人気者の嘘は、甘い味がする。
明るくて、軽くて、誰の耳にも入りやすい。砂糖をまぶした毒みたいに、最初は害があると気づかれない。
「ねえ、最近うちのクラス、変な空気じゃない?」
朝の教室で、白石美羽はわざと少し大きな声で言った。
周囲の女子たちが顔を上げる。美羽のそばには花音と玲奈がいたが、二人の笑顔はどこかぎこちなかった。昨日までのように、何でも美羽に合わせる空気ではない。
「なんかさ、被害者ぶる子がいると、みんな気を遣うよね」
教室が一瞬、静かになった。
名前は出していない。けれど、誰のことかは全員がわかっていた。
水原紬は、自分の席で黒いノートを開いていた。視線は落ちている。けれど、右手はしっかりシャープペンを握っていた。
記録するために。
莉央は英単語帳を閉じ、穏やかに言った。
「誰のこと?」
美羽が振り返る。
「え? 別に誰って言ってないけど」
「そっか。名前を出さない悪口って便利だよね」
莉央は微笑んだ。
美羽の笑顔が、ほんの少しだけ崩れる。
「悪口じゃないよ。一般論」
「一般論なら、私も同意。被害者ぶる子がいると大変だよね」
美羽の顔に安堵が浮かぶ。
莉央は続けた。
「本当に被害者なら、もっと大変だけど」
空気が冷えた。
美羽は笑ったまま、莉央を見る。
「莉央、何が言いたいの?」
「何も。一般論」
莉央は再び英単語帳を開いた。
少しだけ針を刺せばいい。深く刺す必要はない。傷口を探すのは、相手自身だから。
午前中、美羽は紬に直接絡まなかった。代わりに、周囲へ小さな噂を落としていく。
「紬ちゃんって、最近莉央と仲いいよね」
「なんか急に強くなった感じしない?」
「誰かに入れ知恵されてるのかな」
ひとつひとつは小さい。けれど、噂は水滴に似ている。落ち続ければ、紙くらい簡単に破れる。
莉央はそのたびに記録した。
九月十八日。
白石美羽、紬を名指しせず「被害者ぶる子」と発言。
以降、紬と莉央の関係について周囲に示唆。
昼休み、紬は図書室にいた。
奥の資料検索用パソコンの近く。莉央が指定した場所だ。トイレより人目があり、廊下より逃げ場がある。
莉央が向かいに座ると、紬は黒いノートを閉じた。
「美羽さん、怒ってる」
「怒ってるというより、焦ってる」
「同じじゃないの?」
「違うよ。怒ってる人は相手を攻撃する。焦ってる人は、自分を守るために相手を悪者にする」
紬は小さく息を吐いた。
「私、また悪者にされるのかな」
「される」
「そこは否定してよ」
「嘘はつかない」
「嘘つきなのに?」
「必要な嘘しかつかない」
莉央はスマホを見せた。
美羽の昨夜の投稿。
『人に相談しただけで悪者扱いされるの、しんどい。こっちだって傷ついてる』
コメント欄には、心配する言葉が並んでいた。
「美羽は、自分を被害者にする準備を始めた。次は、あなたに謝らせようとするか、あなたが大げさにしたことにする」
「……嫌だ」
「なら、言葉を用意しておいて」
「言葉?」
「美羽が来たら、これだけ言えばいい。『私は嫌だった』」
紬は視線を落とした。
「それだけ?」
「それだけでいい。説明しすぎると、相手に逃げ道を作る」
そのとき、図書室の入口から声がした。
「いた」
美羽だった。
花音と玲奈はいない。一人で来たらしい。
莉央は机の下でスマホを操作し、録音を始める。
「紬ちゃん、ちょっと話したくて」
美羽は笑顔で近づいてきた。
「最近さ、私たちのこと誤解してるみたいだから」
「誤解?」
紬の声は小さい。
美羽は椅子を引き、勝手に座った。
「うちら、別に紬ちゃんをいじめてるわけじゃないじゃん。ノリっていうか、クラスの雰囲気っていうか」
莉央は口を挟まない。
今は、美羽に喋らせる。
