久しぶりに来た池のほとりは、それなりに嵐の痕跡があった。
草木が乱れ、どこからか飛んできた木の枝も転がっている。
池も葉っぱなどが大量に浮いていて、透明感のあった水がまだ少し濁っていた。
祠を見れば、だいぶぼろぼろになっているのが心苦しい。
少しでも綺麗に出来ればいいと思っていたら、背後からパキリと小さく何かが折れる音がした。
振り返ると、そこには会いたくもない人間がいる。
萎びれた雰囲気のある孫一だ。
疲れ切った顔が、凛を見た瞬間に驚きに変わった。
「凛! やっぱりここにいた!」
目があうなり孫一が凛に駆け寄ってくる。
凛はその場から、おもわず一歩後ずさった。
「水に引きずりこまれたから、やっぱり生贄として滝に連れ戻されたんだと思ったら、ここに戻って来るなんて」
「ど、どうして、ここにいるの?」
凛がおそるおそる訊くと、孫一は鼻白んだ。
何故そんなことを訊くのだと言うように。
「お前がここで消えたから、また来るかもって思ったんだろ」
顎を上げて傲慢に言い放つ。
何故待つのだ。
意味がわからず凛はとまどった。
そもそも、この男は昔からこうだ。
執拗に凛に関わってこようとする。
「お前が生贄になったのに嵐が来るなんて、とんだ神様だ」
孫一の言葉に凛は腹の奥がカッと熱くなった。
村の人間が曲解しただけで凛は生贄ではなかったし、嵐は水華とは関係ない。
むしろ何とかしてくれたのだ。
「か、神様は、ちゃんと守ってくれたわ」
「何言ってる、村のみんなもそう言ってた。龍を見たって言うやつもいたから、あれが疫病神なのかもな」
疫病神。
そう聞いた瞬間、凛は孫一の頬を手のひらではたいていた。
力なんてたかが知れているものだけれど、はじめて他人に手を上げた。
水華は優しい神様だ。
自分をかえりみず、何のゆかりもない場所を守ってくれた、やさしい神様。
それを疫病神だなんて言われるのは、何があっても許せなかった。
「神様は! 神様はちゃんと守ってくれたじゃない! 嵐をすぐに止めてくれたじゃない! 疫病神なんかじゃないわ!!」
孫一に逆らったのは、はじめてだった。
でも、声も震えなかったし、体だって震えなかった。
怖いよりも許せなかった。
凜の大事な神様を侮辱するのは、誰であろうと。
「村はぐちゃぐちゃになったんだぞ!」
叩かれたことに動揺しながらも、孫一が怒鳴り返す。
前ならそれだけで怖かったけれど、今はそれすら我慢できた。
「じゃあ誰か死んだの?」
「それは……」
「誰も死ななかったんでしょ。だってすぐにおさまったもの。神様がおさめてくださったんだもの。感謝するべきだわ」
凜の反撃に、孫一がギリリと歯噛みした。
眉根を寄せて顔を真っ赤にしている。
そして力まかせに手を取られた。
「疫病神にたぶらかされたのか? 騙されてるんだろ。だからあの日、連れ出してやったのに、お前がぐずついてるから逃げられなかった。嫁にしてやろうと思ってたのに!」
「私は水華様の花嫁よ!」
反射で言い返すと、孫一は目を丸くした。
「お前本当に凛か? そんなんじゃなかっただろ。もっと従順でかわいかったはずだろ」
勝手なことを言う孫一を睨みつけようとしたときだ。
突然、孫一を水の塊が包み込んだ。
がぼっと苦しそうに息を吐いた瞬間、凜から手が離れる。
逃げるように後ずさると、孫一がもがきながら水から出ようと必死に息を止めていた。
「何だこれは」
もう聞きなれた低音が滑り込む。
声の方へ顔を向ければ、やはり水華がいた。
刺青の入った顔が憎々し気になっている。
「凛を嫁にだと?」
苛立ったような声で孫一を見下ろしている。
当然だ。
自分の花嫁を嫁にしてやると言われたのだから。
「私がいた、村の人です」
「ほう、親しい人間か?」
ごほごほと咳をしながら孫一が塊から飛び出した。
最初から拘束などをする気はなかったらしく、もがくだけで出られたらしい。
孫一が信じられないように水華を見て、それから凛へと目線を向けた。
「村に、親しい人間なんて、一人もいません」
「そうか」
少し震えた声だったけれど、はっきり言えた。
村のことなど無くなってしまえと思っていない。
