嘘つき女王は、いじめ加害者を赦さない

# 第2章 悪女の作戦会議

 翌朝、白石美羽は笑っていなかった。

 いつもなら教室に入るなり、明るい声で「おはよー」と言う。自分が来たことを、クラス中に知らせるための声だ。

 けれど今日は違った。

「……おはよ」

 低い声。薄い笑顔。

 取り巻きの佐伯花音と真柴玲奈が、すぐに顔を見合わせた。

「美羽、どうしたの?」

「別に。眠いだけ」

 美羽はそう答えながら、ちらりと水原紬を見た。

 紬は机に教科書を広げていた。けれど、ページは一枚も進んでいない。指先が紙の端を押さえたまま、固まっている。

 黒瀬莉央は、自分の席からその様子を眺めていた。

 昨夜、美羽のスマホに匿名で送ったメッセージ。

『文化祭までに謝らないと、次は全員に見せるね』

 美羽はそれを見た。
 そして、誰にも言えていない。

 それだけで十分だった。

 人は、自分に後ろ暗いことがあるとき、すぐには騒げない。大声を出せば、何に怯えているのか周囲に知られてしまうからだ。

 莉央はノートを開き、シャープペンを走らせた。

 白石美羽。
 弱点、承認欲求。
 恐れるもの、孤立。
 失いたくないもの、人気。

 佐伯花音。
 弱点、内申点。推薦狙い。

 真柴玲奈。
 弱点、親に知られること。外面重視。

 倉田浩二。
 弱点、保身。
 恐れるもの、問題の表面化。

 復讐ではない。

 莉央はそう思っている。

 これは回収だ。

 奪われたものを返してもらう。
 壊されたものの代金を払わせる。
 笑って傷つけた人間に、同じ数だけ人前で恥をかかせる。

 ただ、それだけ。

 昼休みになっても、美羽は紬に近づかなかった。

 そのかわり、莉央が立ち上がる。

「紬、ちょっといい?」

 紬はびくりと肩を揺らした。

「あ……うん」

 美羽の視線が刺さる。

 莉央はわざと明るく笑った。

「文化祭のポスターのことで相談したくて。美羽、紬借りるね」

「……いいんじゃない?」

 美羽は笑った。けれど、目は笑っていなかった。

 二人は旧校舎三階の空き教室に向かった。文化祭準備の物置になっている部屋で、人はほとんど来ない。

 莉央はドアを閉め、窓際の机に腰を下ろした。

「ここなら話せる」

「作戦会議って、本当にするんだ」

「するよ。悪女の作戦会議」

「悪女って、自分で言うの?」

「善人よりは似合うでしょ」

 莉央が笑うと、紬は困ったように俯いた。

 昨日より少し顔色はいい。けれど、目元は赤い。きっと泣いたのだろう。

 莉央は慰めなかった。

 今の紬に必要なのは、優しい言葉ではない。自分が怒っていいのだと知ることだ。

「まず、証拠を集める」

 莉央はスマホを机に置いた。

 画面には、保存した画像と動画が並んでいる。

 紬の絵を晒した美羽のストーリー。
 ノートを勝手に開いた写真。
 取り巻きたちが笑っている動画。
 そして、昨日の倉田先生との会話の録音。

 紬の顔が強張った。

「こんなに……」

「まだ足りない」

「足りないの?」

「これだけだと、美羽は『ふざけてただけ』で逃げる。倉田先生は『指導の一環だった』で逃げる。クラスの人たちは『そこまでとは思わなかった』で逃げる」

 莉央はスマホを伏せた。

「逃げ道を全部塞がないと、謝罪はただの演技になる」

 紬は唇を噛んだ。

「私は、謝ってほしいわけじゃないのかもしれない」

「じゃあ、何がほしい?」

「返してほしい」

「何を?」

「絵を描く時間。教室にいる時間。普通に息をする感じ」

 紬の声が震えた。

「美羽さんたちが笑うたびに、次は何されるんだろうって考える。スマホが鳴るだけで怖い。ノートを出すのも怖い。前は、絵を描くのが好きだったのに」

 莉央は黙って聞いていた。

 紬は泣かなかった。

 いい兆候だと思った。

「じゃあ、返してもらおう」

 莉央は鞄から黒い無地のノートを取り出した。

「今日から、ここに全部書いて。何月何日、何時、どこで、誰に、何をされたか。見ていた人がいたら、それも」