「ノート見たのも、絵を撮ったのも、悪気があったわけじゃないし。紬ちゃんがそんなに嫌がってたなんて知らなかった」
紬は両手を膝の上で握りしめた。
数秒、沈黙する。
そして、顔を上げた。
「私は嫌だった」
美羽の表情が止まる。
「え?」
「ノートを勝手に見られるのも、絵を撮られるのも、笑われるのも、嫌だった」
声は震えていた。
けれど、言葉は途切れなかった。
美羽はすぐに困った顔を作る。
「なら、その時に言ってくれればよかったのに」
「言った」
「そんな本気だと思わなかったし」
「美羽さんが、本気にしなかっただけ」
図書室の空気が張り詰めた。
美羽は莉央を見た。
「莉央、何か言ってよ。紬ちゃん、ちょっと怖い」
莉央は首を傾げる。
「どこが?」
「だって、こんな言い方……」
「嫌だったって言ってるだけじゃない?」
美羽の頬が赤くなる。
「もういい。紬ちゃんがそんなふうに思ってたなんてショック」
そう言って、美羽は椅子を引き、図書室を出ていった。
足音が遠ざかる。
紬は大きく息を吐いた。
「……怖かった」
「でも、言えた」
「うん」
莉央は録音を止めた。
紬がそれを見て、目を丸くする。
「録ってたの?」
「もちろん。今のは大事。美羽は自分で『いじめてるわけじゃない』と言った。つまり、いじめという言葉を意識している」
「そんなところまで……」
「あと、あなたが『嫌だった』とはっきり言った記録も残った」
紬は少し震えながら笑った。
「莉央さん、本当に悪女だね」
「褒め言葉として受け取る」
放課後、教室では文化祭準備が進んでいた。
紬は展示ポスターの下書きをしている。未来の街を描いた、無難で綺麗な絵だった。
莉央は少し離れた場所で色紙を切りながら、美羽たちの様子を見ていた。
花音と玲奈は、美羽から明らかに距離を取っている。
美羽はそれに苛立っていた。
「ねえ、二人とも何なの? 最近、感じ悪くない?」
「別に」
花音が目を逸らす。
「別にって何?」
美羽の声が尖る。
玲奈が小さく言った。
「美羽こそ、昨日新聞部に行ったんでしょ。うちらに言わずに」
「は? 関係ないじゃん」
「関係あるよ。変なDM来てるのに、何で一人だけ動いてるの?」
「一人だけって何? うちら友達でしょ?」
花音が乾いた笑いを漏らした。
「友達なら、美羽こそ何でも話してよ」
美羽の顔が歪んだ。
ひびは入っている。
あとは、美羽自身が壊してくれる。
そのとき、美羽が紬の席へ向かった。
「紬ちゃん、ちょっといい?」
教室の空気が止まる。
莉央は色紙を切る手を止めず、スマホの録音だけを入れた。
「何?」
紬が答える。
美羽は周囲に聞こえるように、声を震わせた。
「もうやめてくれない? うちらのこと、悪者みたいにするの」
「悪者?」
「私、変なDMとか来てて、本当に怖いの。紬ちゃんがやってるとは言わないけど、紬ちゃんが何か言ったからこうなってるんでしょ?」
何人かが手を止めた。
美羽は続ける。
「うちら、そんなひどいことしてないよね? ちょっと絵を見せてもらったり、冗談言ったりしただけじゃん」
甘い嘘。
聞き心地がいい。
だから、何も知らない人間はそちらへ流れる。
紬は鉛筆を置いた。
「美羽さんは、私に謝りに来たの?」
美羽の表情が止まる。
「え?」
「それとも、自分が被害者だって、みんなに見せに来たの?」
教室が静まり返った。
莉央も、ほんの少しだけ驚いた。
紬は震えていた。
でも、逃げていなかった。
美羽は顔を赤くする。
「何それ。ひどくない?」
「私の絵を勝手に撮ったこと、謝って」
「だから、それは……」
「ノートを勝手に見たことも、謝って」
「紬ちゃん、今みんなの前でそういうこと言う?」
「みんなの前で笑ったのは、美羽さんたちだよ」
誰かが息を呑んだ。
