黒瀬莉央は、誰にでも優しい。
朝、教室に入ってきた瞬間から、彼女の周りだけ空気が明るくなる。
「おはよう、莉央!」
「おはよう。今日、髪かわいいね。巻いた?」
「え、わかる? さすが莉央!」
そう言って笑う女子に、莉央は少しだけ首を傾けて微笑んだ。
肩まで伸びた黒髪は、校則に逆らわない程度に整えられている。スカートの丈も、靴下の長さも、教師に注意されないぎりぎりの清潔感を保っていた。目立ちすぎない。けれど、埋もれもしない。
黒瀬莉央は、そういう位置に立つのが上手かった。
「黒瀬、昨日のプリント集めてくれたか?」
担任の倉田先生が出席簿を片手に教室へ入ってくる。
「はい。未提出は三人です。机の上に置いてあります」
「助かるな。黒瀬がいると本当に楽だよ」
「先生の仕事を増やすと、みんなが困りますから」
莉央は穏やかに答えた。
男子の一人が小さく口笛を吹く。
「出た、優等生発言」
「莉央ってほんと完璧だよね」
「いや、完璧すぎて逆に怖いわ」
莉央は冗談に混じるように笑った。
「怖くないよ。私は平和主義者だから」
その言葉に、教室が軽く沸く。
誰も疑わない。
黒瀬莉央は、優しい。
黒瀬莉央は、正しい。
黒瀬莉央は、誰の味方にもなれる。
だからこそ、誰の敵にもならない。
少なくとも、表向きは。
莉央は自分の席に鞄を置き、窓際の一番後ろから教室を眺めた。
白石美羽が、今日も中心にいる。
明るい栗色の髪。短めのスカート。爪先だけ薄く色づいたネイル。校則違反にならない範囲で、全部が計算されている。美羽は莉央とは別の意味で目立つ子だった。
可愛い。明るい。人懐っこい。
教師の前では少し甘えた声を出し、男子の前では冗談を言い、女子の前では流行に詳しいリーダーになる。
その美羽の机の周りに、今日も取り巻きの女子たちが集まっていた。
「美羽、昨日のストーリー見たよ。めっちゃ盛れてた」
「でしょ? あの加工、神なんだけど」
「コメントすごかったじゃん」
「まあね。うち、映える場所探すの上手いから」
笑い声の輪から少し離れたところで、水原紬が俯いていた。
莉央は、その横顔を視界の端に入れる。
水原紬。
同じクラスの女子。小柄で、いつも前髪が少し長い。人と目を合わせるのが苦手で、声も小さい。休み時間はたいてい机で絵を描いている。
美術部ではない。
けれど、絵は上手い。
莉央は、紬がノートの隅に描いた鳥を見たことがある。鉛筆だけで描かれた小さな鳥は、今にも紙から飛び立ちそうだった。
美羽たちも、それを知っている。
だから、使った。
「ねえ、紬ちゃん」
美羽の声が、甘く伸びる。
紬の肩がぴくりと揺れた。
「……なに?」
「文化祭のクラス展示、ポスター係やってくれるよね? 絵、得意じゃん」
「でも、私、まだ係は……」
「えー、得意な人がやったほうがよくない? ね?」
美羽が周りに同意を求めると、取り巻きたちはすぐに頷いた。
「そうそう。紬ちゃん、絵だけは上手いし」
「それ褒めてる? ひどくない?」
「え、褒めてるじゃん」
軽い笑いが起きる。
紬は唇を結んだまま、机の上のノートを閉じた。
美羽はそれを見て、わざとらしく首を傾げる。
「あ、今の傷ついた? ごめんね。うちら、そういうつもりじゃないから」
「……うん。大丈夫」
「よかった。紬ちゃんって、すぐ気にするからさ」
美羽は笑顔のまま、紬のノートに手を伸ばした。
「これ、何描いてたの?」
「あっ」
紬が止めるより早く、美羽はノートを開く。
そこには、黒い羽を持つ女の子の絵が描かれていた。制服姿の少女が、背中に烏のような羽を広げている。顔はまだ描きかけだったが、その目だけが妙に強かった。
「なにこれ、闇深っ」
取り巻きの一人が吹き出した。
「中二病?」
「羽、生えてるんだけど。痛い痛い」
「やめて……」
紬の声は小さかった。
美羽は聞こえなかったふりをして、ノートを高く掲げる。
「ねえ莉央、見て。紬ちゃんの絵、すごくない?」
