場所に習慣はない」
「じゃあいいじゃないですか」
論理が奇妙だと思ったが、反論する根拠がなかった。
「……構わん」
小春の部屋に入った。
六畳ほどの小さな部屋だ。窓が一つあり、その下に小さな棚がある。棚の上に、源蔵が持ってきたらしい小さな鉢植えが一つ。水を供えた枯れ花の残りが、隅に丁寧に置いてある。それ以外に、目立つ装飾はない。
小春は膳を部屋の中央に置き、向かい合う形で座った。朔は少し考えてから、同じように座った。
二人の膳が並んだ。
小春は手を合わせた。いただきます、と小声で言った。
朔は箸を取った。
しばらく、無音だった。
食べる音だけがある。宮廷の夕暮れが、窓から差し込んでいる。師走の光は橙で、部屋を少し暖かな色に染める。
「…………」
「…………」
沈黙は、不快ではなかった。朔にとって沈黙は通常の状態だ。人と食事を取る習慣がないから、比較対象もない。
小春が先に口を開いた。
「将軍さんって、お酒は飲まないんですか」
「飲まない」
「甘いものは?」
「必要を感じない」
「おいしいとか、まずいとか、感じますか」
朔は少し考えた。
「食べ物の違いは感じる。しかし旨い、という喜びがあるかどうかは分からない」
「そうですか」
小春は少しの間、箸を持ったまま朔を見ていた。哀れむ顔ではなかった。ただ、何かを考えている顔だった。
「おいしいって、楽しいですよ」
小春が言った。
「楽しいとはどういうことか」
「うーん……自分の外側のものが、自分の中に入ってきて、それが嬉しい感じで、ってことなのかな。食べ物が体の中で暖かくなるの、分かりますか」
「体温上昇は感じる」
「それです。あの感じが、おいしいだと思います。私は」
朔は手元の椀を見た。雪の日の夕食で、根菜の入った汁物だ。熱い。体に入れると、確かに体の中が温かくなる感覚がある。それを、おいしいと呼ぶのか。
「……分からん」
「いつかわかります」
小春は確信したように言った。
「なぜそう言える」
「感じようとしているから」
朔は小春を見た。
「私が感じようとしているとなぜ分かる」
「さっき、手元の椀をじっと見てたから」
朔は自分の行動を振り返った。確かに、椀を見ていた。小春の言葉を受けて、何かを確認しようとしていた。
「……観察しただけだ」
「観察も感じることの一つだと思います」
小春はそう言って、また食事を続けた。
朔も食事を続けた。
沈黙が戻った。しかし最初の沈黙とは、少し違った。何かが変わっている気がした。何かが、とは言えないが。
夕の光が、窓から少しずつ消えていった。
食事が終わり、朔が部屋を出る前に、小春が言った。
「また来てもいいですか」
「……何のためだ」
「一緒に食べると、もう少しゆっくり食べられる気がして。いつも急いで食べちゃうんですけど、誰かと食べると、ゆっくりになります」
朔は考えた。対象との接触が増えることは、情報収集の観点から有益だ。任務の範囲内と判断できる。
「……構わん」
「ありがとうございます」
朔は廊下に出た。
夜の廊下は冷えている。雪の日の空気だ。朔は自分の部屋に戻りながら、食事の会話を反芻した。
おいしいとは何か。感じようとしていたこと。観察も感じることの一つ。
処理できない情報が、また増えた。しかし今夜は、それを不快に思わなかった。
それが何を意味するのかも、分からなかった。
師走の下旬。
清め祭まで十日を切った。
小春は庭の花の選定を始めていた。帝国の清め祭には、特定の花を供える習慣がある。霊的な力を持つとされる花々を、季節と意図に合わせて選ぶのが本来の作法だ。しかし小春のやり方は、少し違った。
「花に聞くんです」
源蔵がそう説明するのを、朔は隣で聞いた。
「どれが清め祭に合っているかを、花に。感じてる花が、自分で分かるみたいで」
「花が自分で分かるとはどういうことか」
「私にも詳しくは分かりません。ただ、この娘が庭を歩くと、一部の花の気配が変わります。応じている、というか」
朔は小春を観察した。小春は庭の隅々を歩き、時折立ち止まって、しゃがんだり、茎の近くに顔を寄せたりしている。
冬の庭に咲く花は少ない。しかし全くないわけではない。山茶花、蝋梅、寒椿。冬の花は地味だが、確かに存在する。
小春が立ち止まった場所に、白い小さな花があった。
「この子が来たいって言ってます」
「来たい?」
「清め祭に供えられたいって。……変ですね、花が希望を持つなんて」
「変ではないか」
小春が少し驚いた顔をした。
「変じゃないですか?」
「花が精霊としての意思を持つなら、希望を持つことは矛盾しない」
「……論理的に考えると、そうなんですか」
「そうだ」
小春は少し笑った。
「将軍さんが、花が希望を持つことを変じゃないって言ってくれるとは思わなかったです」
「事実の可能性を否定する根拠がない」
「そういう言い方でも、嬉しいです」
翌日、小春は選んだ花を源蔵と一緒に世話しながら、花の名前を朔に教えた。
「これが山茶花。これが蝋梅。あっちが寒椿」
「名前は知っている」
「でも花を見て、すぐに名前が出ますか」
朔は考えた。
「出ない」
「どうやって覚えるんですか。花を、花として覚えるには」
「必要がなかった。花は戦場にない」
「そうか」
小春は少し考えた。
「じゃあ、今から覚えますか」
「必要があれば覚える」
「必要じゃなくても、知っていたら楽しいかもしれませんよ」
朔は少し考えた。
「楽しいかどうかは判断できない」
「じゃあ試しに。これが山茶花です」
小春は山茶花の前に立った。濃い桃色の花で、一重の花弁が椿に似ている。小春は花の名前を言い、それから花に向かって「よろしくね」と言った。
「山茶花、だ」
朔は繰り返した。
「正しいです。では次、これが」
「蝋梅だ」
「え、もう分かるんですか」
「名前は知っていた。外見と名前が一致しなかっただけだ」
「……ああ、そういうことですか」
小春は少し笑ってから、真面目な顔になった。
「花の名前って、面白くないですか。山茶花は字で書くと、山の茶の花で、でも茶の花じゃなくて、中国から来た名前が変化したものらしくて。蝋梅は蝋みたいな花弁、寒椿は寒い時期の椿。どれも、花のことをちゃんと見てつけた名前だと思って」
「名前の由来まで把握しているのか」
「里の人に教えてもらいました。名前の意味を知ると、花が近くなる感じがして。名前って、関係の始まりだと思うんです」
「関係の始まり」
「知らないものには、名前をつけないじゃないですか。名前をつけるのは、知った証拠で、知ることは関係の始まりで」
朔はその論理を処理した。
