翌日は水華が有言実行した。
仕事部屋に凛専用の文机が用意されたのだ。
それは朱塗りの美しいものだった。
水華の厚みのある色味とは違う。
そこで字を教わったあと、水菓の近くで字を覚えたり簡単な本を読む練習をするのが、凛の日課になっていた。
邪魔になっていやしないかと不安になるけれど、水華は特に気にした様子もなく仕事とやらをしている。
凜はと言えば、わざわざ水華が準備してくれたお手本の五十音表を見ながら真似したり、なんとか理解できるようになった字を読んでみたりと勉強にいそしんでいる。
ひらがなはだいぶ覚えた。
今は本にあった文章をお手本に書いている最中だ。
「ゆうじ、ん」
文章にあった単語を、おもわず口にする。
友人。
そんなものは、あの村にいるはずがない。
凛はいつも一人だった。
友人はいるのが当たり前なのだろうか。
少し苦い気持ちになってしまう。
「友人かいたのか?」
凛のつぶやきに、水華が顔を上げていた。
まだその美しい顔に慣れない。
「い、いえ、いなかった、です」
「そうか……そうだな」
首を横に振ると、水華は何故か納得するように頷いた。
何故そんな反応をするのかわからない。
「村はどんなものだった?」
「村、は、あまり……でも」
村にいい思い出はないけれど、大好きだった祠の声を思い出して凛は睫毛を伏せて淡く微笑んだ。
「でも?」
「いいえ、何でも」
口元に笑みを浮かべていた凜は、ぐいと顎を取られた。
驚いて目を丸くすると、いつのまにか水華が目の前にいる。
その完璧な造形である指先が、凜の顎をとらえていた。
紫電の瞳が怜悧に細められていて、ぶるりと背筋が震える。
「その顔はなんだ?」
「か、顔?」
「その恋焦がれる顔だ」
「そんな、顔は、していません」
目を逸らしたいのに逸らせない。
重い空気が立ち込め、息苦しい。
「貴様は私のものだ」
「は、い」
硬質な声に、喉を震わせて凛は顎をとらえられたまま頷いた。
体が小さく震えてしまう。
それを見て水華の眉間に力が入る。
謝罪をと思うのと、水華の手が離れたのは同時だった。
「す、水華様……」
呼びかけたけれど水華は無表情で、けれど不機嫌な空気をまとわせたまま部屋を出て行ってしまった。
それを呆然と見送る。
何故いきなりと顔を俯かせると、手が墨で汚れていた。
「水華様の生贄なのに、他の方を考えてしまったからご機嫌を損ねてしまったのね」
いけないと思う。
祠の声のことは内緒だった。
内緒にしろとは言われていないけれど、凜の大事な宝物。
柔らかい部分を占める不可侵のものだ。
「気をつけなきゃ」
ふるりと唇を震わせると、凜の目に涙が滲んだ。
「泣かない、泣かない」
大丈夫だ。
(村の人達みたいに、酷いことはされないもの)
水華は優しい。
それでも、思い出すのは一人のときだけがいいと思った。
しばらく凜はそのまま座り込んでいた。
水華に謝罪をしたほうがいいだろう。
けれど顔をあわせてもらえるだろうか。
そんなことを思っていると、今日は食事には現れなかった。
水華が普段どこで過ごしているのかを凛は知らない。
寝る時間になって部屋に戻ると、壺によって行灯がもう灯されていた。
ほんわかとした明かりと描かれた美しい蝶。
「水華様……」
準備してくれた水華を思い出す。
寝るときに手を握って、次の日には行灯を準備してくれた。
「優しい方よね」
表情が変わらないから威圧的で怖いけれど、凛にしてくれることは優しい。
お礼は言ったけれど、凛は優しくしてくれる水華に失礼なことをしたのだ。
明日は水華を探そうと凛は決めた。
次の日の朝、凜は鏡台の前で髪を梳いていた。
丸みを帯びたつげ櫛は艶々とした黒に青い花が咲いている。
どう見ても上等なものだと凛でもわかった。
壺にこんなもの使えないと言ったけれど、着物同様に凛が使わなければ宝の持ち腐れと告げられた。