「日記みたいに?」

「裁判資料に近い」

「裁判……」

「大げさじゃないよ。大人を動かすには、感情より記録。涙より日時」

 紬はノートを受け取った。

「私、ちゃんと書けるかな」

「書ける。短くていい。美羽に何かされたら、私に送って。写真やメッセージは消される前に保存する」

「莉央さんは……どうしてそんなに慣れてるの?」

 莉央は少しだけ黙った。

 窓の外で、文化祭用のテントの骨組みが積まれている。まだ何にもなっていないそれは、処刑台の骨みたいに見えた。

「前に、友達がいたの」

 紬は何も言わなかった。

「その子も、いじめられてた。私は先生に相談しようって言った。正しい方法で助けを求めれば大丈夫だって」

 莉央は笑った。

「でも、間に合わなかった」

「……その子は?」

「転校した。今は連絡も取れない」

 最後に届いたメッセージを、莉央は今でも覚えている。

『莉央ちゃんは悪くないよ』

 その言葉が嫌いだった。

 悪くなかったから、何もしなかった。
 正しかったから、勝てなかった。
 優しかったから、救えなかった。

 だから莉央は、正しくない方法を覚えた。

「私はね、紬。いい人が嫌いなの」

「いい人?」

「『大丈夫?』って聞くだけの人。面倒になると距離を取る人。あとから『知らなかった』って言う人」

 莉央は穏やかに続けた。

「いい人は、安全な場所にいるぶん、加害者よりたちが悪い」

「莉央さんも、いい人に見える」

「だから便利でしょ」

 莉央は微笑んだ。

「私は、いい人の顔で悪いことができる」

 紬はその笑顔を見て、少し眉を歪めた。

「そんなの、悲しいよ」

「悲しくない。使えるものがあるのは、いいことだから」

「自分のこと、道具みたいに言うんだね」

「あなたに言われたくないな」

「え?」

「自分の絵を勝手に汚されて、それでも『大丈夫』って言ってた子に」

 紬が黙った。

 その沈黙には、少し怒りが混じっていた。

 莉央はそれを見て、口元を緩める。

 怒れるなら、まだ折れていない。

「被害者でいるのは楽だよ」

「楽じゃない」

「楽だよ。何もしなくていいから。泣いて、耐えて、誰かが助けてくれるのを待てばいい」

「そんな言い方しなくてもいいじゃん」

「でも、勝ちたいなら立って」

 紬の瞳に涙が溜まった。

「私だって……立ちたいよ」

「うん」

「でも、怖いんだよ。美羽さんは友達も多いし、先生にも好かれてる。私が何か言ったら、また私が悪いことにされる」

「されるよ」

 莉央は即答した。

「そこは否定してよ」

「嘘はつかない」

「嘘つきなのに?」

「必要な嘘しかつかない」

 莉央は黒いノートを指差した。

「美羽は、あなたを黙らせようとする。たぶん噂を流す。『紬ちゃんって被害妄想すごいよね』とか、『莉央に取り入ってるよね』とか」

「じゃあ、無理じゃん」

「だから、声を上げる順番を変える」

「順番?」

「先に叫んだほうが負けるときがある。だから、相手に先に叫ばせる」

 紬はノートを握りしめた。

「莉央さんって、本当に優しくない」

「言ったでしょ」

 莉央は笑う。

「でも、勝たせる」

 その言葉だけは、嘘ではなかった。

 放課後、莉央は紬のスマホに写真のバックアップ設定を入れた。メッセージのスクリーンショットを保存するフォルダも作る。

「これで、消されても残る」

「美羽さんたち、スマホまでは触らないと思うけど」

「そう思ってるときが一番危ない」

 紬は小さく頷いた。

 そのとき、空き教室のドアが少し開いた。

「……黒瀬?」

 顔を覗かせたのは、早坂陸だった。

 新聞部の男子で、眼鏡の奥の目がいつも眠そうに細い。目立つタイプではないが、観察力がある。

「早坂くん。どうしたの?」

「文化祭の取材で旧校舎の写真を撮ってた。声が聞こえたから」

 陸の視線が、莉央から紬へ移る。

「最近、白石たちと水原さんのことで、何かある?」

 紬の肩が揺れた。

 莉央はその前に半歩出る。

「何かって?」