「では、名前を知らない花は、関係が始まっていないのか」
「始まってないというより、まだ始まっていない、かな」
「違いが分からん」
「始まってないは終わってる感じがして、まだ始まっていないは、これから始まる可能性がある感じ」
朔は黙って、山茶花を見た。
山茶花。
ただの音の列として知っていた名前が、今は少し違う重さを持っていた。花を見ながら名前を呼べば、そこに何かが生まれる感じがした。感じ、という感覚が朔には本来ないはずだが、それ以外の言い方がなかった。
「……花の名前を覚えることに、意味があるかもしれない」
「ほんとですか」
小春が少し嬉しそうな顔をした。
「じゃあ教えます。全部」
「全部とは」
「私の知ってる花、全部」
「どのくらいある」
「百くらい」
朔は少し考えた。百種類の花の名前と外見の対応を記憶することは、技術的には難しくない。しかしそれが何のためになるのかは、まだ分からない。
「……始めるか」
「はい!」
小春が元気よく言った。
朔はその元気よさの正体も、分からないままだった。
その夜、篝に報告した。
「花の名前を覚えることになった」
「……それは、任務の範囲内ですか」
「情報収集の一環だ。花の精霊と会話する力の性質を理解するために、花への知識は必要かもしれない」
「そうですね」
篝は言ったが、何か堪えているような顔をしていた。
「何か問題か」
「いいえ。全く問題ありません」
篝は真面目な顔で言ったが、目に笑いがあった。
朔はその理由が分からなかったが、問うことをしなかった。
師走の終わり。
篝が小春に初めて直接話しかけたのは、庭での偶然の出会いだった。
朔が宮廷の会議に出ている間、篝は朔の代わりに東の棟を見回りしていた。庭を通ると、小春が一人で雪を払いながら鉢植えの世話をしていた。
「花巫女殿」
小春が振り返った。篝の顔を見て、少し警戒した顔をした。将軍の副官という認識はあるのだろう。
「篝と申します。殿……将軍の副官です」
「はい、知ってます」
「驚かせましたか」
「少し。何か、あったんですか」
「いいえ。ただ、巡回の途中で。少し話しかけてもよいですか」
小春は少し考えてから、どうぞと言った。
篝は小春の前に立った。
「将軍の監視役として、最近どうですか」
「どうとは」
「困ることはないか、という意味です。将軍は人への配慮が苦手で」
「困ってはないです。言葉が少ないけど、分かりやすいので」
「分かりやすい」
「はい。何を考えてるか、ちゃんと言ってくれます。嫌な顔して何も言わないより、分かりやすい」
篝は少し驚いた。
「将軍のことをそう言う人は、初めて見ました」
「そうなんですか?」
「多くの人は、将軍のことを恐ろしいと言います。あるいは、近づきがたいと」
小春は少し考えた。
「恐ろしくはないです。ただ、何も感じない方から何かを感じてもらおうとするのは、難しいなって思いますけど」
「感じてもらおうとしているのですか」
「……なんとなく」
小春は少し困った顔をした。
「いつかわかる、って言っちゃったので、責任があるかなって」
「いつかわかる、とは」
「おいしいって楽しいって言ったら、わからん、って言われたんです。でも、いつかわかりますって言っちゃって」
篝はしばらく黙っていた。
将軍が、食事の場でそんな会話をしている。それ自体が、篝には驚きだった。
その日の夜、篝は朔に問うた。
「殿はこのままでいいのですか」
会議の後の、二人きりの部屋でのことだ。
朔は篝を見た。
「このままとはどういう意味だ」
「感情を切り離したまま、という意味です」
「それで十分だ。戦は勝てる」
「戦以外のことは?」
「戦以外のことに、私の力は必要ない」
「しかし」
篝は少し言い淀んだ。
「最近の殿を見ていると、何かが変わっている気がします」
「何が変わった」
「言動が、少し違う。花の名前を覚えている。食事を東の棟で取ることがある。廊下の水撒きに申し立てをした」
「全て任務の範囲内だ」
「そうかもしれません。しかし、それ以前の殿なら、廊下の水撒きは管理上の問題として処理しても、申し立てまではしなかった気がします」
朔は少し考えた。
篝の観察は正しいかもしれない。申し立ては、管理上の問題として動いたが、その動機の根源を問われれば、答えが曖昧だ。
「……問題か」
「問題ではありません。むしろ」
篝は言葉を選んだ。
「私は、殿が変わることを、ずっと望んでいました」
「なぜ」
篝は少しの間、答えなかった。
「殿を尊敬しています。この国で最も優れた将軍だと思っています。しかし、その優れた将軍が何を守っているのかを、殿自身が知らないまま戦い続けることが、私には何年もかけて、少しずつ、悲しくなっていました」
「悲しいとは」
「感情ですよ。私にはあります。殿にはないかもしれないが、私にはある」
部屋が静かになった。
「あの娘と接していて、殿が変わっているとしたら」
篝は続けた。
「それは、よいことだと思っています。私は」
朔は答えなかった。
変わっているかどうか、自分では分からない。しかし篝がそう言うなら、外側から見て何かが違うのかもしれない。
「……報告は以上か」
「はい」
「明日の予定を確認する」
「はい、殿」
篝が資料を取り出した。いつもの業務に戻った。
しかし篝の目には、いつもと少し違う色があった。それが何かを、朔には分からなかった。
正月の前日。
朔は一人で庭に出た。監視の任務ではなく、ただそこへ行きたかった。
そういう感覚が生じたことに、朔は少し戸惑った。行きたい、という欲求が、いつ発生したのか分からない。気づいたら庭へ向かっていた。
庭は夜の静けさの中にあった。雪は昨日で止み、今夜は晴れている。星が多い。
山茶花が、一輪だけ咲いていた。
朔はその前に立った。
山茶花。
小春が教えた名前だ。名前の由来は「山の茶の花」で、実際は椿の仲間で、中国由来の名前が変化したものだと言っていた。
朔は花を見た。
濃い桃色の花弁が、夜の中で静かにある。
きれいだ。
その言葉が、思考の中に浮かんだ。
浮かんだだけで、感じたわけではない。少なくとも、以前の朔なら、そう処理した。しかし今夜は、その言葉が浮かんだことを、すぐに否定できなかった。
きれいだ、という思考が、感情に隣接している気がした。感情ではないが、感情の影のようなものが、そこにある気がした。
朔はしばらく山茶花の前に立っていた。
誰も来なかった。庭は静かだった。
やがて朔は部屋に戻った。
その夜の記録に、「異常なし」とだけ記した。
正月。
清め祭が、三日後に迫っていた。