そんなことを言われてしまえば使うしかない。
凛だって年頃の乙女だ。
綺麗なものは純粋に嬉しくて心が躍った。
櫛を台の上に置いて食事の部屋へ行こうと立ち上がりかけたときだ。
「私だ」
襖の向こうから水華の声がして、慌てて凜は立ち上がって襖をあけた。
やはりそこには水華がいる。
「す、水華様、どうされ、ましたか?」
水華が部屋に来るなんて初日以来はじめてだ。
「入るぞ」
「は、はい」
慌てて体をずらすと水華は何の遠慮もなく部屋へと入ってきた。
「座れ」
鏡台の前を指さされ、ぽかんとわけがわからないまま凛はちょこりと座った。
すると背後で水華が膝をつく。
「あ、あの」
「じっとしていろ」
ぴしゃりと言われて口を閉じるしかない。
昨日のことを思い出し、ほんの少し怖さで唇を噛もうとしてしまう。
けれど必死でそれを耐えていると、水華はおもむろに凛の髪へと触れた。
体が跳ねそうになるのを、なんとか我慢する。
そのあいだにも水華は着々と凜の髪を結い上げだした。
「す、水華様、あの」
「黙っていろと言ったはずだ」
もう何も言えず凜はむぐりと口をつぐんだ。
水華の許しなく喋ることはいけない。
鏡越しに見える水華の様子にいたたまれない。
(神様に髪を結わせるなんて!)
もう心の中では悲鳴を上げている。
ぐるぐると目をまわしそうな凛をよそに、水華は懐に手を入れた。
取り出したのは、銀の一本かんざしだった。
玉飾りがついていて、光の反射で色を変える青い丸石だ。
まるで庭の外にある水中の光景を閉じ込めたものだった。
それを凜の髪に飾られる。
「す、水華様! そんな物いただけません!」
口を開かないとは思ったけれど、これは黙っていられなかった。
けれど今度は黙れとは言われない。
「気に入らなければ外せ」
「いえ、いいえ、き、気に入らないのではなく、私にこんな、高価なものを、渡してはいけません」
「何故だ?」
凜の言葉に水華は不思議そうに小首を傾げた。
その姿は凜の焦りなどちっとも気づいていない。
(生贄にこんな高価なもの渡してはいけないわ!)
さらに口を開こうとしたら、凛より水華の方が早かった。
「気に入らないわけではないなら、いいだろう。使え」
「で、でも」
「昨日の詫びだ」
それだけ言うと、水華は立ち上がった。
そちらを振り向くと、すでに襖を開けている。
「き、昨日、は、申し訳ありません、でした」
「何のことだ?」
凜のどもる謝罪に、水華はまったくわからないという声音を返した。
逆に凛はとまどってしまう。
凜が怒らせたはずなのに謝罪を不思議そうにされて、逆に凜が謝罪されている。
凜の反応がおかしいのかと口をぱくぱくさせているあいだに水華は部屋を出て行ってしまった。
慌てて追いかけて廊下に出ると、去って行く水華の背中に声をかける。
「あ、ありがとう、ございます!」
凜は力いっぱい声を上げると、部屋に戻り鏡台を覗き込んだ。
そこには器用に結われた髪に青い丸石。
キラキラとしたそれは、凜にははじめての物だ。
「大事にしよう」
そっと丸石を指先で撫でる。
こんな美しいものは凜ははじめてだ。
櫛も着物も綺麗だったけれど、これはとびきり綺麗だと凛は思う。
どうして水華が詫びたのかはわからないけれど、凜はそっと笑みを浮かべた。
「生贄にこんなもの……水華様はお優しい方だわ、私が未練なく死ねるように色んなものを与えてくださるのね」
ほんの少し胸が温かくなる。
水華は凜の人生で二番目に優しい人だと思う。
一番は祠の声で、それは揺るぎがないけれど間違いなく二番目は水華だった。
おかしいとおもわず笑いそうになる。
自分を食べるであろう存在を優しいと思うなんて。
「生贄になるまで私に出来ることないかしら」
そんなことを考えながら、凛はようやく朝食へと向かった。
