どんな顔をしたらいいのかわからないままに学校に行くと、南くんはいつも通りの穏やかな表情で皆と接していた。が、俺には一瞥もくれない。それは一日そうで、俺は学校に来たことを激しく後悔した。と同時に、無性にむかついてきた。
一体なんだって言うんだろう。あんなことしてきたのはそっちなのに。あんなこと……。
ああもう。思い出すたび顔が赤くなるのにも辟易する。
「もう」
もう知らない。部活なんて見に行ってやるか。憤りながら一日を終え、席から立ち上がろうとしたときだった。
「中谷」
机の上にいきなり影が差した。落ちてきたのは、皆の前ではまず出されることのない、低い、しっとりとした声。
「待ってるから。来いよ」
小声でそれだけ囁き、声の主は離れていく。通りすがりのクラスメートがその彼に声をかける。そちらに向けられた顔はいつも通りのよそゆきのもので、俺はますますわけがわからなくなった。
ほんと、なんなんだ。
いらつきながらも、俺は結局剣道場へ向かった。こんな状態でも、剣道場に立つ彼を見てみたいと思う気持ちが抑えらえない自分にうんざりしながら。
逡巡していた時間が長かったからか、すでに練習は始まっているようで、剣道場からは竹刀と竹刀が打ち合わされる音が聞こえてくる。
開け放たれた扉からそうっと中を覗くと、ちょうど掛かり稽古が始まったばかりのようで、道場の真ん中に見覚えのある立ち姿があった。
胴の下に垂らされた名札に刻まれた名前は「南」。
名札を確認した直後だった。
「やあああああっ!」
きん、と声が空気を裂いた。次いで床がとん、と踏み鳴らされる。紺色の道着が大きくはためき、竹刀が空をざああっと薙ぐ。相手の竹刀を裏から払い、開いた間合いへするりと入り込む。そして。
「面っ!」
高く鋭い、空を叩くような一声とともにすぱんっと切っ先が閃いた。打たれた側も呆気に取られるほどの見事な一撃で、俺は思わず片手で口を覆う。
――俺、かっこ悪いよね。声がキモいって理由でフラれてんの。はは。
お互いの正体がばれてしまったあのとき、南くんはそう言って力なく笑っていた。俺はその顔を見るだけですごく……胸が痛かった。だって笑う必要なんてどこにもないんだから。
でも俺は、笑わなくていいよ、って言ってあげられなかった。なにも、してあげられなかった。
なのに、その南くんが今、竹刀を握っている。弱さなんて微塵も見せず、強くしなやかに。
まるで、青い風みたいに。
俺の撮りたい、南くん、そのままに。
彼のその姿を、声を感じたらなんだか胸がいっぱいで目が熱くてたまらなくなってしまった。袖口で瞼を押さえたけれど、止められない。
ヤバい、こんなところで泣いたら、剣道部のほかの部員にもおかしいと思われる。部長にだってまたなにを言われるかわからない。なにより、南くんに見られたら……恥ずかしい。
だから慌てて身を翻した。もつれる足を必死に動かし剣道場を離れ、人気を避けて走るうち、体育館の裏に出た。日当たりが悪くて、うっすら寒いその場所まで来たところで我慢の限界が来た。体育館の外壁に背中を押し当てて俯く。
「よかった……」
熱くなった胸の中から零れ落ちた言葉に触発され、また涙が出る。ああもう、学校でこんなに号泣するなんてどうかしている。でも我慢できない。だって。
「なにがよかった?」
自分の感情に手いっぱいなのに、いきなり声が聞こえてきて、俺は慌てて片手で頬を隠す。その俺の前にすっと立ちふさがったのは背の高い、人。
「ねえ、なにがよかったの?」
走ってきたのだろうか。肩をわずかに波打たせながら、彼はこちらに向かって手を伸ばす。目尻へと辿り着いた指先が、頬へと滑ろうとした雫を掬い取るのがわかり、俺は必死にその手を払おうと首を振った。が、彼の指はなおも頬に触れてくる。
