鬼は花を知らない

 血の匂いは、朝の霧よりも先に戦場を満たす。
 地平の果てまで続く枯れ野を、蒼灰色の空が覆っていた。山の端に引っかかった太陽はまだ低く、その光は斜めに差し込んで、折り重なった屍の影をひどく長く伸ばしていた。
 鬼神将軍・(さく)は、戦の只中にいた。
 正確に言えば、戦はほぼ終わっていた。
 半月に及んだ北方討伐の最終日。反旗を翻した門族の残兵は、この枯れ野に追い詰められ、もはや組織だった抵抗を見せる力も残していない。それでも彼らは逃げた。あるいは死に場所を求めて突進してくる者もいた。その全てを、朔は過不足なく処理した。
 剣を振るう。避ける。踏み込む。また振るう。
 一連の動作は、薪割りほどの感慨も伴わない。朔にとって戦場とは、解くべき問題の連続だった。敵の数、位置、間合い、気力の残量。それらを瞬時に計算し、最も効率的な解を選び取る。感情の入り込む余地は、最初から存在しない。
 右から槍が来る。半歩退いて軌道を外し、柄を掴んで引き、体ごと前に出た相手の首筋に剣の峰を当てる。倒れた男が地を転がる音が、遠い。
 左から刀が迫る。身を沈めてその下をくぐり、相手の肘関節を狙って打つ。乾いた音と共に刀が落ち、男は叫んだ。朔の耳にその叫びは届いているが、処理はしない。関係のない情報だ。
 十数歩先で残兵が旗を捨てて跪いた。降伏の意思表示だ。朔は剣を止め、後方に目を向ける。既に副官の篝が動き始めていた。捕虜の処置は任せてある。計算通り。
「……終わりましたな」
 隣に並んだ声に、朔は視線だけを向けた。
 (かがり)。年は朔より五つ上で、朔が将軍に任じられる以前からその副官を務めている男だ。精悍な顔に傷跡が幾つもあり、目に生きた色がある。感情のある男だ。それが朔には時折、奇妙なことのように思われる。
「討ち漏らしは」
「三名。山の方へ逃げ込みましたが、追手を出しております。山中では長くは生きられますまい。事実上の制圧完了かと」
 篝が続ける。
「損耗は予測の範囲内。捕虜は四十二名。民への被害は軽微。完璧な作戦でございました」
 完璧。
 その言葉が朔の中を通り抜けていく。引っかかるものは何もない。完璧であることは当然であり、誉め言葉として受け取る必要もない。
「帰還の準備を」
「はっ。ところで、殿」
 篝が少し声の調子を変えた。朔は足を止める。
「今回の戦で、伊吹(いぶき)がよく働きました。まだ若いのに、殿の采配を見て覚えたものを実践していた。なかなかの筋です。ひと言、かけてやってはいただけますか」
 伊吹。少年兵の名だ。この半月で顔と名前は一致している。朔が初めて従軍を許した十五の少年で、篝が目をかけている。
「何を言えばいい」
 朔は本気で問うた。
 篝が一瞬、何とも言えない顔をした。言葉に詰まった顔に見えなくもないが、すぐに表情を戻す。
「……よく戦った、とひと言。それだけで十分です」
「そうか」
 朔は踵を返し、伊吹を探した。少年は戦後の片付けに加わっていた。泥と返り血で汚れながらも、背筋を伸ばして動いている。その目が朔を認めると、驚いたように硬直した。
「よく戦った」
 朔は言い、また歩き始めた。
 背後で伊吹が何か言ったが、聞こえなかった。聞く必要もない。命じられたことは果たした。
 朔は戦場の端に出て、枯れ野の果てを見た。霧が少しずつ晴れていく。
 美しい、と思うべき景色なのかもしれない。朝の光の中に霧が溶けていく様は、絵師が喜んで描きそうな光景だ。だが朔にはそれが分からない。美しいという感覚が、どこにあるのか。
 代わりに計算が動く。風向き、視界の開け方、陣の張り直しに要する時間。
 それだけで十分だ。それだけで戦は勝てる。
 朔は霧の中を見続けた。何かを探しているわけではなく、ただそこに何もないことを確認するように。
 枯れ野に花はない。
 ただ、朔にはそれが当然のことに思われた。