でも、縁は断ち切ってかまわなかった。
「何でだよ! かまってやっただろ、俺のところに帰ってきたんだろ!?」
「妄言を口にするな。私たちは、あれを持ち帰るために来ただけだ」
水華が見やったのは祠だった。
凛がどれだけ祠が大事だったかを聞いた水華が、屋敷の庭に祠を移すと言ったのだ。
それを取りに来たのだけれど、出かけに美光が前触れもなくやってきた。
美光に会わせたくない水華が渋い顔をしていたので、凛だけ一足先に来ていたのだ。
まさか嵐のあとにこんな場所へ人が来るとは思っていなかった。
しかも孫一が。
「嘘だ、だってお前は、うぐっ」
塊から出て膝をついていた孫一に水の枷が巻きつき、そのまま地面へと引き倒した。
ぐぅぅ、とうめくも、孫一はギラギラと水華を睨みつけている。
それは憎悪が埋めつくされた目だった。
そんなものを凛は見たことがなくて、恐ろしい気持ちになる。
「水は圧縮すれば鋼の刃と変わらず切れると知っているか?」
その言葉に孫一は真っ青になった。
先ほど溺れた塊も、今拘束している枷も、水で出来ていると気づいたからだろう。
一気に顔色が悪くなる。
「私は水を司っていてな……首をかき切られるのと溺死、どちらがよい?」
「ど、どっちって」
「私は役立たずの神だからな、どちらだろうと上手くできる気がしない。手間取るだろうが、ちゃんと最期まで責任をもってやろう。壮絶な苦しみかもしれぬがな」
「たすけっ」
孫一の悲鳴はすぐにごぼりと水の中で溺れる音に変わった。
凛は孫一が叫び出すのと同時に水華に目を塞がれてしまっている。
低い体温が目元に当てられているのがわかった。
「あの……」
「わかっている。殺す気はない」
その言葉どおりに、孫一が水から出たらしい。
何度も咳きこむ音が聞こえてくる。
「ひっ助けてくれ!殺さないでくれ!ひいいぃ」
何が起きているのかはわからないけれど、孫一の悲鳴がひとしきりこの場に響きわたったあと、逃げるように声は遠くへ消えていった。
そしてようやく目から水華の手が離される。
わずかに光に目がくらみ何度かまばたきすると、盛大な水たまりが出来ていた。
そして一部が赤くなっている。
間違いなく孫一の血だろう。
おもわず見つめてしまうと、バツの悪そうな声がかけられた。
「薄皮一枚切っただけだ……あいつが気になるのか?」
水華の方を見ると、憮然とした顔をしている。
いたずらがバレた子供のようにも見えてしまって、少し可愛く見えてしまった。
そしてもう一度、孫一のものである血を見ると、凛は祠を見やった。
「いいえ、気になりません。ただここは、私にとって大事な場所だったので荒らされた気持ちになってしまっただけです」
「そうか」
答えに満足だったらしい。
水華は頷くと、ついと指を動かした。
途端に澄んだ水の塊があらわれて祠を包む。
水に流されるように泥などが剥がれていくのを、凛は嬉しそうに見た。
「あの男の前で、まともに話せていたな」
突然の指摘に、凛は虚を突かれた顔をした。
自覚はあまりなかったけれど、そういえば孫一に疫病神と言われたあとは滑らかに喋っていた気がする。
「私の前でも最近はそうなっている」
「水華様は怖くないからです。緑木様は、まだ滑らかに話せません」
「そうか」
水華以外にはまだまだ時間がかかりそうで、少し唇を尖らせる。
そうなのだ。
お互いの気持ちを確認してから、つたないけれど凛は話すことに抵抗感がなくなった。
何かを言っても怒鳴られたり蔑まれたりということは、水華は絶対にしないだろうと信頼できたからだろう。
まだたまに拙くなるけれど、それも徐々になくなっていくのではないかと凛は思っている。
包んでいた水が消え、そこには以前よりきれいになった祠がある。
凛はゆっくりと歩みより、指先を伸ばして祠にそっと触れた。
それは愛しげな仕草だ。
「水華様、私ずっと祠の向こうへ手を伸ばしたかったんです」
「伸ばせばいい」
祠に触れる凛の手を水華が手ですくい上げた。
そのまま絡めるように手を繋ぐ。
その言葉と体温に凛はしんなりと目をたわめ。
「はい」
