転生した悪役令嬢は、悠々快適溺愛ライフを満喫したい!〜二つの王冠の子〜

「え、ちょ、えっ……!」

慌てる私の手を強く握り、エドが立ち上がらせる。
その動作には一切の迷いがなく、背後に残る王妃の温かな視線を振り切るようにして、サロンの外へと導かれる。

長い廊下を手を引かれながら進む。
壁に並ぶ肖像画や高価そうな壺を横目に通り過ぎるけれど、どれも緊張を煽るばかりで、心を落ち着かせてはくれない。
いったいどれくらいの部屋を通り過ぎただろう。気づけば方向感覚なんてとっくに失っていた。
……いやもうこれ、遭難できる自信ある。王宮って迷路かよ!

やがて案内されたのは、王宮の奥にある王太子専用の居室だった。
重厚な扉が開いた瞬間、視界に飛び込んできたのは大きな暖炉。
王妃の部屋では薪が燃えていたけれど、ここでは魔法石が赤く光を放ち、柔らかい熱を広げている。
じんわりと伝わる温もりは、冬を迎えつつある外気を一瞬で忘れさせてくれた。

けれど、居室というよりは政務室そのもの。
窓には厚手のカーテン、床には王家の紋章入りの重厚な絨毯。
壁一面を埋める本棚、机の上には整然と積まれた書類の山。
羽ペンも印章も、定規で揃えたみたいに真っすぐ並んでいて……正直、落ち着くどころか圧迫感しかない。

天蓋付きのベッドは一応あるけれど、生活感が一切ない。
まるで『王太子の部屋とはこうあるべき』と誰かが作り上げた空間で、本人の匂いがまったくしない。
自分の部屋と比べると冷たく感じてしまい、胸が少しだけ縮こまった。

窓辺に立つと、どこまでも続く広大な庭園が視界を埋める。

「ここ、エドの部屋?」
「ああ……ここなら誰にも邪魔されない」

そう答えた瞬間、背後から腕が回される。
ぐっと抱きしめられ、強い体温に包まれた。
ふわりと漂うのは、落ち着いた柑橘にウッディが重なる香り。
冷たい部屋の印象とは違い、これは間違いなくエドそのものの匂いで……その一瞬で緊張がほどけていく。

「心配で、いてもたってもいられなかった」
「大袈裟すぎるって……自分の母親でしょ」
「公務中もリエルのことばかり考えていた。コンラートに聞いたときは、気づけば執務室を飛び出していた」

切実さを滲ませる声。
言葉以上に、抱きしめる腕と胸の鼓動が、彼の焦燥を物語っていた。

ふと見上げると、綺麗な瞳と視線が交わる。
名前を呼ぶ声が、低く震える。

「リエル……」

あ、これって……。
エドの顔がゆっくり近づき、思わず瞼を閉じかけた、その時。

「……殿下」

重い扉越しに響く、落ち着いた低音。
現実へと引き戻され、慌てて顔を逸らす。

「そろそろお時間です」

小さな舌打ちが聞こえ、エドは名残惜しそうに腕を解いた。
その横顔は、王太子としての冷静さを取り戻そうとしながらも、ほんの少しだけ未練を滲ませていた。

いやいや!邪魔されないって言ったじゃん!?
……別に邪魔が入って残念ってわけじゃないけど。
あっぶなーー!完全に流されてキスするところだった!!
マジで油断ならない!なんなんだこいつの雰囲気づくりスキル、反則すぎるんだけど!?

扉が開き、姿を現したのは茶髪に切れ長の瞳を持つ整った青年。

「アリエル、紹介がまだだったね。彼は側近のコンラート・ヴィルヘルムだ」

名を呼ばれた青年は、深々と礼をして淡々と自己紹介をする。

「初めまして、公爵令嬢。私はコンラート・ヴィルヘルム、殿下の側近を務めております」
「クローバー公爵家のアリエル・C・ラバーでございます。お目にかかれて光栄です」

側近。つまり秘書的な立場?
でも、王妃の言葉やエドの反応を見る限り、それ以上の信頼を得ているのは間違いない。

コンラートは咳払い一つ。真っすぐエドに向き直り、低い声で告げた。

「お立場をお忘れなく。本日はまだ、書類が山積しております」
「……わかっている」

宮殿の大扉の前まで、エドが見送ってくれたことが救いだった。
何度も違う廊下へ曲がりかけては『そっちじゃない』と手を引き戻され……迷子スレスレだったのは内緒。

外ではすでに馬車が待機していて、従者が恭しく扉を開ける。
乗り込む直前、侍女が持っていたマントをエドが肩にかけてくれる。
そのまま背後からそっと手を添え、耳元に低い声を落とした。

「……リエル。近いうちに、また会いに行くから」

囁きは熱を帯びて耳に残り、肩から離れる手の温もりに名残惜しさが募る。
思わず振り返ると、公務へ戻るはずの彼がまだ立ち尽くしていて……胸がきゅっと鳴った。

馬車に乗り込み、扉が閉ざされる。ふぅ、と長い息が漏れる。
王妃との時間は優しくもあったが、緊張の糸は休む暇なく張りつめ、今になって一気に全身が重くなった。
けれど、最後に交わしたエドの瞳の熱が、余韻のように心を温め続けている。

「帰ったら、速攻でネグリジェに着替えよう。あ、でもその前にワンワンのお散歩……」

そしてどの本を読もうかと考える。現実逃避のように次々と予定を並べるのは、胸の奥に渦巻くもう少し一緒にいたかった気持ちを押し殺すためだった。