「い、いや別に……ってか、南くん、練習は……」
「トイレ、漏れそうっていって出てきちゃった。だって中谷、泣いてるから」
道着姿の南くんが肩をすくめる。相変わらず俺の目許を拭いながら。この今の状況に動揺し、俺は南くんから距離を取ろうとするけれど、壁を背にしている俺の前、ぎりぎりに立たれて、どうにも身動きが取れない。
「そ、か、あの……練習邪魔して、ごめん。これはほら! 目に虫が入っただけなので……」
「らっこの競泳みたいな変な嘘つくの、中谷のデフォルトなの?」
淡々と言う声は低い。下がれるわけもないけれど、壁に背中を押し当てると、南くんがなおも一歩歩を詰めてきた。
「なにがよかったか、ちゃんと言ってくれる」
「それ、は」
「それは?」
……ああもう、なんでこんなに訊いてくるんだよ。
苛立つし、答えたくないって思ってしまう。でも……溢れちゃうんだ。涙がどうしても。
だって俺は、うれしかったから。
ずっと傷ついてきた南くん。その南くんが、道着を着て竹刀を持って、トラウマになった声もしっかり出している。それが俺はすごく、すごく……だから。
「部活、ちゃんと出られて……楽しそうに剣道、してて、よか、った」
やっとのことでそう言ったとたん、くっと南くんが唇を噛んだ。苦しそうな顔が気になって、南くん、と呼ぼうとした。その俺の視界が不意に紺色に染まる。状況が掴めず、瞬きを数度して、気付いた。
……長い腕に抱きしめられていることに。
「そんなだから、好きになっちゃうんだよ」
さっきと同じ低い声。けれどわずかに揺れた声が耳の中へ滑り落ちてくる。
彼の言葉が脳の中でのたくる。意味を解析しようとする。でも……それを俺の心が拒否しているのがわかる。だって南くんは。
「言った、くせに!」
声とともに力を込めて南くんの道着に手を突いて押し返す。体と体の間に隙間が開いて、空気が一気に肺になだれ込んでくる。肩を上下させ、俺は怒鳴った。
「キモいって言ったくせに!」
体勢を立て直した南くんが、軽く首を引くように頷く。
「うん。言った。ごめん」
「でも今、好きって! そんなの、あり得ないだろ!」
「あり得なくないよ」
「キモいのに?」
「うん。確かに勝手に写真撮ってたとこはキモかった。でも、そのキモさが俺はうれしかった」
空気にすれすれで紛れない声で言われた、うれしかった、に意表を突かれ、俺は立ち尽くす。その俺と目が合うのを恐れるみたいに、南くんがすっと視線を足元に落とす。
「俺のほうが自分のこと、キモいって思っちゃってたから。なのに中谷はそんな俺をあんなにかっこよく撮ってくれてた。キモくないって全否定するみたいにいっぱい。あれ見てたら頭の中ぐちゃぐちゃになっちゃって、傷つけるのわかってたのに、キモいって言っちゃった」
でも、と低い声とともに、南くんが道着の左胸を押さえる。
「中谷の写真見てからずっとここがね、熱くてたまんないんだよ。一番しんどいとき、俺と一緒にいてくれたあひるんの言葉もいっぱい思い出しちゃって。なんかもう、たまんなくなって。中谷ともっと話したくなった。文字じゃなく目合わせて、声、聴いて。ってか……それだけじゃなくて」
すうっと南くんの視線が空間を薙ぐ。思わず息を呑む俺に向かってすうっと手が伸びる。こちらを見つめた南くんの目は潤んでいた。
「触りたいって、思っちゃった」
言葉とともに左頬が掌に包まれる。息を呑む俺の耳に、やっぱり掠れた南くんの声が落ちる。
「ねえ、対決しよっか。触りたいって思っちゃう俺と、許可なく写真撮ってた中谷、どっちがキモいか」
「そ、んなの、わか、んない」
だめだ。うまく声が出ない。つっかえつっかえ返すと、南くんがうっすらと笑った。