美羽は花音と玲奈を振り返る。
「ねえ、何か言ってよ。うちら悪くないよね?」
花音は目を逸らした。
玲奈も俯いている。
「何で黙るの?」
美羽の声が鋭くなる。
花音が小さく言った。
「でも、勝手に撮ったのは本当じゃん」
「は?」
玲奈も続ける。
「私は、やめたほうがいいって思ってた」
「言ってないじゃん!」
「言えなかったんだよ。美羽、すぐ怒るから」
美羽の顔が歪んだ。
莉央はスマホの録音画面を見た。
取れている。
美羽は自分を守るために来た。
そして、取り巻きに裏切られた。
「最低」
美羽は震える声で言った。
「みんな、最低」
そう吐き捨てて、教室を出ていった。
紬は力が抜けたように椅子にもたれた。
莉央はようやく近づく。
「上出来」
「……心臓、止まるかと思った」
「止まってないから大丈夫」
「そういう問題じゃない」
紬は小さく笑った。
泣きそうな笑顔だった。
翌朝、事件が起きた。
紬の文化祭用ポスターが破られていた。
美術準備室に置いていたはずの下書き。丁寧に描かれていた未来の街の絵が、真ん中から斜めに裂かれている。
紬はそれを見た瞬間、立ち尽くした。
教室がざわつく。
「え、何これ」
「誰がやったの?」
「ひど……」
莉央はゆっくり近づいた。
「触らないで」
声は低かった。
「証拠になるから」
紬が莉央を見る。
その目は、空っぽだった。
「もういい」
「紬」
「もういいよ、莉央さん。言い返したら、もっとひどくなった。やっぱり私が黙ってればよかったんだよ」
莉央は破れたポスターを見る。
相手は、最後の札をくれた。
そう思ってしまった。
けれど、次の瞬間、紬が叫んだ。
「私の絵が破られたんだよ!」
教室が凍りつく。
紬は泣いていた。
「勝てるとか、証拠とか、そういう話じゃない! 私、復讐の道具じゃない。私の絵も、道具じゃない!」
その言葉は、莉央の胸に刺さった。
莉央は一瞬、黙った。
そして、頭を下げた。
「ごめん」
紬が目を見開く。
「今のは、私が悪かった。あなたの絵を、先に証拠として見た」
莉央は静かに続ける。
「でも、これをなかったことにはしない。使うかどうかは、あなたが決めて」
紬は破れたポスターを見つめた。
涙を拭い、震える声で言う。
「使う」
「わかった」
「でも、私が決めたから使うんだよ。莉央さんの道具にしたんじゃない」
「うん」
紬は深く息を吸った。
「破られたまま、展示する。私が描いた絵を、誰かが壊したって、みんなに見せる」
周囲の生徒たちが気まずそうに視線を逸らした。
紬は続けた。
「黒い羽の絵も展示する。あの子は、逃げないから」
莉央は微笑んだ。
「展示タイトルを変えよう」
「何に?」
莉央は教室を見回した。
笑っていた人。
黙っていた人。
気づかないふりをしていた人。
全員に宛てたタイトルが必要だった。
「見ていた人たちへ」
紬は小さく繰り返した。
「見ていた人たちへ」
その言葉に、何人かが顔を伏せた。
夜、紬から画像が送られてきた。
黒い羽の少女の絵が完成していた。
少女は、破れたポスターの前に立っている。背中の黒い羽は大きく広がり、周囲の笑う顔を押し返している。
莉央は画面を見つめた。
その少女は、もう泣いていなかった。
莉央は返信する。
『最高』
少し迷ってから、もう一文を足した。
『あなたの絵は、あなたの武器だね』
紬からの返信はすぐだった。
『うん。もう隠さない』
莉央はスマホを伏せた。
文化祭まで、あと六日。
処刑台の材料は、ほぼ揃った。
残るは、女王様に舞台へ上がってもらうことだけ。
人気者は、嘘の味がする。
甘くて、軽くて、誰もがつい飲み込む。
けれど、甘い嘘ほど、焦げついたときの匂いは強い。
文化祭の日。
その匂いを、全員に嗅がせる。