小春が選んだ花は、源蔵の管理のもと、清め祭用の部屋に移されていた。山茶花、蝋梅、寒椿、そしていくつかの珍しい冬草。どれも小春が花に聞いて選んだものだ。
清め祭への小春の関与を、綾女は快く思っていなかった。しかし帝の意向として決定した以上、直接の妨害はできない。そのかわりに、宮廷の空気が変わっていた。
女官たちの目が、より冷たくなった。小春が廊下を通ると、口を閉じる。会話が止まる。あからさまな嫌がらせはないが、存在を認めない空気がある。
千代はその中で、一人だけ小春に会釈をした。
それだけでも、周囲からの視線が千代に向いた。
清め祭の前日の夜。
千代は廊下で女官頭に呼ばれた。
女官頭は年長の女官で、宮廷の秩序を守る役割を持つ。綾女の意向を汲んで動くことが多い。
「千代、あなたは花巫女の娘と親しいそうですね」
「……親しいわけではありません。ただ、同じ棟に詰めているので」
「綾女様がお気にしております。あの娘は宮廷の秩序に合わない存在だと。それに近づく者も、同様に見られることになります」
千代は答えなかった。
「明日の清め祭で、あの娘が粗相をすれば、帝のご信任も失われる。あなたがもし、あの娘の行動を前もって教えてくれれば、それは宮廷への貢献になる」
「……行動を、教える」
「あの娘が何をしようとしているのか。何を考えているのか。それだけでいい」
千代は視線を落とした。
「……考えさせてください」
「時間はありません。明日の朝までに答えを」
女官頭は去った。
千代は廊下に一人残った。
夜の廊下は冷えていた。遠くで風の音がする。
千代には分かっていた。これは踏み絵だ。小春を裏切ることで、自分の身の安全を確保する機会。拒めば、千代自身が次の標的になるかもしれない。
千代は小春のことを思った。
廊下で道を教えた時の、小春の顔。気づいてましたか、と驚いた時の顔。誰でもは言わない、ここでは、と言われた時の、小春の声。
それを思い浮かべながら、千代はどうすべきかを考えた。
答えは、その夜のうちには出なかった。
清め祭の朝。
小春は早起きして庭に行った。
花の最後の確認をするためだ。清め祭に供える花たちが、当日の朝に何を感じているか。それを聞きたかった。
庭に出ると、花はいつも通りに咲いていた。雪もなく、風もなく、冬の朝の静けさの中に。
「準備できてる?」
花に聞いた。
精霊の声は穏やかだった。準備ができている、という気配がした。それで小春は安堵した。
朔はその様子を、庭の入り口から見ていた。
小春が振り返った。
「将軍さんも早いですね」
「清め祭は宮廷の重要な行事だ。警戒の必要がある」
「私のことも、警戒してるんですか」
「している」
「……正直ですね」
「嘘をつく理由がない」
小春は少し笑ってから、花の前に戻った。
「ねえ、将軍さん」
「なんだ」
「清め祭が終わったら、私、どうなるんでしょう」
朔は考えた。それは朔の権限外の問題だ。帝の判断に依る。
「分からん」
「うまくいけば、正式に役割をもらえるのかな。うまくいかなければ、追い出されるのかな」
「どちらを望むのか」
「いられる方がいいです。庭の花、また来年も見たいし、源蔵さんともまだ話したいし」
小春は少し間を置いた。
「将軍さんとも、まだ花の名前を覚えてる途中だし」
朔はその言葉を処理した。
まだ途中。それは、終わっていない、という意味だ。終わっていないことを、終わらせたくない、ということを示している。
「……覚えるのは三十二種類で止まっている」
「そうです。まだ六十八種類残ってます」
「それは把握している」
「じゃあ、続きがありますよ」
朔は少し考えた。
「そうだな」
それだけ言った。
小春は花の方を向いた。朔は庭の入り口に立ち続けた。
清め祭の朝の庭に、二人分の気配があった。
その空気が冷たいのか暖かいのか、朔にはまだ分からなかった。しかし、どちらでもない何かがそこにある気がした。
清め祭の準備が始まった宮廷の廊下で、千代は小春とすれ違った。
小春は花を抱えて、祭りの場へ向かっていた。清め祭用の花束を、丁寧に持っている。
「千代さん、おはようございます」
小春が言った。いつもと変わらない声で。
千代は答えた。
「おはようございます」
小春は通り過ぎた。
千代はその後ろ姿を見た。
昨夜、千代は決めた。女官頭には、何も聞いていないと答えた。小春が何かを企んでいるような様子は見られない、と。
それは嘘ではなかった。本当に何も聞いていないし、小春は何も企んでいない。
しかしその答えが、自分を守るために正しい選択かどうかは、千代にはまだ分からなかった。
正しいことをした、とは思えなかった。ただ、できることをした、という感覚だった。
廊下を、清め祭の準備の人々が行き交っていた。千代はその中に交じって、自分の持ち場へ戻った。
後ろを振り返らなかった。
清め祭は、つつがなく始まった。
しかしそれは、また別の話だ。
今は、師走の終わりから正月の初めにかけて、宮廷の中で何かが少しずつ変わっていたことを、ここに記しておく。
感情のない将軍が、花の名前を覚えた。
感情を持て余す副官が、自分の悲しみに名前をつけた。
誰も頼んでいないのに親切にしていた女官が、その親切の重さを初めて感じた。
花と話す娘は、宮廷の冷たさの中で、まだそこに居続けた。
それらは小さなことで、宮廷の大きな秩序の中では見えないほど小さなことだった。
しかし、花は小さな隙間から芽を出す。
踏まれた草も、根が残っていれば、また起き上がる。
宮廷の春は、まだ遠い。しかし何かが、確かに始まっていた。
その三日間で朔が把握したことは、以下の通りだ。
小春は毎朝、日の出と共に起きる。着替えと身支度を済ませ、部屋の窓を開けて外の空気を確かめる。それから廊下に出て、庭へ向かう。庭では一時間ほど過ごし、草や木に話しかけ、時折しゃがんで土を触る。午の刻を過ぎた頃に自室に戻り、昼餉を取る。午後は庭か、廊下を歩く。夕刻に再び庭を確認し、日が暮れてから部屋に戻る。
行動の規則性は高い。逸脱行動はない。宮廷の禁制区域には近づかない。接触する相手は、庭師の源蔵と、下級女官の千代くらいだ。
把握すべき異常はない。
朔には、一つ問題があった。
小春の行動が、理解できない。
いや、行動そのものは理解できる。庭に行く、草に話しかける、昼餉を取る。個々の行動は把握できる。しかし、その行動の「なぜ」が、把握できない。
なぜ踏まれた草を一本ずつ丁寧に起こすのか。
なぜ枯れた花に水を供えるのか。
なぜ雑草に話しかけて、嬉しそうな顔をするのか。