 帰陣の夜、篝が焚き火の脇で酒を飲みながら言った。
「完璧な将軍と呼ばれることで、殿は本当に満足されているのですか」
 朔は酒を飲まない。感覚が鈍るからではなく、必要を感じないからだ。篝の向かいで、甲冑を解いた状態でただ座っている。
「満足という概念が分からん」
「……やはり」
 篝が盃を置いた。
「鬼の血というのは、本当にそこまで人を変えてしまうものですか」
 鬼の血。
 朔の父方の家系に流れる、異形の血脈。帝国の歴史において鬼は討伐され、あるいは使役され、その残滓が人の家系に混じることがある。混じった血は、代を重ねるごとに薄まるのが常だが、朔の場合は違った。
 鬼の「感情を切り離す力」が、ほぼ完全な形で発現した。
 幼い頃は、感情というものが存在した。薄い霞のように、あったのだ。楽しいという感覚の影、悲しいという痛みの気配。しかし、ある時を境に、それらは消えた。正確には、切り離した。戦場で生き残るために、感情を重荷として捨てた。
 その時に何を感じたか、今の朔には分からない。
「人が変わったのではなく、最適化されたのだ」
「はあ」
 篝は何とも言えない声を出した。
「最適化、ですか。ならばその最適化された状態で、殿は何のために戦われているのですか」
「帝国の安定のために」
「なぜ、帝国が安定すべきなのですか」
「民が生きるために」
「なぜ、民が生きることが重要なのですか」
 朔は答えを考えた。計算が動く。だが答えが出ない。
「……それは」
「感情がなければ答えられない問いというものが、あるのですよ」
 篝は静かに言った。責める口調ではない。ただ確認するように。
「私は殿を尊敬しています。この戦場で殿に守られた命が、どれほどあるか。しかし──」
 焚き火の音が、少しの間だけ大きくなった。
「守ることの意味を、殿はご存知でしょうか」
 朔は答えなかった。答えを持っていないのではなく、その問いが何を指しているのかが、うまく掴めなかった。
 篝は続けを促さず、また酒を飲んだ。
 夜の野営地に、虫の声がした。それが何を意味するのか、朔には分からなかった。

 宮廷に戻った翌日、帝の御前で朔は北方討伐の報告を行った。
 広大な謁見の間に、臣下たちが並ぶ。朔は滞りなく戦況を述べ、損失を述べ、今後の統治方針の提言を述べた。帝は頷き、篝が補足し、一刻もかからずに席が終わった。
 廊下を歩く途中、朔は宮廷の中に異質な気配を感じた。
 感情ではなく、本能的な察知だ。鬼の血がもたらす、もう一つの特性。穢れの気配に敏感であること。人の負の感情が凝り固まった穢れは、朔の感覚に微かな刺激として届く。
 宮廷の中に、その刺激が少ない。
 それは当然のことで、帝国の宮廷には優れた巫女がいる。穢れを祓う力を持った者たちが、常に宮廷の浄化を維持している。その筆頭が、宮廷巫女・綾女(あやめ)だ。
 廊下の角で、その綾女と鉢合わせた。
「将軍」
 声は澄んでいる。二十代の後半と思われる女で、白と藍の装束に身を包んでいる。切れ長の目に、隙のない表情。美しい女だと認識する。それ以上の感慨はない。
「綾女殿」
「北方、お疲れさまでした。完璧な戦ぶりと聞き及んでおります」
「過分な言葉だ」
「いいえ。帝国に感情を持ち込まぬ将軍こそ、真に必要な存在。私もまた、感情によって乱れた穢れを祓うことに力を注いでおります。我々は同じ方向を向いている」
 朔は少し考えた。
「同じかどうかは分からんが、目的を共にする部分はあるかもしれない」
「そうです」
 綾女は微かに笑った。
「ところで将軍、一つご相談したいことが。近く、特殊な力を持つ巫女の候補が宮廷に入ることになっています。帝がお引き合わせになるとのことですが、私はその者の力に懸念を持っています。機会があれば、将軍にも見ていただけますか」
「懸念とは」
「穢れを消すのではなく、受け流す力、だそうです。つまり穢れをどこかに流す。それがどこへ向かうのか、誰も分かっていない。宮廷の秩序を乱す恐れがあります」
 朔は頷いた。懸念は論理的だ。穢れの行き先が不明であれば、確かに管理の問題が生じる。
「分かった。見ておこう」
「助かります」
 綾女は礼をして、廊下を去った。その後ろ姿が遠くなるのを見ながら、朔はもう一度だけ考えた。
 穢れを受け流す力。
 奇妙な力だ。しかしその奇妙さの中に、何かがある気がした。何が、とは言えない。ただ、その力が何かを示唆している気がした。
 気がした、という感覚が、朔には珍しかった。
 彼は長く廊下に立っていたが、やがてそれを処理しないまま歩き始めた。

