「ずるい、ずるい、お姉さまはずるい!」
幼い頃から、その声が耳にこびりついていた。
侯爵令嬢エレーナ・ヴァルトハイムは、鏡の前で薄く微笑みながら、今日もその記憶を思い返す。
艶やかな金髪をひとつにまとめ、深緑のドレスを身にまとった彼女は、誰が見ても完璧な令嬢だった。
だが、完璧な令嬢というものは、ときに完膚なきまでに踏みにじられる。
異母妹のルーシーが屋敷へやってきたのは、エレーナが十二歳のとき。
父が愛した平民の女性が病で亡くなり、その遺された娘を引き取るのだと、父は静かに言った。
母は青ざめた顔で頷き、エレーナは何も言わなかった。
言えるわけがない。父がそう決めたのだから。
問題は、ルーシーという少女が、驚くほど「かわいそうな子」を演じるのが巧みだったことだ。
「エレーナお姉さまはお父さまに愛されていて、ずるい」
「エレーナお姉さまはお洋服がたくさんあって、ずるい」
「エレーナお姉さまはお友達がいっぱいいて、ずるい」
小さな唇を震わせ、今にも泣きそうな目でそう言われれば、周囲の大人たちは決まって困ったような顔をした。
やがてその視線は、少しずつエレーナへ向けられる。
「エレーナ、お前がもっと妹に優しくしてやれ」
父はそう言い、母もまた、いつしかルーシーを気にかけるようになった。
最初は同情だったのだろう。
だが同情は、長く続けば偏りになる。
気づけばエレーナに向けられる目は、どこか遠くなっていた。
それでもエレーナは泣かなかった。
泣けば、さらに責められる気がしたから。
代わりに彼女は、令嬢としての教養を磨いた。
ピアノを弾き、刺繍をし、語学を学び、礼儀を身につけた。
感情では勝てないなら、せめて自分の価値だけは自分で守ろうと。
やがて十五歳の春、公爵家の嫡男アルフォンス・ケーニヒとの婚約が決まった。
アルフォンスは三歳年上で、寡黙だが理知的な青年だった。
甘い男ではなかったが、少なくとも軽薄ではない。
エレーナは、この人となら穏やかに生きていけるかもしれないと思った。
それが崩れたのは、エレーナが十八歳のとき。
ある午後、ルーシーが彼女の部屋を訪ねてきた。
淡い桃色のドレスを着て、ふんわりと笑いながら。
「お姉さま。わたくし、打ち明けなければならないことがあるんです」
その声音だけで、嫌な予感がした。
「アルフォンス様とわたくし、実は前から想い合っていたんです。どうしても心の声には逆らえなくて」
エレーナは三秒ほど、言葉を失った。
「……アルフォンス様が、そうおっしゃったの?」
「ええ。お姉さまとの婚約は、家同士のお約束だからと悩んでいらしたけれど、わたくしを見ると苦しいって」
ルーシーはそう言って、少しだけ目を伏せた。
「あの方、わたくしにだけ本音を見せてくださるの。お姉さまには申し訳ないけれど、こればかりは……」
その翌週、父はアルフォンスを呼び、話をまとめてしまった。
「ルーシーを幸せにしてやってくれ」
父はそう言い、アルフォンスは苦い顔をしながらも否定しなかった。
母も、「あなたにはきっと、もっとふさわしい相手が現れるわ」と、どこか他人事のように。
エレーナは笑った。
令嬢として、これでもかと言うほどの完成された微笑みで。
「そうですか。では、わたくしの婚約指輪をお返しします」
ルーシーはその指輪を見つめ、白い指で受け取りながら、申し訳なさそうな声を作った。
「ずるいと思うでしょうけれど、ごめんなさいね」
「いいえ。おめでとうございます」
そして自室に戻り、鍵を閉め、一滴だけ涙を流す。
一滴だけ。それ以上は流さなかった。
流してやるものか、と。
婚約者を失い、両親の愛情もほとんど失った。
では、エレーナに何が残ったのか。
教養と、プライドと、それから少しだけ意地悪になった頭脳。
社交シーズンが再び始まった春、エレーナはある決意をもって夜会へ臨んだ。
「ずるい、ずるい」
ルーシーはそう言う。
では、わたくしも少しだけ、『ずるい』をしてみましょう。
ルーシーのずるさは、涙を武器にして欲しいものを手に入れること。
ならばエレーナは、自分の持つ別の武器を使うだけ。
それまでの彼女は、完璧であることで自分を守っていた。
隙を見せず、感情を見せず、誰にも踏み込ませなかった。
だが、それでは誰の心にも残らない。
だからエレーナは、少しだけ方針を変えた。
最初の夜会では、あえて一人でいた。
華やかな会場の端、薔薇の香る窓辺に立ち、夜空を静かに見上げる。
涙は流さない。ただ、何も語らない横顔だけを見せる。
令嬢が一人でいれば、紳士は近づいてくる。
エレーナは穏やかに応じ、しかし長くは引き止めない。
「少し疲れてしまいました」と微笑んで会話を終えることで、相手に余韻だけを残す。
次の夜会では、最も美しいドレスを選んだ。その胸元にだけ、少し萎れかけた白い花を挿した。
「亡くなった祖母が好きだった花なんです」
聞かれれば、そう答えた。
あからさまな悲劇の演出ではない。
だが、物語の匂いは人を惹きつける。
やがて噂は変わり始めた。
「婚約者を妹に奪われたというのに、あの方は恨み言ひとつ口にしない」
「ヴァルトハイム侯爵家は、どういうつもりなのだろう」
「エレーナ嬢こそ、真の令嬢というものだ」
社交界の風向きが、ゆっくりと変わっていく。
そして運命というものは、ときにとびきり皮肉な形で動く。
