# 第4章 文化祭処刑台
文化祭当日の朝、校舎はいつもより明るかった。
廊下には焼き菓子の匂いが漂い、体育館からは軽音部の音合わせが聞こえる。生徒たちはクラスTシャツを着て、浮かれた顔で走り回っていた。
その中を、黒瀬莉央はいつも通りの笑顔で歩いていた。
「莉央、おはよう!」
「おはよう。看板、可愛くできたね」
「でしょ? 昨日ぎりぎりまでやったんだよ」
「あとで見に行くね」
優等生の黒瀬莉央。
誰にでも優しく、先生からも信頼されるクラス委員。
今日も、その仮面は完璧だった。
だがスマホには、朝から通知が届いていた。
早坂陸から。
『新聞部展示、設置完了』
花音から。
『昨日のこと、記録した』
玲奈から。
『私も書いた。紬の絵を撮ったことも話す』
そして、紬から。
『絵、持ってきた』
莉央はその文字を見つめた。
笑われるのが怖かった絵。
勝手に見られ、撮られ、壊された絵。
それでも紬は今日、自分の手で学校へ持ってきた。
莉央は返信する。
『展示室で待ってる』
二年三組の展示室に入ると、紬は奥のパネルの前に立っていた。
腕には、黒い羽を広げた少女の絵がある。
「おはよう」
「おはよう」
「眠れた?」
「少しだけ」
「十分」
教室の前半分には、予定通りの展示が並んでいた。
テーマは「私たちの未来」。
紙で作った未来の街。将来の夢を書いたカード。明るくて、無難で、文化祭らしい展示。
その奥に、白いパネルで区切られた一角があった。
『見ていた人たちへ』
展示台には、破られたポスターが置かれている。あえて修復はしなかった。透明フィルムで保護し、壊されたまま見せることにした。
壁には、いくつもの言葉。
『冗談のつもりだった』
『そんなつもりじゃなかった』
『空気を悪くしたくなかった』
『見ていただけだった』
『大ごとにしたくなかった』
どれも、誰かが実際に口にした言葉だった。
莉央は紬の絵を中央に飾った。
黒い羽の少女は、笑う顔に囲まれながら、まっすぐ前を見ている。泣いていない。怯えていない。ただ、立っている。
「いいね」
莉央が言うと、紬は不安そうに尋ねた。
「変じゃない?」
「変だよ」
「え」
「だから、目が離せない」
紬は困ったように笑った。
そこへ、新聞部の腕章をつけた陸が入ってきた。
「準備できた?」
「こっちはね」
陸は展示を見て、息をのんだ。
「……すごいな」
紬が緊張した顔をする。
「怖すぎる?」
「いや。ちゃんと見たくなる」
その言葉に、紬の表情が少し緩んだ。
陸は莉央を見る。
「ステージは十一時半。二年三組のPRで、白石が司会に出る」
「予定通りだね」
「本当にやるのか」
陸の声は低かった。
「白石を、みんなの前で追い詰めるつもりだろ」
「追い詰めるんじゃないよ。自分の言葉を、みんなに聞いてもらうだけ」
「それを追い詰めるって言うんだ」
陸は苦い顔をした。
「証拠はある。学校に正式に出せばいい。わざわざ人前でやる必要はない」
莉央は破られたポスターを見た。
「正式に出せば、『いじめ』は『生徒間トラブル』になる。『隠蔽』は『対応の遅れ』になる。『加害』は『行き違い』になる。紬が傷ついたことは、きれいな言葉で薄められる」
「だからって……」
「人前で笑ったものは、人前で返してもらう」
莉央は微笑んだ。
「私はそう決めてる」
陸は紬を見た。
「水原さんは、それでいいの?」
紬は自分の絵を見つめた。
「私は、隠されたくない」
小さな声だったが、はっきりしていた。
「白石さんには謝ってほしい。でも、それより、みんなに見てほしい。私が嫌だったことを、なかったことにされたくない」
陸はしばらく黙ったあと、息を吐いた。
「わかった。でも僕は新聞部として記録する。君たちの味方としてじゃなくて」
「それでいいよ」
莉央は笑った。
文化祭が始まると、展示室にも来場者が入ってきた。
最初は、前半の明るい展示を見る人がほとんどだった。
「未来の街、かわいい」
「夢カード懐かしい」
笑い声が流れる。
けれど、奥の特別展示に気づいた人は、そこで足を止めた。
『見ていた人たちへ』
その文字を見て、表情が変わる。
破られたポスターを見る。
黒い羽の少女を見る。
壁の言葉を見る。
そして、黙る。
それだけで、展示は成功だった。
人は、自分に関係ない不幸にはすぐ感想を言う。
けれど、自分もそこに含まれているかもしれないと気づいた瞬間、言葉を失う。
やがて、花音と玲奈がやって来た。
二人は破られたポスターの前で立ち止まる。
「……本当に展示したんだ」
花音が呟いた。