情報として記録しているが、論理的な動機が見当たらない。感情が動機を形成しているはずだが、朔にはその感情が分からない。
朔は三日目の夜、篝に報告した。
「行動に異常はない。ただ」
「ただ?」
「理解不能な行動が多い」
篝は少し楽しそうな顔をした。
「どのような」
「草に話しかけて、喜ぶ。枯れた花を丁寧に土に埋める。雨が降りそうだと言って、庭の植木鉢を軒下に移動する。雨が降らなかった場合でも、喜んで植木鉢を元に戻す」
「……なるほど」
「その行動の意図が把握できない。任務の遂行に支障はないが、記録の精度に問題がある」
篝が盃を置いた。
「殿」
「なんだ」
「人間ですよ、それ」
朔は篝を見た。
「人間とはそういうものなのか」
「そういうものです。感情で動く生き物ですから」
「感情の動機を理解するには、感情が必要ということか」
「……まあ、乱暴に言えばそうです」
篝は少し考えてから、続けた。
「しかし完全に理解できなくても、観察を続ければ見えてくることもあります。その娘がなぜそう動くのかを、感情ではなく、行動のパターンとして把握することはできる」
「それは既にやっている。しかし答えが出ない」
「では」
と篝は言った。
「答えを求めることを、少し休んでみてはどうですか」
「休む」
「全てに答えを求めなくてもいい、ということです。ただ見ていれば、分かってくることがある」
朔はその助言を処理した。答えを求めないことが、情報収集に有効かどうか。
判断できなかった。ただ、試してみることはできる。
「明日、試してみる」
「はあ」
と篝は言った。
「……将軍が人に言われて「試してみる」と言うのは、珍しいことですね」
「有効な助言だと判断した」
「そうですか」
篝は何か続けようとしたが、やめた。代わりに少し笑って、また酒を飲んだ。
四日目の朝。
朔は庭で、答えを求めないことを試みた。
小春は草に話しかけている。朔はその隣に立ち、観察する。しかしいつものように動機を探しにいくことをしない。ただ見る。
小春がしゃがんだ。霜の中から芽を出している雑草の前だ。
「すごいね。霜の中でも出てくるの?」
声は驚いていた。そして喜んでいた。
朔は顔を見た。目が少し輝いている。驚いた顔の後に、喜ぶ顔が続く。その順序が、朔には新しい観察データだった。
「驚いてから、喜ぶのか」
思わず口に出た。
小春が振り返る。
「え?」
「驚いてから、喜んでいる。その順序が毎回同じだ」
「……そうですか?気にしたことなかったです」
「なぜ驚いた後に喜ぶのか」
「うーん」
小春は少し考えた。
「予想してなかったことが起きると、まず驚いて、それが嬉しいことだと分かったら喜ぶんだと思います。霜の中で芽が出るのは、すごいことだから」
「すごいこととは」
「……難しいことを、やってのけてる、ってことです。霜は冷たくて、芽には辛い環境のはずで。でもこの子は出てきた。だから、すごい」
朔はその説明を処理した。
困難な状況で目的を達成することを「すごい」と評価する。それは理解できる。戦場での判断と似ている。しかし戦場でそれに「喜ぶ」感情を抱くことは、朔にはない。
「すごいと思うことと、喜ぶことは、別のことではないのか」
小春がまた考えた。少し難しそうな顔をした。
「……同じかどうか分からないけど、つながってる気がします。すごいと思ったら、うれしくなる。うれしいって、自分の中が明るくなる感じがして」
「自分の中が明るくなる」
「暗いより明るい方がいいから、うれしい。……うまく説明できないですけど」
朔は黙った。
明るいより暗い方がいいという理由が、朔にはなかった。明るさも暗さも、光の強度の問題に過ぎない。しかし小春にとっては、それが感情の比喩として機能している。
感情を持たないと、その比喩が分からない。
朔は初めて、自分に欠けているものの具体的な形を、うっすらと感じた。感じた、という表現が正確かどうかも分からないが、それ以外の言い方がなかった。
小春は草に向き直って、また話しかけている。
朔はその横に立ち続けた。
その夜、篝が報告を聞いた後で言った。
「今日の様子は、いつもと少し違いますね」
「そうか」
「いつもは、行動に異常なし、だけですが、今日は観察の内容が多い」
朔は考えた。確かに、今日は篝に伝える情報量が多かった。草の芽のこと、小春の表情の変化、驚きと喜びの順序、感情の比喩について。
「答えを求めるのをやめたら、見えるものが増えた」
「ほう」
「しかし答えは出ない」
「それでいいんです」
篝は言った。
「答えを求めないことの意味は、そういうことです。見えることが増える。答えは後からついてくることもあるし、来ないこともある」
「後から来ない答えは、どうするのか」
「……抱えたままにします」
「非効率だ」
「人間は、非効率なものを抱えて生きています」
朔は篝を見た。篝は真面目な顔をしていた。
「殿は、そうは思いませんか」
「私は人間ではないかもしれない」
篝が静かになった。
それは珍しいことだった。篝は通常、朔の言葉に何かしら応じる。しかし今回は少しの間、黙っていた。
「……人間ですよ、殿は」
やがて篝は言った。
「鬼の血が流れていても。人間です」
朔は答えなかった。
その夜、朔は床に就きながら、驚きと喜びの順序について、しばらく考えた。考えても答えは出なかった。しかし考えること自体を、止められなかった。
それが何を意味するのかも、朔には分からなかった。
霜月の末。
宮廷に小さな事件が続いた。
まず、東の棟の廊下に水が撒かれた。
小春が通る時間帯を狙ったように、廊下の石畳が濡れている。小春は気づかずに踏んで、足を滑らせた。転ぶほどではなかったが、草履が濡れた。
次の日は、小春の食膳に砂が混じっていた。
食べかけて気づき、それ以上食べなかった。昼餉を取れなかった。
三日目は、小春の部屋の前に縄が張られた。高さが低く、夜に廊下を歩いた時に足を引っかけるように。小春は縄に気づいて避けたが、それは偶然だった。暗がりの中で、精霊の気配が妙だと感じて足を止めたのだ。
朔はこれらを全て観察していた。
犯人の特定は難しかった。複数の人間が関与しているように見え、一人を特定しても意味がない。宮廷内の「空気」がそうさせている。命じた者があるとすれば、命令は口頭だ。証拠はない。
四日目の朝、小春は廊下で立ち止まった。
前方に、三人の女官がいた。廊下の幅いっぱいに立ち、わざと通れないようにしている。
小春は止まって、しばらく待った。女官たちは動かない。
「……すみません、通っても良いですか」
小春が言った。声は穏やかだった。
女官の一人が笑った。嘲るような笑い方だ。
