# 第2章 悪女の作戦会議
翌朝、白石美羽は笑っていなかった。
いつもなら教室に入るなり、明るい声で「おはよー」と言う。自分が来たことを、クラス中に知らせるための声だ。
けれど今日は違った。
「……おはよ」
低い声。薄い笑顔。
取り巻きの佐伯花音と真柴玲奈が、すぐに顔を見合わせた。
「美羽、どうしたの?」
「別に。眠いだけ」
美羽はそう答えながら、ちらりと水原紬を見た。
紬は机に教科書を広げていた。けれど、ページは一枚も進んでいない。指先が紙の端を押さえたまま、固まっている。
黒瀬莉央は、自分の席からその様子を眺めていた。
昨夜、美羽のスマホに匿名で送ったメッセージ。
『文化祭までに謝らないと、次は全員に見せるね』
美羽はそれを見た。
そして、誰にも言えていない。
それだけで十分だった。
人は、自分に後ろ暗いことがあるとき、すぐには騒げない。大声を出せば、何に怯えているのか周囲に知られてしまうからだ。
莉央はノートを開き、シャープペンを走らせた。
白石美羽。
弱点、承認欲求。
恐れるもの、孤立。
失いたくないもの、人気。
佐伯花音。
弱点、内申点。推薦狙い。
真柴玲奈。
弱点、親に知られること。外面重視。
倉田浩二。
弱点、保身。
恐れるもの、問題の表面化。
復讐ではない。
莉央はそう思っている。
これは回収だ。
奪われたものを返してもらう。
壊されたものの代金を払わせる。
笑って傷つけた人間に、同じ数だけ人前で恥をかかせる。
ただ、それだけ。
昼休みになっても、美羽は紬に近づかなかった。
そのかわり、莉央が立ち上がる。
「紬、ちょっといい?」
紬はびくりと肩を揺らした。
「あ……うん」
美羽の視線が刺さる。
莉央はわざと明るく笑った。
「文化祭のポスターのことで相談したくて。美羽、紬借りるね」
「……いいんじゃない?」
美羽は笑った。けれど、目は笑っていなかった。
二人は旧校舎三階の空き教室に向かった。文化祭準備の物置になっている部屋で、人はほとんど来ない。
莉央はドアを閉め、窓際の机に腰を下ろした。
「ここなら話せる」
「作戦会議って、本当にするんだ」
「するよ。悪女の作戦会議」
「悪女って、自分で言うの?」
「善人よりは似合うでしょ」
莉央が笑うと、紬は困ったように俯いた。
昨日より少し顔色はいい。けれど、目元は赤い。きっと泣いたのだろう。
莉央は慰めなかった。
今の紬に必要なのは、優しい言葉ではない。自分が怒っていいのだと知ることだ。
「まず、証拠を集める」
莉央はスマホを机に置いた。
画面には、保存した画像と動画が並んでいる。
紬の絵を晒した美羽のストーリー。
ノートを勝手に開いた写真。
取り巻きたちが笑っている動画。
そして、昨日の倉田先生との会話の録音。
紬の顔が強張った。
「こんなに……」
「まだ足りない」
「足りないの?」
「これだけだと、美羽は『ふざけてただけ』で逃げる。倉田先生は『指導の一環だった』で逃げる。クラスの人たちは『そこまでとは思わなかった』で逃げる」
莉央はスマホを伏せた。
「逃げ道を全部塞がないと、謝罪はただの演技になる」
紬は唇を噛んだ。
「私は、謝ってほしいわけじゃないのかもしれない」
「じゃあ、何がほしい?」
「返してほしい」
「何を?」
「絵を描く時間。教室にいる時間。普通に息をする感じ」
紬の声が震えた。
「美羽さんたちが笑うたびに、次は何されるんだろうって考える。スマホが鳴るだけで怖い。ノートを出すのも怖い。前は、絵を描くのが好きだったのに」
莉央は黙って聞いていた。
紬は泣かなかった。
いい兆候だと思った。
「じゃあ、返してもらおう」
莉央は鞄から黒い無地のノートを取り出した。
「今日から、ここに全部書いて。何月何日、何時、どこで、誰に、何をされたか。見ていた人がいたら、それも」
「日記みたいに?」