それから紬に近づき、折り畳んだ紙を差し出す。
「水原さん。これ、私が書いた記録」
紬は受け取らずに、花音を見た。
花音は泣きそうな顔で続ける。
「美羽に合わせて笑った。ノートを勝手に見たときも止めなかった。絵を撮ったときも、面白がった。ごめん」
玲奈も隣に立つ。
「私も、ごめん。美羽に言われたからって言い訳してたけど、私も笑ってた」
紬はしばらく黙っていた。
それから、紙を受け取った。
「許すとは、まだ言えない」
花音は頷いた。
「うん」
「でも、書いてくれたのは受け取る」
二人が出ていったあと、紬は手元の紙を見つめた。
「これでよかったのかな」
「少なくとも、二人は逃げなかった」
莉央はそう言った。
そのとき、廊下の向こうから明るい声が聞こえた。
「え、やば。すごい人来てるじゃん!」
白石美羽だった。
今日の美羽は、いつも以上に可愛かった。髪はゆるく巻かれ、目元には薄くラメが光っている。
美羽は他クラスの女子二人と展示室に入ってきた。
最初は笑っていた。
「うわ、これうちらの展示? けっこういいじゃん」
けれど、奥の特別展示を見た瞬間、その笑顔が固まった。
破られたポスター。
黒い羽の少女。
壁の言葉。
美羽の目が、紬へ向く。
次に、莉央へ。
莉央はにっこり笑った。
「美羽、来てくれたんだ」
「何これ」
「展示」
「こんなの、聞いてない」
「昨日、倉田先生には説明したよ」
「そういうことじゃなくて」
美羽は声を落とした。
「私のこと言ってるの?」
「名前、どこにも書いてないよ」
「でも、これじゃ私がやったみたいじゃん」
「やったの?」
美羽は黙った。
莉央は一歩近づき、小さな声で囁いた。
「嫌なら、ちゃんと説明したらいいよ」
「説明?」
「今日、ステージで二年三組のPRをするんでしょ? そこで謝れば?」
美羽の目が見開かれる。
「は?」
「今なら間に合うよ。『少し悪ふざけが過ぎました』って言えば、反省してるように見える。泣けばもっといい。美羽、泣くの上手いでしょ」
「馬鹿にしてる?」
「助けてる」
莉央は優しい声で続ける。
「このまま黙ってたら、見た人が勝手に想像する。でもステージで先に謝れば、主導権は美羽に戻る」
美羽の目が揺れた。
「全部自分が悪いとは言わなくていい。『紬ちゃんも誤解していた部分があるけど、私たちも悪ふざけが過ぎた』って言えばいい」
「紬ちゃんも誤解……」
「そう。美羽は優しいから、空気を悪くしないために謝る。そう見せればいい」
美羽は莉央を睨んだ。
「莉央って、最低」
「よく言われる」
「私、あんたの思い通りにはならないから」
「うん。ならなくていいよ。美羽が自分で決めて」
美羽は展示室を出ていった。
紬が不安そうに莉央を見る。
「本当にステージで話すかな」
「話すよ」
「どうして?」
「美羽は、見られないことに耐えられないから」
莉央は体育館の方を見た。
「人気者は、注目がないと息ができない」
午前十一時半。
体育館には、生徒と来場者が集まっていた。
ステージでは各クラスのPRタイムが行われている。
二年三組の番になると、美羽がステージ袖から出てきた。
会場から小さな歓声が上がる。
「美羽ちゃんだ」
「やっぱ可愛い」
美羽はマイクを持ち、いつもの笑顔を作った。
「みなさん、こんにちは。二年三組です」
声は明るい。
完璧だった。
莉央は体育館の後方に立っていた。隣には紬がいる。少し離れた場所に陸がいて、新聞部のカメラを構えていた。
美羽はまず、予定通り展示の説明をした。
「私たち二年三組は、『私たちの未来』をテーマに展示をしています。ぜひ見に来てください」
拍手が起きる。
美羽は一度、言葉を切った。
その視線が、体育館後方の莉央を探す。
莉央は微笑んだ。
美羽はマイクを握り直す。
「それから……展示の中に、少し誤解を招くようなものがあります」
会場がざわついた。
「最近、クラス内でちょっとした行き違いがありました。私たちは、悪気があって誰かを傷つけようとしたわけではありません」
紬の肩が強張る。
莉央は小さく言った。
「大丈夫。聞いて」
美羽は涙を浮かべた。
「でも、結果的に水原紬さんを嫌な気持ちにさせてしまったことは、本当に申し訳なく思っています」
名前を出した。
莉央は心の中で静かに笑った。
美羽は自分で、展示と紬と自分の関係を結びつけた。
「ただ、私たちも突然変なDMを送られたり、盗撮みたいなことをされたりして、すごく怖かったです。一方的に私たちだけが悪者みたいに思われるのは違うと思っています」