突然名前を呼ばれ、教室の視線が莉央に向く。
莉央は、自然な表情で立ち上がった。ゆっくり近づき、ノートを覗き込む。
黒い羽の少女。
未完成なのに、目だけがこちらを睨んでいる。
莉央は微笑んだ。
「上手いね」
紬が少しだけ顔を上げる。
だが次の瞬間、莉央は美羽のほうを見た。
「でも、見せるなら本人に許可取らないと。美羽、そういうの嫌がる子もいるよ」
責める口調ではない。
笑顔のまま、やわらかく注意する。
美羽は一瞬だけ唇を尖らせたが、すぐに笑顔へ戻った。
「あ、ごめーん。紬ちゃん、嫌だった?」
「……別に」
「ほら、別にって」
美羽はノートを紬の机に放るように置いた。紙の端が折れる。
紬の指が、その折れた部分をそっと押さえた。
莉央は何も言わなかった。
言わないほうがいい。
ここで美羽を強く責めれば、紬への攻撃は見えない場所へ移る。美羽のような人間は、自分が悪者にされた瞬間、被害者の顔を作るのが上手い。
だから莉央は笑う。
美羽にも。
紬にも。
倉田先生にも。
教室全体にも。
昼休み。
購買で買ったパンを持って席に戻る途中、莉央は廊下の掲示板に貼られた文化祭準備表を見た。
二年三組。展示テーマは「私たちの未来」。
馬鹿みたいなテーマだと思った。
未来なんて、たいていの場合、声の大きい人間に奪われる。声の小さい人間は、未来を語る前に、今日をやり過ごすだけで精一杯だ。
教室に戻ると、紬の席の周りにまた人が集まっていた。
「ねえ、これもポスターに使えるんじゃない?」
「やだ、暗すぎるって」
「でも逆に目立つかもよ。病み展示みたいな」
美羽が紬のスケッチブックをめくっていた。
紬は立ったまま、何も言えずにいる。
「返して」
「え? 何?」
「返して……」
「聞こえないんだけど」
美羽はスマホを取り出した。
取り巻きがすぐに察して笑う。
「ストーリー載せちゃう?」
「やめて」
紬の声が、さっきより強くなった。
教室の空気が少しだけ止まる。
美羽はその変化を見逃さなかった。
「え、なに? 怖いんだけど」
「やめてって言ってるだけ……」
「うちら、褒めてるだけじゃん。そんな言い方しなくてもよくない?」
美羽は悲しそうな顔をした。
上手い。
加害者は、被害者の反抗を待っている。
ほんの少しでも声を荒らげた瞬間、それを「攻撃された証拠」に変えるために。
紬はそれ以上言えなくなった。
莉央は自分の席に座り、パンの袋を開けた。
助けない。
少なくとも、今は。
紬がこちらを見た気がした。
助けて。
そう言ったわけではない。
けれど、莉央には聞こえた。
だから莉央は、あえて視線を逸らした。
放課後。
教室には文化祭準備のために何人か残っていた。莉央は委員会の資料を届けるふりをして、職員室へ向かった。
廊下の角で、倉田先生の声が聞こえた。
「水原、ああいうのはな、受け取り方の問題もあるんだ」
莉央は足を止める。
空き教室のドアが少し開いていた。
中に、倉田先生と紬がいる。
「でも、ノートを勝手に見られたり、写真を撮られたりして……」
「白石たちは悪気があったわけじゃないだろう。お前ももう少し明るく返せば、空気が悪くならないんじゃないか?」
「私が悪いんですか」
「悪いとは言っていない。ただ、クラスにはクラスの雰囲気がある。文化祭前に揉めごとを起こしたくないんだ」
莉央はスマホを取り出した。
録音ボタンを押す。
「大ごとにしないほうがいい。先生から白石たちには軽く言っておくから」
「軽く……?」
「水原も、被害者みたいな顔をしすぎるな。そういう態度が、周りを刺激することもある」
沈黙。
莉央は目を伏せた。
教師という生き物は、たまに面白いことを言う。
殴られた人間に向かって、殴られそうな顔をするなと言う。
盗まれた人間に向かって、盗まれやすい場所に置くなと言う。
傷ついた人間に向かって、傷ついた顔をするなと言う。
大人は正義が好きだ。
ただし、自分の責任にならない範囲で。
