その日、俺は迷っていた。
部活を休み過ぎて、ついに藤堂先輩からメッセが届いてしまったから。
――強制ではないんだけど、もうすぐコンテストもあるし、それだけでも参加してみないか?
藤堂先輩にはなにも伝えていない。部活から足が遠のいた理由も、そもそも俺がなにを撮っていたのかも。先輩は先輩で自分の撮影に夢中の人で、訊けば撮影技法について教えてくれたけれど、こちらからアプローチしなければほぼ放任だ。そんな人だから、無理やり部活へ来させたいとかそういうのではなくて、単に自分がいなくなった後の写真部の心配をしているのだろうな、と予想できる。
そんな未来の心配なんてうざったいし無視してもいいけれど、俺は藤堂先輩って人のことがそれほど嫌いにもなれない。というより、むしろ好きな部類だ。つまりあまり困らせたくもない。
だから、溜め息をつきながら鞄を引っ掴み、しぶしぶ部室へと向かおうとしていた。
その途中、教室を出たところで俺は足を止めた。
廊下の一角、窓に背をもたせかけ、スマホをいじっている人がいた。すっと落ちる鼻梁、薄い唇がすごく綺麗な人。
南くんだった。
ただ、この時間に彼がいることが不思議だった。だってもうとっくに部活が始まっている時間だったから。
どうしたのだろう、と思ったとき、彼が手にしたスマホからなにかがぶら下がっているのが見えた。
黒いどんぶりに黄色い卵が載せられている。小さいながらやけにリアルで美味しそうな……。
月見うどん。
「らっきょう仮面と一緒……」
ふっと南くんの前髪が揺れる。ゆっくりと首が巡らされ、俺は慌てた。
俺はなにを口走っているのだろう。
「あ、あの、南くん、部活……」
どうしたの、と言うより早く、南くんがつかつかと近づいてくる。表情は硬い。え、と思う間もなく、いきなり手首が掴まれた。
普段の南くんからは考えられないような、乱暴な手つきだった。
その状態で、さっき出てきたばかりの教室へ連れ込まれる。ぴしゃり、と手荒く扉を閉められ、俺は体を強張らせた。
「らっきょう仮面って、言った? さっき」
俺の身体を黒板側に追い詰めた南くんが問う。低いその声は聞いたことがない凄みに満ちていて、俺は震えあがった。
ちょっと待て。なんで彼はこんな顔をしている? そもそもらっきょう仮面なんてワードになんでこんなに反応する?
まさか、いや、まさか。おろおろしながら俺は条件反射で首を振る。
「いや、あの。らっきょうなんて、言って、ない」
「じゃあ、なんて言ったの?」
「ら……らっこが競泳をしたら、と……」
無理だ。おかしすぎる。こんなごまかし方通じるわけがない。いや、でも南くんは人がいいし、意外といけるかも……と思ったが、甘かった。
「らっこの競泳は見てみたいけど、さすがに学校の廊下でいきなり出てくる話題じゃないと思うんだよね」
普段より二オクターブは低い声でそう言ってから、南くんは腰を折るようにして俺と目線を合わせた。
「写真部だよな、中谷」
「あ……」
違います、とは言えない質問が来た。しぶしぶ頷くと、南くんは小さく息をついてから、意を決したようにこちらを見つめてきた。
「あひるん?」
その名称が出た時点で俺は完全に石化した。
だって俺のアカウント名を知っている人間なんて、リアルにはひとりもいない。
南くんが無造作にポケットに押し込んだからか、スマホにつけられたチャームがポケットから零れ落ちて揺れている。
月見うどんのチャームが。
――月見うどんの食品サンプル。兄ちゃんに作ってもらってさー。兄ちゃん、そういうの作るの得意なんよ。
やっぱりこの人がらっきょう仮面……。でもそうなると俺は、好きな人に意図せず自分の恋の悩み相談みたいなことをしていたわけで……。
想像したとたんに弾け飛びそうなくらい恥ずかしくなった。
「あひるんじゃないです。人違いです!」
言いながら南くんの胸を押して距離を取る。南くんはされるままに一歩、退いたけれど、ややあっておもむろにスマホを引っ張り出した。さらさらっとなにかを打ち込み、こちらを見る。
と同時に、ポケットの中で俺のスマホが鈍く振動した。
「なんか通知来てるけど。見てみたら?」
じいっとこちらを見据える黒い目。爽やかでほんのり色っぽい。いつもならぽうっとして見てしまうその目が今日は怖い。
言う通りにしなかったらどうなっちゃうのだろう、とこちらに思わせるくらい、強い眼差しに押され、俺はそろそろとスマホを出す。
――中谷があひるんだよな?