美羽の涙は強かった。
何も知らない人には、彼女もまた被害者に見える。
そのとき、体育館横の大型モニターに映像が流れ始めた。
新聞部が用意した、二年三組展示の紹介映像だった。
未来の街。
夢カード。
笑う生徒たち。
そして、画面は奥の特別展示へ移る。
『見ていた人たちへ』
破られたポスター。
黒い羽の少女。
壁に貼られた言葉。
『冗談のつもりだった』
『そんなつもりじゃなかった』
『大ごとにしたくなかった』
映像はそこで終わらなかった。
音声が流れた。
『うちら、別に紬ちゃんをいじめてるわけじゃないじゃん。ノリっていうか、クラスの雰囲気っていうか』
美羽の声だった。
体育館が静まり返る。
次に、紬の声。
『私、嫌だった。ノートを勝手に見られるのも、絵を撮られるのも、笑われるのも、嫌だった』
また美羽の声。
『なら、その時に言ってくれればよかったのに』
紬の声。
『言った。やめてって、言った』
空気が変わった。
美羽の顔から血の気が引く。
倉田先生がステージ脇から慌てて動いた。
しかし次に流れたのは、倉田自身の声だった。
『大ごとにしないほうがいい。先生から白石たちには軽く言っておくから』
倉田の足が止まる。
『水原も、被害者みたいな顔をしすぎるな。そういう態度が、周りを刺激することもある』
保護者席から、低いざわめきが起きた。
「先生の声?」
「どういうこと?」
「いじめ?」
倉田が叫んだ。
「止めろ! 誰がこんなものを流している!」
その声も体育館中に響いた。
莉央は静かに前へ歩き出した。
ステージの下まで来ると、美羽を見上げる。
「美羽。さっき言ったよね。『悪気はなかった』『誤解させたなら謝る』『私も傷ついた』って」
「莉央……あんた……」
「でも、紬は嫌だって言ってた。やめてって言ってた。それを美羽は聞かなかった」
「違う、これは切り取られてて……」
「ノートを勝手に見たのは?」
美羽は黙る。
「絵を勝手に撮ったのは?」
「……」
「SNSに上げたのは?」
「……」
「破られたポスターについて、美羽は何か知ってる?」
「知らない!」
美羽は叫んだ。
「それは本当に知らない! 私じゃない!」
「じゃあ、どうして昨日、美術準備室に行ったの?」
「行っただけ!」
「どうして?」
美羽は答えられなかった。
会場中の視線が、彼女に集まっている。
人気者の美羽が、何より欲しがっていた視線。
でも今、その視線には憧れも笑顔もなかった。
莉央は静かに言った。
「ねえ、美羽。人気者って大変だね」
美羽の目に涙が溜まる。
今度の涙は、演技ではなかった。
「莉央、あんた最低だよ」
「うん」
莉央は微笑んだ。
「だから、あなたの嘘より強い」
美羽はマイクを落とした。
鈍い音が、体育館に響いた。
そのとき、客席の後方で花音が立ち上がった。
「私、見てました」
全員の視線が向く。
花音は震えながら続けた。
「美羽が紬の絵を勝手に撮ったのも、ノートを見たのも、見てました。私も笑いました。止めませんでした」
続いて、玲奈も立ち上がった。
「私もです。美羽だけじゃなくて、私も悪いです。でも、紬が嫌がってたのは本当です」
美羽が二人を見る。
「何で……」
花音は泣きながら言った。
「もう、全部美羽のせいにするのも嫌だし、全部なかったことにするのも嫌なの」
体育館は静まり返っていた。
莉央は後ろを振り返る。
「紬」
紬の肩が揺れた。
「来る?」
紬は一瞬、足を止めた。
けれど、ゆっくり歩き出した。
あれほど怖がっていた人の視線の中を、一歩ずつ進んでくる。
ステージ下で莉央の隣に立つと、紬は美羽を見上げた。
「美羽さん」
声は大きくない。
けれど、体育館が静かだったから、よく響いた。
「私は、嫌だった」
美羽は何も言わない。
「ノートを見られるのも、絵を撮られるのも、笑われるのも、嫌だった。私が怒ったら、美羽さんは私を怖いって言った。私が黙ったら、また笑った」
紬の手は震えていた。
でも、言葉は止まらなかった。
「私は、謝ってほしい。でも、それ以上に、もう私のことを勝手に使わないでほしい。私の絵も、私の気持ちも、美羽さんの人気のために使わないでほしい」
美羽の頬を涙が伝った。
「……ごめん」
小さな声だった。
紬はじっと美羽を見た。
「今のごめんは、私に言ったの? それとも、みんなに見られているから言ったの?」
美羽は答えられなかった。
紬は静かに頷いた。
「じゃあ、まだ受け取れない」
会場がざわめく。
紬は続けた。
