嘘つき女王は、いじめ加害者を赦さない

 文化祭の翌週、二年三組の教室は少しだけ静かになった。

 誰かが誰かの机に触れようとすると、「本人に聞いた?」という声が飛ぶ。笑い声が起きても、それが誰かを傷つけるものではないか、一瞬だけ空気が止まる。

 たったそれだけの変化だった。

 けれど、水原紬にとっては十分だった。

 朝、紬は教室に入り、自分の席に座った。鞄からスケッチブックを取り出し、机の上に置く。

 隠さなかった。

 以前なら、誰かに見られるのが怖かった。笑われるのが怖かった。勝手に写真を撮られるのが怖かった。

 でも、今日は違う。

 紬は白いページに鉛筆を走らせた。

「描いてるんだ」

 声がして、顔を上げる。

 黒瀬莉央が立っていた。いつも通りの涼しい顔。何もなかったみたいに、優等生の笑みを浮かべている。

「うん」

「何を?」

「まだ内緒」

「秘密主義になったね」

「莉央さんの影響かも」

「それは悪影響」

 莉央が笑う。

 紬も、少しだけ笑った。

 美羽は今日、学校に来ていなかった。体調不良ということになっている。

 文化祭の日、体育館で流れた録音と映像のあと、学校は調査を始めた。美羽たちは指導を受け、倉田先生は担任を外された。

 すべてが解決したわけではない。

 美羽が本当に反省するかはわからない。
 クラスの空気が完全に変わるかもわからない。
 紬の傷が消えるわけでもない。

 それでも、なかったことにはされなかった。

 それが、今の紬には大きかった。

 昼休み、花音が紬の席に来た。

「水原さん」

 その声は、前より小さかった。

「これ、昨日書き直したの」

 差し出された紙には、文化祭までに花音が見たこと、したことが書かれていた。

 ノートを勝手に見たこと。
 絵を笑ったこと。
 美羽を止めなかったこと。
 自分も一緒に笑っていたこと。

 最後に、短く「ごめんなさい」と書かれている。

 紬は紙を受け取った。

「ありがとう」

 花音はほっとした顔をした。

 けれど紬は、続けた。

「でも、まだ許せるかはわからない」

「……うん」

「友達にも、すぐにはなれない」

「うん。わかってる」

「でも、書いてくれたことは受け取る」

 花音は小さく頭を下げた。

「ごめんね」

 紬は、すぐに「いいよ」とは言わなかった。

 言わなくていいのだと、今は思える。

 許すことは、相手を安心させるための言葉じゃない。自分が、自分のタイミングで決めるものだから。

 放課後、紬は莉央を旧展示室に呼び出した。

 文化祭で使った飾りはほとんど片づけられていたが、窓際には紙の花が一つだけ落ちていた。

 紬はそれを拾い、机に置いた。

 少しして、莉央が来る。

「待たせた?」

「ううん」

「で、話って?」

 紬は鞄から、黒い羽の少女の絵を取り出した。

 文化祭で展示した、自分の絵。

「これ、美術の先生が、校内展示に出してみないかって」

「すごいじゃん」

「怖いけど、出してみようと思う」

「いいと思う」

 莉央は素直に言った。

 紬は絵を見つめる。

「この子、最初は莉央さんみたいな子を描くつもりだった」

「私?」

「うん。黒い羽で、怖くて、強くて、誰にも負けない子」

「美化しすぎ」

「でも、描いてるうちに違うって思った」

 紬は、絵の中の少女を指さした。

「この子、たぶん私だった」

 莉央は黙った。

「莉央さんみたいに強くはない。怖いし、泣くし、すぐ逃げたくなる。でも、それでも立ってる子」

「……そっか」

「だから、展示する」

「うん」

 紬は絵を机に置いた。

 そして、莉央をまっすぐ見た。

「ありがとう」

 莉央はすぐに顔をしかめた。

「それ、受け取らないよ」

「受け取らなくても言う」

「私は、あなたのためにやったんじゃない」

「うん。そう言うと思った」

「私は、ああいう人間が嫌いなだけ」

「それも本当だと思う。でも、それだけじゃない」

 莉央の笑顔が少し薄くなった。

 紬は続ける。

「莉央さんは、感謝されたくないんだと思う」

「想像力が豊かだね」

「絵描きだから」

「外れ」

「嘘」

 紬がそう言うと、莉央は一瞬だけ目を丸くした。

 それから、困ったように笑う。

「言うようになったね」

「莉央さんのせい」

「責任重大だ」

「うん。だから、ちゃんと聞いて」

 紬は一歩近づいた。

「莉央さんのやり方が全部正しかったとは思ってない。怖かった。私のことまで道具みたいに見てるんじゃないかって思った。破られた絵を見たとき、莉央さんが笑ったのも嫌だった」

