嘘つき女王は、いじめ加害者を赦さない

 黒瀬莉央は、誰にでも優しい。

 朝、教室に入ってきた瞬間から、彼女の周りだけ空気が明るくなる。

「おはよう、莉央!」

「おはよう。今日、髪かわいいね。巻いた?」

「え、わかる? さすが莉央!」

 そう言って笑う女子に、莉央は少しだけ首を傾けて微笑んだ。

 肩まで伸びた黒髪は、校則に逆らわない程度に整えられている。スカートの丈も、靴下の長さも、教師に注意されないぎりぎりの清潔感を保っていた。目立ちすぎない。けれど、埋もれもしない。

 黒瀬莉央は、そういう位置に立つのが上手かった。

「黒瀬、昨日のプリント集めてくれたか?」

 担任の倉田先生が出席簿を片手に教室へ入ってくる。

「はい。未提出は三人です。机の上に置いてあります」

「助かるな。黒瀬がいると本当に楽だよ」

「先生の仕事を増やすと、みんなが困りますから」

 莉央は穏やかに答えた。

 男子の一人が小さく口笛を吹く。

「出た、優等生発言」

「莉央ってほんと完璧だよね」

「いや、完璧すぎて逆に怖いわ」

 莉央は冗談に混じるように笑った。

「怖くないよ。私は平和主義者だから」

 その言葉に、教室が軽く沸く。

 誰も疑わない。

 黒瀬莉央は、優しい。
 黒瀬莉央は、正しい。
 黒瀬莉央は、誰の味方にもなれる。

 だからこそ、誰の敵にもならない。

 少なくとも、表向きは。

 莉央は自分の席に鞄を置き、窓際の一番後ろから教室を眺めた。

 白石美羽が、今日も中心にいる。

 明るい栗色の髪。短めのスカート。爪先だけ薄く色づいたネイル。校則違反にならない範囲で、全部が計算されている。美羽は莉央とは別の意味で目立つ子だった。

 可愛い。明るい。人懐っこい。
 教師の前では少し甘えた声を出し、男子の前では冗談を言い、女子の前では流行に詳しいリーダーになる。

 その美羽の机の周りに、今日も取り巻きの女子たちが集まっていた。

「美羽、昨日のストーリー見たよ。めっちゃ盛れてた」

「でしょ? あの加工、神なんだけど」

「コメントすごかったじゃん」

「まあね。うち、映える場所探すの上手いから」

 笑い声の輪から少し離れたところで、水原紬が俯いていた。

 莉央は、その横顔を視界の端に入れる。

 水原紬。

 同じクラスの女子。小柄で、いつも前髪が少し長い。人と目を合わせるのが苦手で、声も小さい。休み時間はたいてい机で絵を描いている。

 美術部ではない。

 けれど、絵は上手い。

 莉央は、紬がノートの隅に描いた鳥を見たことがある。鉛筆だけで描かれた小さな鳥は、今にも紙から飛び立ちそうだった。

 美羽たちも、それを知っている。

 だから、使った。

「ねえ、紬ちゃん」

 美羽の声が、甘く伸びる。

 紬の肩がぴくりと揺れた。

「……なに?」

「文化祭のクラス展示、ポスター係やってくれるよね? 絵、得意じゃん」

「でも、私、まだ係は……」

「えー、得意な人がやったほうがよくない? ね?」

 美羽が周りに同意を求めると、取り巻きたちはすぐに頷いた。

「そうそう。紬ちゃん、絵だけは上手いし」

「それ褒めてる? ひどくない?」

「え、褒めてるじゃん」

 軽い笑いが起きる。

 紬は唇を結んだまま、机の上のノートを閉じた。

 美羽はそれを見て、わざとらしく首を傾げる。

「あ、今の傷ついた? ごめんね。うちら、そういうつもりじゃないから」

「……うん。大丈夫」

「よかった。紬ちゃんって、すぐ気にするからさ」

 美羽は笑顔のまま、紬のノートに手を伸ばした。

「これ、何描いてたの?」

「あっ」

 紬が止めるより早く、美羽はノートを開く。

 そこには、黒い羽を持つ女の子の絵が描かれていた。制服姿の少女が、背中に烏のような羽を広げている。顔はまだ描きかけだったが、その目だけが妙に強かった。

「なにこれ、闇深っ」

 取り巻きの一人が吹き出した。

「中二病?」

「羽、生えてるんだけど。痛い痛い」

「やめて……」

 紬の声は小さかった。

 美羽は聞こえなかったふりをして、ノートを高く掲げる。