「でも、私はもう隠れない。展示室に絵があります。破られた絵も、私が描いた絵もあります。見たい人は見てください」
そこまで言って、紬は一歩下がった。
莉央はその横顔を見た。
強い、と思った。
泣きそうで、震えていて、今にも倒れそうなのに、それでも強い。
莉央が作った処刑台の上で、紬は復讐ではなく、自分の言葉を選んだ。
やがて教師が進行を引き取り、体育館の企画は一時中断された。
でも、もう遅い。
多くの人が見た。
聞いた。
知った。
文化祭の明るい空気の中に、隠されていたものは投げ込まれた。
体育館を出ると、紬は廊下の壁にもたれた。
「大丈夫?」
莉央が聞くと、紬は首を横に振った。
「全然、大丈夫じゃない」
「うん」
「怖かった」
「うん」
「でも、言えた」
「うん」
紬はその場にしゃがみ込み、泣いた。
莉央は隣にしゃがむ。
触れない。慰めない。ただ、そこにいる。
「莉央さん」
「なに?」
「私、勝ったのかな」
莉央は少し考えた。
「まだ途中」
「途中?」
「勝つって、相手を泣かせることじゃないから」
紬が顔を上げる。
莉央は微笑んだ。
「あなたが、また描けるようになったら勝ち」
紬は泣きながら、少し笑った。
「じゃあ、勝てるかも」
「うん」
「描きたいもの、まだある」
「なら、勝てる」
午後、二年三組の展示室にはさらに人が増えた。
体育館での騒ぎを聞いた生徒たちが、次々に訪れたのだ。
黒い羽の少女の絵を見ていた一年生の女子が、紬に声をかけた。
「あの、これ描いた人ですか?」
紬は驚いたように頷く。
「はい」
「すごいです。怖いけど、かっこいい」
紬は言葉に詰まったあと、小さく言った。
「ありがとう」
莉央はそのやり取りを見て、静かに展示室を出た。
もう、紬の隣にいなくてもいい。
廊下の端に、美羽が立っていた。
泣いたあとの顔。メイクは崩れ、髪も少し乱れている。
それでも、彼女はまだ可愛かった。
ただし、誰も彼女を中心にはしていない。
美羽は莉央を見ると、憎しみを隠さずに睨んだ。
「満足?」
「うん」
「私の人生、めちゃくちゃにした」
「そんなに簡単に壊れる人生だったんだ」
美羽の目にまた涙が溜まる。
「私は、ちょっとふざけただけだった」
「うん」
「みんなだって笑ってた。私だけじゃない」
「うん」
「なのに、なんで私だけ」
「一番楽しそうに笑ってたからじゃない?」
美羽は息を呑んだ。
「莉央は何なの。正義の味方のつもり?」
「まさか」
莉央は笑った。
「正義の味方は、こんなことしないよ」
「じゃあ、何?」
「嘘つき」
莉央は美羽の耳元で囁いた。
「あなたより、少し上手いだけの」
美羽は何も言えなかった。
莉央は一歩下がる。
「本当に謝りたいなら、今度は誰も見ていないところで言いに行けば」
「……許してくれると思う?」
「知らない」
「莉央が言ってよ」
「嫌だ」
莉央は即答した。
「紬の許しまで、私が奪う気はない」
美羽は俯いた。
莉央がその横を通り過ぎようとしたとき、美羽が小さく言った。
「私、そんなに悪かった?」
莉央は足を止めた。
振り返らずに答える。
「それを私に聞いてるうちは、まだ駄目だと思う」
美羽は何も言わなかった。
文化祭の終わりを告げる放送が流れたのは、午後三時半だった。
二年三組の展示室では、紬が自分の絵を外していた。
破られたポスターは、学校側に提出するため保管されることになった。花音と玲奈の記録、莉央の録音、SNSの記録、陸の映像も、後日確認される。
倉田先生は、午後から姿を見せなかった。
美羽も、いつの間にか帰っていた。
紬は黒い羽の少女の絵を抱え、莉央の前に立った。
「莉央さん」
「なに?」
「ありがとう」
莉央は少しだけ眉を上げた。
「まだ早いよ」
「早い?」
「次の章で言って」
「何それ」
紬が笑う。
莉央も笑った。
壁には、まだタイトルの紙が残っている。
『見ていた人たちへ』
莉央はそれを剥がし、丁寧に折った。
紬が尋ねる。
「持って帰るの?」
「記念に」
「莉央さん、そういうの好きなんだ」
「うん。処刑台の名札だから」
「やっぱり怖い」
紬はそう言ったが、もう本気で怯えてはいなかった。
そのとき、莉央のスマホが震えた。
匿名アカウントへの新しいメッセージだった。
『突然すみません。部活の先輩に困っています。相談してもいいですか』
莉央は画面を見た。
そして、静かに笑った。
今日は、まだ返信しない。
今だけは、紬の物語が終わるのを見届ける。
夕暮れの校舎を、紬と並んで歩く。
紬は胸に絵を抱えていた。
その絵の中の少女は、黒い羽を広げたまま、まっすぐ前を見ていた。