「うん。実は俺もわかんない。けど、どっちもキモくなくなる方法、俺、一個だけ知ってる」
声とともに南くんの手が俺の顎を掬い上げる。間近く見える綺麗な顔に、くらくらして思考が全然まとまらない。その俺の耳元で、南くんが囁いた。
「俺達、両想いになればいいんだと思う」
中谷、と甘い声が俺を呼ぶ。返事するみたいに、どくん、と心臓が鳴った。
「俺、お前のこと好きなんだけど。よかったら、中谷の好きな人が誰か、教えてくんない?」
言われた瞬間、頭の奥がかっと熱くなった。
俺はらっきょう仮面に伝えている。ずっと見つめていた人に彼女ができたことで、写真を撮りたいと思えなくなっちゃった経緯を。
なのに、南くんは訊いてくる。俺が好きな人が誰か。
こんな、逃げられない状態で。そんなの……。
「南くんって意地悪だ」
「そう?」
「わかってて訊いてくるなんて、ひどい」
涼しい顔をする顔が憎たらしい。顔を背けようとする俺の顎から手を放してくれない南くんに苛立ったとき、ごめん、と声がした。するっと頬から手が滑る。
「なんか、だめだな。中谷相手だと素が止まんなくて。ごめん。でも俺」
俯き、言葉を探す顔は、ひどく頼りなげだ。その顔を見ていたら、これ以上怒ってばかりいられなくなってきた。
だって、俺は早く賛成したいんだから。
南くんが示してくれた方法に。だって、俺は。
「好きだよ」
南くんの目がすうっと見開かれる。澄んだその瞳はやっぱり綺麗でうっとりする。でも、このまま黙ってなんていたくなくて、俺は必死に口を動かす。
画面上で指を動かすよりずっと難しいけれど、それでも、一番伝えたいことをちゃんと言いたくて。
「俺、南くんのこと、ずっと、好き、だったよ」
……ずっと、見てた。
……小さな窓の向こうにいる君を、ずっと。
瞼がまた熱を持ち始める。目尻を拭おうとした俺の手を南くんの手がつっと掴んで止める。大きな手にきゅっと握り締められて目を見張ると、反対の手が再び頬をさらった。
「うん、知ってた」
なんだよ知ってたって。
けれど、笑みの形に解けそうになった唇がいきなりさらっと撫でられ、飛び上がった。絶対赤くなっているだろう顔を、南くんがすうっと覗き込んでくる。
「ねえ、中谷、お願いがある」
「なに」
「ここにキス、したい。させてくれる?」
瞬間、言葉を失った。その俺の唇に親指を触れたまま、掠れ声で南くんが囁く。
「だめ?」
「だ、めっていうか、なんで今回は許可取るの」
「だって」
南くんの声がわずかに乱れる。そろそろと彼のほうを見て、驚いた。
いつだって冷静で、涼しげに整っている南くんの顔が真っ赤に染まっていたから。
「いくら両想いでも、いきなりするのはやっぱキモいかと」
……なんだよ、それ。
とっさに手を伸ばし南くんの道着の袖を掴む。ふっと南くんの目が俺を捉える。
「南くんにキモいとこなんて一個もない! だからどうぞ!」
南くんの目を見て、くっきりとした声で告げると、南くんの虹彩がふわっと揺らいだ。数秒の空白の後、漏れたのは、滲んだ声だった。
「……もう」
眼差しが甘く解け、唇を辿っていた指先が俺の横髪から頬へ滑る。顔が上げられ、驚く俺に向かって腰が屈められた。
「そういうことさらっと言うから、あひるんのころから気になっちゃってたんだってば」
言葉を発しながら近づいてくる南くんの顔。最後の、ば、の音は完全に唇と唇が触れ合ったところで発せられていて、それはそのまま彼の余裕のなさを表しているみたいだった。
いや、彼だけじゃない。俺も、余裕なんてない。頭が真っ白でどうにも、ならない。