仕事部屋に凛専用の文机が用意されたのだ。
それは朱塗りの美しいものだった。
水華の厚みのある色味とは違う。
そこで字を教わったあと、水菓の近くで字を覚えたり簡単な本を読む練習をするのが、凛の日課になっていた。
邪魔になっていやしないかと不安になるけれど、水華は特に気にした様子もなく仕事とやらをしている。
凜はと言えば、わざわざ水華が準備してくれたお手本の五十音表を見ながら真似したり、なんとか理解できるようになった字を読んでみたりと勉強にいそしんでいる。
ひらがなはだいぶ覚えた。
今は本にあった文章をお手本に書いている最中だ。
「ゆうじ、ん」
文章にあった単語を、おもわず口にする。
友人。
そんなものは、あの村にいるはずがない。
凛はいつも一人だった。
友人はいるのが当たり前なのだろうか。
少し苦い気持ちになってしまう。
「友人かいたのか?」
凛のつぶやきに、水華が顔を上げていた。
まだその美しい顔に慣れない。
「い、いえ、いなかった、です」
「そうか……そうだな」
首を横に振ると、水華は何故か納得するように頷いた。
何故そんな反応をするのかわからない。
「村はどんなものだった?」
「村、は、あまり……でも」
村にいい思い出はないけれど、大好きだった祠の声を思い出して凛は睫毛を伏せて淡く微笑んだ。
「でも?」
「いいえ、何でも」
口元に笑みを浮かべていた凜は、ぐいと顎を取られた。
驚いて目を丸くすると、いつのまにか水華が目の前にいる。
その完璧な造形である指先が、凜の顎をとらえていた。
紫電の瞳が怜悧に細められていて、ぶるりと背筋が震える。
「その顔はなんだ?」
「か、顔?」
「その恋焦がれる顔だ」
「そんな、顔は、していません」
目を逸らしたいのに逸らせない。
重い空気が立ち込め、息苦しい。
「貴様は私のものだ」
「は、い」
硬質な声に、喉を震わせて凛は顎をとらえられたまま頷いた。
体が小さく震えてしまう。
それを見て水華の眉間に力が入る。
謝罪をと思うのと、水華の手が離れたのは同時だった。
「す、水華様……」
呼びかけたけれど水華は無表情で、けれど不機嫌な空気をまとわせたまま部屋を出て行ってしまった。
それを呆然と見送る。
何故いきなりと顔を俯かせると、手が墨で汚れていた。
「水華様の生贄なのに、他の方を考えてしまったからご機嫌を損ねてしまったのね」
いけないと思う。
祠の声のことは内緒だった。
内緒にしろとは言われていないけれど、凜の大事な宝物。
柔らかい部分を占める不可侵のものだ。
「気をつけなきゃ」
ふるりと唇を震わせると、凜の目に涙が滲んだ。
「泣かない、泣かない」
大丈夫だ。
(村の人達みたいに、酷いことはされないもの)
水華は優しい。
それでも、思い出すのは一人のときだけがいいと思った。
しばらく凜はそのまま座り込んでいた。
水華に謝罪をしたほうがいいだろう。
けれど顔をあわせてもらえるだろうか。
そんなことを思っていると、今日は食事には現れなかった。
水華が普段どこで過ごしているのかを凛は知らない。
寝る時間になって部屋に戻ると、壺によって行灯がもう灯されていた。
ほんわかとした明かりと描かれた美しい蝶。
「水華様……」
準備してくれた水華を思い出す。
寝るときに手を握って、次の日には行灯を準備してくれた。
「優しい方よね」
表情が変わらないから威圧的で怖いけれど、凛にしてくれることは優しい。
お礼は言ったけれど、凛は優しくしてくれる水華に失礼なことをしたのだ。
明日は水華を探そうと凛は決めた。
次の日の朝、凜は鏡台の前で髪を梳いていた。
丸みを帯びたつげ櫛は艶々とした黒に青い花が咲いている。
どう見ても上等なものだと凛でもわかった。
壺にこんなもの使えないと言ったけれど、着物同様に凛が使わなければ宝の持ち腐れと告げられた。