「やっぱり」
画面上に影が落ちる。俺のスマホを上から覗き込んだ南くんが溜め息交じりに言った。
「中谷があひるんだったなんて、思わなかった」
夕暮れ時のオレンジ色の光に満ちた教室で唇を噛み、彼はうなだれる。まっすぐでさらさらの前髪が形のいいおでこと、睫毛がやたら長い目元を隠す。
すごく苦しそうな顔だ。秘密を知られたのが俺みたいなやつだったことが、心底嫌だと言いたげなその顔を見て、俺はほんのりと傷つく。
わかっている。秘密を共有したからって物語なんて始まらない。リアルがより狭くなるだけだ。
「あ、の、ええと」
だめだ。なにをどう言ったらいいかわからない。
全部忘れるから大丈夫だよ? お互いなかったことにしよう?
言うのは簡単だ。けれど、言葉での約束に意味なんてあるだろうか。だって南くんは俺を信用なんてしてない。だとしたら、どう、したら。
ああ、だめだ。全然考えがまとまらない。
「そ、の、南、くんはらっきょうが、好きなの?」
「……え」
悲痛な顔をしていた南くんが顔を上げる。苦しそうだった表情がわずかに解けて見えて、俺はほっとする。
けれど。
俺、なにを口走ってるんだろ……。
「あ、あ、い、いや! あの、らっきょう仮面なんてなの、名乗るから」
あたふたしたけれど、手が伸びてきてなおのこと飛び上がった。
「声、大きい」
俺の口を大きな掌で覆った南くんが顔を赤くする。
「ごめ……」
ああ、もう、死にそうだ。
今まで遠目に見ていた推しが俺の口を手で塞ぐなんて。
いや……違う、か。好きな人の手に口、触られるなんて。
やばい。死んでもいいかも。
けれど、次の瞬間、俺は凍り付いた。
「中谷って……好きな人、いたんだな」
「……は」
目を剥く俺からするっと手を引き、南くんは気だるげに笑う。
「好きなやつに彼女できちゃったんだろ。しんどかったよな」
言われて、血の気が引く気がした。
確かに俺はらっきょう仮面に打ち明け話をした。自分は写真部で、撮りたい人がいて、その人に彼女ができたことにより写真を撮る気力がなくなった、と。
でも、その撮りたかった被写体である人が自分だなんて、この人はまるで思ってない。
嘘だろ、と言いたくなる。あんなに剣道部に通い詰めていたのに。この人もそれを見ていたはずなのに。
とはいえ、それは君のことです、なんて言えるわけがない。
「うん、まあ……ってか、あの、南くん、こそ」
というより、そのこと以上に俺は驚かされていた。
だって南くんがらっきょう仮面だということは、南くんにはもう彼女がいないということになるから。
加茂若菜。あの子と南くんはもう……。
「俺、かっこ悪いよね。声がキモいって理由でフラれてんの。はは」
力なく笑う南くんを見ていたら……彼女と別れたってことで一瞬喜んだ自分を殴りたくなかった。
でも、なんて言っていいか……わからない。
そんなことないよ。キモくなんてないよ。
そう言うのは簡単だ。でもそれを俺が言ったところで南くんが信じるとも思えない。
「ごめん。普通に話そうと思ったんだけど。だめだ、やっぱ今日はちょっと」
重い沈黙を破り、南くんがふいっと俺から顔を背ける。こちらを見ることもなく教室を出ていく南くんを、俺は見送ることしかできずにいた。
毎日のようにやり取りした。けれど、おそらくもうらっきょう仮面は……いや、南くんは俺に連絡なんてしてこないだろうなと思った。
その予想は正しくて、それから二日、スマホは一切、震えることがなかった。
学校には来ている。いつも通り、友達に囲まれて笑っている。でも、こちらを見ようとはしない。部活もどうやら休んでいるようだった。そういえば、らっきょう仮面も「部活は出たり出なかったりなんだけど、部長がうるさくてさー」と嘆いていた記憶がある。