どくどくいう音。これは心臓の音だろうか。なんだか全身から響いてくるみたいで怖い。触れて来る優しい感触さえ、心音にかき消されちゃいそうで不安になる。だから音に呑まれたくなくて、南くんの道着の袖を握る指に力を込める。と、唇を合わせたまま、南くんがそっと俺の後ろ頭を撫でてきた。その仕草に、指先から力が抜けた。
呼吸と呼吸が混ざる。なにかを交換し合うみたいに吐息が吐息に溶けていく。それにどきどきするのに、なんだかとても。
……ほっとする。もう、ずっとこのままでいい。
「……練習、行かなきゃだった」
けれど、唇を離したと同時に呟かれて、俺はふわふわする頭で言葉を解析する。
練習? 練習……。
「そう、だよ! 部活! トイレって言って出てきたんだっけ?」
「そ。さすがに怒られる。ああ、さぼりたい」
言いながら南くんは、俺の背中にきゅっと両腕を巻き付ける。どきっとしながらも、うんさぼろう、と言いたくなった。ただもちろん、そんなわけにはいかない。
「も、戻らない、の?」
「ううん、戻る」
あっさりと首を振って、南くんは俺の体からそうっと腕を解く。名残惜しいみたいなそんな解き方だった。
「中谷にかっこいいとこ見せたいから戻る。練習、見に来て、くれる?」
腕は離しても、瞳で抱きしめるみたいに見られて、心臓が激しく身じろぐのを感じた。俺が大きく頷くと、ほっと肩から力を抜き、南くんは俺に手を上げた。
「部活終わったら一緒に帰ろ? いっぱい話したいから。待ってて」
「うん」
俺の返事を聞いて、南くんはまた笑った。そのまま走り去る。
やっぱり青い風みたいだ。
彼を見送り、俺はそうっと胸を押さえる。
まだどくどく鳴く心臓。こんな状態で一緒に帰って、ちゃんと話せるのか正直不安だ。
でも、きっと大丈夫だと思う。俺達には積み重ねてきた文字の歴史があるのだから。
そうっとスマホを出して俺は見慣れたアイコンを眺める。彼のあのフラッペの。
「そういえば、結局らっきょう、好きなのかな」
今日、帰りに訊いてみようかな。
小さく肩を震わせて笑ってから、俺はスマホをポケットに押し込み、カメラを取りに部室へと向かって歩き始めた。
一体なんだって言うんだろう。あんなことしてきたのはそっちなのに。あんなこと……。
ああもう。思い出すたび顔が赤くなるのにも辟易する。
「もう」
もう知らない。部活なんて見に行ってやるか。憤りながら一日を終え、席から立ち上がろうとしたときだった。
「中谷」
机の上にいきなり影が差した。落ちてきたのは、皆の前ではまず出されることのない、低い、しっとりとした声。
「待ってるから。来いよ」
小声でそれだけ囁き、声の主は離れていく。通りすがりのクラスメートがその彼に声をかける。そちらに向けられた顔はいつも通りのよそゆきのもので、俺はますますわけがわからなくなった。
ほんと、なんなんだ。
いらつきながらも、俺は結局剣道場へ向かった。こんな状態でも、剣道場に立つ彼を見てみたいと思う気持ちが抑えらえない自分にうんざりしながら。
逡巡していた時間が長かったからか、すでに練習は始まっているようで、剣道場からは竹刀と竹刀が打ち合わされる音が聞こえてくる。
開け放たれた扉からそうっと中を覗くと、ちょうど掛かり稽古が始まったばかりのようで、道場の真ん中に見覚えのある立ち姿があった。
胴の下に垂らされた名札に刻まれた名前は「南」。
名札を確認した直後だった。
「やあああああっ!」
きん、と声が空気を裂いた。次いで床がとん、と踏み鳴らされる。紺色の道着が大きくはためき、竹刀が空をざああっと薙ぐ。相手の竹刀を裏から払い、開いた間合いへするりと入り込む。そして。
「面っ!」
高く鋭い、空を叩くような一声とともにすぱんっと切っ先が閃いた。打たれた側も呆気に取られるほどの見事な一撃で、俺は思わず片手で口を覆う。
――俺、かっこ悪いよね。声がキモいって理由でフラれてんの。はは。