文化祭当日の朝、校舎はいつもより明るかった。
廊下には焼き菓子の匂いが漂い、体育館からは軽音部の音合わせが聞こえる。生徒たちはクラスTシャツを着て、浮かれた顔で走り回っていた。
その中を、黒瀬莉央はいつも通りの笑顔で歩いていた。
「莉央、おはよう!」
「おはよう。看板、可愛くできたね」
「でしょ? 昨日ぎりぎりまでやったんだよ」
「あとで見に行くね」
優等生の黒瀬莉央。
誰にでも優しく、先生からも信頼されるクラス委員。
今日も、その仮面は完璧だった。
だがスマホには、朝から通知が届いていた。
早坂陸から。
『新聞部展示、設置完了』
花音から。
『昨日のこと、記録した』
玲奈から。
『私も書いた。紬の絵を撮ったことも話す』
そして、紬から。
『絵、持ってきた』
莉央はその文字を見つめた。
笑われるのが怖かった絵。
勝手に見られ、撮られ、壊された絵。
それでも紬は今日、自分の手で学校へ持ってきた。
莉央は返信する。
『展示室で待ってる』
二年三組の展示室に入ると、紬は奥のパネルの前に立っていた。
腕には、黒い羽を広げた少女の絵がある。
「おはよう」
「おはよう」
「眠れた?」
「少しだけ」
「十分」
教室の前半分には、予定通りの展示が並んでいた。
テーマは「私たちの未来」。
紙で作った未来の街。将来の夢を書いたカード。明るくて、無難で、文化祭らしい展示。
その奥に、白いパネルで区切られた一角があった。
『見ていた人たちへ』
展示台には、破られたポスターが置かれている。あえて修復はしなかった。透明フィルムで保護し、壊されたまま見せることにした。
壁には、いくつもの言葉。
『冗談のつもりだった』
『そんなつもりじゃなかった』
『空気を悪くしたくなかった』
『見ていただけだった』
『大ごとにしたくなかった』
どれも、誰かが実際に口にした言葉だった。
莉央は紬の絵を中央に飾った。
黒い羽の少女は、笑う顔に囲まれながら、まっすぐ前を見ている。泣いていない。怯えていない。ただ、立っている。
「いいね」
莉央が言うと、紬は不安そうに尋ねた。
「変じゃない?」
「変だよ」
「え」
「だから、目が離せない」
紬は困ったように笑った。
そこへ、新聞部の腕章をつけた陸が入ってきた。
「準備できた?」
「こっちはね」
陸は展示を見て、息をのんだ。
「……すごいな」
紬が緊張した顔をする。
「怖すぎる?」
「いや。ちゃんと見たくなる」
その言葉に、紬の表情が少し緩んだ。
陸は莉央を見る。
「ステージは十一時半。二年三組のPRで、白石が司会に出る」
「予定通りだね」
「本当にやるのか」
陸の声は低かった。
「白石を、みんなの前で追い詰めるつもりだろ」
「追い詰めるんじゃないよ。自分の言葉を、みんなに聞いてもらうだけ」
「それを追い詰めるって言うんだ」
陸は苦い顔をした。
「証拠はある。学校に正式に出せばいい。わざわざ人前でやる必要はない」
莉央は破られたポスターを見た。
「正式に出せば、『いじめ』は『生徒間トラブル』になる。『隠蔽』は『対応の遅れ』になる。『加害』は『行き違い』になる。紬が傷ついたことは、きれいな言葉で薄められる」
「だからって……」
「人前で笑ったものは、人前で返してもらう」
莉央は微笑んだ。
「私はそう決めてる」
陸は紬を見た。
「水原さんは、それでいいの?」
紬は自分の絵を見つめた。
「私は、隠されたくない」
小さな声だったが、はっきりしていた。
「白石さんには謝ってほしい。でも、それより、みんなに見てほしい。私が嫌だったことを、なかったことにされたくない」
陸はしばらく黙ったあと、息を吐いた。
「わかった。でも僕は新聞部として記録する。君たちの味方としてじゃなくて」
「それでいいよ」
莉央は笑った。
文化祭が始まると、展示室にも来場者が入ってきた。
最初は、前半の明るい展示を見る人がほとんどだった。
「未来の街、かわいい」
「夢カード懐かしい」
笑い声が流れる。
けれど、奥の特別展示に気づいた人は、そこで足を止めた。
『見ていた人たちへ』
その文字を見て、表情が変わる。
破られたポスターを見る。
黒い羽の少女を見る。
壁の言葉を見る。
そして、黙る。
それだけで、展示は成功だった。
人は、自分に関係ない不幸にはすぐ感想を言う。
けれど、自分もそこに含まれているかもしれないと気づいた瞬間、言葉を失う。
やがて、花音と玲奈がやって来た。
二人は破られたポスターの前で立ち止まる。
「……本当に展示したんだ」
花音が呟いた。