「あら、聞こえなかったわ。もう一度言ってくれる?」
小春はまた言った。
「通っても良いですか」
「でも私たちも用事があって、ここを通らないといけないの。困ったわねえ」
女官たちは動かなかった。
朔は少し後ろに立って、観察していた。どう処理するのか、把握する。
小春は少しの間考えた。それから言った。
「じゃあ、私が先に行っていいですか。その後、みなさんも行けますよ」
「……は?」
「道は一つだから、どちらかが先に行くしかないですよね。私が急いでいないので、後でもいいですけど」
女官たちは顔を見合わせた。侮ることも、突き放すこともできない反応だ。小春は逆らっていない。怒ってもいない。ただ、問題の解決策を提示しただけだ。
「……先に行けばいいじゃない」
女官の一人が不機嫌そうに言い、脇に少しだけ体をずらした。
「ありがとうございます」
小春は通り抜けた。その際に、女官の一人が肩を小春にぶつけた。故意に。小春はよろけたが、転ばなかった。振り返らず、歩き続けた。
女官たちの笑い声が後ろから聞こえた。
朔は女官たちを見た。それから小春の後を追った。
庭に出てから、朔は小春に問うた。
「怒らないのか」
「怒ってます」
小春は前を向いたまま言った。
「少し」
「少し怒っているなら、なぜ怒った顔をしないのか」
「顔に出すと、向こうが喜ぶから」
朔はその論理を処理した。感情の表出を抑制することで、相手の目的を達成させないという戦略だ。それは論理的だ。
「ではなぜ、ありがとうございますと言ったのか」
「通してもらったから」
「それは強制的に通させただけだ。感謝すべきことではない」
小春が立ち止まって、朔を見た。
「……将軍さんは、形がどうであれ、結果が良ければいいと思うんですか」
「そうではないか」
「私は、ちょっと違うかな」小春は少し考えてから言った。「私がありがとうございますと言うのは、私が感謝したいからです。相手がどういうつもりだったかじゃなくて、通してもらったことは事実だから、それに対して」
「相手の意図を無視するのか」
「無視してるわけじゃないです。ただ、相手の意図によって私の感謝の気持ちを変える理由がない、ということです」
朔はその論理の構造を解析しようとした。しかし途中で引っかかった。
「感謝の気持ちとは、自分の内側から発生するものなのか」
「そうじゃないですか」
「私は感謝を、相手の行為への評価として認識していた」
「それも感謝だと思いますけど……」
小春はまた考えた。その考える顔は、怒っているわけでも困っているわけでもなく、真剣に何かを整理しようとしている顔だった。
「将軍さんって、全部、外側で判断するんですね」
「外側とは」
「相手の行為がどうだったかで、自分の感情を決める。でも私の感謝は、外側と関係ない場所から来てる気がするんです。相手が嫌な人でも、結果的に通してもらったことへの、自分の中の気持ち、みたいな」
朔は長い間、考えた。
感情が内側から来る、という感覚を、朔は持っていない。感情がないからだ。しかし小春の説明は、感情の発生が外部の評価とは独立している、ということを示している。それは朔の理解の外側にある。
「……よく分からんが、把握した」
小春がふっと笑った。
「把握した、って言い方、面白いですね」
「何が」
「感情の話を、把握した、って」
朔にはその何が面白いのかが分からなかった。しかし、小春が笑ったことは記録した。
その日の夕方、水を撒いた廊下の事件について、朔は宮廷の管理担当に申し立てた。
「廊下の水撒きを取り締まれ。転倒事故が起きれば管理責任の問題になる」
感情ではなく、管理上の問題として処理した。
夜に篝に報告したところ、篝は少し目を細めた。
「廊下の水撒きに申し立てをされたそうですね」
「管理上の問題だ」
「……あの娘のためではなく?」
「管理上の問題だ」
「はあ」
篝は言った。
「そうですか」
その後篝は何も言わなかった。ただ、少し穏やかな顔をしていた。
朔はその顔の意味が分からなかったが、問わなかった。
師走の初め。
小春は千代に声をかけられた。
千代は小春と同い年くらいの下級女官で、これまでも小さな親切を示してきた。しかし言葉を交わしたことはなかった。
「あの、小春様」
廊下の端で、千代は小声で言った。
「はい」
「今度の大晦日の清め祭で、花を供える役を、小春様に頼めないかって話があって。帝がお望みだと聞きました」
小春は驚いた。
「私に?」
「はい。花の精霊と話せる方に、花を選んでいただければと」
小春は少し考えた。清め祭は、帝国が年に一度行う大きな儀式だ。宮廷中の穢れを払い、新年を迎えるための儀式。その場に花を供える役割を与えられることは、小さな仕事だが、宮廷での役割を初めて与えられることを意味した。
「……やります」
「よかった」
千代が少し安堵した顔をした。
「あの、私が言うようなことじゃないんですけど、気をつけてください。綾女様が、あまりよく思っておられないみたいで」
「知ってます」
「それでも、帝のご意向だから止められないはずで。でも、何か妨害があるかもしれないので」
小春は千代を見た。ここまで言ってくれる人が、この宮廷にいることが、少し嬉しかった。
「ありがとうございます。千代さん、いつも気にかけてくれてますよね」
千代が少し驚いた顔をした。
「……気づいてましたか」
「はい。廊下で道を教えてくれた時とか、食事の量が減ってた時に厨房に言ってくれた時とか」
「あれはその……誰でも気づけば言いますよ」
千代は俯いたが、顔が少し赤くなっていた。
「誰でもは言わないです、ここでは」
小春は静かに言った。事実として。
千代はしばらく黙っていた。それから、頑張ってくださいと言い、足早に去った。
朔はこの会話を、少し離れたところで聞いていた。記録する。
誰でもは言わない、ここでは。
小春の言葉が、頭に残った。
師走の半ば。
宮廷に雪が降った。
初雪だった。朝の庭が白く覆われ、木々の枝に雪が積もった。小春はいつもより早く目を覚まし、窓を開けて雪を見た。顔が嬉しそうになり、それから困ったような顔になった。
庭の草が心配と言ったのを、廊下を通りかかった朔が聞いた。
「行くのか」
「行きたいけど、雪の庭に入っていいのかな」
「禁じられてはいない」
「じゃあ行きます」
二人で雪の庭に出た。
小春は雪を踏むたびに、その感触を確かめるように歩いた。急いでいない。草の様子を見て回り、雪に埋もれた小さな芽を手で覆って、温度を伝えようとしていた。
「雪の下は、意外と暖かいって言ってます」