 瀬川小春(せがわこはる)が宮廷に入ったのは、霜月の初めのことだった。
 北の風が宮廷の庭を吹き抜け、木々の葉を半分ほど落としてしまった季節。空は高く、冷えた青さで晴れている。そういう日に、一人の少女が宮廷の門をくぐった。
 花巫女候補、瀬川小春。十七歳。
 出身は帝都から二日ほど離れた山間の里で、幼い頃から花の精霊と話すことができると噂されていた。穢れを祓う力ではなく、穢れを受け流す異質な能力。帝が噂を聞きつけ、直々に召喚したのだ。
 小春は、宮廷の大きさに圧倒されながらも、まっすぐ歩いていた。
 緊張していないかと言えば嘘になる。足が震えていないのは、むしろ感覚が追いついていないせいかもしれない。しかし目は動いていた。宮廷の庭に残っているものを、ちゃんと見ていた。
 石畳の隙間に、雑草が生えている。
 小春は立ち止まった。
「あら」
 小春の声を聞いた案内の女官が、振り返る。
「何ですか。早くしてください」
「でも、ここに」
 小春はしゃがんだ。石畳の割れ目から、細い茎が伸びていた。霜月の寒さで葉は縮こまり、今にも枯れようとしている。しかし根はまだ死んでいない。
「枯れかけてるね」
 女官は呆気に取られた顔をした。
「え?」
「この子、枯れかけてる。でも、まだ生きてる。すごいね」
 それは雑草への言葉ではなかった。正確には、雑草の精霊への言葉だった。花や草木の霊的な存在と言葉を交わす力が、小春にはある。周囲からは独り言に見えるが、小春にとっては会話だ。
「……何をしているのですか。立ってください」
 女官の声に少し棘が混じった。
 小春は立ち上がり、おっとりと微笑んだ。
「すみません。行きます」
 そのまま歩き始めたが、次の瞬間また足を止めた。
「待って」
「また何ですか!」
「あそこの梅の木、一本だけ元気がないみたい。根の近くに何か埋まってるんじゃないかな。石か、固まった土か」
 女官は梅の木を見た。他の梅と比べて、確かに少し葉の数が少ない。しかし女官には、なぜこの娘がそれに気づいたのかが分からなかった。
「……庭師に伝えておきます。さあ、参りましょう」
 小春は「うん」と頷いて歩き始めた。今度は止まらなかった。
 しかし、視線は動き続けていた。庭の草、軒の端に生えた苔、石灯籠の陰に咲いている名も知れぬ小花。宮廷という場所の重さに怯えながらも、小春の目はそういうものをちゃんと見ていた。
 女官には、その様子が奇妙に映った。

 帝への拝謁は、思ったより短かった。
 帝は穏やかな老人で、小春を恐れさせるような圧はなかった。しかし、傍らに控える宮廷巫女・綾女の目が、ずっと小春に注がれていた。評定するような目だ。
「花の精霊と話すとは、本当か」
 帝が問うた。
「はい。話す、というか……聞こえる、という方が正しいかもしれません。花や草が、感じていることが」
「感じていること」
「嬉しいとか、苦しいとか。土が乾いてるとか、根が窮屈だとか」
 帝は頷いた。綾女は動かなかった。
「穢れを祓う力は」
「……ないと思います。ただ、穢れた場所に花を置くと、少し楽になることがあって」
「楽になる」
「はい。消えるわけじゃないんですけど。穢れが、流れていく感じがします。川みたいに」
 沈黙があった。
「川のように流れた穢れは、どこへ行くのですか」
 綾女が初めて口を開いた。声は美しいが、問いは鋭い。
「どこへ……」
 小春は少し考えた。
「大地に、還っていく感じがします。穢れって、もとは人の感情でしょう。感情は、生きることから生まれるもので、生きることは自然の一部だから、自然に還っていくのかな、って」
「つまり、消去はできない」
「……できないと思います」
「それは問題です」
 綾女の言葉は断言だった。帝は制するでもなく、静かに聞いていた。
「穢れは根絶されなければなりません。流れた先でまた誰かを苦しめる可能性がある。そのような力は、宮廷の秩序を乱します」
 小春は反論しかけた。違う、と思う。大地に還った穢れは消えるのではなく、薄まる。水が大地に染み込んでいくように、広がって薄くなって、やがて感じられなくなる。それは消去とは違うが、害をなすものでもない。
 でも言葉が出なかった。
 綾女の目が、小春の言葉を封じる何かを持っていた。
「……はい」
 小春は俯いた。
 帝が再び口を開いた。
「とにかく、しばらく宮廷に置く。力の詳細は追って判断する。下がりなさい」
 小春は礼をして部屋を出た。
 廊下に出た瞬間、息を吐いた。足が少し震えていた。さっきまで気づかなかったが、緊張していたらしい。
 廊下の端に、鉢植えの花があった。冬でも花を咲かせる品種で、白い花びらを小さく開いている。
「よかったね、暖かそうで」
 小春は小声で言った。
 花は答えない。でも小春には聞こえた。ここは日当たりが良い、と花が言っている気がした。それで少し、楽になった。