「ねえ莉央、見て。紬ちゃんの絵、すごくない?」

 突然名前を呼ばれ、教室の視線が莉央に向く。

 莉央は、自然な表情で立ち上がった。ゆっくり近づき、ノートを覗き込む。

 黒い羽の少女。

 未完成なのに、目だけがこちらを睨んでいる。

 莉央は微笑んだ。

「上手いね」

 紬が少しだけ顔を上げる。

 だが次の瞬間、莉央は美羽のほうを見た。

「でも、見せるなら本人に許可取らないと。美羽、そういうの嫌がる子もいるよ」

 責める口調ではない。
 笑顔のまま、やわらかく注意する。

 美羽は一瞬だけ唇を尖らせたが、すぐに笑顔へ戻った。

「あ、ごめーん。紬ちゃん、嫌だった?」

「……別に」

「ほら、別にって」

 美羽はノートを紬の机に放るように置いた。紙の端が折れる。

 紬の指が、その折れた部分をそっと押さえた。

 莉央は何も言わなかった。

 言わないほうがいい。

 ここで美羽を強く責めれば、紬への攻撃は見えない場所へ移る。美羽のような人間は、自分が悪者にされた瞬間、被害者の顔を作るのが上手い。

 だから莉央は笑う。

 美羽にも。
 紬にも。
 倉田先生にも。
 教室全体にも。

 昼休み。

 購買で買ったパンを持って席に戻る途中、莉央は廊下の掲示板に貼られた文化祭準備表を見た。

 二年三組。展示テーマは「私たちの未来」。

 馬鹿みたいなテーマだと思った。

 未来なんて、たいていの場合、声の大きい人間に奪われる。声の小さい人間は、未来を語る前に、今日をやり過ごすだけで精一杯だ。

 教室に戻ると、紬の席の周りにまた人が集まっていた。

「ねえ、これもポスターに使えるんじゃない?」

「やだ、暗すぎるって」

「でも逆に目立つかもよ。病み展示みたいな」

 美羽が紬のスケッチブックをめくっていた。

 紬は立ったまま、何も言えずにいる。

「返して」

「え? 何?」

「返して……」

「聞こえないんだけど」

 美羽はスマホを取り出した。

 取り巻きがすぐに察して笑う。

「ストーリー載せちゃう?」

「やめて」

 紬の声が、さっきより強くなった。

 教室の空気が少しだけ止まる。

 美羽はその変化を見逃さなかった。

「え、なに? 怖いんだけど」

「やめてって言ってるだけ……」

「うちら、褒めてるだけじゃん。そんな言い方しなくてもよくない?」

 美羽は悲しそうな顔をした。

 上手い。

 加害者は、被害者の反抗を待っている。
 ほんの少しでも声を荒らげた瞬間、それを「攻撃された証拠」に変えるために。

 紬はそれ以上言えなくなった。

 莉央は自分の席に座り、パンの袋を開けた。

 助けない。

 少なくとも、今は。

 紬がこちらを見た気がした。

 助けて。
 そう言ったわけではない。

 けれど、莉央には聞こえた。

 だから莉央は、あえて視線を逸らした。

 放課後。

 教室には文化祭準備のために何人か残っていた。莉央は委員会の資料を届けるふりをして、職員室へ向かった。

 廊下の角で、倉田先生の声が聞こえた。

「水原、ああいうのはな、受け取り方の問題もあるんだ」

 莉央は足を止める。

 空き教室のドアが少し開いていた。

 中に、倉田先生と紬がいる。

「でも、ノートを勝手に見られたり、写真を撮られたりして……」

「白石たちは悪気があったわけじゃないだろう。お前ももう少し明るく返せば、空気が悪くならないんじゃないか?」

「私が悪いんですか」

「悪いとは言っていない。ただ、クラスにはクラスの雰囲気がある。文化祭前に揉めごとを起こしたくないんだ」

 莉央はスマホを取り出した。

 録音ボタンを押す。

「大ごとにしないほうがいい。先生から白石たちには軽く言っておくから」

「軽く……?」

「水原も、被害者みたいな顔をしすぎるな。そういう態度が、周りを刺激することもある」

 沈黙。

 莉央は目を伏せた。

 教師という生き物は、たまに面白いことを言う。

 殴られた人間に向かって、殴られそうな顔をするなと言う。
 盗まれた人間に向かって、盗まれやすい場所に置くなと言う。
 傷ついた人間に向かって、傷ついた顔をするなと言う。