空き教室のドアが開き、紬が出てきた。
目が赤い。
莉央は廊下の窓辺に立ち、偶然を装った。
「あれ、紬。先生と話?」
紬は驚いたように顔を上げた。
「……黒瀬さん」
「大丈夫?」
「大丈夫」
即答だった。
莉央は笑った。
「大丈夫って言う人ほど、大丈夫じゃないんだよね」
紬は何も言わない。
莉央は、歩き出そうとする紬の横に並んだ。
「少し話さない?」
「私、帰るから」
「帰って泣くの?」
紬の足が止まった。
莉央は声を落とす。
「泣いてもいいけど、泣くだけなら何も変わらないよ」
「……なに、それ」
「事実」
紬は莉央を睨んだ。
初めて、正面から目が合った。
その目の奥には、怒りよりも疲れがあった。
「黒瀬さんには関係ない」
「あるよ」
「ない」
「ある。私、見ちゃったから」
莉央はスマホを軽く振った。
録音しているとは言わない。
まだ言う必要はない。
「美羽たちのこと。先生のこと。全部、見ちゃった」
紬の顔から血の気が引いた。
「誰かに言うの?」
「言ってほしい?」
「……わからない」
「じゃあ、質問を変えるね」
莉央は紬の真正面に立った。
夕方の廊下は静かで、窓の外から運動部の掛け声だけが遠く聞こえる。
「泣き寝入りする? それとも、あいつらの人生に傷をつける?」
紬は息を呑んだ。
「そんなの……」
「ひどい?」
「ひどいよ」
「うん。ひどいことをするんだよ。相手がしてきたのと同じくらい、もしくはそれ以上に」
莉央は微笑んだ。
教室で見せる、優等生の笑みではない。
もっと冷たくて、もっと綺麗な笑みだった。
「助けてあげる。でも、私は優しくないよ」
紬は一歩後ずさる。
莉央は追わなかった。
「美羽たちは謝らない。倉田先生は守ってくれない。クラスの人たちは、あとから『知らなかった』って言う。だから、誰かに助けてもらうのを待っていたら終わる」
「じゃあ、どうすればいいの」
「勝てばいい」
「勝つって……」
「あの子たちが一番失いたくないものを、失わせる」
紬の指が、鞄の紐を強く握った。
「そんなことしたら、私も同じになる」
「同じじゃないよ」
莉央はすぐに言った。
「あなたは奪われた。これから取り返す。それだけ」
紬の瞳が揺れる。
迷っている。
怖がっている。
それでいい。
怖くない復讐なんて、ただの遊びだ。
「私……仕返しなんて、したくない」
「うん」
「でも」
紬の声が震えた。
「もう、あの子たちに笑われたくない」
莉央は満足そうに頷いた。
「それで十分」
紬は涙をこぼさなかった。
泣きそうな顔のまま、ぎりぎりで堪えている。
莉央は、そういう顔が嫌いではない。
泣くよりも、ずっといい。
「まず、証拠を集める。ノート、メッセージ、写真、壊されたもの。全部残して。消したものも、できるだけ復元する」
「そんなの、どうやって……」
「私がやる」
「黒瀬さんは、どうしてそこまで……」
莉央は窓の外を見た。
グラウンドの向こうで、夕日が校舎の影を伸ばしている。
昔、同じような夕方に、莉央は親友の泣き顔を見たことがある。
あのとき莉央は、いい子だった。
先生に相談しようと言った。
きっと大丈夫だと言った。
みんなわかってくれると言った。
そして、何も間に合わなかった。
莉央は紬に視線を戻した。
「趣味かな」
「趣味?」
「悪い人を、もっと悪い方法で黙らせるのが好きなの」
紬は、冗談か本気かわからない顔をした。
莉央は笑う。
「だから、私を信用しなくていい。でも、利用して」
「利用……」
「そう。あなたが自分で立てるまで、私は道具になる」
そのとき、莉央のスマホが震えた。
美羽のSNSの通知だった。
新しいストーリー。
そこには、紬の黒い羽の少女の絵が映っていた。
画面には、手書き風の文字でこう重ねられている。
『病みかわポスター候補?笑』
莉央は画面を見つめたまま、笑みを深くした。
「ちょうどいいね」
紬が震える声で言った。
「消してって言っても、消してくれないと思う」