「裁判資料に近い」
「裁判……」
「大げさじゃないよ。大人を動かすには、感情より記録。涙より日時」
紬はノートを受け取った。
「私、ちゃんと書けるかな」
「書ける。短くていい。美羽に何かされたら、私に送って。写真やメッセージは消される前に保存する」
「莉央さんは……どうしてそんなに慣れてるの?」
莉央は少しだけ黙った。
窓の外で、文化祭用のテントの骨組みが積まれている。まだ何にもなっていないそれは、処刑台の骨みたいに見えた。
「前に、友達がいたの」
紬は何も言わなかった。
「その子も、いじめられてた。私は先生に相談しようって言った。正しい方法で助けを求めれば大丈夫だって」
莉央は笑った。
「でも、間に合わなかった」
「……その子は?」
「転校した。今は連絡も取れない」
最後に届いたメッセージを、莉央は今でも覚えている。
『莉央ちゃんは悪くないよ』
その言葉が嫌いだった。
悪くなかったから、何もしなかった。
正しかったから、勝てなかった。
優しかったから、救えなかった。
だから莉央は、正しくない方法を覚えた。
「私はね、紬。いい人が嫌いなの」
「いい人?」
「『大丈夫?』って聞くだけの人。面倒になると距離を取る人。あとから『知らなかった』って言う人」
莉央は穏やかに続けた。
「いい人は、安全な場所にいるぶん、加害者よりたちが悪い」
「莉央さんも、いい人に見える」
「だから便利でしょ」
莉央は微笑んだ。
「私は、いい人の顔で悪いことができる」
紬はその笑顔を見て、少し眉を歪めた。
「そんなの、悲しいよ」
「悲しくない。使えるものがあるのは、いいことだから」
「自分のこと、道具みたいに言うんだね」
「あなたに言われたくないな」
「え?」
「自分の絵を勝手に汚されて、それでも『大丈夫』って言ってた子に」
紬が黙った。
その沈黙には、少し怒りが混じっていた。
莉央はそれを見て、口元を緩める。
怒れるなら、まだ折れていない。
「被害者でいるのは楽だよ」
「楽じゃない」
「楽だよ。何もしなくていいから。泣いて、耐えて、誰かが助けてくれるのを待てばいい」
「そんな言い方しなくてもいいじゃん」
「でも、勝ちたいなら立って」
紬の瞳に涙が溜まった。
「私だって……立ちたいよ」
「うん」
「でも、怖いんだよ。美羽さんは友達も多いし、先生にも好かれてる。私が何か言ったら、また私が悪いことにされる」
「されるよ」
莉央は即答した。
「そこは否定してよ」
「嘘はつかない」
「嘘つきなのに?」
「必要な嘘しかつかない」
莉央は黒いノートを指差した。
「美羽は、あなたを黙らせようとする。たぶん噂を流す。『紬ちゃんって被害妄想すごいよね』とか、『莉央に取り入ってるよね』とか」
「じゃあ、無理じゃん」
「だから、声を上げる順番を変える」
「順番?」
「先に叫んだほうが負けるときがある。だから、相手に先に叫ばせる」
紬はノートを握りしめた。
「莉央さんって、本当に優しくない」
「言ったでしょ」
莉央は笑う。
「でも、勝たせる」
その言葉だけは、嘘ではなかった。
放課後、莉央は紬のスマホに写真のバックアップ設定を入れた。メッセージのスクリーンショットを保存するフォルダも作る。
「これで、消されても残る」
「美羽さんたち、スマホまでは触らないと思うけど」
「そう思ってるときが一番危ない」
紬は小さく頷いた。
そのとき、空き教室のドアが少し開いた。
「……黒瀬?」
顔を覗かせたのは、早坂陸だった。
新聞部の男子で、眼鏡の奥の目がいつも眠そうに細い。目立つタイプではないが、観察力がある。
「早坂くん。どうしたの?」
「文化祭の取材で旧校舎の写真を撮ってた。声が聞こえたから」
陸の視線が、莉央から紬へ移る。
「最近、白石たちと水原さんのことで、何かある?」
紬の肩が揺れた。
莉央はその前に半歩出る。