幼い頃から、その声が耳にこびりついていた。
侯爵令嬢エレーナ・ヴァルトハイムは、鏡の前で薄く微笑みながら、今日もその記憶を思い返す。
艶やかな金髪をひとつにまとめ、深緑のドレスを身にまとった彼女は、誰が見ても完璧な令嬢だった。
だが、完璧な令嬢というものは、ときに完膚なきまでに踏みにじられる。
異母妹のルーシーが屋敷へやってきたのは、エレーナが十二歳のとき。
父が愛した平民の女性が病で亡くなり、その遺された娘を引き取るのだと、父は静かに言った。
母は青ざめた顔で頷き、エレーナは何も言わなかった。
言えるわけがない。父がそう決めたのだから。
問題は、ルーシーという少女が、驚くほど「かわいそうな子」を演じるのが巧みだったことだ。
「エレーナお姉さまはお父さまに愛されていて、ずるい」
「エレーナお姉さまはお洋服がたくさんあって、ずるい」
「エレーナお姉さまはお友達がいっぱいいて、ずるい」
小さな唇を震わせ、今にも泣きそうな目でそう言われれば、周囲の大人たちは決まって困ったような顔をした。
やがてその視線は、少しずつエレーナへ向けられる。
「エレーナ、お前がもっと妹に優しくしてやれ」
父はそう言い、母もまた、いつしかルーシーを気にかけるようになった。
最初は同情だったのだろう。
だが同情は、長く続けば偏りになる。
気づけばエレーナに向けられる目は、どこか遠くなっていた。
それでもエレーナは泣かなかった。
泣けば、さらに責められる気がしたから。
代わりに彼女は、令嬢としての教養を磨いた。
ピアノを弾き、刺繍をし、語学を学び、礼儀を身につけた。
感情では勝てないなら、せめて自分の価値だけは自分で守ろうと。
やがて十五歳の春、公爵家の嫡男アルフォンス・ケーニヒとの婚約が決まった。
アルフォンスは三歳年上で、寡黙だが理知的な青年だった。
甘い男ではなかったが、少なくとも軽薄ではない。
エレーナは、この人となら穏やかに生きていけるかもしれないと思った。
それが崩れたのは、エレーナが十八歳のとき。
ある午後、ルーシーが彼女の部屋を訪ねてきた。
淡い桃色のドレスを着て、ふんわりと笑いながら。
「お姉さま。わたくし、打ち明けなければならないことがあるんです」
その声音だけで、嫌な予感がした。
「アルフォンス様とわたくし、実は前から想い合っていたんです。どうしても心の声には逆らえなくて」
エレーナは三秒ほど、言葉を失った。
「……アルフォンス様が、そうおっしゃったの?」
「ええ。お姉さまとの婚約は、家同士のお約束だからと悩んでいらしたけれど、わたくしを見ると苦しいって」
ルーシーはそう言って、少しだけ目を伏せた。
「あの方、わたくしにだけ本音を見せてくださるの。お姉さまには申し訳ないけれど、こればかりは……」
その翌週、父はアルフォンスを呼び、話をまとめてしまった。
「ルーシーを幸せにしてやってくれ」
父はそう言い、アルフォンスは苦い顔をしながらも否定しなかった。
母も、「あなたにはきっと、もっとふさわしい相手が現れるわ」と、どこか他人事のように。
エレーナは笑った。
令嬢として、これでもかと言うほどの完成された微笑みで。
「そうですか。では、わたくしの婚約指輪をお返しします」
ルーシーはその指輪を見つめ、白い指で受け取りながら、申し訳なさそうな声を作った。
「ずるいと思うでしょうけれど、ごめんなさいね」
「いいえ。おめでとうございます」
そして自室に戻り、鍵を閉め、一滴だけ涙を流す。
一滴だけ。それ以上は流さなかった。
流してやるものか、と。
婚約者を失い、両親の愛情もほとんど失った。
では、エレーナに何が残ったのか。
教養と、プライドと、それから少しだけ意地悪になった頭脳。
社交シーズンが再び始まった春、エレーナはある決意をもって夜会へ臨んだ。
「ずるい、ずるい」
ルーシーはそう言う。
では、わたくしも少しだけ、『ずるい』をしてみましょう。
ルーシーのずるさは、涙を武器にして欲しいものを手に入れること。
ならばエレーナは、自分の持つ別の武器を使うだけ。
それまでの彼女は、完璧であることで自分を守っていた。
隙を見せず、感情を見せず、誰にも踏み込ませなかった。
だが、それでは誰の心にも残らない。
だからエレーナは、少しだけ方針を変えた。
最初の夜会では、あえて一人でいた。
華やかな会場の端、薔薇の香る窓辺に立ち、夜空を静かに見上げる。
涙は流さない。ただ、何も語らない横顔だけを見せる。
令嬢が一人でいれば、紳士は近づいてくる。
エレーナは穏やかに応じ、しかし長くは引き止めない。
「少し疲れてしまいました」と微笑んで会話を終えることで、相手に余韻だけを残す。
次の夜会では、最も美しいドレスを選んだ。その胸元にだけ、少し萎れかけた白い花を挿した。
「亡くなった祖母が好きだった花なんです」
聞かれれば、そう答えた。
あからさまな悲劇の演出ではない。
だが、物語の匂いは人を惹きつける。
やがて噂は変わり始めた。
「婚約者を妹に奪われたというのに、あの方は恨み言ひとつ口にしない」
「ヴァルトハイム侯爵家は、どういうつもりなのだろう」
「エレーナ嬢こそ、真の令嬢というものだ」
社交界の風向きが、ゆっくりと変わっていく。
そして運命というものは、ときにとびきり皮肉な形で動く。