 小春が割り当てられた部屋は、宮廷の東の棟にある小さな一室だった。
 上等な部屋ではないが、窓から庭が見える。それが小春には嬉しかった。荷物を解きながら、窓の外を見る。庭には数本の木が立っていて、一本だけ遅くまで葉を残している。
「あの木、強いんだね」
 誰に言うでもなく言った。
 廊下の向こうから、くすくすという笑い声が聞こえた気がした。小春は振り返ったが、廊下は無人だった。笑い声は続いていた。壁の外から、女官たちの話し声が漏れてくるのだ。
「花と話す娘、だって」
「馬鹿みたい」
「どんな力があるって言ったの?穢れを消せるわけじゃないんでしょ」
「綾女様が不要だって言ってたのに、帝が置くって言い張るから」
「当てつけみたいなものよ。いつか追い出されるわ」
 声はしだいに遠ざかっていった。
 小春は窓の外を見続けていた。葉を残した強い木が、風に揺れている。
「そうか」
 小春は言った。それから特に何も言わなかった。
 笑い声に傷ついたかと言えば、少し傷ついた。でもそれよりも、この宮廷が思ったより複雑な場所だということが、じんわりと伝わってきた。
 感情がぶつかり合う場所。穢れが生まれやすい場所。
 だからこそ花の精霊の声が、ここでは少ない。彼女たちは穢れのある場所を嫌う。でも嫌って逃げるのではなく、ただ静かになる。声が小さくなる。それが小春には分かる。
「もう少ししたら、話してね」
 庭の木に向かって言った。
 翌朝、その木の枝に一羽の鳥が来て、しばらく鳴いた。それだけのことで、小春は宮廷での最初の朝を、少しだけ明るい気持ちで迎えることができた。

 宮廷での二日目。
 小春は廊下を歩いていて、朔と初めてすれ違った。
 正確には、すれ違ったことを朔は認識していなかった。将軍として宮廷を歩く朔の視野に、小春は入っていたが、情報として処理されなかった。
 しかし小春は立ち止まった。
 鋭い感覚が走った。花の精霊は人の感情に敏感だ。精霊の声を聞く小春もまた、人の気配に敏感になる。そして今すれ違った人から、何も感じなかった。
 感情の気配がない。
 それは穢れがない、ということとは違う。穢れのない人は清浄な感じがする。この人からは、清浄さも濁りも何もなかった。ただ、大きな石が通り過ぎたような感覚だけが残った。
「……」
 小春は振り返ったが、もうその人の後ろ姿は廊下の角に消えていた。
 甲冑を纏った大柄な男だった。将軍か、高位の武官か。
 なぜ、あの人には何もないのだろう。
 不思議に思いながら、小春は歩き始めた。廊下の端に、また雑草の芽が出ていた。こんな時期に、珍しいと思った。小春はしゃがんで、その芽の顔を覗き込んだ。
「寒くない?」
 精霊の声が答えた。ここが暖かいから、と言っている気がした。そこは確かに、南向きで風が当たらず、日中は日が射す場所だった。雑草の芽は、ちゃんとその場所を選んで生えていた。
「賢いね」
 小春は立ち上がった。
 先ほどすれ違った人のことは、まだ頭の端に残っていた。

 翌朝早く、小春は庭が荒らされているのを見つけた。
 東の棟に面した庭だ。昨日まであった草花の多くが、踏み荒らされていた。整えられた石畳の脇に植えられていた冬草が、根元から折れている。石灯籠の傍に咲いていた白い小花も、誰かの足に踏まれたらしく、花びらを地面に散らして倒れていた。
 小春は庭に降りた。
「……誰かが踏んでいったの?」
 精霊に聞く。答えはない。精霊たちが傷ついているときは、声が出ない。
 足跡を見た。複数の人間が歩いた形跡がある。意図的に踏んだとは断言できないが、避けた様子もない。
 小春はしゃがんで、折れた草の一本を手に取った。茎は根元から折れているが、根は残っている。
「まだ生きてるよ」
 声に出した。誰かに言ったのか、自分に言ったのか、草に言ったのかは、小春にも分からなかった。
 しゃがんだまま、折れた茎を優しく起こした。倒れた方向と逆に、少しずつ。完全には戻らないが、根に近い部分が地面と接するように。土を手で押さえて、茎の周りを軽く固める。
 白い小花の方へ移動した。花びらは散っていたが、花の軸はまだ折れていない。地面に押しつけられた状態から、丁寧に引き起こす。
「大丈夫?」
 精霊から、弱い声が返ってきた気がした。それだけで十分だった。
「うん。まだ生きてる」