「何かって?」
「昨日、白石が水原さんの絵を勝手に撮ってた。今日も空気が変だった。いじめなら、見過ごしたくない」
莉央は微笑んだ。
「見過ごしたくないって、具体的に何をするの?」
「証拠を集めて、先生に……」
「倉田先生に?」
陸は言葉に詰まった。
「先生に言えば解決するなら、今ごろ紬はここにいないよ」
「じゃあ、学年主任とか」
「その前に、倉田先生が揉み消したことを認めさせないとね」
「揉み消した?」
陸の表情が変わる。
莉央は、聞かせるために言った。
早坂陸は使える。
ただし、早すぎる正義感は邪魔になる。
「君が何かしてるのか」
陸が莉央を見た。
莉央は笑った。
「私、そんな悪い子に見える?」
「見えないから怖い」
その答えに、莉央は少しだけ目を細めた。
「早坂くんは、正しい方法で解決したいんだね」
「少なくとも、間違った方法で誰かを傷つけるよりはいい」
「正しい方法で救われるなら」
莉央は一歩近づいた。
「最初から誰も泣いてない」
空き教室が静まり返る。
やがて陸は紬を見た。
「水原さんは、それでいいの?」
紬はすぐには答えなかった。
けれど、小さく頷いた。
「……今は、莉央さんに任せる」
陸は苦い顔をした。
「危ないことはするなよ」
「危ないことって?」
「脅迫とか」
莉央はにっこり笑った。
「やだな。私は平和主義者だよ」
陸はまったく信じていない顔で、教室を出ていった。
その夜。
莉央は自室でノートパソコンを開いた。
美羽のSNSには新しい投稿があった。
『最近、何でも悪く取る人っているよね。こわ』
コメント欄には、取り巻きたちの反応。
『わかるー』
『美羽は悪くないよ』
『被害者ぶる人いるよね』
莉央は小さく笑った。
「ありがとう」
予想通りだ。
美羽は先に紬を「被害者ぶる子」に仕立てようとしている。
莉央は別の匿名アカウントを作った。
今度は美羽ではなく、取り巻きたちへ送る。
佐伯花音には、花音が紬のノートを指差して笑っている動画を添えて。
『推薦、これで大丈夫?』
真柴玲奈には、紬の絵をスマホで撮影している画像を添えて。
『親に見せても平気?』
美羽には送らない。
不安は、全員に同じ情報を与えないほうが育つ。
美羽は、なぜ取り巻きたちが急に怯え始めたのかわからなくなる。
取り巻きたちは、自分だけが狙われていると思う。
そのうち誰かが、誰かを売る。
スマホが震えた。
紬からだった。
『今日のこと、ノートに書きました』
写真が送られてくる。
黒いノートの一ページ目。
『九月十六日。昼休み。白石さんたちは直接何もしてこなかった。でも、私を見る目が怖かった。放課後、莉央さんと話した。怖いけど、少しだけ息ができた』
莉央は最後の一文を見つめた。
少しだけ息ができた。
それだけのことが、今の紬にとっては救いなのだ。
莉央は返信した。
『よく書けてる。明日も続けて』
少し迷って、もう一文送る。
『絵も、送って』
数分後、画像が届いた。
黒い羽の少女。
昨日より少し描き込まれている。少女は泣いていない。怒ってもいない。ただ、前を見ていた。
莉央は画像を保存した。
『この子、最後まで描いて』
既読がつく。
少しして、短く返ってきた。
『うん』
翌朝、教室の空気はさらに悪くなっていた。
花音は美羽から距離を取っている。
玲奈は誰とも目を合わせない。
美羽は笑っているが、その笑顔は硬い。
「最近さ、空気悪くない?」
美羽がわざと聞こえる声で言った。
「誰かさんのせいで」
紬の指が止まる。
莉央は何もしない。
まだだ。
「うちら、普通に文化祭楽しみたいだけなのに。すぐ被害者ぶる人がいると疲れるよね」
教室が少し静かになる。
美羽は紬を見た。
「ねえ、紬ちゃんもそう思わない?」
紬は顔を上げた。
莉央は、机の下でスマホの録音を起動している。
泣かないで。
怒鳴らないで。