それから紬に近づき、折り畳んだ紙を差し出す。
「水原さん。これ、私が書いた記録」
紬は受け取らずに、花音を見た。
花音は泣きそうな顔で続ける。
「美羽に合わせて笑った。ノートを勝手に見たときも止めなかった。絵を撮ったときも、面白がった。ごめん」
玲奈も隣に立つ。
「私も、ごめん。美羽に言われたからって言い訳してたけど、私も笑ってた」
紬はしばらく黙っていた。
それから、紙を受け取った。
「許すとは、まだ言えない」
花音は頷いた。
「うん」
「でも、書いてくれたのは受け取る」
二人が出ていったあと、紬は手元の紙を見つめた。
「これでよかったのかな」
「少なくとも、二人は逃げなかった」
莉央はそう言った。
そのとき、廊下の向こうから明るい声が聞こえた。
「え、やば。すごい人来てるじゃん!」
白石美羽だった。
今日の美羽は、いつも以上に可愛かった。髪はゆるく巻かれ、目元には薄くラメが光っている。
美羽は他クラスの女子二人と展示室に入ってきた。
最初は笑っていた。
「うわ、これうちらの展示? けっこういいじゃん」
けれど、奥の特別展示を見た瞬間、その笑顔が固まった。
破られたポスター。
黒い羽の少女。
壁の言葉。
美羽の目が、紬へ向く。
次に、莉央へ。
莉央はにっこり笑った。
「美羽、来てくれたんだ」
「何これ」
「展示」
「こんなの、聞いてない」
「昨日、倉田先生には説明したよ」
「そういうことじゃなくて」
美羽は声を落とした。
「私のこと言ってるの?」
「名前、どこにも書いてないよ」
「でも、これじゃ私がやったみたいじゃん」
「やったの?」
美羽は黙った。
莉央は一歩近づき、小さな声で囁いた。
「嫌なら、ちゃんと説明したらいいよ」
「説明?」
「今日、ステージで二年三組のPRをするんでしょ? そこで謝れば?」
美羽の目が見開かれる。
「は?」
「今なら間に合うよ。『少し悪ふざけが過ぎました』って言えば、反省してるように見える。泣けばもっといい。美羽、泣くの上手いでしょ」
「馬鹿にしてる?」
「助けてる」
莉央は優しい声で続ける。
「このまま黙ってたら、見た人が勝手に想像する。でもステージで先に謝れば、主導権は美羽に戻る」
美羽の目が揺れた。
「全部自分が悪いとは言わなくていい。『紬ちゃんも誤解していた部分があるけど、私たちも悪ふざけが過ぎた』って言えばいい」
「紬ちゃんも誤解……」
「そう。美羽は優しいから、空気を悪くしないために謝る。そう見せればいい」
美羽は莉央を睨んだ。
「莉央って、最低」
「よく言われる」
「私、あんたの思い通りにはならないから」
「うん。ならなくていいよ。美羽が自分で決めて」
美羽は展示室を出ていった。
紬が不安そうに莉央を見る。
「本当にステージで話すかな」
「話すよ」
「どうして?」
「美羽は、見られないことに耐えられないから」
莉央は体育館の方を見た。
「人気者は、注目がないと息ができない」
午前十一時半。
体育館には、生徒と来場者が集まっていた。
ステージでは各クラスのPRタイムが行われている。
二年三組の番になると、美羽がステージ袖から出てきた。
会場から小さな歓声が上がる。
「美羽ちゃんだ」
「やっぱ可愛い」
美羽はマイクを持ち、いつもの笑顔を作った。
「みなさん、こんにちは。二年三組です」
声は明るい。
完璧だった。
莉央は体育館の後方に立っていた。隣には紬がいる。少し離れた場所に陸がいて、新聞部のカメラを構えていた。
美羽はまず、予定通り展示の説明をした。
「私たち二年三組は、『私たちの未来』をテーマに展示をしています。ぜひ見に来てください」
拍手が起きる。
美羽は一度、言葉を切った。
その視線が、体育館後方の莉央を探す。
莉央は微笑んだ。
美羽はマイクを握り直す。
「それから……展示の中に、少し誤解を招くようなものがあります」
会場がざわついた。
「最近、クラス内でちょっとした行き違いがありました。私たちは、悪気があって誰かを傷つけようとしたわけではありません」
紬の肩が強張る。
莉央は小さく言った。
「大丈夫。聞いて」
美羽は涙を浮かべた。
「でも、結果的に水原紬さんを嫌な気持ちにさせてしまったことは、本当に申し訳なく思っています」
名前を出した。
莉央は心の中で静かに笑った。
美羽は自分で、展示と紬と自分の関係を結びつけた。
「ただ、私たちも突然変なDMを送られたり、盗撮みたいなことをされたりして、すごく怖かったです。一方的に私たちだけが悪者みたいに思われるのは違うと思っています」
美羽の涙は強かった。