剣道場をそっと覗いて自宅へと帰りながら俺は溜め息をつく。
見たかった。彼のあの、鮮やかな竹刀さばきを。臆することなく相手の懐へと飛び込んでいく、思い切りのいい攻め技を。竹刀で相手の竹刀を払い、返す切っ先で相手の面を奪っていく彼の姿はとても、綺麗だから。
でも、彼はその自分の美しさを知らなくて……心無い言葉ばかりを信じて竹刀を置こうとしている。
それが悔しいし、どうにかしたい。でもどうしていいかわからない。
そもそも俺と南くんは面と向かっては大した話をしたこともない。
深い会話をしたのは……スマホを通してだけ。
ただそれは、逆に言えば、スマホを介せば話ができる、ということじゃないだろうか。
震える手で俺はスマホを引っ張り出す。ただ、なにを送っていいかわからない。逡巡しながら俺はそろそろと指を動かす。
――元気?
毎日学校で顔を見ているっていうのに、元気、もないか。慌てて送信取り消しを押そうとする。が、それより早く既読が点いた。編集マークが動く。書いては消してが編集マークの動きでわかる。息を呑んで画面を見つめていると、ふっと言葉が画面に舞った。
――うん。そっちは?
いつも通りの気安さが溢れた言葉だった。とたんに全身から力が抜けた。ぐにゃりとなる体を必死にお越し、深く息を吸って、吐く。このままいつも通りのどうでもいい会話を続けられれば、らっきょう仮面とは続けていける気がする。でも。
――南くんに、謝りたいことがある。
――なに?
さらっと訊いてくる。それはらっきょう仮面としてではない、南くんらしい問い返し方だった。
――南くんの声はキモくない。それ、あのとき、面と向かって言えなくて。ごめん。
数秒、完全に画面が沈黙した。無言の向こうで南くんがなにを考えているのか、俺にはわからない。どんな返事があるのかも。このまま無視ってこともあるかもしれない。なんといっても赤の他人と思っていたからこそいろいろ言えたんだろうし……。
――気、使ってくれてありがと。
けれど、返ってきた一言は見事に他人行儀なもので、それを見たとたん、頭の中の留め金が弾け飛ぶのを感じた。こんな言葉、見たくなかった。だから俺は夢中で指を動かしてしまった。
――カラオケ行かない? 俺と。
うわ、俺なに言ってんだろ。自分で自分に焦る。南くんも驚いたらしい。再び沈黙を挟んで通知があった。
――なぜに?
――俺は南くんの声、嫌いじゃないから。カラオケ、行きたいって思って。
なんだこれ。本当に俺はなにを言ってるんだろう。
けれど、たかが声で剣道をやめてほしくない。だったら君の声は最高って言うことくらいしか俺にできることなんて、ない。
ただ、多分南くんは、そういうのいいから、と言うと思った。俺達はネットでの関係とリアルでの関係、ふたつをプラスしたってうっすい間柄でしかないのだから。
なのに。
――明日、若宮二丁目んとこの歩道橋で待ち合わせ、しよか。
「うそ……」
自分で誘ったくせに狼狽する。ええと、と悩んでいる間にさらに返信が来る。
――中谷、部活、ある? あるなら明日じゃなくてもいいけど。
――ない!
きっぱり言いたくて送った言葉がやけに存在感のある返信になってしまった。あ、と思ったとき、なぜか画面の向こうで南くんが笑った気がした。
――オッケー。そしたら一時に。ありがと。
さりげない、ありがと、で終了した会話を俺は呆然としながら眺める。
「どうしよ……」
自分で言い出したくせにどうしていいかわからない。でも少しでも南くんの気が晴れればいい。
ほっと息をつきながら俺はベッドに仰向けに寝転がる。そこではたと気付く。
南くんはいいとして……俺、歌なんて、歌えたっけ?