言い返しすぎないで。
今は、相手に喋らせる。
紬は少しだけ息を吸った。
「……文化祭は、私も楽しみたい」
それだけ言った。
美羽は一瞬、言葉に詰まる。
「え、なにそれ」
「それだけ」
紬は視線を落とし、ノートを開いた。
莉央は録音を止めた。
上出来だった。
放課後、空き教室で紬は黒いノートを開いた。
『九月十七日。白石さんが、私を見ながら「被害者ぶる人」と言った。私は怖かった。でも、文化祭を楽しみたいと言えた』
莉央はそれを読み、頷いた。
「いいね」
「褒められてる気がしない」
「褒めてるよ。すごく」
紬は少しだけ笑った。
その笑顔は小さかったが、確かにあった。
「次の段階に入る」
「次?」
「美羽に、もっと焦ってもらう」
「何をするの?」
「何もしない」
「え?」
「美羽はもう疑い始めてる。誰が動画を撮ったのか。誰がDMを送っているのか。花音と玲奈が何を隠しているのか。ここで動きすぎると警戒される」
「じゃあ、待つの?」
「うん。相手が勝手に間違えるのを待つ」
紬は窓の外を見た。
「間違えなかったら?」
「間違えるよ」
「どうして?」
「美羽は、自分が一番大事だから」
莉央は静かに言った。
「そういう人は、不安になると必ず誰かを差し出す。自分が助かるために」
紬はしばらく黙っていた。
やがて、ぽつりと言う。
「私、美羽さんのこと、前は少し羨ましかった」
「うん」
「可愛くて、友達が多くて、先生にも好かれてて。ああいう子になれたら、学校って楽なんだろうなって」
「今は?」
「今は……ああいう子にならなくてよかったって、少し思う」
莉央は満足した。
復讐の第一歩は、相手を憎むことではない。
相手を羨むのをやめることだ。
その夜、早坂陸からメッセージが届いた。
『白石が新聞部に来た。文化祭展示で水原さんを変に扱うなって言ってきた』
莉央は笑った。
美羽は、自分が何を恐れているのかを自分で知らせに行った。
続けて陸からもう一通。
『あと、黒瀬が水原さんを利用してるんじゃないかって言ってた』
莉央は返信した。
『記録した?』
すぐに返ってくる。
『した』
やはり、早坂陸は使える。
翌朝。
美羽は莉央を廊下に呼び出した。
「莉央ってさ、最近、紬ちゃんと仲いいよね」
「文化祭の相談をしてるだけだよ」
「あの子、何か言ってた?」
「何かって?」
「うちらのこと」
莉央は首を傾げた。
「美羽、何か言われるようなことしたの?」
美羽の顔が一瞬、歪んだ。
「そういう言い方やめてよ。うちら、別にいじめとかしてないし」
「私は、いじめなんて言ってないよ」
美羽が黙る。
自分でその言葉を出したことに気づいたのだ。
莉央は優しく微笑む。
「大丈夫? 最近、疲れてる?」
「……変なDMが来てるだけ」
「怖いね。先生に相談したら?」
「いや、それは……大ごとにしたくないし」
莉央は心の中で拍手した。
倉田先生と同じ言葉。
大ごとにしたくない。
加害者と隠蔽者は、追い詰められると同じことを言う。
「そっか」
莉央は美羽の手をそっと握った。
「怖かったね」
「……うん」
「でも、何も悪いことしてないなら大丈夫だよ」
莉央は微笑んだ。
「堂々としてればいいんじゃない?」
美羽は、味方なのか敵なのかわからない顔で莉央を見た。
莉央はどちらにも見える笑顔を作る。
「文化祭、楽しもうね」
教室に戻ると、紬が不安そうに見てきた。
莉央はノートの端に一言だけ書き、紬の机に置いた。
『美羽、自分で“いじめ”と言った』
紬の目が少し見開かれる。
莉央は自分の席に戻り、静かに前を向いた。
白石美羽は、もう以前の女王ではない。
取り巻きは、もう以前の臣下ではない。
担任は、もう安全地帯ではない。
そして水原紬は、もう泣き寝入りするだけの子ではない。
文化祭まで、あと九日。
処刑台を組むには、十分な時間だった。