「雪が断熱材として機能するからだ」
「そうなんですか」
小春が驚いた顔をした。
「じゃあ、雪って優しいんですね」
「断熱材が優しいとは言わない」
「でも結果として、草が寒さから守られてるんだから、優しいと思います。意図してなくても」
朔はその論理を記録した。意図のない行為に「優しさ」を付与する思考回路。感情的な解釈の一形態だ。
雪の庭は静かだった。雪が音を吸収するせいで、宮廷の気配が遠くなる。二人の足音だけが、柔らかくあった。
その日の夕刻。
朔が東の棟の廊下を通ると、小春の部屋の前で、女官が膳を置いて立ち去るところだった。
小春が部屋から出て来て、膳を見た。
「将軍さん、一緒に食べますか」
唐突な申し出だった。
朔は考えた。監視の任務として、対象と同じ空間で食事を取ることは、情報収集の観点から有益かもしれない。または逆に、監視の中立性に問題が生じるかもしれない。
「私は食事をここで取る習慣がない」
「そうですか。でも夕餉はまだですよね」
「食事の場所に習慣はない」
「じゃあいいじゃないですか」
論理が奇妙だと思ったが、反論する根拠がなかった。
「……構わん」
小春の部屋に入った。
六畳ほどの小さな部屋だ。窓が一つあり、その下に小さな棚がある。棚の上に、源蔵が持ってきたらしい小さな鉢植えが一つ。水を供えた枯れ花の残りが、隅に丁寧に置いてある。それ以外に、目立つ装飾はない。
小春は膳を部屋の中央に置き、向かい合う形で座った。朔は少し考えてから、同じように座った。
二人の膳が並んだ。
小春は手を合わせた。いただきます、と小声で言った。
朔は箸を取った。
しばらく、無音だった。
食べる音だけがある。宮廷の夕暮れが、窓から差し込んでいる。師走の光は橙で、部屋を少し暖かな色に染める。
「…………」
「…………」
沈黙は、不快ではなかった。朔にとって沈黙は通常の状態だ。人と食事を取る習慣がないから、比較対象もない。
小春が先に口を開いた。
「将軍さんって、お酒は飲まないんですか」
「飲まない」
「甘いものは?」
「必要を感じない」
「おいしいとか、まずいとか、感じますか」
朔は少し考えた。
「食べ物の違いは感じる。しかし旨い、という喜びがあるかどうかは分からない」
「そうですか」
小春は少しの間、箸を持ったまま朔を見ていた。哀れむ顔ではなかった。ただ、何かを考えている顔だった。
「おいしいって、楽しいですよ」
小春が言った。
「楽しいとはどういうことか」
「うーん……自分の外側のものが、自分の中に入ってきて、それが嬉しい感じで、ってことなのかな。食べ物が体の中で暖かくなるの、分かりますか」
「体温上昇は感じる」
「それです。あの感じが、おいしいだと思います。私は」
朔は手元の椀を見た。雪の日の夕食で、根菜の入った汁物だ。熱い。体に入れると、確かに体の中が温かくなる感覚がある。それを、おいしいと呼ぶのか。
「……分からん」
「いつかわかります」
小春は確信したように言った。
「なぜそう言える」
「感じようとしているから」
朔は小春を見た。
「私が感じようとしているとなぜ分かる」
「さっき、手元の椀をじっと見てたから」
朔は自分の行動を振り返った。確かに、椀を見ていた。小春の言葉を受けて、何かを確認しようとしていた。
「……観察しただけだ」
「観察も感じることの一つだと思います」
小春はそう言って、また食事を続けた。
朔も食事を続けた。
沈黙が戻った。しかし最初の沈黙とは、少し違った。何かが変わっている気がした。何かが、とは言えないが。
夕の光が、窓から少しずつ消えていった。
食事が終わり、朔が部屋を出る前に、小春が言った。
「また来てもいいですか」
「……何のためだ」
「一緒に食べると、もう少しゆっくり食べられる気がして。いつも急いで食べちゃうんですけど、誰かと食べると、ゆっくりになります」
朔は考えた。対象との接触が増えることは、情報収集の観点から有益だ。任務の範囲内と判断できる。
「……構わん」
「ありがとうございます」
朔は廊下に出た。
夜の廊下は冷えている。雪の日の空気だ。朔は自分の部屋に戻りながら、食事の会話を反芻した。
おいしいとは何か。感じようとしていたこと。観察も感じることの一つ。
処理できない情報が、また増えた。しかし今夜は、それを不快に思わなかった。
それが何を意味するのかも、分からなかった。
師走の下旬。
清め祭まで十日を切った。
小春は庭の花の選定を始めていた。帝国の清め祭には、特定の花を供える習慣がある。霊的な力を持つとされる花々を、季節と意図に合わせて選ぶのが本来の作法だ。しかし小春のやり方は、少し違った。
「花に聞くんです」
源蔵がそう説明するのを、朔は隣で聞いた。
「どれが清め祭に合っているかを、花に。感じてる花が、自分で分かるみたいで」
「花が自分で分かるとはどういうことか」
「私にも詳しくは分かりません。ただ、この娘が庭を歩くと、一部の花の気配が変わります。応じている、というか」
朔は小春を観察した。小春は庭の隅々を歩き、時折立ち止まって、しゃがんだり、茎の近くに顔を寄せたりしている。
冬の庭に咲く花は少ない。しかし全くないわけではない。山茶花、蝋梅、寒椿。冬の花は地味だが、確かに存在する。
小春が立ち止まった場所に、白い小さな花があった。
「この子が来たいって言ってます」
「来たい?」
「清め祭に供えられたいって。……変ですね、花が希望を持つなんて」
「変ではないか」
小春が少し驚いた顔をした。
「変じゃないですか?」
「花が精霊としての意思を持つなら、希望を持つことは矛盾しない」
「……論理的に考えると、そうなんですか」
「そうだ」
小春は少し笑った。
「将軍さんが、花が希望を持つことを変じゃないって言ってくれるとは思わなかったです」
「事実の可能性を否定する根拠がない」
「そういう言い方でも、嬉しいです」
翌日、小春は選んだ花を源蔵と一緒に世話しながら、花の名前を朔に教えた。
「これが山茶花。これが蝋梅。あっちが寒椿」
「名前は知っている」
「でも花を見て、すぐに名前が出ますか」
朔は考えた。
「出ない」
「どうやって覚えるんですか。花を、花として覚えるには」
「必要がなかった。花は戦場にない」
「そうか」
小春は少し考えた。
「じゃあ、今から覚えますか」
「必要があれば覚える」
「必要じゃなくても、知っていたら楽しいかもしれませんよ」
朔は少し考えた。
「楽しいかどうかは判断できない」
「じゃあ試しに。これが山茶花です」