「うん。消させない」
「え?」
「証拠だから」
莉央はスクリーンショットを保存した。
それから、紬にスマホを見せる。
「あなたの絵、綺麗だね」
紬は一瞬、何を言われたのかわからない顔をした。
「……馬鹿にしてる?」
「してない。あの黒い羽の子、好きだよ」
紬の目が、わずかに揺れた。
それは今日初めて、彼女が見せた傷以外の表情だった。
莉央はその表情を見て、思った。
壊されるには惜しい。
紬の絵も。
紬自身も。
だから、壊すなら別のものにしよう。
美羽の人気。
倉田の保身。
クラスの沈黙。
声の小さい子から奪ったものを、声の大きい人間にまとめて払わせる。
莉央は紬に背を向け、廊下を歩き出した。
「明日から、少しだけ我慢して。笑われても、黙ってて。泣きそうになっても、教室では泣かないで」
「どうして」
「泣く場所は、私が決める」
紬は小さく息を呑んだ。
莉央は振り返らずに続ける。
「美羽たちには、今まで通り好きにさせる。先生にも、今まで通り何もしない大人でいてもらう。みんなが油断して、自分は安全だと思ったところで、まとめて落とす」
「黒瀬さん……怖い」
莉央は足を止めた。
少しだけ振り返り、笑う。
「今気づいたの?」
夕日が莉央の横顔を赤く染めていた。
その笑顔は優しく見えた。
けれど、紬はたぶんわかったはずだ。
黒瀬莉央は、誰にでも優しい。
ただしそれは、誰にでも同じ顔で嘘をつける、という意味でもある。
その夜。
美羽のスマホに、匿名アカウントから一通のメッセージが届いた。
添付されていたのは、昼休みに紬のスケッチブックを勝手に撮影している美羽の横顔。
そして、ノートを掲げて笑う取り巻きたちの動画。
本文は、たった一行。
『文化祭までに謝らないと、次は全員に見せるね』
送信ボタンを押したあと、莉央はベッドに寝転がった。
天井を見上げながら、静かに笑う。
「開幕」
女王様は、誰にでも優しい。
でも、優しい女王様ほど、処刑台の場所をよく知っている。
朝、教室に入ってきた瞬間から、彼女の周りだけ空気が明るくなる。
「おはよう、莉央!」
「おはよう。今日、髪かわいいね。巻いた?」
「え、わかる? さすが莉央!」
そう言って笑う女子に、莉央は少しだけ首を傾けて微笑んだ。
肩まで伸びた黒髪は、校則に逆らわない程度に整えられている。スカートの丈も、靴下の長さも、教師に注意されないぎりぎりの清潔感を保っていた。目立ちすぎない。けれど、埋もれもしない。
黒瀬莉央は、そういう位置に立つのが上手かった。
「黒瀬、昨日のプリント集めてくれたか?」
担任の倉田先生が出席簿を片手に教室へ入ってくる。
「はい。未提出は三人です。机の上に置いてあります」
「助かるな。黒瀬がいると本当に楽だよ」
「先生の仕事を増やすと、みんなが困りますから」
莉央は穏やかに答えた。
男子の一人が小さく口笛を吹く。
「出た、優等生発言」
「莉央ってほんと完璧だよね」
「いや、完璧すぎて逆に怖いわ」
莉央は冗談に混じるように笑った。
「怖くないよ。私は平和主義者だから」
その言葉に、教室が軽く沸く。
誰も疑わない。
黒瀬莉央は、優しい。
黒瀬莉央は、正しい。
黒瀬莉央は、誰の味方にもなれる。
だからこそ、誰の敵にもならない。
少なくとも、表向きは。
莉央は自分の席に鞄を置き、窓際の一番後ろから教室を眺めた。
白石美羽が、今日も中心にいる。
明るい栗色の髪。短めのスカート。爪先だけ薄く色づいたネイル。校則違反にならない範囲で、全部が計算されている。美羽は莉央とは別の意味で目立つ子だった。
可愛い。明るい。人懐っこい。
教師の前では少し甘えた声を出し、男子の前では冗談を言い、女子の前では流行に詳しいリーダーになる。
その美羽の机の周りに、今日も取り巻きの女子たちが集まっていた。
「美羽、昨日のストーリー見たよ。めっちゃ盛れてた」
「でしょ? あの加工、神なんだけど」
「コメントすごかったじゃん」