部活を休み過ぎて、ついに藤堂先輩からメッセが届いてしまったから。
――強制ではないんだけど、もうすぐコンテストもあるし、それだけでも参加してみないか?
藤堂先輩にはなにも伝えていない。部活から足が遠のいた理由も、そもそも俺がなにを撮っていたのかも。先輩は先輩で自分の撮影に夢中の人で、訊けば撮影技法について教えてくれたけれど、こちらからアプローチしなければほぼ放任だ。そんな人だから、無理やり部活へ来させたいとかそういうのではなくて、単に自分がいなくなった後の写真部の心配をしているのだろうな、と予想できる。
そんな未来の心配なんてうざったいし無視してもいいけれど、俺は藤堂先輩って人のことがそれほど嫌いにもなれない。というより、むしろ好きな部類だ。つまりあまり困らせたくもない。
だから、溜め息をつきながら鞄を引っ掴み、しぶしぶ部室へと向かおうとしていた。
その途中、教室を出たところで俺は足を止めた。
廊下の一角、窓に背をもたせかけ、スマホをいじっている人がいた。すっと落ちる鼻梁、薄い唇がすごく綺麗な人。
南くんだった。
ただ、この時間に彼がいることが不思議だった。だってもうとっくに部活が始まっている時間だったから。
どうしたのだろう、と思ったとき、彼が手にしたスマホからなにかがぶら下がっているのが見えた。
黒いどんぶりに黄色い卵が載せられている。小さいながらやけにリアルで美味しそうな……。
月見うどん。
「らっきょう仮面と一緒……」
ふっと南くんの前髪が揺れる。ゆっくりと首が巡らされ、俺は慌てた。
俺はなにを口走っているのだろう。
「あ、あの、南くん、部活……」
どうしたの、と言うより早く、南くんがつかつかと近づいてくる。表情は硬い。え、と思う間もなく、いきなり手首が掴まれた。
普段の南くんからは考えられないような、乱暴な手つきだった。
その状態で、さっき出てきたばかりの教室へ連れ込まれる。ぴしゃり、と手荒く扉を閉められ、俺は体を強張らせた。
「らっきょう仮面って、言った? さっき」
俺の身体を黒板側に追い詰めた南くんが問う。低いその声は聞いたことがない凄みに満ちていて、俺は震えあがった。
ちょっと待て。なんで彼はこんな顔をしている? そもそもらっきょう仮面なんてワードになんでこんなに反応する?
まさか、いや、まさか。おろおろしながら俺は条件反射で首を振る。
「いや、あの。らっきょうなんて、言って、ない」
「じゃあ、なんて言ったの?」
「ら……らっこが競泳をしたら、と……」
無理だ。おかしすぎる。こんなごまかし方通じるわけがない。いや、でも南くんは人がいいし、意外といけるかも……と思ったが、甘かった。
「らっこの競泳は見てみたいけど、さすがに学校の廊下でいきなり出てくる話題じゃないと思うんだよね」
普段より二オクターブは低い声でそう言ってから、南くんは腰を折るようにして俺と目線を合わせた。
「写真部だよな、中谷」
「あ……」
違います、とは言えない質問が来た。しぶしぶ頷くと、南くんは小さく息をついてから、意を決したようにこちらを見つめてきた。
「あひるん?」
その名称が出た時点で俺は完全に石化した。
だって俺のアカウント名を知っている人間なんて、リアルにはひとりもいない。
南くんが無造作にポケットに押し込んだからか、スマホにつけられたチャームがポケットから零れ落ちて揺れている。
月見うどんのチャームが。
――月見うどんの食品サンプル。兄ちゃんに作ってもらってさー。兄ちゃん、そういうの作るの得意なんよ。
やっぱりこの人がらっきょう仮面……。でもそうなると俺は、好きな人に意図せず自分の恋の悩み相談みたいなことをしていたわけで……。
想像したとたんに弾け飛びそうなくらい恥ずかしくなった。
「あひるんじゃないです。人違いです!」
言いながら南くんの胸を押して距離を取る。南くんはされるままに一歩、退いたけれど、ややあっておもむろにスマホを引っ張り出した。さらさらっとなにかを打ち込み、こちらを見る。
と同時に、ポケットの中で俺のスマホが鈍く振動した。
「なんか通知来てるけど。見てみたら?」
じいっとこちらを見据える黒い目。爽やかでほんのり色っぽい。いつもならぽうっとして見てしまうその目が今日は怖い。
言う通りにしなかったらどうなっちゃうのだろう、とこちらに思わせるくらい、強い眼差しに押され、俺はそろそろとスマホを出す。
――中谷があひるんだよな?