「昨日、白石が水原さんの絵を勝手に撮ってた。今日も空気が変だった。いじめなら、見過ごしたくない」

 莉央は微笑んだ。

「見過ごしたくないって、具体的に何をするの?」

「証拠を集めて、先生に……」

「倉田先生に?」

 陸は言葉に詰まった。

「先生に言えば解決するなら、今ごろ紬はここにいないよ」

「じゃあ、学年主任とか」

「その前に、倉田先生が揉み消したことを認めさせないとね」

「揉み消した?」

 陸の表情が変わる。

 莉央は、聞かせるために言った。

 早坂陸は使える。

 ただし、早すぎる正義感は邪魔になる。

「君が何かしてるのか」

 陸が莉央を見た。

 莉央は笑った。

「私、そんな悪い子に見える?」

「見えないから怖い」

 その答えに、莉央は少しだけ目を細めた。

「早坂くんは、正しい方法で解決したいんだね」

「少なくとも、間違った方法で誰かを傷つけるよりはいい」

「正しい方法で救われるなら」

 莉央は一歩近づいた。

「最初から誰も泣いてない」

 空き教室が静まり返る。

 やがて陸は紬を見た。

「水原さんは、それでいいの?」

 紬はすぐには答えなかった。

 けれど、小さく頷いた。

「……今は、莉央さんに任せる」

 陸は苦い顔をした。

「危ないことはするなよ」

「危ないことって?」

「脅迫とか」

 莉央はにっこり笑った。

「やだな。私は平和主義者だよ」

 陸はまったく信じていない顔で、教室を出ていった。

 その夜。

 莉央は自室でノートパソコンを開いた。

 美羽のSNSには新しい投稿があった。

『最近、何でも悪く取る人っているよね。こわ』

 コメント欄には、取り巻きたちの反応。

『わかるー』
『美羽は悪くないよ』
『被害者ぶる人いるよね』

 莉央は小さく笑った。

「ありがとう」

 予想通りだ。

 美羽は先に紬を「被害者ぶる子」に仕立てようとしている。

 莉央は別の匿名アカウントを作った。

 今度は美羽ではなく、取り巻きたちへ送る。

 佐伯花音には、花音が紬のノートを指差して笑っている動画を添えて。

『推薦、これで大丈夫?』

 真柴玲奈には、紬の絵をスマホで撮影している画像を添えて。

『親に見せても平気?』

 美羽には送らない。

 不安は、全員に同じ情報を与えないほうが育つ。

 美羽は、なぜ取り巻きたちが急に怯え始めたのかわからなくなる。
 取り巻きたちは、自分だけが狙われていると思う。
 そのうち誰かが、誰かを売る。

 スマホが震えた。

 紬からだった。

『今日のこと、ノートに書きました』

 写真が送られてくる。

 黒いノートの一ページ目。

『九月十六日。昼休み。白石さんたちは直接何もしてこなかった。でも、私を見る目が怖かった。放課後、莉央さんと話した。怖いけど、少しだけ息ができた』

 莉央は最後の一文を見つめた。

 少しだけ息ができた。

 それだけのことが、今の紬にとっては救いなのだ。

 莉央は返信した。

『よく書けてる。明日も続けて』

 少し迷って、もう一文送る。

『絵も、送って』

 数分後、画像が届いた。

 黒い羽の少女。

 昨日より少し描き込まれている。少女は泣いていない。怒ってもいない。ただ、前を見ていた。

 莉央は画像を保存した。

『この子、最後まで描いて』

 既読がつく。

 少しして、短く返ってきた。

『うん』

 翌朝、教室の空気はさらに悪くなっていた。

 花音は美羽から距離を取っている。
 玲奈は誰とも目を合わせない。
 美羽は笑っているが、その笑顔は硬い。

「最近さ、空気悪くない?」

 美羽がわざと聞こえる声で言った。

「誰かさんのせいで」

 紬の指が止まる。

 莉央は何もしない。

 まだだ。

「うちら、普通に文化祭楽しみたいだけなのに。すぐ被害者ぶる人がいると疲れるよね」

 教室が少し静かになる。

 美羽は紬を見た。

「ねえ、紬ちゃんもそう思わない?」

 紬は顔を上げた。

 莉央は、机の下でスマホの録音を起動している。

 泣かないで。
 怒鳴らないで。