 その声を、庭の端で聞いていた老人がいた。
 源蔵(げんぞう)。宮廷に長く仕える庭師で、この庭の管理を任されて三十年になる。
 今朝、庭が荒らされているのを発見したのは源蔵だった。昨日、宮廷を視察した武官たちの一団が通り抜けた際に踏み荒らしたものと思われる。源蔵は苦々しく思いながらも、道具を持って修復に来たところだった。
 先客がいた。
 見たことのない若い女が、しゃがんで草の手当てをしている。素手で土を押さえ、折れた茎を起こし、何かを話しかけている。誰もいない庭の中で、独りで話しかけている。
 普通なら奇妙と感じるところだ。しかし源蔵は長く庭師をやってきた。植物に声をかけることは、源蔵にとっても自然なことだった。声をかけると、花の育ちが違う。それは経験から学んだことで、理屈ではなかった。
「まだ生きてるよ」
 少女の声が聞こえた。
 源蔵は庭に下りた。少女が振り返る。
「庭師の源蔵と申します」
「あ、すみません。勝手に入って」
「いや。こっちが謝るべきです。昨日、武官たちが通り抜けた際に踏み荒らされて。修復に来たところでした」
「一緒にやってもいいですか」
 少女は立ち上がり、源蔵を見た。遠慮がちに見えて、その目は直接的だった。
「どうぞ」
 源蔵は道具袋を下ろした。
 二人で、黙って庭の修復を始めた。源蔵が道具で土を緩め、少女が草を起こす。少女の手の動きは丁寧で、急いでいなかった。焦らずに、一本ずつ。
「あなたが、花の精霊と話すと噂の方ですか」
 源蔵が問うた。
「噂、になってるんですね」
「宮廷は狭いので。……話すのですか、本当に」
「話す、というか。聞こえる、という感じで。声というより、気配みたいなものを感じる、の方が正確かもしれないけど」
「この庭の草は、何と言っていますか」
 少女が手を止めた。源蔵を見た。試しているのではなく、純粋に聞いているのだと分かった。
「……痛い、とは言ってないです。ただ、驚いてる感じがします。急に踏まれたことへの、驚き。でも怒ってはいない」
「草は怒らないのですか」
「怒るというより、ただ、ある。という感じで存在している気がします。雨が降れば雨を受け入れて、踏まれれば踏まれた状態になって、また起き上がれれば起き上がる」
 源蔵は少し考えた。
「長く庭師をやっていると、似たようなことを感じることがあります。植物はどんな状態でも、生きようとする。それだけです。恨みも嘆きも持たずに、ただ、生きようとする」
「そうです」
 少女は言った。
「そうなんです」
 嬉しそうな顔だった。同じことを感じていた人に、初めて出会ったような顔。
「……小春と申します。よろしくお願いします」
「よろしくどうぞ」
 源蔵は頭を下げた。
 二人はまた、黙って作業を続けた。

 その日の夕方、源蔵は宮廷の管理棟で道具の手入れをしながら考えた。
 あの少女の力は、普通の祓いの力ではない。
 源蔵は巫女でも神官でもなく、霊的な力については素人だ。しかし三十年、生き物を相手にしてきた感覚がある。そして今日の少女の様子を見ていて、確信に近いものを感じた。
 あの少女は、花や草が感じていることを本当に受け取っている。
 それは「消す」力ではない。そもそも庭師は、枯れた植物を消さない。根が残っているなら待つ。種があるなら育てる。季節が変われば、また芽が出る。それが自然の摂理で、庭師はただその手助けをする。
 あの少女の力は、それに似ていると源蔵は思った。
 穢れを消すのではなく、受け流す。流れた先で大地に薄まっていく。
 それは確かに宮廷巫女のやり方とは違う。しかし、どちらが間違いというわけでもない気がした。
 綾女の祓いは完璧だ。しかし源蔵は時々、祓いの後の庭が静かすぎると感じる。気配がなくなりすぎる。草も花も、何かを失ったような顔をすることがある。
 あれは何なのか、源蔵には言葉がなかった。
 ただ、今日の少女が庭に来て作業をした後は、庭がいつもと違う感じがした。静かだが、空っぽではない。
 源蔵は道具の手入れを続けながら、また明日、庭を見てみようと思った。

 そのころ朔は、別の部屋で篝の報告を聞いていた。
「東の棟の庭が昨日荒らされました。昨日の武官の巡回の際に踏み荒らしたようです。庭師が修復しましたが、念のためご報告を」
「巡回の経路を変える必要はあるか」
「今後は庭を通らないルートに変更する予定です」
「そうしろ」
 それだけの話だった。
 朔にとって、庭の草花は判断に関係のない情報だ。踏まれた、修復された、それだけで処理が完了する。誰が修復したかも、そこで何があったかも、必要のない情報として流れていく。
「他に報告は」
「……花の精霊と話すという娘ですが、今朝の庭の修復を手伝っていたとのことです。庭師の源蔵が証言しています」
「それが何か問題か」
「いえ、問題ではありませんが」篝が少し言い淀んだ。「ただ、綾女様が気にしておられると聞きまして」
 朔は少し考えた。
 綾女が気にする。それは意味のある情報だ。綾女の判断は通常、論理的だ。彼女が気にするなら、何らかの根拠がある。
「分かった。引き続き状況を把握しておけ」
「はい。ところで殿、あの娘は庭師の源蔵と何やら話し込んでいたようで」
「内容は」
「草が怒っていない、とか何とか」
 朔は一拍置いた。
「……意味が分からん」
「私にも分かりません」
 二人の間に沈黙があった。
「まあ」と篝が言った。「人間ですから。分からないこともあるでしょう」
 朔は答えなかった。人間だから分からない、という篝の言葉の意味が、うまく飲み込めなかったからだ。