ぎゅっとその手を握り返した。
草木が乱れ、どこからか飛んできた木の枝も転がっている。
池も葉っぱなどが大量に浮いていて、透明感のあった水がまだ少し濁っていた。
祠を見れば、だいぶぼろぼろになっているのが心苦しい。
少しでも綺麗に出来ればいいと思っていたら、背後からパキリと小さく何かが折れる音がした。
振り返ると、そこには会いたくもない人間がいる。
萎びれた雰囲気のある孫一だ。
疲れ切った顔が、凛を見た瞬間に驚きに変わった。
「凛! やっぱりここにいた!」
目があうなり孫一が凛に駆け寄ってくる。
凛はその場から、おもわず一歩後ずさった。
「水に引きずりこまれたから、やっぱり生贄として滝に連れ戻されたんだと思ったら、ここに戻って来るなんて」
「ど、どうして、ここにいるの?」
凛がおそるおそる訊くと、孫一は鼻白んだ。
何故そんなことを訊くのだと言うように。
「お前がここで消えたから、また来るかもって思ったんだろ」
顎を上げて傲慢に言い放つ。
何故待つのだ。
意味がわからず凛はとまどった。
そもそも、この男は昔からこうだ。
執拗に凛に関わってこようとする。
「お前が生贄になったのに嵐が来るなんて、とんだ神様だ」
孫一の言葉に凛は腹の奥がカッと熱くなった。
村の人間が曲解しただけで凛は生贄ではなかったし、嵐は水華とは関係ない。
むしろ何とかしてくれたのだ。
「か、神様は、ちゃんと守ってくれたわ」
「何言ってる、村のみんなもそう言ってた。龍を見たって言うやつもいたから、あれが疫病神なのかもな」
疫病神。
そう聞いた瞬間、凛は孫一の頬を手のひらではたいていた。
力なんてたかが知れているものだけれど、はじめて他人に手を上げた。
水華は優しい神様だ。
自分をかえりみず、何のゆかりもない場所を守ってくれた、やさしい神様。
それを疫病神だなんて言われるのは、何があっても許せなかった。
「神様は! 神様はちゃんと守ってくれたじゃない! 嵐をすぐに止めてくれたじゃない! 疫病神なんかじゃないわ!!」
孫一に逆らったのは、はじめてだった。
でも、声も震えなかったし、体だって震えなかった。
怖いよりも許せなかった。
凜の大事な神様を侮辱するのは、誰であろうと。
「村はぐちゃぐちゃになったんだぞ!」
叩かれたことに動揺しながらも、孫一が怒鳴り返す。
前ならそれだけで怖かったけれど、今はそれすら我慢できた。
「じゃあ誰か死んだの?」
「それは……」
「誰も死ななかったんでしょ。だってすぐにおさまったもの。神様がおさめてくださったんだもの。感謝するべきだわ」
凜の反撃に、孫一がギリリと歯噛みした。
眉根を寄せて顔を真っ赤にしている。
そして力まかせに手を取られた。
「疫病神にたぶらかされたのか? 騙されてるんだろ。だからあの日、連れ出してやったのに、お前がぐずついてるから逃げられなかった。嫁にしてやろうと思ってたのに!」
「私は水華様の花嫁よ!」
反射で言い返すと、孫一は目を丸くした。
「お前本当に凛か? そんなんじゃなかっただろ。もっと従順でかわいかったはずだろ」
勝手なことを言う孫一を睨みつけようとしたときだ。
突然、孫一を水の塊が包み込んだ。
がぼっと苦しそうに息を吐いた瞬間、凜から手が離れる。
逃げるように後ずさると、孫一がもがきながら水から出ようと必死に息を止めていた。
「何だこれは」
もう聞きなれた低音が滑り込む。
声の方へ顔を向ければ、やはり水華がいた。
刺青の入った顔が憎々し気になっている。
「凛を嫁にだと?」
苛立ったような声で孫一を見下ろしている。
当然だ。
自分の花嫁を嫁にしてやると言われたのだから。
「私がいた、村の人です」
「ほう、親しい人間か?」
ごほごほと咳をしながら孫一が塊から飛び出した。
最初から拘束などをする気はなかったらしく、もがくだけで出られたらしい。
孫一が信じられないように水華を見て、それから凛へと目線を向けた。
「村に、親しい人間なんて、一人もいません」
「そうか」
少し震えた声だったけれど、はっきり言えた。
村のことなど無くなってしまえと思っていない。
