臆病な少女は生贄として溺愛される

 くすんと泣く寸前で鼻をすすると、いきなりほっかむりが引っ張られた。
 慌てて顔を上げると水華がいる。
 いつのまにと凛は目をまんまるにした。

「何度読んでも答えぬから寝ているのかと思った」
「も、申し訳ありま、せん」

 ぱっと濡れ縁に足を上げて正座をすると頭を下げる。
 その拍子にほっかむりの布が板張りに落ちた。
 反応がないからほっかむりを引っ張ったらしい。

「何をぼうっとしている。それにその恰好は何だ」
「い、いえ、これは、お掃除を、手伝いたくて」

 凜の言葉に水華は片眉を上げた。

「掃除が好きなのか?」
「いいえ、ちゃんと、出来なくて、壺さんに、迷惑をかけました」
「なら何故掃除などするのだ」

 平坦な声音のなかに、かすかな疑問が混じる。
 理由を訊かれると答えにくかった。
 水華への恩返しをしたかったけれど、何一つできなかったなんて、恥ずかしいし情けない。
 そんなことを申告する勇気は凛にはなかった。

「ふむ」

 数秒の沈黙のあと、凛は氷華にぐいと腕を取られた。
 そのまま立ち上がると、濡れ縁を下りて庭へと出る。

「あ、あの、水華様、足袋が」
「気にするな」

よく見ればいつのまにか裸足だった水華の足元は下駄になっている。
 驚いて凝視してしまっているあいだに、足が地面から浮いた。

「ひゃあっ」

 抱き上げられているのだと気づくと、裏返った声が出た。
 間近に美しい造形の顔があることに息を呑む。
 着物で気付かなかったけれどがっしりとした体は、落とされたらという不安が失せるくらいに力強い。
 庭を進む水華の顔が見ていられなくて下を向くと、一面に広がる白い花。
 凜の住んでいた村付近の山によくあったものだ。

(神様が一度だけ受け取ってくれたものと同じ花だわ)

 大事にすると言ってくれた、柔らかな記憶。
 そこでハッと我に返った。
 また水華の前で祠の声のことを考えてしまったと。
 怒られるのではとびくびくと体を固まらせた。

「安心しろ」

 水華の言葉に「え?」と吐息で訊き返した。
 顔を上げた眼前に迫っていたのは庭の先にある水中との境界線。
 水の壁だった。
 まさかと思った瞬間、水華がそこへ足を踏み入れる。
 この行動に対する「安心しろ」なのだと気づいた瞬間、凛は真っ青になった。
 凜は水に入ったことはない。
 滝に飛び込んだ時だけだから、恐怖しか残っていない。
 それにここに来て入った湯舟にだって潜ったことはないのだ。
 泳ぐどころか息を止められる自信がない。
 滝に落ちたときもすぐに球体に助けられたから、あまり溺れた感覚はない。
 おもわず水華の胸元の着物を掴むと、皺が寄るのもかまわず握りしめた。
 そして水中へと入る。
 ぎゅっと目をつむり息を止める。
 けれど、濡れる感触がまったくしなくて、凛はおそるおそる目を開けた。
 視界には滝から落ちたときに凛を包んだ球体がある。
 水華は平然としているので、彼の力なのだとすぐにわかった。
 ぽかんと口を開けたまま周囲を見れば、上からは光りがさしてキラキラと水中が輝いている。
 すぐ傍を大きな魚がぬっと現れて驚いたけれど、そのあとは小魚の群れが元気よく泳いでいった。
 水中は静かなものなのだと凜は思っていたけれど、存外賑やかだし美しい。
 見とれるように見回してしまう。

「少しは暇が潰れたか?」
「え?」
「仕事部屋に来なかったから、飽きたのだろう?」
「ち、ちが、違います!」

 水華の言葉に凛はぶんぶんと首を振った。
 飽きてなどいない。
 文字の練習も書物を読むことも大好きだ。

「じゃあ私と顔を合わせたくはなかったか?」
「ち、違い、ます」

 そんなわけがない。
 けれど気づいた。
 昨日のことは水華に非はない。
 なのに詫びの品だとかんざしを持ってきてくれた。
 だというのに凛はいつも行っていた水華の仕事部屋に行かなかった。
 これなら避けられていると思われても仕方がない。

「あの、違う、本当に、違うんです」

 なんとか必死に弁明を繰り返す。
 人に対してうまく話せない自分がもどかしかった。

「落ち着け、ちゃんと聞く」

 水華の言葉に、凜は声を詰まらせていた喉をこくりと鳴らした。
 一度口を閉じて、目をさまよわせながらも何とか水華の顔を見る。

「わ、私、何かしたくて。お役に、たちたくて、暇潰しなんかじゃ、ないんです」
「役に立つ?」
「は、はい」
「そんな必要はないだろう」

 ガンと頭を殴られたようだった。
 凜は生贄になるまでのあいだ役に立ちたいと思っていたけれど、水華には必要なかった。
 むしろ迷惑だったのだと、涙が出そうになる。
 ただの凛の自己満足なのはわかっていたけれど、それでもハッキリ言われるのは辛い。

「お前がそれをしたいのならば好きにやればいい。ただ役に立つ必要はない。役に立とうが立つまいが私は気にせぬ」
「好きに、していいの、ですか?」
「そう言っている」
「役に、たてなく、ても?」
「だからそうだと言っているだろう」

 眉根をわずかにひそめた水華に、問い詰めるのはやめたけれど、凛はその顔をじっと見た。
 凜はあまり人と関わったことがないから、人を見る目があるかはわからない。
 けれど、水華のその言葉も眼差しも嘘をついているようには見えなかった。
 そして胸が一度跳ねた。

「ありがとう、ございます」

 顔を見ているのが何だか恥ずかしくなり、凜は下を向くと消え入りそうな声でお礼を言った。
 聞こえていたかはわからないけれど、聞こえていたらいいなと思う。
 その日以来、凛は少しずつ掃除の方法を覚えた。
 午前中は掃除をして、午後は水華の仕事部屋で勉強をしたり書物を読んでいる。
 一度、ひと部屋終わったら次へ、また次へとしていたら夕方になってしまったことがあり、壺によるとどれだけ広いかはわからないと言われてしまった。
 壺や峰も把握していないらしい。
 水華に尋ねると、そんなに広かったか? とまったく覚えていないようだった。
 なので日に一か所、いつも使う場所を丁寧に掃除することにした。
 濡れ縁なんかは水華がよくいるから、気合を入れている。
 食事のときも以前のように同じ部屋にいることが増えた。
 水華は食事はしないけれど、やっぱりお酒と一緒に峰の作ったつまみは口に運んでいた。
 今日もそんなふうに食事が終わると思ったときだ。