お互いの正体がばれてしまったあのとき、南くんはそう言って力なく笑っていた。俺はその顔を見るだけですごく……胸が痛かった。だって笑う必要なんてどこにもないんだから。
でも俺は、笑わなくていいよ、って言ってあげられなかった。なにも、してあげられなかった。
なのに、その南くんが今、竹刀を握っている。弱さなんて微塵も見せず、強くしなやかに。
まるで、青い風みたいに。
俺の撮りたい、南くん、そのままに。
彼のその姿を、声を感じたらなんだか胸がいっぱいで目が熱くてたまらなくなってしまった。袖口で瞼を押さえたけれど、止められない。
ヤバい、こんなところで泣いたら、剣道部のほかの部員にもおかしいと思われる。部長にだってまたなにを言われるかわからない。なにより、南くんに見られたら……恥ずかしい。
だから慌てて身を翻した。もつれる足を必死に動かし剣道場を離れ、人気を避けて走るうち、体育館の裏に出た。日当たりが悪くて、うっすら寒いその場所まで来たところで我慢の限界が来た。体育館の外壁に背中を押し当てて俯く。
「よかった……」
熱くなった胸の中から零れ落ちた言葉に触発され、また涙が出る。ああもう、学校でこんなに号泣するなんてどうかしている。でも我慢できない。だって。
「なにがよかった?」
自分の感情に手いっぱいなのに、いきなり声が聞こえてきて、俺は慌てて片手で頬を隠す。その俺の前にすっと立ちふさがったのは背の高い、人。
「ねえ、なにがよかったの?」
走ってきたのだろうか。肩をわずかに波打たせながら、彼はこちらに向かって手を伸ばす。目尻へと辿り着いた指先が、頬へと滑ろうとした雫を掬い取るのがわかり、俺は必死にその手を払おうと首を振った。が、彼の指はなおも頬に触れてくる。
「い、いや別に……ってか、南くん、練習は……」
「トイレ、漏れそうっていって出てきちゃった。だって中谷、泣いてるから」
道着姿の南くんが肩をすくめる。相変わらず俺の目許を拭いながら。この今の状況に動揺し、俺は南くんから距離を取ろうとするけれど、壁を背にしている俺の前、ぎりぎりに立たれて、どうにも身動きが取れない。
「そ、か、あの……練習邪魔して、ごめん。これはほら! 目に虫が入っただけなので……」
「らっこの競泳みたいな変な嘘つくの、中谷のデフォルトなの?」
淡々と言う声は低い。下がれるわけもないけれど、壁に背中を押し当てると、南くんがなおも一歩歩を詰めてきた。
「なにがよかったか、ちゃんと言ってくれる」
「それ、は」
「それは?」
……ああもう、なんでこんなに訊いてくるんだよ。
苛立つし、答えたくないって思ってしまう。でも……溢れちゃうんだ。涙がどうしても。
だって俺は、うれしかったから。
ずっと傷ついてきた南くん。その南くんが、道着を着て竹刀を持って、トラウマになった声もしっかり出している。それが俺はすごく、すごく……だから。
「部活、ちゃんと出られて……楽しそうに剣道、してて、よか、った」
やっとのことでそう言ったとたん、くっと南くんが唇を噛んだ。苦しそうな顔が気になって、南くん、と呼ぼうとした。その俺の視界が不意に紺色に染まる。状況が掴めず、瞬きを数度して、気付いた。
……長い腕に抱きしめられていることに。
「そんなだから、好きになっちゃうんだよ」
さっきと同じ低い声。けれどわずかに揺れた声が耳の中へ滑り落ちてくる。
彼の言葉が脳の中でのたくる。意味を解析しようとする。でも……それを俺の心が拒否しているのがわかる。だって南くんは。
「言った、くせに!」
声とともに力を込めて南くんの道着に手を突いて押し返す。体と体の間に隙間が開いて、空気が一気に肺になだれ込んでくる。肩を上下させ、俺は怒鳴った。
「キモいって言ったくせに!」