「やっぱり」
画面上に影が落ちる。俺のスマホを上から覗き込んだ南くんが溜め息交じりに言った。
「中谷があひるんだったなんて、思わなかった」
夕暮れ時のオレンジ色の光に満ちた教室で唇を噛み、彼はうなだれる。まっすぐでさらさらの前髪が形のいいおでこと、睫毛がやたら長い目元を隠す。
すごく苦しそうな顔だ。秘密を知られたのが俺みたいなやつだったことが、心底嫌だと言いたげなその顔を見て、俺はほんのりと傷つく。
わかっている。秘密を共有したからって物語なんて始まらない。リアルがより狭くなるだけだ。
「あ、の、ええと」
だめだ。なにをどう言ったらいいかわからない。
全部忘れるから大丈夫だよ? お互いなかったことにしよう?
言うのは簡単だ。けれど、言葉での約束に意味なんてあるだろうか。だって南くんは俺を信用なんてしてない。だとしたら、どう、したら。
ああ、だめだ。全然考えがまとまらない。
「そ、の、南、くんはらっきょうが、好きなの?」
「……え」
悲痛な顔をしていた南くんが顔を上げる。苦しそうだった表情がわずかに解けて見えて、俺はほっとする。
けれど。
俺、なにを口走ってるんだろ……。
「あ、あ、い、いや! あの、らっきょう仮面なんてなの、名乗るから」
あたふたしたけれど、手が伸びてきてなおのこと飛び上がった。
「声、大きい」
俺の口を大きな掌で覆った南くんが顔を赤くする。
「ごめ……」
ああ、もう、死にそうだ。
今まで遠目に見ていた推しが俺の口を手で塞ぐなんて。
いや……違う、か。好きな人の手に口、触られるなんて。
やばい。死んでもいいかも。
けれど、次の瞬間、俺は凍り付いた。
「中谷って……好きな人、いたんだな」
「……は」
目を剥く俺からするっと手を引き、南くんは気だるげに笑う。
「好きなやつに彼女できちゃったんだろ。しんどかったよな」
言われて、血の気が引く気がした。
確かに俺はらっきょう仮面に打ち明け話をした。自分は写真部で、撮りたい人がいて、その人に彼女ができたことにより写真を撮る気力がなくなった、と。
でも、その撮りたかった被写体である人が自分だなんて、この人はまるで思ってない。
嘘だろ、と言いたくなる。あんなに剣道部に通い詰めていたのに。この人もそれを見ていたはずなのに。
とはいえ、それは君のことです、なんて言えるわけがない。
「うん、まあ……ってか、あの、南くん、こそ」
というより、そのこと以上に俺は驚かされていた。
だって南くんがらっきょう仮面だということは、南くんにはもう彼女がいないということになるから。
加茂若菜。あの子と南くんはもう……。
「俺、かっこ悪いよね。声がキモいって理由でフラれてんの。はは」
力なく笑う南くんを見ていたら……彼女と別れたってことで一瞬喜んだ自分を殴りたくなかった。
でも、なんて言っていいか……わからない。
そんなことないよ。キモくなんてないよ。
そう言うのは簡単だ。でもそれを俺が言ったところで南くんが信じるとも思えない。
「ごめん。普通に話そうと思ったんだけど。だめだ、やっぱ今日はちょっと」
重い沈黙を破り、南くんがふいっと俺から顔を背ける。こちらを見ることもなく教室を出ていく南くんを、俺は見送ることしかできずにいた。
毎日のようにやり取りした。けれど、おそらくもうらっきょう仮面は……いや、南くんは俺に連絡なんてしてこないだろうなと思った。
その予想は正しくて、それから二日、スマホは一切、震えることがなかった。
学校には来ている。いつも通り、友達に囲まれて笑っている。でも、こちらを見ようとはしない。部活もどうやら休んでいるようだった。そういえば、らっきょう仮面も「部活は出たり出なかったりなんだけど、部長がうるさくてさー」と嘆いていた記憶がある。