翌朝、白石美羽は笑っていなかった。
いつもなら教室に入るなり、明るい声で「おはよー」と言う。自分が来たことを、クラス中に知らせるための声だ。
けれど今日は違った。
「……おはよ」
低い声。薄い笑顔。
取り巻きの佐伯花音と真柴玲奈が、すぐに顔を見合わせた。
「美羽、どうしたの?」
「別に。眠いだけ」
美羽はそう答えながら、ちらりと水原紬を見た。
紬は机に教科書を広げていた。けれど、ページは一枚も進んでいない。指先が紙の端を押さえたまま、固まっている。
黒瀬莉央は、自分の席からその様子を眺めていた。
昨夜、美羽のスマホに匿名で送ったメッセージ。
『文化祭までに謝らないと、次は全員に見せるね』
美羽はそれを見た。
そして、誰にも言えていない。
それだけで十分だった。
人は、自分に後ろ暗いことがあるとき、すぐには騒げない。大声を出せば、何に怯えているのか周囲に知られてしまうからだ。
莉央はノートを開き、シャープペンを走らせた。
白石美羽。
弱点、承認欲求。
恐れるもの、孤立。
失いたくないもの、人気。
佐伯花音。
弱点、内申点。推薦狙い。
真柴玲奈。
弱点、親に知られること。外面重視。
倉田浩二。
弱点、保身。
恐れるもの、問題の表面化。
復讐ではない。
莉央はそう思っている。
これは回収だ。
奪われたものを返してもらう。
壊されたものの代金を払わせる。
笑って傷つけた人間に、同じ数だけ人前で恥をかかせる。
ただ、それだけ。
昼休みになっても、美羽は紬に近づかなかった。
そのかわり、莉央が立ち上がる。
「紬、ちょっといい?」
紬はびくりと肩を揺らした。
「あ……うん」
美羽の視線が刺さる。
莉央はわざと明るく笑った。
「文化祭のポスターのことで相談したくて。美羽、紬借りるね」
「……いいんじゃない?」
美羽は笑った。けれど、目は笑っていなかった。
二人は旧校舎三階の空き教室に向かった。文化祭準備の物置になっている部屋で、人はほとんど来ない。
莉央はドアを閉め、窓際の机に腰を下ろした。
「ここなら話せる」
「作戦会議って、本当にするんだ」
「するよ。悪女の作戦会議」
「悪女って、自分で言うの?」
「善人よりは似合うでしょ」
莉央が笑うと、紬は困ったように俯いた。
昨日より少し顔色はいい。けれど、目元は赤い。きっと泣いたのだろう。
莉央は慰めなかった。
今の紬に必要なのは、優しい言葉ではない。自分が怒っていいのだと知ることだ。
「まず、証拠を集める」
莉央はスマホを机に置いた。
画面には、保存した画像と動画が並んでいる。
紬の絵を晒した美羽のストーリー。
ノートを勝手に開いた写真。
取り巻きたちが笑っている動画。
そして、昨日の倉田先生との会話の録音。
紬の顔が強張った。
「こんなに……」
「まだ足りない」
「足りないの?」
「これだけだと、美羽は『ふざけてただけ』で逃げる。倉田先生は『指導の一環だった』で逃げる。クラスの人たちは『そこまでとは思わなかった』で逃げる」
莉央はスマホを伏せた。
「逃げ道を全部塞がないと、謝罪はただの演技になる」
紬は唇を噛んだ。
「私は、謝ってほしいわけじゃないのかもしれない」
「じゃあ、何がほしい?」
「返してほしい」
「何を?」
「絵を描く時間。教室にいる時間。普通に息をする感じ」
紬の声が震えた。
「美羽さんたちが笑うたびに、次は何されるんだろうって考える。スマホが鳴るだけで怖い。ノートを出すのも怖い。前は、絵を描くのが好きだったのに」
莉央は黙って聞いていた。
紬は泣かなかった。
いい兆候だと思った。
「じゃあ、返してもらおう」
莉央は鞄から黒い無地のノートを取り出した。
「今日から、ここに全部書いて。何月何日、何時、どこで、誰に、何をされたか。見ていた人がいたら、それも」
「日記みたいに?」
「裁判資料に近い」