「まあね。うち、映える場所探すの上手いから」
笑い声の輪から少し離れたところで、水原紬が俯いていた。
莉央は、その横顔を視界の端に入れる。
水原紬。
同じクラスの女子。小柄で、いつも前髪が少し長い。人と目を合わせるのが苦手で、声も小さい。休み時間はたいてい机で絵を描いている。
美術部ではない。
けれど、絵は上手い。
莉央は、紬がノートの隅に描いた鳥を見たことがある。鉛筆だけで描かれた小さな鳥は、今にも紙から飛び立ちそうだった。
美羽たちも、それを知っている。
だから、使った。
「ねえ、紬ちゃん」
美羽の声が、甘く伸びる。
紬の肩がぴくりと揺れた。
「……なに?」
「文化祭のクラス展示、ポスター係やってくれるよね? 絵、得意じゃん」
「でも、私、まだ係は……」
「えー、得意な人がやったほうがよくない? ね?」
美羽が周りに同意を求めると、取り巻きたちはすぐに頷いた。
「そうそう。紬ちゃん、絵だけは上手いし」
「それ褒めてる? ひどくない?」
「え、褒めてるじゃん」
軽い笑いが起きる。
紬は唇を結んだまま、机の上のノートを閉じた。
美羽はそれを見て、わざとらしく首を傾げる。
「あ、今の傷ついた? ごめんね。うちら、そういうつもりじゃないから」
「……うん。大丈夫」
「よかった。紬ちゃんって、すぐ気にするからさ」
美羽は笑顔のまま、紬のノートに手を伸ばした。
「これ、何描いてたの?」
「あっ」
紬が止めるより早く、美羽はノートを開く。
そこには、黒い羽を持つ女の子の絵が描かれていた。制服姿の少女が、背中に烏のような羽を広げている。顔はまだ描きかけだったが、その目だけが妙に強かった。
「なにこれ、闇深っ」
取り巻きの一人が吹き出した。
「中二病?」
「羽、生えてるんだけど。痛い痛い」
「やめて……」
紬の声は小さかった。
美羽は聞こえなかったふりをして、ノートを高く掲げる。
「ねえ莉央、見て。紬ちゃんの絵、すごくない?」
突然名前を呼ばれ、教室の視線が莉央に向く。
莉央は、自然な表情で立ち上がった。ゆっくり近づき、ノートを覗き込む。
黒い羽の少女。
未完成なのに、目だけがこちらを睨んでいる。
莉央は微笑んだ。
「上手いね」
紬が少しだけ顔を上げる。
だが次の瞬間、莉央は美羽のほうを見た。
「でも、見せるなら本人に許可取らないと。美羽、そういうの嫌がる子もいるよ」
責める口調ではない。
笑顔のまま、やわらかく注意する。
美羽は一瞬だけ唇を尖らせたが、すぐに笑顔へ戻った。
「あ、ごめーん。紬ちゃん、嫌だった?」
「……別に」
「ほら、別にって」
美羽はノートを紬の机に放るように置いた。紙の端が折れる。
紬の指が、その折れた部分をそっと押さえた。
莉央は何も言わなかった。
言わないほうがいい。
ここで美羽を強く責めれば、紬への攻撃は見えない場所へ移る。美羽のような人間は、自分が悪者にされた瞬間、被害者の顔を作るのが上手い。
だから莉央は笑う。
美羽にも。
紬にも。
倉田先生にも。
教室全体にも。
昼休み。
購買で買ったパンを持って席に戻る途中、莉央は廊下の掲示板に貼られた文化祭準備表を見た。
二年三組。展示テーマは「私たちの未来」。
馬鹿みたいなテーマだと思った。
未来なんて、たいていの場合、声の大きい人間に奪われる。声の小さい人間は、未来を語る前に、今日をやり過ごすだけで精一杯だ。
教室に戻ると、紬の席の周りにまた人が集まっていた。
「ねえ、これもポスターに使えるんじゃない?」
「やだ、暗すぎるって」
「でも逆に目立つかもよ。病み展示みたいな」
美羽が紬のスケッチブックをめくっていた。
紬は立ったまま、何も言えずにいる。
「返して」
「え? 何?」
「返して……」
「聞こえないんだけど」
美羽はスマホを取り出した。
取り巻きがすぐに察して笑う。
「ストーリー載せちゃう?」
「やめて」
紬の声が、さっきより強くなった。
教室の空気が少しだけ止まる。
美羽はその変化を見逃さなかった。