何も知らない人には、彼女もまた被害者に見える。
そのとき、体育館横の大型モニターに映像が流れ始めた。
新聞部が用意した、二年三組展示の紹介映像だった。
未来の街。
夢カード。
笑う生徒たち。
そして、画面は奥の特別展示へ移る。
『見ていた人たちへ』
破られたポスター。
黒い羽の少女。
壁に貼られた言葉。
『冗談のつもりだった』
『そんなつもりじゃなかった』
『大ごとにしたくなかった』
映像はそこで終わらなかった。
音声が流れた。
『うちら、別に紬ちゃんをいじめてるわけじゃないじゃん。ノリっていうか、クラスの雰囲気っていうか』
美羽の声だった。
体育館が静まり返る。
次に、紬の声。
『私、嫌だった。ノートを勝手に見られるのも、絵を撮られるのも、笑われるのも、嫌だった』
また美羽の声。
『なら、その時に言ってくれればよかったのに』
紬の声。
『言った。やめてって、言った』
空気が変わった。
美羽の顔から血の気が引く。
倉田先生がステージ脇から慌てて動いた。
しかし次に流れたのは、倉田自身の声だった。
『大ごとにしないほうがいい。先生から白石たちには軽く言っておくから』
倉田の足が止まる。
『水原も、被害者みたいな顔をしすぎるな。そういう態度が、周りを刺激することもある』
保護者席から、低いざわめきが起きた。
「先生の声?」
「どういうこと?」
「いじめ?」
倉田が叫んだ。
「止めろ! 誰がこんなものを流している!」
その声も体育館中に響いた。
莉央は静かに前へ歩き出した。
ステージの下まで来ると、美羽を見上げる。
「美羽。さっき言ったよね。『悪気はなかった』『誤解させたなら謝る』『私も傷ついた』って」
「莉央……あんた……」
「でも、紬は嫌だって言ってた。やめてって言ってた。それを美羽は聞かなかった」
「違う、これは切り取られてて……」
「ノートを勝手に見たのは?」
美羽は黙る。
「絵を勝手に撮ったのは?」
「……」
「SNSに上げたのは?」
「……」
「破られたポスターについて、美羽は何か知ってる?」
「知らない!」
美羽は叫んだ。
「それは本当に知らない! 私じゃない!」
「じゃあ、どうして昨日、美術準備室に行ったの?」
「行っただけ!」
「どうして?」
美羽は答えられなかった。
会場中の視線が、彼女に集まっている。
人気者の美羽が、何より欲しがっていた視線。
でも今、その視線には憧れも笑顔もなかった。
莉央は静かに言った。
「ねえ、美羽。人気者って大変だね」
美羽の目に涙が溜まる。
今度の涙は、演技ではなかった。
「莉央、あんた最低だよ」
「うん」
莉央は微笑んだ。
「だから、あなたの嘘より強い」
美羽はマイクを落とした。
鈍い音が、体育館に響いた。
そのとき、客席の後方で花音が立ち上がった。
「私、見てました」
全員の視線が向く。
花音は震えながら続けた。
「美羽が紬の絵を勝手に撮ったのも、ノートを見たのも、見てました。私も笑いました。止めませんでした」
続いて、玲奈も立ち上がった。
「私もです。美羽だけじゃなくて、私も悪いです。でも、紬が嫌がってたのは本当です」
美羽が二人を見る。
「何で……」
花音は泣きながら言った。
「もう、全部美羽のせいにするのも嫌だし、全部なかったことにするのも嫌なの」
体育館は静まり返っていた。
莉央は後ろを振り返る。
「紬」
紬の肩が揺れた。
「来る?」
紬は一瞬、足を止めた。
けれど、ゆっくり歩き出した。
あれほど怖がっていた人の視線の中を、一歩ずつ進んでくる。
ステージ下で莉央の隣に立つと、紬は美羽を見上げた。
「美羽さん」
声は大きくない。
けれど、体育館が静かだったから、よく響いた。
「私は、嫌だった」
美羽は何も言わない。
「ノートを見られるのも、絵を撮られるのも、笑われるのも、嫌だった。私が怒ったら、美羽さんは私を怖いって言った。私が黙ったら、また笑った」
紬の手は震えていた。
でも、言葉は止まらなかった。
「私は、謝ってほしい。でも、それ以上に、もう私のことを勝手に使わないでほしい。私の絵も、私の気持ちも、美羽さんの人気のために使わないでほしい」
美羽の頬を涙が伝った。
「……ごめん」
小さな声だった。
紬はじっと美羽を見た。
「今のごめんは、私に言ったの? それとも、みんなに見られているから言ったの?」
美羽は答えられなかった。
紬は静かに頷いた。
「じゃあ、まだ受け取れない」
会場がざわめく。
紬は続けた。
「でも、私はもう隠れない。展示室に絵があります。破られた絵も、私が描いた絵もあります。見たい人は見てください」