体勢を立て直した南くんが、軽く首を引くように頷く。
「うん。言った。ごめん」
「でも今、好きって! そんなの、あり得ないだろ!」
「あり得なくないよ」
「キモいのに?」
「うん。確かに勝手に写真撮ってたとこはキモかった。でも、そのキモさが俺はうれしかった」
空気にすれすれで紛れない声で言われた、うれしかった、に意表を突かれ、俺は立ち尽くす。その俺と目が合うのを恐れるみたいに、南くんがすっと視線を足元に落とす。
「俺のほうが自分のこと、キモいって思っちゃってたから。なのに中谷はそんな俺をあんなにかっこよく撮ってくれてた。キモくないって全否定するみたいにいっぱい。あれ見てたら頭の中ぐちゃぐちゃになっちゃって、傷つけるのわかってたのに、キモいって言っちゃった」
でも、と低い声とともに、南くんが道着の左胸を押さえる。
「中谷の写真見てからずっとここがね、熱くてたまんないんだよ。一番しんどいとき、俺と一緒にいてくれたあひるんの言葉もいっぱい思い出しちゃって。なんかもう、たまんなくなって。中谷ともっと話したくなった。文字じゃなく目合わせて、声、聴いて。ってか……それだけじゃなくて」
すうっと南くんの視線が空間を薙ぐ。思わず息を呑む俺に向かってすうっと手が伸びる。こちらを見つめた南くんの目は潤んでいた。
「触りたいって、思っちゃった」
言葉とともに左頬が掌に包まれる。息を呑む俺の耳に、やっぱり掠れた南くんの声が落ちる。
「ねえ、対決しよっか。触りたいって思っちゃう俺と、許可なく写真撮ってた中谷、どっちがキモいか」
「そ、んなの、わか、んない」
だめだ。うまく声が出ない。つっかえつっかえ返すと、南くんがうっすらと笑った。
「うん。実は俺もわかんない。けど、どっちもキモくなくなる方法、俺、一個だけ知ってる」
声とともに南くんの手が俺の顎を掬い上げる。間近く見える綺麗な顔に、くらくらして思考が全然まとまらない。その俺の耳元で、南くんが囁いた。
「俺達、両想いになればいいんだと思う」
中谷、と甘い声が俺を呼ぶ。返事するみたいに、どくん、と心臓が鳴った。
「俺、お前のこと好きなんだけど。よかったら、中谷の好きな人が誰か、教えてくんない?」
言われた瞬間、頭の奥がかっと熱くなった。
俺はらっきょう仮面に伝えている。ずっと見つめていた人に彼女ができたことで、写真を撮りたいと思えなくなっちゃった経緯を。
なのに、南くんは訊いてくる。俺が好きな人が誰か。
こんな、逃げられない状態で。そんなの……。
「南くんって意地悪だ」
「そう?」
「わかってて訊いてくるなんて、ひどい」
涼しい顔をする顔が憎たらしい。顔を背けようとする俺の顎から手を放してくれない南くんに苛立ったとき、ごめん、と声がした。するっと頬から手が滑る。
「なんか、だめだな。中谷相手だと素が止まんなくて。ごめん。でも俺」
俯き、言葉を探す顔は、ひどく頼りなげだ。その顔を見ていたら、これ以上怒ってばかりいられなくなってきた。
だって、俺は早く賛成したいんだから。
南くんが示してくれた方法に。だって、俺は。
「好きだよ」
南くんの目がすうっと見開かれる。澄んだその瞳はやっぱり綺麗でうっとりする。でも、このまま黙ってなんていたくなくて、俺は必死に口を動かす。
画面上で指を動かすよりずっと難しいけれど、それでも、一番伝えたいことをちゃんと言いたくて。
「俺、南くんのこと、ずっと、好き、だったよ」
……ずっと、見てた。
……小さな窓の向こうにいる君を、ずっと。
瞼がまた熱を持ち始める。目尻を拭おうとした俺の手を南くんの手がつっと掴んで止める。大きな手にきゅっと握り締められて目を見張ると、反対の手が再び頬をさらった。
「うん、知ってた」