小春は山茶花の前に立った。濃い桃色の花で、一重の花弁が椿に似ている。小春は花の名前を言い、それから花に向かって「よろしくね」と言った。
「山茶花、だ」
朔は繰り返した。
「正しいです。では次、これが」
「蝋梅だ」
「え、もう分かるんですか」
「名前は知っていた。外見と名前が一致しなかっただけだ」
「……ああ、そういうことですか」
小春は少し笑ってから、真面目な顔になった。
「花の名前って、面白くないですか。山茶花は字で書くと、山の茶の花で、でも茶の花じゃなくて、中国から来た名前が変化したものらしくて。蝋梅は蝋みたいな花弁、寒椿は寒い時期の椿。どれも、花のことをちゃんと見てつけた名前だと思って」
「名前の由来まで把握しているのか」
「里の人に教えてもらいました。名前の意味を知ると、花が近くなる感じがして。名前って、関係の始まりだと思うんです」
「関係の始まり」
「知らないものには、名前をつけないじゃないですか。名前をつけるのは、知った証拠で、知ることは関係の始まりで」
朔はその論理を処理した。
「では、名前を知らない花は、関係が始まっていないのか」
「始まってないというより、まだ始まっていない、かな」
「違いが分からん」
「始まってないは終わってる感じがして、まだ始まっていないは、これから始まる可能性がある感じ」
朔は黙って、山茶花を見た。
山茶花。
ただの音の列として知っていた名前が、今は少し違う重さを持っていた。花を見ながら名前を呼べば、そこに何かが生まれる感じがした。感じ、という感覚が朔には本来ないはずだが、それ以外の言い方がなかった。
「……花の名前を覚えることに、意味があるかもしれない」
「ほんとですか」
小春が少し嬉しそうな顔をした。
「じゃあ教えます。全部」
「全部とは」
「私の知ってる花、全部」
「どのくらいある」
「百くらい」
朔は少し考えた。百種類の花の名前と外見の対応を記憶することは、技術的には難しくない。しかしそれが何のためになるのかは、まだ分からない。
「……始めるか」
「はい!」
小春が元気よく言った。
朔はその元気よさの正体も、分からないままだった。
その夜、篝に報告した。
「花の名前を覚えることになった」
「……それは、任務の範囲内ですか」
「情報収集の一環だ。花の精霊と会話する力の性質を理解するために、花への知識は必要かもしれない」
「そうですね」
篝は言ったが、何か堪えているような顔をしていた。
「何か問題か」
「いいえ。全く問題ありません」
篝は真面目な顔で言ったが、目に笑いがあった。
朔はその理由が分からなかったが、問うことをしなかった。
師走の終わり。
篝が小春に初めて直接話しかけたのは、庭での偶然の出会いだった。
朔が宮廷の会議に出ている間、篝は朔の代わりに東の棟を見回りしていた。庭を通ると、小春が一人で雪を払いながら鉢植えの世話をしていた。
「花巫女殿」
小春が振り返った。篝の顔を見て、少し警戒した顔をした。将軍の副官という認識はあるのだろう。
「篝と申します。殿……将軍の副官です」
「はい、知ってます」
「驚かせましたか」
「少し。何か、あったんですか」
「いいえ。ただ、巡回の途中で。少し話しかけてもよいですか」
小春は少し考えてから、どうぞと言った。
篝は小春の前に立った。
「将軍の監視役として、最近どうですか」
「どうとは」
「困ることはないか、という意味です。将軍は人への配慮が苦手で」
「困ってはないです。言葉が少ないけど、分かりやすいので」
「分かりやすい」
「はい。何を考えてるか、ちゃんと言ってくれます。嫌な顔して何も言わないより、分かりやすい」
篝は少し驚いた。
「将軍のことをそう言う人は、初めて見ました」
「そうなんですか?」
「多くの人は、将軍のことを恐ろしいと言います。あるいは、近づきがたいと」
小春は少し考えた。
「恐ろしくはないです。ただ、何も感じない方から何かを感じてもらおうとするのは、難しいなって思いますけど」
「感じてもらおうとしているのですか」
「……なんとなく」
小春は少し困った顔をした。
「いつかわかる、って言っちゃったので、責任があるかなって」
「いつかわかる、とは」
「おいしいって楽しいって言ったら、わからん、って言われたんです。でも、いつかわかりますって言っちゃって」
篝はしばらく黙っていた。
将軍が、食事の場でそんな会話をしている。それ自体が、篝には驚きだった。
その日の夜、篝は朔に問うた。
「殿はこのままでいいのですか」
会議の後の、二人きりの部屋でのことだ。
朔は篝を見た。
「このままとはどういう意味だ」
「感情を切り離したまま、という意味です」
「それで十分だ。戦は勝てる」
「戦以外のことは?」
「戦以外のことに、私の力は必要ない」
「しかし」
篝は少し言い淀んだ。
「最近の殿を見ていると、何かが変わっている気がします」
「何が変わった」
「言動が、少し違う。花の名前を覚えている。食事を東の棟で取ることがある。廊下の水撒きに申し立てをした」
「全て任務の範囲内だ」
「そうかもしれません。しかし、それ以前の殿なら、廊下の水撒きは管理上の問題として処理しても、申し立てまではしなかった気がします」
朔は少し考えた。
篝の観察は正しいかもしれない。申し立ては、管理上の問題として動いたが、その動機の根源を問われれば、答えが曖昧だ。
「……問題か」
「問題ではありません。むしろ」
篝は言葉を選んだ。
「私は、殿が変わることを、ずっと望んでいました」
「なぜ」
篝は少しの間、答えなかった。
「殿を尊敬しています。この国で最も優れた将軍だと思っています。しかし、その優れた将軍が何を守っているのかを、殿自身が知らないまま戦い続けることが、私には何年もかけて、少しずつ、悲しくなっていました」
「悲しいとは」
「感情ですよ。私にはあります。殿にはないかもしれないが、私にはある」
部屋が静かになった。
「あの娘と接していて、殿が変わっているとしたら」
篝は続けた。
「それは、よいことだと思っています。私は」
朔は答えなかった。
変わっているかどうか、自分では分からない。しかし篝がそう言うなら、外側から見て何かが違うのかもしれない。
「……報告は以上か」
「はい」
「明日の予定を確認する」
「はい、殿」
篝が資料を取り出した。いつもの業務に戻った。
しかし篝の目には、いつもと少し違う色があった。それが何かを、朔には分からなかった。
正月の前日。
朔は一人で庭に出た。監視の任務ではなく、ただそこへ行きたかった。
そういう感覚が生じたことに、朔は少し戸惑った。行きたい、という欲求が、いつ発生したのか分からない。気づいたら庭へ向かっていた。