そこまで言って、紬は一歩下がった。
莉央はその横顔を見た。
強い、と思った。
泣きそうで、震えていて、今にも倒れそうなのに、それでも強い。
莉央が作った処刑台の上で、紬は復讐ではなく、自分の言葉を選んだ。
やがて教師が進行を引き取り、体育館の企画は一時中断された。
でも、もう遅い。
多くの人が見た。
聞いた。
知った。
文化祭の明るい空気の中に、隠されていたものは投げ込まれた。
体育館を出ると、紬は廊下の壁にもたれた。
「大丈夫?」
莉央が聞くと、紬は首を横に振った。
「全然、大丈夫じゃない」
「うん」
「怖かった」
「うん」
「でも、言えた」
「うん」
紬はその場にしゃがみ込み、泣いた。
莉央は隣にしゃがむ。
触れない。慰めない。ただ、そこにいる。
「莉央さん」
「なに?」
「私、勝ったのかな」
莉央は少し考えた。
「まだ途中」
「途中?」
「勝つって、相手を泣かせることじゃないから」
紬が顔を上げる。
莉央は微笑んだ。
「あなたが、また描けるようになったら勝ち」
紬は泣きながら、少し笑った。
「じゃあ、勝てるかも」
「うん」
「描きたいもの、まだある」
「なら、勝てる」
午後、二年三組の展示室にはさらに人が増えた。
体育館での騒ぎを聞いた生徒たちが、次々に訪れたのだ。
黒い羽の少女の絵を見ていた一年生の女子が、紬に声をかけた。
「あの、これ描いた人ですか?」
紬は驚いたように頷く。
「はい」
「すごいです。怖いけど、かっこいい」
紬は言葉に詰まったあと、小さく言った。
「ありがとう」
莉央はそのやり取りを見て、静かに展示室を出た。
もう、紬の隣にいなくてもいい。
廊下の端に、美羽が立っていた。
泣いたあとの顔。メイクは崩れ、髪も少し乱れている。
それでも、彼女はまだ可愛かった。
ただし、誰も彼女を中心にはしていない。
美羽は莉央を見ると、憎しみを隠さずに睨んだ。
「満足?」
「うん」
「私の人生、めちゃくちゃにした」
「そんなに簡単に壊れる人生だったんだ」
美羽の目にまた涙が溜まる。
「私は、ちょっとふざけただけだった」
「うん」
「みんなだって笑ってた。私だけじゃない」
「うん」
「なのに、なんで私だけ」
「一番楽しそうに笑ってたからじゃない?」
美羽は息を呑んだ。
「莉央は何なの。正義の味方のつもり?」
「まさか」
莉央は笑った。
「正義の味方は、こんなことしないよ」
「じゃあ、何?」
「嘘つき」
莉央は美羽の耳元で囁いた。
「あなたより、少し上手いだけの」
美羽は何も言えなかった。
莉央は一歩下がる。
「本当に謝りたいなら、今度は誰も見ていないところで言いに行けば」
「……許してくれると思う?」
「知らない」
「莉央が言ってよ」
「嫌だ」
莉央は即答した。
「紬の許しまで、私が奪う気はない」
美羽は俯いた。
莉央がその横を通り過ぎようとしたとき、美羽が小さく言った。
「私、そんなに悪かった?」
莉央は足を止めた。
振り返らずに答える。
「それを私に聞いてるうちは、まだ駄目だと思う」
美羽は何も言わなかった。
文化祭の終わりを告げる放送が流れたのは、午後三時半だった。
二年三組の展示室では、紬が自分の絵を外していた。
破られたポスターは、学校側に提出するため保管されることになった。花音と玲奈の記録、莉央の録音、SNSの記録、陸の映像も、後日確認される。
倉田先生は、午後から姿を見せなかった。
美羽も、いつの間にか帰っていた。
紬は黒い羽の少女の絵を抱え、莉央の前に立った。
「莉央さん」
「なに?」
「ありがとう」
莉央は少しだけ眉を上げた。
「まだ早いよ」
「早い?」
「次の章で言って」
「何それ」
紬が笑う。
莉央も笑った。
壁には、まだタイトルの紙が残っている。
『見ていた人たちへ』
莉央はそれを剥がし、丁寧に折った。
紬が尋ねる。
「持って帰るの?」
「記念に」
「莉央さん、そういうの好きなんだ」
「うん。処刑台の名札だから」
「やっぱり怖い」
紬はそう言ったが、もう本気で怯えてはいなかった。
そのとき、莉央のスマホが震えた。
匿名アカウントへの新しいメッセージだった。
『突然すみません。部活の先輩に困っています。相談してもいいですか』
莉央は画面を見た。
そして、静かに笑った。
今日は、まだ返信しない。
今だけは、紬の物語が終わるのを見届ける。
夕暮れの校舎を、紬と並んで歩く。
紬は胸に絵を抱えていた。
その絵の中の少女は、黒い羽を広げたまま、まっすぐ前を見ていた。