 言い返しすぎないで。

 今は、相手に喋らせる。

 紬は少しだけ息を吸った。

「……文化祭は、私も楽しみたい」

 それだけ言った。

 美羽は一瞬、言葉に詰まる。

「え、なにそれ」

「それだけ」

 紬は視線を落とし、ノートを開いた。

 莉央は録音を止めた。

 上出来だった。

 放課後、空き教室で紬は黒いノートを開いた。

『九月十七日。白石さんが、私を見ながら「被害者ぶる人」と言った。私は怖かった。でも、文化祭を楽しみたいと言えた』

 莉央はそれを読み、頷いた。

「いいね」

「褒められてる気がしない」

「褒めてるよ。すごく」

 紬は少しだけ笑った。

 その笑顔は小さかったが、確かにあった。

「次の段階に入る」

「次?」

「美羽に、もっと焦ってもらう」

「何をするの?」

「何もしない」

「え?」

「美羽はもう疑い始めてる。誰が動画を撮ったのか。誰がDMを送っているのか。花音と玲奈が何を隠しているのか。ここで動きすぎると警戒される」

「じゃあ、待つの?」

「うん。相手が勝手に間違えるのを待つ」

 紬は窓の外を見た。

「間違えなかったら?」

「間違えるよ」

「どうして?」

「美羽は、自分が一番大事だから」

 莉央は静かに言った。

「そういう人は、不安になると必ず誰かを差し出す。自分が助かるために」

 紬はしばらく黙っていた。

 やがて、ぽつりと言う。

「私、美羽さんのこと、前は少し羨ましかった」

「うん」

「可愛くて、友達が多くて、先生にも好かれてて。ああいう子になれたら、学校って楽なんだろうなって」

「今は?」

「今は……ああいう子にならなくてよかったって、少し思う」

 莉央は満足した。

 復讐の第一歩は、相手を憎むことではない。

 相手を羨むのをやめることだ。

 その夜、早坂陸からメッセージが届いた。

『白石が新聞部に来た。文化祭展示で水原さんを変に扱うなって言ってきた』

 莉央は笑った。

 美羽は、自分が何を恐れているのかを自分で知らせに行った。

 続けて陸からもう一通。

『あと、黒瀬が水原さんを利用してるんじゃないかって言ってた』

 莉央は返信した。

『記録した?』

 すぐに返ってくる。

『した』

 やはり、早坂陸は使える。

 翌朝。

 美羽は莉央を廊下に呼び出した。

「莉央ってさ、最近、紬ちゃんと仲いいよね」

「文化祭の相談をしてるだけだよ」

「あの子、何か言ってた?」

「何かって?」

「うちらのこと」

 莉央は首を傾げた。

「美羽、何か言われるようなことしたの?」

 美羽の顔が一瞬、歪んだ。

「そういう言い方やめてよ。うちら、別にいじめとかしてないし」

「私は、いじめなんて言ってないよ」

 美羽が黙る。

 自分でその言葉を出したことに気づいたのだ。

 莉央は優しく微笑む。

「大丈夫? 最近、疲れてる?」

「……変なDMが来てるだけ」

「怖いね。先生に相談したら?」

「いや、それは……大ごとにしたくないし」

 莉央は心の中で拍手した。

 倉田先生と同じ言葉。

 大ごとにしたくない。

 加害者と隠蔽者は、追い詰められると同じことを言う。

「そっか」

 莉央は美羽の手をそっと握った。

「怖かったね」

「……うん」

「でも、何も悪いことしてないなら大丈夫だよ」

 莉央は微笑んだ。

「堂々としてればいいんじゃない?」

 美羽は、味方なのか敵なのかわからない顔で莉央を見た。

 莉央はどちらにも見える笑顔を作る。

「文化祭、楽しもうね」

 教室に戻ると、紬が不安そうに見てきた。

 莉央はノートの端に一言だけ書き、紬の机に置いた。

『美羽、自分で“いじめ”と言った』

 紬の目が少し見開かれる。

 莉央は自分の席に戻り、静かに前を向いた。

 白石美羽は、もう以前の女王ではない。
 取り巻きは、もう以前の臣下ではない。
 担任は、もう安全地帯ではない。
 そして水原紬は、もう泣き寝入りするだけの子ではない。

 文化祭まで、あと九日。

 処刑台を組むには、十分な時間だった。