明るくて、軽くて、誰の耳にも入りやすい。砂糖をまぶした毒みたいに、最初は害があると気づかれない。
「ねえ、最近うちのクラス、変な空気じゃない?」
朝の教室で、白石美羽はわざと少し大きな声で言った。
周囲の女子たちが顔を上げる。美羽のそばには花音と玲奈がいたが、二人の笑顔はどこかぎこちなかった。昨日までのように、何でも美羽に合わせる空気ではない。
「なんかさ、被害者ぶる子がいると、みんな気を遣うよね」
教室が一瞬、静かになった。
名前は出していない。けれど、誰のことかは全員がわかっていた。
水原紬は、自分の席で黒いノートを開いていた。視線は落ちている。けれど、右手はしっかりシャープペンを握っていた。
記録するために。
莉央は英単語帳を閉じ、穏やかに言った。
「誰のこと?」
美羽が振り返る。
「え? 別に誰って言ってないけど」
「そっか。名前を出さない悪口って便利だよね」
莉央は微笑んだ。
美羽の笑顔が、ほんの少しだけ崩れる。
「悪口じゃないよ。一般論」
「一般論なら、私も同意。被害者ぶる子がいると大変だよね」
美羽の顔に安堵が浮かぶ。
莉央は続けた。
「本当に被害者なら、もっと大変だけど」
空気が冷えた。
美羽は笑ったまま、莉央を見る。
「莉央、何が言いたいの?」
「何も。一般論」
莉央は再び英単語帳を開いた。
少しだけ針を刺せばいい。深く刺す必要はない。傷口を探すのは、相手自身だから。
午前中、美羽は紬に直接絡まなかった。代わりに、周囲へ小さな噂を落としていく。
「紬ちゃんって、最近莉央と仲いいよね」
「なんか急に強くなった感じしない?」
「誰かに入れ知恵されてるのかな」
ひとつひとつは小さい。けれど、噂は水滴に似ている。落ち続ければ、紙くらい簡単に破れる。
莉央はそのたびに記録した。
九月十八日。
白石美羽、紬を名指しせず「被害者ぶる子」と発言。
以降、紬と莉央の関係について周囲に示唆。
昼休み、紬は図書室にいた。
奥の資料検索用パソコンの近く。莉央が指定した場所だ。トイレより人目があり、廊下より逃げ場がある。
莉央が向かいに座ると、紬は黒いノートを閉じた。
「美羽さん、怒ってる」
「怒ってるというより、焦ってる」
「同じじゃないの?」
「違うよ。怒ってる人は相手を攻撃する。焦ってる人は、自分を守るために相手を悪者にする」
紬は小さく息を吐いた。
「私、また悪者にされるのかな」
「される」
「そこは否定してよ」
「嘘はつかない」
「嘘つきなのに?」
「必要な嘘しかつかない」
莉央はスマホを見せた。
美羽の昨夜の投稿。
『人に相談しただけで悪者扱いされるの、しんどい。こっちだって傷ついてる』
コメント欄には、心配する言葉が並んでいた。
「美羽は、自分を被害者にする準備を始めた。次は、あなたに謝らせようとするか、あなたが大げさにしたことにする」
「……嫌だ」
「なら、言葉を用意しておいて」
「言葉?」
「美羽が来たら、これだけ言えばいい。『私は嫌だった』」
紬は視線を落とした。
「それだけ?」
「それだけでいい。説明しすぎると、相手に逃げ道を作る」
そのとき、図書室の入口から声がした。
「いた」
美羽だった。
花音と玲奈はいない。一人で来たらしい。
莉央は机の下でスマホを操作し、録音を始める。
「紬ちゃん、ちょっと話したくて」
美羽は笑顔で近づいてきた。
「最近さ、私たちのこと誤解してるみたいだから」
「誤解?」
紬の声は小さい。
美羽は椅子を引き、勝手に座った。
「うちら、別に紬ちゃんをいじめてるわけじゃないじゃん。ノリっていうか、クラスの雰囲気っていうか」
莉央は口を挟まない。
今は、美羽に喋らせる。