剣道場をそっと覗いて自宅へと帰りながら俺は溜め息をつく。
見たかった。彼のあの、鮮やかな竹刀さばきを。臆することなく相手の懐へと飛び込んでいく、思い切りのいい攻め技を。竹刀で相手の竹刀を払い、返す切っ先で相手の面を奪っていく彼の姿はとても、綺麗だから。
でも、彼はその自分の美しさを知らなくて……心無い言葉ばかりを信じて竹刀を置こうとしている。
それが悔しいし、どうにかしたい。でもどうしていいかわからない。
そもそも俺と南くんは面と向かっては大した話をしたこともない。
深い会話をしたのは……スマホを通してだけ。
ただそれは、逆に言えば、スマホを介せば話ができる、ということじゃないだろうか。
震える手で俺はスマホを引っ張り出す。ただ、なにを送っていいかわからない。逡巡しながら俺はそろそろと指を動かす。
――元気?
毎日学校で顔を見ているっていうのに、元気、もないか。慌てて送信取り消しを押そうとする。が、それより早く既読が点いた。編集マークが動く。書いては消してが編集マークの動きでわかる。息を呑んで画面を見つめていると、ふっと言葉が画面に舞った。
――うん。そっちは?
いつも通りの気安さが溢れた言葉だった。とたんに全身から力が抜けた。ぐにゃりとなる体を必死にお越し、深く息を吸って、吐く。このままいつも通りのどうでもいい会話を続けられれば、らっきょう仮面とは続けていける気がする。でも。
――南くんに、謝りたいことがある。
――なに?
さらっと訊いてくる。それはらっきょう仮面としてではない、南くんらしい問い返し方だった。
――南くんの声はキモくない。それ、あのとき、面と向かって言えなくて。ごめん。
数秒、完全に画面が沈黙した。無言の向こうで南くんがなにを考えているのか、俺にはわからない。どんな返事があるのかも。このまま無視ってこともあるかもしれない。なんといっても赤の他人と思っていたからこそいろいろ言えたんだろうし……。
――気、使ってくれてありがと。
けれど、返ってきた一言は見事に他人行儀なもので、それを見たとたん、頭の中の留め金が弾け飛ぶのを感じた。こんな言葉、見たくなかった。だから俺は夢中で指を動かしてしまった。
――カラオケ行かない? 俺と。
うわ、俺なに言ってんだろ。自分で自分に焦る。南くんも驚いたらしい。再び沈黙を挟んで通知があった。
――なぜに?
――俺は南くんの声、嫌いじゃないから。カラオケ、行きたいって思って。
なんだこれ。本当に俺はなにを言ってるんだろう。
けれど、たかが声で剣道をやめてほしくない。だったら君の声は最高って言うことくらいしか俺にできることなんて、ない。
ただ、多分南くんは、そういうのいいから、と言うと思った。俺達はネットでの関係とリアルでの関係、ふたつをプラスしたってうっすい間柄でしかないのだから。
なのに。
――明日、若宮二丁目んとこの歩道橋で待ち合わせ、しよか。
「うそ……」
自分で誘ったくせに狼狽する。ええと、と悩んでいる間にさらに返信が来る。
――中谷、部活、ある? あるなら明日じゃなくてもいいけど。
――ない!
きっぱり言いたくて送った言葉がやけに存在感のある返信になってしまった。あ、と思ったとき、なぜか画面の向こうで南くんが笑った気がした。
――オッケー。そしたら一時に。ありがと。
さりげない、ありがと、で終了した会話を俺は呆然としながら眺める。
「どうしよ……」
自分で言い出したくせにどうしていいかわからない。でも少しでも南くんの気が晴れればいい。
ほっと息をつきながら俺はベッドに仰向けに寝転がる。そこではたと気付く。
南くんはいいとして……俺、歌なんて、歌えたっけ?