 霜月の半ば。
 小春が宮廷に来て二週間が経った。
 その間、小春は特に何もしていなかった。正確には、巫女としての任務を与えられていなかった。拝謁の後、帝から「しばらく様子を見る」と言われ、宮廷での起居を許されたが、具体的な役割がない。
 朝は庭を歩く。昼は自室で過ごし、時折、源蔵と話す。夕は廊下を散歩して、窓から空を見る。それだけだった。
 女官たちの視線は、小春が通るたびに変わる。面白がる目、軽蔑する目、無関心な目。好意的な目は、ほとんどない。
 その中に一つだけ、少し違う目があった。
 千代という下級女官で、年は小春と同じくらいだ。通りすがりに会釈をしてくる。声をかけてくることはないが、小春が廊下で道に迷っているときに、遠回しに方向を示してくれたこともあった。
 小春はそれに気づいていた。そして気づいていることに気づかれないようにしながら、感謝していた。

 その日、綾女が宮廷の評議に諮った。
 場には上位の宮廷巫女と神官が集まっていた。帝は不在で、帝の名代として老齢の神官長が席についている。朔は呼ばれていなかったが、篝を通じて後から経緯を聞いた。
「花巫女候補・小春の件につき、意見を申し上げます」
 綾女の声は穏やかだったが、内容は明快だった。
「この者の力を、二週間の間調査いたしました。穢れを祓う能力はありません。穢れを受け流す力があると本人は言いますが、宮廷の巫女方がその効果を確認することができませんでした。花の精霊と会話すると申しますが、それは霊的な能力の証明とはなりません。現状では、この者に宮廷巫女としての機能が認められません」
 神官長が問う。
「つまり、無用と申すか」
「帝国の巫女として役に立たない、と申しております。穢れの管理という観点から見れば、この者は現行の秩序に対し何の貢献もできません。むしろ、秩序の外側にある力を持ち込むことになる。それは危険です」
「しかし帝がお引き合わせになった娘だ。我々が排除することもできん」
「直ちに追い出せとは申しません。ただ、この者への任務付与はしないことをご提案します。役割を与えなければ、力を行使する機会もない。自然に、いられる場所がなくなるでしょう」
 静かな提案だった。しかし意味は明快だ。
 排除はしない。ただ、存在を認めない。居場所を失わせる。
 神官長は少し考え、様子を見ましょうと言った。綾女はそれを諾として受け取った。

 小春がそれを知ったのは、直接ではなかった。
 ただ、少しずつ変わっていった。
 廊下で会っても、女官たちが目を合わせなくなった。庭への出入りを、遠回しに制限されるようになった。食事の際に、小春のぶんだけ量が減っていた。
 気づいていないふりをすることもできた。小春はおっとりとした娘だが、ものの気配を見る目はある。花の精霊から学んだものだ。見えるものと見えないものの、両方を感じる。
 ある朝、自室の前に何かが置いてあった。
 花束だった。ただし、枯れている。根のない花を摘み、何日も水も与えずにいたような、完全に死んだ花束。
 誰が置いたのかは分からない。しかし意図は分かった。
 小春は枯れた花束を手に取った。
「……お疲れ様でした」
 声に出した。
 死んだ花に精霊の声はない。ただ、この花も生きていた時があった。誰かの庭か野山で、ちゃんと根を張って生きていた。
 小春は部屋の隅に花束を置き、水を一杯、その傍に置いた。意味のないことは分かっていた。それでも、そうしたかった。
 廊下の外から、くすくすという笑い声が聞こえた。

 その日の夕方、源蔵が小春を庭で見かけた。
 枯れた花を持って、庭の土に埋めていた。
「何を」
「お墓を作ってるんです。枯れてしまったけど、ちゃんと花だったから」
 源蔵は黙って見ていた。
「……部屋の前に置いてあったんです。嫌がらせだと思うんですけど、でも花は関係ないから」
 小春は土を平らにならし、手を合わせた。
 源蔵は溜め息を一つついた。宮廷の人間のすることは、時折、理解に苦しむ。
「宮廷は、難しい場所だ」
「うん」
「しかし、あなたが来てから、庭の草が少し元気になった気がする。気のせいかもしれんが」
 小春が顔を上げた。
「……本当に?」
「長くやっていると、分かることがある。草の顔色が、少し違う」
 源蔵は言ったが、それ以上は言葉にならなかった。理屈ではないからだ。
 小春は少し笑った。
「よかった」
 その笑い方が、源蔵には少し不思議だった。こんなに理不尽な目に遭っているのに、庭の草が元気だということで、本当に嬉しそうな顔をする。
 どういう娘なのだろう、と源蔵は思った。
 同時に、この娘が何かを教えてくれる気がした。長く生き、多くを見てきた老人が、まだ若い娘に何かを教わる気がするというのは、奇妙なことかもしれない。しかし源蔵にはそういう直感があった。
 草木を育てる仕事は、そういう直感を育てる。