 大人は正義が好きだ。

 ただし、自分の責任にならない範囲で。

 空き教室のドアが開き、紬が出てきた。

 目が赤い。

 莉央は廊下の窓辺に立ち、偶然を装った。

「あれ、紬。先生と話?」

 紬は驚いたように顔を上げた。

「……黒瀬さん」

「大丈夫?」

「大丈夫」

 即答だった。

 莉央は笑った。

「大丈夫って言う人ほど、大丈夫じゃないんだよね」

 紬は何も言わない。

 莉央は、歩き出そうとする紬の横に並んだ。

「少し話さない?」

「私、帰るから」

「帰って泣くの?」

 紬の足が止まった。

 莉央は声を落とす。

「泣いてもいいけど、泣くだけなら何も変わらないよ」

「……なに、それ」

「事実」

 紬は莉央を睨んだ。

 初めて、正面から目が合った。

 その目の奥には、怒りよりも疲れがあった。

「黒瀬さんには関係ない」

「あるよ」

「ない」

「ある。私、見ちゃったから」

 莉央はスマホを軽く振った。

 録音しているとは言わない。
 まだ言う必要はない。

「美羽たちのこと。先生のこと。全部、見ちゃった」

 紬の顔から血の気が引いた。

「誰かに言うの?」

「言ってほしい?」

「……わからない」

「じゃあ、質問を変えるね」

 莉央は紬の真正面に立った。

 夕方の廊下は静かで、窓の外から運動部の掛け声だけが遠く聞こえる。

「泣き寝入りする? それとも、あいつらの人生に傷をつける?」

 紬は息を呑んだ。

「そんなの……」

「ひどい?」

「ひどいよ」

「うん。ひどいことをするんだよ。相手がしてきたのと同じくらい、もしくはそれ以上に」

 莉央は微笑んだ。

 教室で見せる、優等生の笑みではない。

 もっと冷たくて、もっと綺麗な笑みだった。

「助けてあげる。でも、私は優しくないよ」

 紬は一歩後ずさる。

 莉央は追わなかった。

「美羽たちは謝らない。倉田先生は守ってくれない。クラスの人たちは、あとから『知らなかった』って言う。だから、誰かに助けてもらうのを待っていたら終わる」

「じゃあ、どうすればいいの」

「勝てばいい」

「勝つって……」

「あの子たちが一番失いたくないものを、失わせる」

 紬の指が、鞄の紐を強く握った。

「そんなことしたら、私も同じになる」

「同じじゃないよ」

 莉央はすぐに言った。

「あなたは奪われた。これから取り返す。それだけ」

 紬の瞳が揺れる。

 迷っている。

 怖がっている。

 それでいい。

 怖くない復讐なんて、ただの遊びだ。

「私……仕返しなんて、したくない」

「うん」

「でも」

 紬の声が震えた。

「もう、あの子たちに笑われたくない」

 莉央は満足そうに頷いた。

「それで十分」

 紬は涙をこぼさなかった。

 泣きそうな顔のまま、ぎりぎりで堪えている。

 莉央は、そういう顔が嫌いではない。

 泣くよりも、ずっといい。

「まず、証拠を集める。ノート、メッセージ、写真、壊されたもの。全部残して。消したものも、できるだけ復元する」

「そんなの、どうやって……」

「私がやる」

「黒瀬さんは、どうしてそこまで……」

 莉央は窓の外を見た。