なんだよ知ってたって。
けれど、笑みの形に解けそうになった唇がいきなりさらっと撫でられ、飛び上がった。絶対赤くなっているだろう顔を、南くんがすうっと覗き込んでくる。
「ねえ、中谷、お願いがある」
「なに」
「ここにキス、したい。させてくれる?」
瞬間、言葉を失った。その俺の唇に親指を触れたまま、掠れ声で南くんが囁く。
「だめ?」
「だ、めっていうか、なんで今回は許可取るの」
「だって」
南くんの声がわずかに乱れる。そろそろと彼のほうを見て、驚いた。
いつだって冷静で、涼しげに整っている南くんの顔が真っ赤に染まっていたから。
「いくら両想いでも、いきなりするのはやっぱキモいかと」
……なんだよ、それ。
とっさに手を伸ばし南くんの道着の袖を掴む。ふっと南くんの目が俺を捉える。
「南くんにキモいとこなんて一個もない! だからどうぞ!」
南くんの目を見て、くっきりとした声で告げると、南くんの虹彩がふわっと揺らいだ。数秒の空白の後、漏れたのは、滲んだ声だった。
「……もう」
眼差しが甘く解け、唇を辿っていた指先が俺の横髪から頬へ滑る。顔が上げられ、驚く俺に向かって腰が屈められた。
「そういうことさらっと言うから、あひるんのころから気になっちゃってたんだってば」
言葉を発しながら近づいてくる南くんの顔。最後の、ば、の音は完全に唇と唇が触れ合ったところで発せられていて、それはそのまま彼の余裕のなさを表しているみたいだった。
いや、彼だけじゃない。俺も、余裕なんてない。頭が真っ白でどうにも、ならない。
どくどくいう音。これは心臓の音だろうか。なんだか全身から響いてくるみたいで怖い。触れて来る優しい感触さえ、心音にかき消されちゃいそうで不安になる。だから音に呑まれたくなくて、南くんの道着の袖を握る指に力を込める。と、唇を合わせたまま、南くんがそっと俺の後ろ頭を撫でてきた。その仕草に、指先から力が抜けた。
呼吸と呼吸が混ざる。なにかを交換し合うみたいに吐息が吐息に溶けていく。それにどきどきするのに、なんだかとても。
……ほっとする。もう、ずっとこのままでいい。
「……練習、行かなきゃだった」
けれど、唇を離したと同時に呟かれて、俺はふわふわする頭で言葉を解析する。
練習? 練習……。
「そう、だよ! 部活! トイレって言って出てきたんだっけ?」
「そ。さすがに怒られる。ああ、さぼりたい」
言いながら南くんは、俺の背中にきゅっと両腕を巻き付ける。どきっとしながらも、うんさぼろう、と言いたくなった。ただもちろん、そんなわけにはいかない。
「も、戻らない、の?」
「ううん、戻る」
あっさりと首を振って、南くんは俺の体からそうっと腕を解く。名残惜しいみたいなそんな解き方だった。
「中谷にかっこいいとこ見せたいから戻る。練習、見に来て、くれる?」
腕は離しても、瞳で抱きしめるみたいに見られて、心臓が激しく身じろぐのを感じた。俺が大きく頷くと、ほっと肩から力を抜き、南くんは俺に手を上げた。
「部活終わったら一緒に帰ろ? いっぱい話したいから。待ってて」
「うん」
俺の返事を聞いて、南くんはまた笑った。そのまま走り去る。
やっぱり青い風みたいだ。
彼を見送り、俺はそうっと胸を押さえる。
まだどくどく鳴く心臓。こんな状態で一緒に帰って、ちゃんと話せるのか正直不安だ。
でも、きっと大丈夫だと思う。俺達には積み重ねてきた文字の歴史があるのだから。
そうっとスマホを出して俺は見慣れたアイコンを眺める。彼のあのフラッペの。
「そういえば、結局らっきょう、好きなのかな」
今日、帰りに訊いてみようかな。
小さく肩を震わせて笑ってから、俺はスマホをポケットに押し込み、カメラを取りに部室へと向かって歩き始めた。