「え、なに? 怖いんだけど」
「やめてって言ってるだけ……」
「うちら、褒めてるだけじゃん。そんな言い方しなくてもよくない?」
美羽は悲しそうな顔をした。
上手い。
加害者は、被害者の反抗を待っている。
ほんの少しでも声を荒らげた瞬間、それを「攻撃された証拠」に変えるために。
紬はそれ以上言えなくなった。
莉央は自分の席に座り、パンの袋を開けた。
助けない。
少なくとも、今は。
紬がこちらを見た気がした。
助けて。
そう言ったわけではない。
けれど、莉央には聞こえた。
だから莉央は、あえて視線を逸らした。
放課後。
教室には文化祭準備のために何人か残っていた。莉央は委員会の資料を届けるふりをして、職員室へ向かった。
廊下の角で、倉田先生の声が聞こえた。
「水原、ああいうのはな、受け取り方の問題もあるんだ」
莉央は足を止める。
空き教室のドアが少し開いていた。
中に、倉田先生と紬がいる。
「でも、ノートを勝手に見られたり、写真を撮られたりして……」
「白石たちは悪気があったわけじゃないだろう。お前ももう少し明るく返せば、空気が悪くならないんじゃないか?」
「私が悪いんですか」
「悪いとは言っていない。ただ、クラスにはクラスの雰囲気がある。文化祭前に揉めごとを起こしたくないんだ」
莉央はスマホを取り出した。
録音ボタンを押す。
「大ごとにしないほうがいい。先生から白石たちには軽く言っておくから」
「軽く……?」
「水原も、被害者みたいな顔をしすぎるな。そういう態度が、周りを刺激することもある」
沈黙。
莉央は目を伏せた。
教師という生き物は、たまに面白いことを言う。
殴られた人間に向かって、殴られそうな顔をするなと言う。
盗まれた人間に向かって、盗まれやすい場所に置くなと言う。
傷ついた人間に向かって、傷ついた顔をするなと言う。
大人は正義が好きだ。
ただし、自分の責任にならない範囲で。
空き教室のドアが開き、紬が出てきた。
目が赤い。
莉央は廊下の窓辺に立ち、偶然を装った。
「あれ、紬。先生と話?」
紬は驚いたように顔を上げた。
「……黒瀬さん」
「大丈夫?」
「大丈夫」
即答だった。
莉央は笑った。
「大丈夫って言う人ほど、大丈夫じゃないんだよね」
紬は何も言わない。
莉央は、歩き出そうとする紬の横に並んだ。
「少し話さない?」
「私、帰るから」
「帰って泣くの?」
紬の足が止まった。
莉央は声を落とす。
「泣いてもいいけど、泣くだけなら何も変わらないよ」
「……なに、それ」
「事実」
紬は莉央を睨んだ。
初めて、正面から目が合った。
その目の奥には、怒りよりも疲れがあった。
「黒瀬さんには関係ない」
「あるよ」
「ない」
「ある。私、見ちゃったから」
莉央はスマホを軽く振った。
録音しているとは言わない。
まだ言う必要はない。
「美羽たちのこと。先生のこと。全部、見ちゃった」
紬の顔から血の気が引いた。
「誰かに言うの?」
「言ってほしい?」
「……わからない」
「じゃあ、質問を変えるね」
莉央は紬の真正面に立った。
夕方の廊下は静かで、窓の外から運動部の掛け声だけが遠く聞こえる。
「泣き寝入りする? それとも、あいつらの人生に傷をつける?」
紬は息を呑んだ。
「そんなの……」
「ひどい?」
「ひどいよ」
「うん。ひどいことをするんだよ。相手がしてきたのと同じくらい、もしくはそれ以上に」
莉央は微笑んだ。
教室で見せる、優等生の笑みではない。
もっと冷たくて、もっと綺麗な笑みだった。
「助けてあげる。でも、私は優しくないよ」
紬は一歩後ずさる。
莉央は追わなかった。
「美羽たちは謝らない。倉田先生は守ってくれない。クラスの人たちは、あとから『知らなかった』って言う。だから、誰かに助けてもらうのを待っていたら終わる」
「じゃあ、どうすればいいの」
「勝てばいい」
「勝つって……」
「あの子たちが一番失いたくないものを、失わせる」