「裁判……」
「大げさじゃないよ。大人を動かすには、感情より記録。涙より日時」
紬はノートを受け取った。
「私、ちゃんと書けるかな」
「書ける。短くていい。美羽に何かされたら、私に送って。写真やメッセージは消される前に保存する」
「莉央さんは……どうしてそんなに慣れてるの?」
莉央は少しだけ黙った。
窓の外で、文化祭用のテントの骨組みが積まれている。まだ何にもなっていないそれは、処刑台の骨みたいに見えた。
「前に、友達がいたの」
紬は何も言わなかった。
「その子も、いじめられてた。私は先生に相談しようって言った。正しい方法で助けを求めれば大丈夫だって」
莉央は笑った。
「でも、間に合わなかった」
「……その子は?」
「転校した。今は連絡も取れない」
最後に届いたメッセージを、莉央は今でも覚えている。
『莉央ちゃんは悪くないよ』
その言葉が嫌いだった。
悪くなかったから、何もしなかった。
正しかったから、勝てなかった。
優しかったから、救えなかった。
だから莉央は、正しくない方法を覚えた。
「私はね、紬。いい人が嫌いなの」
「いい人?」
「『大丈夫?』って聞くだけの人。面倒になると距離を取る人。あとから『知らなかった』って言う人」
莉央は穏やかに続けた。
「いい人は、安全な場所にいるぶん、加害者よりたちが悪い」
「莉央さんも、いい人に見える」
「だから便利でしょ」
莉央は微笑んだ。
「私は、いい人の顔で悪いことができる」
紬はその笑顔を見て、少し眉を歪めた。
「そんなの、悲しいよ」
「悲しくない。使えるものがあるのは、いいことだから」
「自分のこと、道具みたいに言うんだね」
「あなたに言われたくないな」
「え?」
「自分の絵を勝手に汚されて、それでも『大丈夫』って言ってた子に」
紬が黙った。
その沈黙には、少し怒りが混じっていた。
莉央はそれを見て、口元を緩める。
怒れるなら、まだ折れていない。
「被害者でいるのは楽だよ」
「楽じゃない」
「楽だよ。何もしなくていいから。泣いて、耐えて、誰かが助けてくれるのを待てばいい」
「そんな言い方しなくてもいいじゃん」
「でも、勝ちたいなら立って」
紬の瞳に涙が溜まった。
「私だって……立ちたいよ」
「うん」
「でも、怖いんだよ。美羽さんは友達も多いし、先生にも好かれてる。私が何か言ったら、また私が悪いことにされる」
「されるよ」
莉央は即答した。
「そこは否定してよ」
「嘘はつかない」
「嘘つきなのに?」
「必要な嘘しかつかない」
莉央は黒いノートを指差した。
「美羽は、あなたを黙らせようとする。たぶん噂を流す。『紬ちゃんって被害妄想すごいよね』とか、『莉央に取り入ってるよね』とか」
「じゃあ、無理じゃん」
「だから、声を上げる順番を変える」
「順番?」
「先に叫んだほうが負けるときがある。だから、相手に先に叫ばせる」
紬はノートを握りしめた。
「莉央さんって、本当に優しくない」
「言ったでしょ」
莉央は笑う。
「でも、勝たせる」
その言葉だけは、嘘ではなかった。
放課後、莉央は紬のスマホに写真のバックアップ設定を入れた。メッセージのスクリーンショットを保存するフォルダも作る。
「これで、消されても残る」
「美羽さんたち、スマホまでは触らないと思うけど」
「そう思ってるときが一番危ない」
紬は小さく頷いた。
そのとき、空き教室のドアが少し開いた。
「……黒瀬?」
顔を覗かせたのは、早坂陸だった。
新聞部の男子で、眼鏡の奥の目がいつも眠そうに細い。目立つタイプではないが、観察力がある。
「早坂くん。どうしたの?」
「文化祭の取材で旧校舎の写真を撮ってた。声が聞こえたから」
陸の視線が、莉央から紬へ移る。
「最近、白石たちと水原さんのことで、何かある?」
紬の肩が揺れた。
莉央はその前に半歩出る。
「何かって?」