 グラウンドの向こうで、夕日が校舎の影を伸ばしている。

 昔、同じような夕方に、莉央は親友の泣き顔を見たことがある。

 あのとき莉央は、いい子だった。

 先生に相談しようと言った。
 きっと大丈夫だと言った。
 みんなわかってくれると言った。

 そして、何も間に合わなかった。

 莉央は紬に視線を戻した。

「趣味かな」

「趣味?」

「悪い人を、もっと悪い方法で黙らせるのが好きなの」

 紬は、冗談か本気かわからない顔をした。

 莉央は笑う。

「だから、私を信用しなくていい。でも、利用して」

「利用……」

「そう。あなたが自分で立てるまで、私は道具になる」

 そのとき、莉央のスマホが震えた。

 美羽のSNSの通知だった。

 新しいストーリー。

 そこには、紬の黒い羽の少女の絵が映っていた。

 画面には、手書き風の文字でこう重ねられている。

『病みかわポスター候補?笑』

 莉央は画面を見つめたまま、笑みを深くした。

「ちょうどいいね」

 紬が震える声で言った。

「消してって言っても、消してくれないと思う」

「うん。消させない」

「え?」

「証拠だから」

 莉央はスクリーンショットを保存した。

 それから、紬にスマホを見せる。

「あなたの絵、綺麗だね」

 紬は一瞬、何を言われたのかわからない顔をした。

「……馬鹿にしてる?」

「してない。あの黒い羽の子、好きだよ」

 紬の目が、わずかに揺れた。

 それは今日初めて、彼女が見せた傷以外の表情だった。

 莉央はその表情を見て、思った。

 壊されるには惜しい。

 紬の絵も。
 紬自身も。

 だから、壊すなら別のものにしよう。

 美羽の人気。
 倉田の保身。
 クラスの沈黙。

 声の小さい子から奪ったものを、声の大きい人間にまとめて払わせる。

 莉央は紬に背を向け、廊下を歩き出した。

「明日から、少しだけ我慢して。笑われても、黙ってて。泣きそうになっても、教室では泣かないで」

「どうして」

「泣く場所は、私が決める」

 紬は小さく息を呑んだ。

 莉央は振り返らずに続ける。

「美羽たちには、今まで通り好きにさせる。先生にも、今まで通り何もしない大人でいてもらう。みんなが油断して、自分は安全だと思ったところで、まとめて落とす」

「黒瀬さん……怖い」

 莉央は足を止めた。

 少しだけ振り返り、笑う。

「今気づいたの?」

 夕日が莉央の横顔を赤く染めていた。

 その笑顔は優しく見えた。
 けれど、紬はたぶんわかったはずだ。

 黒瀬莉央は、誰にでも優しい。

 ただしそれは、誰にでも同じ顔で嘘をつける、という意味でもある。

 その夜。

 美羽のスマホに、匿名アカウントから一通のメッセージが届いた。

 添付されていたのは、昼休みに紬のスケッチブックを勝手に撮影している美羽の横顔。
 そして、ノートを掲げて笑う取り巻きたちの動画。

 本文は、たった一行。

『文化祭までに謝らないと、次は全員に見せるね』

 送信ボタンを押したあと、莉央はベッドに寝転がった。

 天井を見上げながら、静かに笑う。

「開幕」

 女王様は、誰にでも優しい。

 でも、優しい女王様ほど、処刑台の場所をよく知っている。