庭は夜の静けさの中にあった。雪は昨日で止み、今夜は晴れている。星が多い。
山茶花が、一輪だけ咲いていた。
朔はその前に立った。
山茶花。
小春が教えた名前だ。名前の由来は「山の茶の花」で、実際は椿の仲間で、中国由来の名前が変化したものだと言っていた。
朔は花を見た。
濃い桃色の花弁が、夜の中で静かにある。
きれいだ。
その言葉が、思考の中に浮かんだ。
浮かんだだけで、感じたわけではない。少なくとも、以前の朔なら、そう処理した。しかし今夜は、その言葉が浮かんだことを、すぐに否定できなかった。
きれいだ、という思考が、感情に隣接している気がした。感情ではないが、感情の影のようなものが、そこにある気がした。
朔はしばらく山茶花の前に立っていた。
誰も来なかった。庭は静かだった。
やがて朔は部屋に戻った。
その夜の記録に、「異常なし」とだけ記した。
正月。
清め祭が、三日後に迫っていた。
小春が選んだ花は、源蔵の管理のもと、清め祭用の部屋に移されていた。山茶花、蝋梅、寒椿、そしていくつかの珍しい冬草。どれも小春が花に聞いて選んだものだ。
清め祭への小春の関与を、綾女は快く思っていなかった。しかし帝の意向として決定した以上、直接の妨害はできない。そのかわりに、宮廷の空気が変わっていた。
女官たちの目が、より冷たくなった。小春が廊下を通ると、口を閉じる。会話が止まる。あからさまな嫌がらせはないが、存在を認めない空気がある。
千代はその中で、一人だけ小春に会釈をした。
それだけでも、周囲からの視線が千代に向いた。
清め祭の前日の夜。
千代は廊下で女官頭に呼ばれた。
女官頭は年長の女官で、宮廷の秩序を守る役割を持つ。綾女の意向を汲んで動くことが多い。
「千代、あなたは花巫女の娘と親しいそうですね」
「……親しいわけではありません。ただ、同じ棟に詰めているので」
「綾女様がお気にしております。あの娘は宮廷の秩序に合わない存在だと。それに近づく者も、同様に見られることになります」
千代は答えなかった。
「明日の清め祭で、あの娘が粗相をすれば、帝のご信任も失われる。あなたがもし、あの娘の行動を前もって教えてくれれば、それは宮廷への貢献になる」
「……行動を、教える」
「あの娘が何をしようとしているのか。何を考えているのか。それだけでいい」
千代は視線を落とした。
「……考えさせてください」
「時間はありません。明日の朝までに答えを」
女官頭は去った。
千代は廊下に一人残った。
夜の廊下は冷えていた。遠くで風の音がする。
千代には分かっていた。これは踏み絵だ。小春を裏切ることで、自分の身の安全を確保する機会。拒めば、千代自身が次の標的になるかもしれない。
千代は小春のことを思った。
廊下で道を教えた時の、小春の顔。気づいてましたか、と驚いた時の顔。誰でもは言わない、ここでは、と言われた時の、小春の声。
それを思い浮かべながら、千代はどうすべきかを考えた。
答えは、その夜のうちには出なかった。
清め祭の朝。
小春は早起きして庭に行った。
花の最後の確認をするためだ。清め祭に供える花たちが、当日の朝に何を感じているか。それを聞きたかった。
庭に出ると、花はいつも通りに咲いていた。雪もなく、風もなく、冬の朝の静けさの中に。
「準備できてる?」
花に聞いた。
精霊の声は穏やかだった。準備ができている、という気配がした。それで小春は安堵した。
朔はその様子を、庭の入り口から見ていた。
小春が振り返った。
「将軍さんも早いですね」
「清め祭は宮廷の重要な行事だ。警戒の必要がある」
「私のことも、警戒してるんですか」
「している」
「……正直ですね」
「嘘をつく理由がない」
小春は少し笑ってから、花の前に戻った。
「ねえ、将軍さん」
「なんだ」
「清め祭が終わったら、私、どうなるんでしょう」
朔は考えた。それは朔の権限外の問題だ。帝の判断に依る。
「分からん」
「うまくいけば、正式に役割をもらえるのかな。うまくいかなければ、追い出されるのかな」
「どちらを望むのか」
「いられる方がいいです。庭の花、また来年も見たいし、源蔵さんともまだ話したいし」
小春は少し間を置いた。
「将軍さんとも、まだ花の名前を覚えてる途中だし」
朔はその言葉を処理した。
まだ途中。それは、終わっていない、という意味だ。終わっていないことを、終わらせたくない、ということを示している。
「……覚えるのは三十二種類で止まっている」
「そうです。まだ六十八種類残ってます」
「それは把握している」
「じゃあ、続きがありますよ」
朔は少し考えた。
「そうだな」
それだけ言った。
小春は花の方を向いた。朔は庭の入り口に立ち続けた。
清め祭の朝の庭に、二人分の気配があった。
その空気が冷たいのか暖かいのか、朔にはまだ分からなかった。しかし、どちらでもない何かがそこにある気がした。
清め祭の準備が始まった宮廷の廊下で、千代は小春とすれ違った。
小春は花を抱えて、祭りの場へ向かっていた。清め祭用の花束を、丁寧に持っている。
「千代さん、おはようございます」
小春が言った。いつもと変わらない声で。
千代は答えた。
「おはようございます」
小春は通り過ぎた。
千代はその後ろ姿を見た。
昨夜、千代は決めた。女官頭には、何も聞いていないと答えた。小春が何かを企んでいるような様子は見られない、と。
それは嘘ではなかった。本当に何も聞いていないし、小春は何も企んでいない。
しかしその答えが、自分を守るために正しい選択かどうかは、千代にはまだ分からなかった。
正しいことをした、とは思えなかった。ただ、できることをした、という感覚だった。
廊下を、清め祭の準備の人々が行き交っていた。千代はその中に交じって、自分の持ち場へ戻った。
後ろを振り返らなかった。
清め祭は、つつがなく始まった。
しかしそれは、また別の話だ。
今は、師走の終わりから正月の初めにかけて、宮廷の中で何かが少しずつ変わっていたことを、ここに記しておく。
感情のない将軍が、花の名前を覚えた。
感情を持て余す副官が、自分の悲しみに名前をつけた。
誰も頼んでいないのに親切にしていた女官が、その親切の重さを初めて感じた。
花と話す娘は、宮廷の冷たさの中で、まだそこに居続けた。
それらは小さなことで、宮廷の大きな秩序の中では見えないほど小さなことだった。
しかし、花は小さな隙間から芽を出す。
踏まれた草も、根が残っていれば、また起き上がる。
宮廷の春は、まだ遠い。しかし何かが、確かに始まっていた。