「昨日、白石が水原さんの絵を勝手に撮ってた。今日も空気が変だった。いじめなら、見過ごしたくない」
莉央は微笑んだ。
「見過ごしたくないって、具体的に何をするの?」
「証拠を集めて、先生に……」
「倉田先生に?」
陸は言葉に詰まった。
「先生に言えば解決するなら、今ごろ紬はここにいないよ」
「じゃあ、学年主任とか」
「その前に、倉田先生が揉み消したことを認めさせないとね」
「揉み消した?」
陸の表情が変わる。
莉央は、聞かせるために言った。
早坂陸は使える。
ただし、早すぎる正義感は邪魔になる。
「君が何かしてるのか」
陸が莉央を見た。
莉央は笑った。
「私、そんな悪い子に見える?」
「見えないから怖い」
その答えに、莉央は少しだけ目を細めた。
「早坂くんは、正しい方法で解決したいんだね」
「少なくとも、間違った方法で誰かを傷つけるよりはいい」
「正しい方法で救われるなら」
莉央は一歩近づいた。
「最初から誰も泣いてない」
空き教室が静まり返る。
やがて陸は紬を見た。
「水原さんは、それでいいの?」
紬はすぐには答えなかった。
けれど、小さく頷いた。
「……今は、莉央さんに任せる」
陸は苦い顔をした。
「危ないことはするなよ」
「危ないことって?」
「脅迫とか」
莉央はにっこり笑った。
「やだな。私は平和主義者だよ」
陸はまったく信じていない顔で、教室を出ていった。
その夜。
莉央は自室でノートパソコンを開いた。
美羽のSNSには新しい投稿があった。
『最近、何でも悪く取る人っているよね。こわ』
コメント欄には、取り巻きたちの反応。
『わかるー』
『美羽は悪くないよ』
『被害者ぶる人いるよね』
莉央は小さく笑った。
「ありがとう」
予想通りだ。
美羽は先に紬を「被害者ぶる子」に仕立てようとしている。
莉央は別の匿名アカウントを作った。
今度は美羽ではなく、取り巻きたちへ送る。
佐伯花音には、花音が紬のノートを指差して笑っている動画を添えて。
『推薦、これで大丈夫?』
真柴玲奈には、紬の絵をスマホで撮影している画像を添えて。
『親に見せても平気?』
美羽には送らない。
不安は、全員に同じ情報を与えないほうが育つ。
美羽は、なぜ取り巻きたちが急に怯え始めたのかわからなくなる。
取り巻きたちは、自分だけが狙われていると思う。
そのうち誰かが、誰かを売る。
スマホが震えた。
紬からだった。
『今日のこと、ノートに書きました』
写真が送られてくる。
黒いノートの一ページ目。
『九月十六日。昼休み。白石さんたちは直接何もしてこなかった。でも、私を見る目が怖かった。放課後、莉央さんと話した。怖いけど、少しだけ息ができた』
莉央は最後の一文を見つめた。
少しだけ息ができた。
それだけのことが、今の紬にとっては救いなのだ。
莉央は返信した。
『よく書けてる。明日も続けて』
少し迷って、もう一文送る。
『絵も、送って』
数分後、画像が届いた。
黒い羽の少女。
昨日より少し描き込まれている。少女は泣いていない。怒ってもいない。ただ、前を見ていた。
莉央は画像を保存した。
『この子、最後まで描いて』
既読がつく。
少しして、短く返ってきた。
『うん』
翌朝、教室の空気はさらに悪くなっていた。
花音は美羽から距離を取っている。
玲奈は誰とも目を合わせない。
美羽は笑っているが、その笑顔は硬い。
「最近さ、空気悪くない?」
美羽がわざと聞こえる声で言った。
「誰かさんのせいで」
紬の指が止まる。
莉央は何もしない。
まだだ。
「うちら、普通に文化祭楽しみたいだけなのに。すぐ被害者ぶる人がいると疲れるよね」
教室が少し静かになる。
美羽は紬を見た。
「ねえ、紬ちゃんもそう思わない?」
紬は顔を上げた。
莉央は、机の下でスマホの録音を起動している。
泣かないで。
怒鳴らないで。