でも、縁は断ち切ってかまわなかった。
「何でだよ! かまってやっただろ、俺のところに帰ってきたんだろ!?」
「妄言を口にするな。私たちは、あれを持ち帰るために来ただけだ」
水華が見やったのは祠だった。
凛がどれだけ祠が大事だったかを聞いた水華が、屋敷の庭に祠を移すと言ったのだ。
それを取りに来たのだけれど、出かけに美光が前触れもなくやってきた。
美光に会わせたくない水華が渋い顔をしていたので、凛だけ一足先に来ていたのだ。
まさか嵐のあとにこんな場所へ人が来るとは思っていなかった。
しかも孫一が。
「嘘だ、だってお前は、うぐっ」
塊から出て膝をついていた孫一に水の枷が巻きつき、そのまま地面へと引き倒した。
ぐぅぅ、とうめくも、孫一はギラギラと水華を睨みつけている。
それは憎悪が埋めつくされた目だった。
そんなものを凛は見たことがなくて、恐ろしい気持ちになる。
「水は圧縮すれば鋼の刃と変わらず切れると知っているか?」
その言葉に孫一は真っ青になった。
先ほど溺れた塊も、今拘束している枷も、水で出来ていると気づいたからだろう。
一気に顔色が悪くなる。
「私は水を司っていてな……首をかき切られるのと溺死、どちらがよい?」
「ど、どっちって」
「私は役立たずの神だからな、どちらだろうと上手くできる気がしない。手間取るだろうが、ちゃんと最期まで責任をもってやろう。壮絶な苦しみかもしれぬがな」
「たすけっ」
孫一の悲鳴はすぐにごぼりと水の中で溺れる音に変わった。
凛は孫一が叫び出すのと同時に水華に目を塞がれてしまっている。
低い体温が目元に当てられているのがわかった。
「あの……」
「わかっている。殺す気はない」
その言葉どおりに、孫一が水から出たらしい。
何度も咳きこむ音が聞こえてくる。
「ひっ助けてくれ!殺さないでくれ!ひいいぃ」
何が起きているのかはわからないけれど、孫一の悲鳴がひとしきりこの場に響きわたったあと、逃げるように声は遠くへ消えていった。
そしてようやく目から水華の手が離される。
わずかに光に目がくらみ何度かまばたきすると、盛大な水たまりが出来ていた。
そして一部が赤くなっている。
間違いなく孫一の血だろう。
おもわず見つめてしまうと、バツの悪そうな声がかけられた。
「薄皮一枚切っただけだ……あいつが気になるのか?」
水華の方を見ると、憮然とした顔をしている。
いたずらがバレた子供のようにも見えてしまって、少し可愛く見えてしまった。
そしてもう一度、孫一のものである血を見ると、凛は祠を見やった。
「いいえ、気になりません。ただここは、私にとって大事な場所だったので荒らされた気持ちになってしまっただけです」
「そうか」
答えに満足だったらしい。
水華は頷くと、ついと指を動かした。
途端に澄んだ水の塊があらわれて祠を包む。
水に流されるように泥などが剥がれていくのを、凛は嬉しそうに見た。
「あの男の前で、まともに話せていたな」
突然の指摘に、凛は虚を突かれた顔をした。
自覚はあまりなかったけれど、そういえば孫一に疫病神と言われたあとは滑らかに喋っていた気がする。
「私の前でも最近はそうなっている」
「水華様は怖くないからです。緑木様は、まだ滑らかに話せません」
「そうか」
水華以外にはまだまだ時間がかかりそうで、少し唇を尖らせる。
そうなのだ。
お互いの気持ちを確認してから、つたないけれど凛は話すことに抵抗感がなくなった。
何かを言っても怒鳴られたり蔑まれたりということは、水華は絶対にしないだろうと信頼できたからだろう。
まだたまに拙くなるけれど、それも徐々になくなっていくのではないかと凛は思っている。
包んでいた水が消え、そこには以前よりきれいになった祠がある。
凛はゆっくりと歩みより、指先を伸ばして祠にそっと触れた。
それは愛しげな仕草だ。
「水華様、私ずっと祠の向こうへ手を伸ばしたかったんです」
「伸ばせばいい」
祠に触れる凛の手を水華が手ですくい上げた。
そのまま絡めるように手を繋ぐ。
その言葉と体温に凛はしんなりと目をたわめ。
「はい」
ぎゅっとその手を握り返した。