そんなことを言われてしまえば使うしかない。
凛だって年頃の乙女だ。
綺麗なものは純粋に嬉しくて心が躍った。
櫛を台の上に置いて食事の部屋へ行こうと立ち上がりかけたときだ。
「私だ」
襖の向こうから水華の声がして、慌てて凜は立ち上がって襖をあけた。
やはりそこには水華がいる。
「す、水華様、どうされ、ましたか?」
水華が部屋に来るなんて初日以来はじめてだ。
「入るぞ」
「は、はい」
慌てて体をずらすと水華は何の遠慮もなく部屋へと入ってきた。
「座れ」
鏡台の前を指さされ、ぽかんとわけがわからないまま凛はちょこりと座った。
すると背後で水華が膝をつく。
「あ、あの」
「じっとしていろ」
ぴしゃりと言われて口を閉じるしかない。
昨日のことを思い出し、ほんの少し怖さで唇を噛もうとしてしまう。
けれど必死でそれを耐えていると、水華はおもむろに凛の髪へと触れた。
体が跳ねそうになるのを、なんとか我慢する。
そのあいだにも水華は着々と凜の髪を結い上げだした。
「す、水華様、あの」
「黙っていろと言ったはずだ」
もう何も言えず凜はむぐりと口をつぐんだ。
水華の許しなく喋ることはいけない。
鏡越しに見える水華の様子にいたたまれない。
(神様に髪を結わせるなんて!)
もう心の中では悲鳴を上げている。
ぐるぐると目をまわしそうな凛をよそに、水華は懐に手を入れた。
取り出したのは、銀の一本かんざしだった。
玉飾りがついていて、光の反射で色を変える青い丸石だ。
まるで庭の外にある水中の光景を閉じ込めたものだった。
それを凜の髪に飾られる。
「す、水華様! そんな物いただけません!」
口を開かないとは思ったけれど、これは黙っていられなかった。
けれど今度は黙れとは言われない。
「気に入らなければ外せ」
「いえ、いいえ、き、気に入らないのではなく、私にこんな、高価なものを、渡してはいけません」
「何故だ?」
凜の言葉に水華は不思議そうに小首を傾げた。
その姿は凜の焦りなどちっとも気づいていない。
(生贄にこんな高価なもの渡してはいけないわ!)
さらに口を開こうとしたら、凛より水華の方が早かった。
「気に入らないわけではないなら、いいだろう。使え」
「で、でも」
「昨日の詫びだ」
それだけ言うと、水華は立ち上がった。
そちらを振り向くと、すでに襖を開けている。
「き、昨日、は、申し訳ありません、でした」
「何のことだ?」
凜のどもる謝罪に、水華はまったくわからないという声音を返した。
逆に凛はとまどってしまう。
凜が怒らせたはずなのに謝罪を不思議そうにされて、逆に凜が謝罪されている。
凜の反応がおかしいのかと口をぱくぱくさせているあいだに水華は部屋を出て行ってしまった。
慌てて追いかけて廊下に出ると、去って行く水華の背中に声をかける。
「あ、ありがとう、ございます!」
凜は力いっぱい声を上げると、部屋に戻り鏡台を覗き込んだ。
そこには器用に結われた髪に青い丸石。
キラキラとしたそれは、凜にははじめての物だ。
「大事にしよう」
そっと丸石を指先で撫でる。
こんな美しいものは凜ははじめてだ。
櫛も着物も綺麗だったけれど、これはとびきり綺麗だと凛は思う。
どうして水華が詫びたのかはわからないけれど、凜はそっと笑みを浮かべた。
「生贄にこんなもの……水華様はお優しい方だわ、私が未練なく死ねるように色んなものを与えてくださるのね」
ほんの少し胸が温かくなる。
水華は凜の人生で二番目に優しい人だと思う。
一番は祠の声で、それは揺るぎがないけれど間違いなく二番目は水華だった。
おかしいとおもわず笑いそうになる。
自分を食べるであろう存在を優しいと思うなんて。
「生贄になるまで私に出来ることないかしら」
そんなことを考えながら、凛はようやく朝食へと向かった。