「うん」

「でも、謝ってくれた」

「うん」

「助けてくれたのも、本当」

 旧展示室に、短い沈黙が落ちた。

 窓の外から、部活の掛け声が聞こえる。

 莉央は視線を逸らした。

「私は優しくないよ」

「知ってる」

「正しくもない」

「それも知ってる」

「面倒な人間だよ」

「知ってる」

「じゃあ、もういいでしょ」

 紬は首を横に振った。

「でも、見捨てなかった」

 その言葉に、莉央は黙った。

 いつもの笑みも、皮肉も、すぐには出てこなかった。

 やがて莉央は、小さく息を吐く。

「感謝は受け取らない」

「うん」

「でも、絵は見る」

 紬は笑った。

「それでいい」

 そのとき、ドアが開いた。

 早坂陸が顔を出す。

「ごめん。邪魔した?」

「かなり」

 莉央が即答する。

 陸は苦笑した。

「新聞部の記事の確認。水原さんに、展示についてコメントをもらえないかと思って」

「コメント?」

「今回のことを、ただの騒動で終わらせたくないんだ。見て見ぬふりについて考える記事にしたい」

 紬は少し迷った。

 けれど、すぐに頷く。

「書きます。でも、自分の言葉で書きたいです」

「もちろん」

「あと、美羽さんたちの名前は出さないでください」

 陸が驚いた顔をした。

「いいの?」

「誰か一人を悪者にしたら、他の人は安心すると思うから」

 紬は、机の上の紙の花を見た。

「見ていた人も、笑った人も、止めなかった人も、先生も、私も、ちゃんと考えないといけないと思います」

 陸は真剣な顔で頷いた。

「わかった」

 莉央は、少しだけ口元を上げる。

「優等生みたい」

「莉央さんに言われると褒められてる気がしない」

「褒めてるよ。たぶん」

 数日後、紬の絵は美術室前に飾られた。

 タイトルは、
『泣き寝入りは、もうしない』

 絵の前で立ち止まる生徒は多かった。

「怖いけど、かっこいい」

「これ、誰が描いたの?」

「ずっと見ちゃう」

 そんな声が聞こえるたびに、紬は少しだけ胸が熱くなった。

 もう、見られることが怖いだけではなかった。

 その日の夕方、莉央は一人でその絵を見上げていた。

 紬が近づく。

「見てたの?」

「うん」

「どう?」

「やっぱり怖くて綺麗」

「そればっかり」

「一番しっくりくるから」

 莉央は絵から目を離さなかった。

「次は何を描くの?」

「まだ決めてない。でも、今度は黒い羽じゃなくてもいいかも」

「白い羽?」

「それは恥ずかしい」

「じゃあ、灰色」

「莉央さんみたい」

「私は黒でいいよ」

 紬は首を横に振った。

「莉央さんは、真っ黒じゃないよ」

「またそういうこと言う」

「だって、嘘だから」

 莉央は困ったように笑った。

 その顔は、少しだけ年相応に見えた。

 夜。

 莉央は自室でスマホを開いた。

 匿名アカウントに、新しい相談メッセージが届いていた。

『突然すみません。部活の先輩に困っています。相談してもいいですか』

 莉央は画面を見つめる。

 文化祭は終わった。
 紬は、少しずつ自分の未来を取り戻している。
 けれど、世界は相変わらず優しくない。

 泣き寝入りするしかないと思っている誰かは、またどこかにいる。

 莉央は返信欄を開いた。

 以前なら、迷わず罠を張る言葉を書いていた。

 でも今は、少しだけ違う。

 紬の言葉が残っている。

 ありがとう。
 嫌だった。
 見捨てなかった。

 莉央は短く息を吐き、文字を打った。

『相談して。証拠は消さないで。日時と場所をメモして』

 そこで一度止まる。

 そして、もう一文を足した。

『危ないことは一人でしない。必要なら、大人も使う』

 送信。

 莉央はスマホを伏せ、ベッドに寝転がった。

 感謝はいらない。

 正義の味方になる気もない。

 でも、泣き寝入りが終わる瞬間だけは、何度見ても悪くない。

 翌朝。

 莉央が教室に入ると、紬はスケッチブックを開いていた。

「おはよう、莉央さん」

「おはよう。今日は何描いてるの?」

「内緒」

「また?」

「完成したら見せる」

 紬は少し笑った。

 その笑顔は、もう誰かの顔色をうかがうだけのものではなかった。

 莉央は自分の席へ向かう。

 その途中で、紬が声をかけた。

「莉央さん」

「なに?」

「私、感謝してるから」

 莉央は振り返り、眉をひそめる。

「受け取らないって言ったよね」

「うん。だから、勝手に置いておく」

 紬はスケッチブックに視線を戻した。

「莉央さんが受け取らなくても、私は忘れない」

 莉央はしばらく紬を見ていた。

 それから、肩をすくめる。

「頑固になったね」

「誰かさんのせいで」

「悪影響だ」

「そうかも」

 二人は少しだけ笑った。

 スマホが震える。

 匿名アカウントに返信が届いていた。

『ありがとうございます。放課後、話せますか』

 莉央は画面を見て、静かに笑った。

 そして短く返信する。

『話せる。泣く場所は、こっちで用意する』

 送信ボタンを押す。

 黒瀬莉央は、誰にでも優しい。

 そして裏では、嘘をつく。罠を張る。泣き寝入りを笑う人間を、笑顔で追い詰める。

 悪女より怖く、ヒーローより冷たい。

 でも、声を上げられない誰かを、見捨てることだけはしない。

 嘘つき女王は、感謝されない。

 それでいい。

 感謝されなくても、物語は進む。

 誰かがもう一度描き始めるなら。

 誰かがもう一度声を出せるなら。

 女王様は今日も、誰にでも優しい顔で、処刑台の場所を探している。