「ノート見たのも、絵を撮ったのも、悪気があったわけじゃないし。紬ちゃんがそんなに嫌がってたなんて知らなかった」
紬は両手を膝の上で握りしめた。
数秒、沈黙する。
そして、顔を上げた。
「私は嫌だった」
美羽の表情が止まる。
「え?」
「ノートを勝手に見られるのも、絵を撮られるのも、笑われるのも、嫌だった」
声は震えていた。
けれど、言葉は途切れなかった。
美羽はすぐに困った顔を作る。
「なら、その時に言ってくれればよかったのに」
「言った」
「そんな本気だと思わなかったし」
「美羽さんが、本気にしなかっただけ」
図書室の空気が張り詰めた。
美羽は莉央を見た。
「莉央、何か言ってよ。紬ちゃん、ちょっと怖い」
莉央は首を傾げる。
「どこが?」
「だって、こんな言い方……」
「嫌だったって言ってるだけじゃない?」
美羽の頬が赤くなる。
「もういい。紬ちゃんがそんなふうに思ってたなんてショック」
そう言って、美羽は椅子を引き、図書室を出ていった。
足音が遠ざかる。
紬は大きく息を吐いた。
「……怖かった」
「でも、言えた」
「うん」
莉央は録音を止めた。
紬がそれを見て、目を丸くする。
「録ってたの?」
「もちろん。今のは大事。美羽は自分で『いじめてるわけじゃない』と言った。つまり、いじめという言葉を意識している」
「そんなところまで……」
「あと、あなたが『嫌だった』とはっきり言った記録も残った」
紬は少し震えながら笑った。
「莉央さん、本当に悪女だね」
「褒め言葉として受け取る」
放課後、教室では文化祭準備が進んでいた。
紬は展示ポスターの下書きをしている。未来の街を描いた、無難で綺麗な絵だった。
莉央は少し離れた場所で色紙を切りながら、美羽たちの様子を見ていた。
花音と玲奈は、美羽から明らかに距離を取っている。
美羽はそれに苛立っていた。
「ねえ、二人とも何なの? 最近、感じ悪くない?」
「別に」
花音が目を逸らす。
「別にって何?」
美羽の声が尖る。
玲奈が小さく言った。
「美羽こそ、昨日新聞部に行ったんでしょ。うちらに言わずに」
「は? 関係ないじゃん」
「関係あるよ。変なDM来てるのに、何で一人だけ動いてるの?」
「一人だけって何? うちら友達でしょ?」
花音が乾いた笑いを漏らした。
「友達なら、美羽こそ何でも話してよ」
美羽の顔が歪んだ。
ひびは入っている。
あとは、美羽自身が壊してくれる。
そのとき、美羽が紬の席へ向かった。
「紬ちゃん、ちょっといい?」
教室の空気が止まる。
莉央は色紙を切る手を止めず、スマホの録音だけを入れた。
「何?」
紬が答える。
美羽は周囲に聞こえるように、声を震わせた。
「もうやめてくれない? うちらのこと、悪者みたいにするの」
「悪者?」
「私、変なDMとか来てて、本当に怖いの。紬ちゃんがやってるとは言わないけど、紬ちゃんが何か言ったからこうなってるんでしょ?」
何人かが手を止めた。
美羽は続ける。
「うちら、そんなひどいことしてないよね? ちょっと絵を見せてもらったり、冗談言ったりしただけじゃん」
甘い嘘。
聞き心地がいい。
だから、何も知らない人間はそちらへ流れる。
紬は鉛筆を置いた。
「美羽さんは、私に謝りに来たの?」
美羽の表情が止まる。
「え?」
「それとも、自分が被害者だって、みんなに見せに来たの?」
教室が静まり返った。
莉央も、ほんの少しだけ驚いた。
紬は震えていた。
でも、逃げていなかった。
美羽は顔を赤くする。
「何それ。ひどくない?」
「私の絵を勝手に撮ったこと、謝って」
「だから、それは……」
「ノートを勝手に見たことも、謝って」
「紬ちゃん、今みんなの前でそういうこと言う?」
「みんなの前で笑ったのは、美羽さんたちだよ」
誰かが息を呑んだ。
美羽は花音と玲奈を振り返る。