 翌日、綾女は再び評議の席で発言した。
 今度は神官長だけでなく、帝の側近も同席していた。
「花巫女候補・小春の件、昨日の議を踏まえ、具体的な判断を仰ぎたく存じます。この者には、宮廷での任務を与えないことに加え、一定の行動制限を設けることを提案します。理由は二つ。一つ、正規の祓いの力がない者が霊的な力を帯びていることは、宮廷の霊的秩序を乱す危険がある。二つ、現在この者が庭に出入りしていることで、庭師との不必要な交流が生じており、宮廷の秩序上、望ましくない」
 側近が問うた。
「庭師との交流が、なぜ問題なのか」
「問題は交流そのものではありません。この者の力がどのように作用しているか、監視の目が届かない点が問題です。把握できないものは、管理できません」
 沈黙があった。
「……分かった。監視の者をつけることにしましょう」
 それが後日、朔への命令として伝えられることになる。

 命令が朔に届いたのは、霜月の二十日のことだった。
 「花巫女候補・小春の監視役を務めるよう」という帝の命だった。正式な文書で、印もある。朔は文書を読み、篝を呼んだ。
「この命令の背景を」
「綾女様の進言があったと聞いています。あの娘の力が把握できていない、という理由で」
「把握できていない力を持つ者の監視に、なぜ将軍が必要なのか」
「私にも分かりません」篝が言った。「ただ、鬼の血を引く将軍であれば、霊的な異常に敏感だという判断かと」
 朔はそれを計算した。確かに、鬼の血は穢れの気配に敏感だ。霊的な力の行使にも感応する可能性はある。論理的ではないが、根拠がないわけでもない。
「受けるか」
「命令ですので、受けるのが筋かと。将軍に辞退の裁量はありません」
「そうだな」
 朔は文書をたたんだ。
「では明日から」
「はい。……殿、あの娘のことで一つよろしいですか」
「なんだ」
 篝は少し考えてから言った。
「穏便に、とは言いません。ただ、あの娘はまだ若い。宮廷に来て二週間で、既に様々な目に遭っています。監視の名目で余計に追い詰めることにならなければ、と思って」
 朔は篝を見た。
「追い詰めるとはどういうことか」
「……監視というのは、される側にとっては圧力になることがあります。特に、力も後ろ盾もない者にとっては」
 朔はその言葉を処理した。しばらく考えた。
「監視とは、対象の行動を把握することだ。余計な干渉はしない。それで十分ではないか」
「……それで十分です」篝は言ったが、何かを呑み込んだような顔だった。「失礼しました」
 篝が下がった後、朔は一人で部屋に残った。
 花巫女候補・小春。
 朔はその名を頭の中に留めた。情報として整理する。十七歳、山間の里の出身、花の精霊と会話すると自称、穢れを受け流す力があると言う。宮廷内での評価は低い。綾女が危険視している。
 危険性はあるか。朔は考えた。
 穢れを受け流す力が本物であれば、その行き先が管理できないという綾女の懸念は論理的だ。しかし二週間の間、具体的な問題は起きていない。庭の草が元気になったという庭師の証言は、感情的な観察に過ぎない。
 実際に接触するまでは判断を保留する。
 それが朔の結論だった。

 翌朝。
 朔は東の棟の廊下に立っていた。小春の部屋の前だ。
 扉を叩くと、少しの間があって、扉が開いた。
 小春が出てきた。
 小柄な娘だった。着物は地味で、髪は簡単にまとめてある。顔は整っているが、宮廷の女官たちのように化粧をしていない。目が少し大きくて、朔を見上げる角度が自然に上目遣いになる。
 その目が、朔を見て、少し不思議そうになった。
「……あ。昨日、廊下ですれ違った方ですか」
 朔は少し止まった。
「覚えていたのか」
「すれ違った時に、何も感じなくて。それが気になって」
「何も感じないとはどういう意味だ」
「えっと……人から感情の気配を感じることがあるんです。嬉しいとか、怒ってるとか。でもあなたからは、何も感じなかった。それが不思議で、覚えてました」
 朔は少し考えた。
 感情の気配を感じる。穢れを受け流す力と関係があるのかもしれない。または、精霊と会話する力の副作用か。
「朔だ。鬼神将軍を務めている」
「……将軍さん」
 小春は何か言いかけて、止めた。
「何だ」
「将軍さんに怒られるかと思って」
「何を怒られると思ったのか」
「将軍さんから何も感じないって言ったら、怒る人もいますから。感情がないって言われたと受け取るみたいで」
 朔は考えた。
「事実だから怒る理由はない」
 小春が少し目を丸くした。
「……事実なんですか」
「感情は、戦場では余計なものだ。代わりに鬼の血がある。感情を切り離す力が」
 言いながら、朔はなぜこれを話しているのかと少し思った。必要な情報ではない。ただ、問われたから答えた。それだけのことだ。
 小春は少しの間、朔を見ていた。その目が、観察しているわけでも哀れんでいるわけでもなく、ただ純粋に何かを受け取っているような色をしていた。
「今日から、あなたの監視役を命じられた」
 朔は言った。
「……監視」
「行動の把握が目的だ。危害を加えるためではない」
「はあ」
 小春は少しの間、考えていた。それから、
「監視って、一緒にいるんですか」
「行動を把握するには、そうなる」
「……じゃあ、一緒に庭に行っても大丈夫ですか」
 朔は考えた。庭への出入りは制限されていない。問題はない。
「構わん」
「行きます」
 小春は部屋に戻り、草履を履いて、朔の前に立った。
 朔は一拍置いて、歩き始めた。小春がその隣について歩く。
 廊下を進みながら、朔は考えた。監視とは、対象の行動を把握することだ。感情的な関与は不要。ただ見て、記録して、必要があれば報告する。
 それだけのことだ。
「あの」
 小春が小声で言った。
「何だ」
「将軍さんは、花の名前は知ってますか」
 朔は少し考えた。
「知らん」
「そうですか」
 それだけで、小春はそれ以上聞かなかった。
 廊下の端に、石の鉢植えがある。白い花が咲いている。小春が通り際に、そこへ視線を向けた。一秒ほど見て、また前を向いた。
 その一秒の間に何があったのか、朔には分からなかった。
 ただ、その鉢植えの花が、風もないのに少し揺れた気がした。