言い返しすぎないで。
今は、相手に喋らせる。
紬は少しだけ息を吸った。
「……文化祭は、私も楽しみたい」
それだけ言った。
美羽は一瞬、言葉に詰まる。
「え、なにそれ」
「それだけ」
紬は視線を落とし、ノートを開いた。
莉央は録音を止めた。
上出来だった。
放課後、空き教室で紬は黒いノートを開いた。
『九月十七日。白石さんが、私を見ながら「被害者ぶる人」と言った。私は怖かった。でも、文化祭を楽しみたいと言えた』
莉央はそれを読み、頷いた。
「いいね」
「褒められてる気がしない」
「褒めてるよ。すごく」
紬は少しだけ笑った。
その笑顔は小さかったが、確かにあった。
「次の段階に入る」
「次?」
「美羽に、もっと焦ってもらう」
「何をするの?」
「何もしない」
「え?」
「美羽はもう疑い始めてる。誰が動画を撮ったのか。誰がDMを送っているのか。花音と玲奈が何を隠しているのか。ここで動きすぎると警戒される」
「じゃあ、待つの?」
「うん。相手が勝手に間違えるのを待つ」
紬は窓の外を見た。
「間違えなかったら?」
「間違えるよ」
「どうして?」
「美羽は、自分が一番大事だから」
莉央は静かに言った。
「そういう人は、不安になると必ず誰かを差し出す。自分が助かるために」
紬はしばらく黙っていた。
やがて、ぽつりと言う。
「私、美羽さんのこと、前は少し羨ましかった」
「うん」
「可愛くて、友達が多くて、先生にも好かれてて。ああいう子になれたら、学校って楽なんだろうなって」
「今は?」
「今は……ああいう子にならなくてよかったって、少し思う」
莉央は満足した。
復讐の第一歩は、相手を憎むことではない。
相手を羨むのをやめることだ。
その夜、早坂陸からメッセージが届いた。
『白石が新聞部に来た。文化祭展示で水原さんを変に扱うなって言ってきた』
莉央は笑った。
美羽は、自分が何を恐れているのかを自分で知らせに行った。
続けて陸からもう一通。
『あと、黒瀬が水原さんを利用してるんじゃないかって言ってた』
莉央は返信した。
『記録した?』
すぐに返ってくる。
『した』
やはり、早坂陸は使える。
翌朝。
美羽は莉央を廊下に呼び出した。
「莉央ってさ、最近、紬ちゃんと仲いいよね」
「文化祭の相談をしてるだけだよ」
「あの子、何か言ってた?」
「何かって?」
「うちらのこと」
莉央は首を傾げた。
「美羽、何か言われるようなことしたの?」
美羽の顔が一瞬、歪んだ。
「そういう言い方やめてよ。うちら、別にいじめとかしてないし」
「私は、いじめなんて言ってないよ」
美羽が黙る。
自分でその言葉を出したことに気づいたのだ。
莉央は優しく微笑む。
「大丈夫? 最近、疲れてる?」
「……変なDMが来てるだけ」
「怖いね。先生に相談したら?」
「いや、それは……大ごとにしたくないし」
莉央は心の中で拍手した。
倉田先生と同じ言葉。
大ごとにしたくない。
加害者と隠蔽者は、追い詰められると同じことを言う。
「そっか」
莉央は美羽の手をそっと握った。
「怖かったね」
「……うん」
「でも、何も悪いことしてないなら大丈夫だよ」
莉央は微笑んだ。
「堂々としてればいいんじゃない?」
美羽は、味方なのか敵なのかわからない顔で莉央を見た。
莉央はどちらにも見える笑顔を作る。
「文化祭、楽しもうね」
教室に戻ると、紬が不安そうに見てきた。
莉央はノートの端に一言だけ書き、紬の机に置いた。
『美羽、自分で“いじめ”と言った』
紬の目が少し見開かれる。
莉央は自分の席に戻り、静かに前を向いた。
白石美羽は、もう以前の女王ではない。
取り巻きは、もう以前の臣下ではない。
担任は、もう安全地帯ではない。
そして水原紬は、もう泣き寝入りするだけの子ではない。
文化祭まで、あと九日。
処刑台を組むには、十分な時間だった。