紬の指が、鞄の紐を強く握った。
「そんなことしたら、私も同じになる」
「同じじゃないよ」
莉央はすぐに言った。
「あなたは奪われた。これから取り返す。それだけ」
紬の瞳が揺れる。
迷っている。
怖がっている。
それでいい。
怖くない復讐なんて、ただの遊びだ。
「私……仕返しなんて、したくない」
「うん」
「でも」
紬の声が震えた。
「もう、あの子たちに笑われたくない」
莉央は満足そうに頷いた。
「それで十分」
紬は涙をこぼさなかった。
泣きそうな顔のまま、ぎりぎりで堪えている。
莉央は、そういう顔が嫌いではない。
泣くよりも、ずっといい。
「まず、証拠を集める。ノート、メッセージ、写真、壊されたもの。全部残して。消したものも、できるだけ復元する」
「そんなの、どうやって……」
「私がやる」
「黒瀬さんは、どうしてそこまで……」
莉央は窓の外を見た。
グラウンドの向こうで、夕日が校舎の影を伸ばしている。
昔、同じような夕方に、莉央は親友の泣き顔を見たことがある。
あのとき莉央は、いい子だった。
先生に相談しようと言った。
きっと大丈夫だと言った。
みんなわかってくれると言った。
そして、何も間に合わなかった。
莉央は紬に視線を戻した。
「趣味かな」
「趣味?」
「悪い人を、もっと悪い方法で黙らせるのが好きなの」
紬は、冗談か本気かわからない顔をした。
莉央は笑う。
「だから、私を信用しなくていい。でも、利用して」
「利用……」
「そう。あなたが自分で立てるまで、私は道具になる」
そのとき、莉央のスマホが震えた。
美羽のSNSの通知だった。
新しいストーリー。
そこには、紬の黒い羽の少女の絵が映っていた。
画面には、手書き風の文字でこう重ねられている。
『病みかわポスター候補?笑』
莉央は画面を見つめたまま、笑みを深くした。
「ちょうどいいね」
紬が震える声で言った。
「消してって言っても、消してくれないと思う」
「うん。消させない」
「え?」
「証拠だから」
莉央はスクリーンショットを保存した。
それから、紬にスマホを見せる。
「あなたの絵、綺麗だね」
紬は一瞬、何を言われたのかわからない顔をした。
「……馬鹿にしてる?」
「してない。あの黒い羽の子、好きだよ」
紬の目が、わずかに揺れた。
それは今日初めて、彼女が見せた傷以外の表情だった。
莉央はその表情を見て、思った。
壊されるには惜しい。
紬の絵も。
紬自身も。
だから、壊すなら別のものにしよう。
美羽の人気。
倉田の保身。
クラスの沈黙。
声の小さい子から奪ったものを、声の大きい人間にまとめて払わせる。
莉央は紬に背を向け、廊下を歩き出した。
「明日から、少しだけ我慢して。笑われても、黙ってて。泣きそうになっても、教室では泣かないで」
「どうして」
「泣く場所は、私が決める」
紬は小さく息を呑んだ。
莉央は振り返らずに続ける。
「美羽たちには、今まで通り好きにさせる。先生にも、今まで通り何もしない大人でいてもらう。みんなが油断して、自分は安全だと思ったところで、まとめて落とす」
「黒瀬さん……怖い」
莉央は足を止めた。
少しだけ振り返り、笑う。
「今気づいたの?」
夕日が莉央の横顔を赤く染めていた。
その笑顔は優しく見えた。
けれど、紬はたぶんわかったはずだ。
黒瀬莉央は、誰にでも優しい。
ただしそれは、誰にでも同じ顔で嘘をつける、という意味でもある。
その夜。
美羽のスマホに、匿名アカウントから一通のメッセージが届いた。
添付されていたのは、昼休みに紬のスケッチブックを勝手に撮影している美羽の横顔。
そして、ノートを掲げて笑う取り巻きたちの動画。
本文は、たった一行。
『文化祭までに謝らないと、次は全員に見せるね』
送信ボタンを押したあと、莉央はベッドに寝転がった。
天井を見上げながら、静かに笑う。
「開幕」
女王様は、誰にでも優しい。
でも、優しい女王様ほど、処刑台の場所をよく知っている。