 庭に出た。
 霜月の朝の庭は、冷えて静かだ。木々の葉が半分落ち、石畳に薄く霜が張っている。遠くから、宮廷の朝の気配がしている。
 小春は庭に入ると、すぐにしゃがんだ。
 石畳の端に生えている草の前だ。
「おはよう」
 草に声をかけた。
 朔はその行動を観察した。異常ではない。源蔵の証言通りの行動だ。草に話しかける。情報として記録する。
「……返事があるのか」
 朔は聞いた。聞く必要があったわけではないが、精霊の力がどのように作用するのかは、把握すべき情報だ。
「あります」
 小春は草を見ながら言った。
「声じゃないけど。気配というか、感じが」
「今、何と言っているのか」
「今日は少し暖かいって。昨日より日が強い感じがするって」
 朔は空を見た。確かに、昨日より雲が少ない。それを草が感じているとすれば、霊的な感応としては理にかなっている。
「あなたが感じているのか、草が感じているのか」
 小春は少し考えた。
「……境界がよく分からないです。あなたはそういうこと、気にするんですね」
「把握が目的だから、正確な情報が必要だ」
「そうですか」
 小春は立ち上がり、次の場所へ歩いた。梅の木の一本が、他より元気のない木だ。
「この木、あれから少し土を掘ってもらって、やっぱり石が埋まってたんです」
「石が?」
「根が張れなくて、苦しかったみたい。石をどけてもらったら、少し楽になったって言ってた」
 朔は梅の木を見た。他の木と比べて、確かに少し葉の数が少ない。しかし枝は枯れていない。
「今は」
「ゆっくりだけど、回復してる感じ。根が新しいところに伸び始めてるみたいで」
 朔はそれを記録した。
 情報として処理しながら、朔は一つのことに気づいた。
 この娘は、自分に話しかけてくる。
 宮廷の人間の多くは、朔に話しかける時、慎重だ。将軍に対する礼儀と、鬼の血への警戒が混じった態度で、言葉を選ぶ。この娘は選んでいない。
 なぜか。
「あなたは私を恐れないのか」
 朔は聞いた。
 小春が朔を見た。
「……怖いとは思いますけど」少し考えてから言った。「怖いからって、話せないわけじゃないし」
「怖いのに話すのか」
「怖いけど、話したいことがある時は話しますよ。それが普通じゃないですか」
 朔には、その論理が理解できなかった。怖ければ避けるのが合理的だ。なぜ怖いのに話すのか。感情の中に、そういう複雑な構造があるのか。
「……そういうものか」
「そういうものだと思います」
 小春はまた草の方を向いた。
 朔は黙って立っていた。
 監視の任務を果たしている。対象の行動を観察している。感情的な関与はない。
 それでも、なぜかこの朝の庭の中で、朔は少しだけ、何かが違う気がした。
 違う、という感覚が何を意味するのか、分からないままで。

 宮廷は霜月の寒さの中にあった。
 感情のない国。穢れを消すことで成り立つ帝国。その秩序の中で、感情を切り離した将軍と、全てを受け入れる花巫女は、同じ庭に立っていた。
 朔は庭を見ていた。草、木、石、冬の空。全て情報として処理する。美しいかどうかは分からない。
 小春は草と話していた。楽しそうだ、と言える。少なくとも、苦しんでいる顔には見えない。
 宮廷は彼女を必要としていない、と言う。彼女の力は役に立たないと言う。しかし今、この庭の草は、她が来てから元気になっている。それは源蔵が証言した事実だ。
 朔はそれが何を意味するのか、まだ分からなかった。
 感情がなければ分からないことが、ある。
 篝がそう言っていた。
 その言葉が、霜月の朝の冷たい空気の中で、朔の頭のどこかにひっかかったまま、まだ落ちていなかった。