「ねえ、何か言ってよ。うちら悪くないよね?」
花音は目を逸らした。
玲奈も俯いている。
「何で黙るの?」
美羽の声が鋭くなる。
花音が小さく言った。
「でも、勝手に撮ったのは本当じゃん」
「は?」
玲奈も続ける。
「私は、やめたほうがいいって思ってた」
「言ってないじゃん!」
「言えなかったんだよ。美羽、すぐ怒るから」
美羽の顔が歪んだ。
莉央はスマホの録音画面を見た。
取れている。
美羽は自分を守るために来た。
そして、取り巻きに裏切られた。
「最低」
美羽は震える声で言った。
「みんな、最低」
そう吐き捨てて、教室を出ていった。
紬は力が抜けたように椅子にもたれた。
莉央はようやく近づく。
「上出来」
「……心臓、止まるかと思った」
「止まってないから大丈夫」
「そういう問題じゃない」
紬は小さく笑った。
泣きそうな笑顔だった。
翌朝、事件が起きた。
紬の文化祭用ポスターが破られていた。
美術準備室に置いていたはずの下書き。丁寧に描かれていた未来の街の絵が、真ん中から斜めに裂かれている。
紬はそれを見た瞬間、立ち尽くした。
教室がざわつく。
「え、何これ」
「誰がやったの?」
「ひど……」
莉央はゆっくり近づいた。
「触らないで」
声は低かった。
「証拠になるから」
紬が莉央を見る。
その目は、空っぽだった。
「もういい」
「紬」
「もういいよ、莉央さん。言い返したら、もっとひどくなった。やっぱり私が黙ってればよかったんだよ」
莉央は破れたポスターを見る。
相手は、最後の札をくれた。
そう思ってしまった。
けれど、次の瞬間、紬が叫んだ。
「私の絵が破られたんだよ!」
教室が凍りつく。
紬は泣いていた。
「勝てるとか、証拠とか、そういう話じゃない! 私、復讐の道具じゃない。私の絵も、道具じゃない!」
その言葉は、莉央の胸に刺さった。
莉央は一瞬、黙った。
そして、頭を下げた。
「ごめん」
紬が目を見開く。
「今のは、私が悪かった。あなたの絵を、先に証拠として見た」
莉央は静かに続ける。
「でも、これをなかったことにはしない。使うかどうかは、あなたが決めて」
紬は破れたポスターを見つめた。
涙を拭い、震える声で言う。
「使う」
「わかった」
「でも、私が決めたから使うんだよ。莉央さんの道具にしたんじゃない」
「うん」
紬は深く息を吸った。
「破られたまま、展示する。私が描いた絵を、誰かが壊したって、みんなに見せる」
周囲の生徒たちが気まずそうに視線を逸らした。
紬は続けた。
「黒い羽の絵も展示する。あの子は、逃げないから」
莉央は微笑んだ。
「展示タイトルを変えよう」
「何に?」
莉央は教室を見回した。
笑っていた人。
黙っていた人。
気づかないふりをしていた人。
全員に宛てたタイトルが必要だった。
「見ていた人たちへ」
紬は小さく繰り返した。
「見ていた人たちへ」
その言葉に、何人かが顔を伏せた。
夜、紬から画像が送られてきた。
黒い羽の少女の絵が完成していた。
少女は、破れたポスターの前に立っている。背中の黒い羽は大きく広がり、周囲の笑う顔を押し返している。
莉央は画面を見つめた。
その少女は、もう泣いていなかった。
莉央は返信する。
『最高』
少し迷ってから、もう一文を足した。
『あなたの絵は、あなたの武器だね』
紬からの返信はすぐだった。
『うん。もう隠さない』
莉央はスマホを伏せた。
文化祭まで、あと六日。
処刑台の材料は、ほぼ揃った。
残るは、女王様に舞台へ上がってもらうことだけ。
人気者は、嘘の味がする。
甘くて、軽くて、誰もがつい飲み込む。
けれど、甘い嘘ほど、焦げついたときの匂いは強い。
文化祭の日。
その匂いを、全員に嗅がせる。



