意識がもち上がるように浮上した。
ああ起きたなと無意識に考えたのと、ゆっくり目を開けたのは同時だった。
目の前にあるのは知らない天井だ。
見慣れた凛の部屋のものではない。
暗いことから水華のくれた行灯がないことに気づき、ここがどこなのかわからなかった。
そっと起き上がり、体を見下ろす。
濡れていないし、体もなんともない。
「私、滝に飛び込んだはずなのに」
そんな形跡はかけらもない。
部屋を見まわすけれど、凛が寝ている布団以外は何もなかった。
広い部屋のまんなかに凛の寝ている布団がある。
「もしかして水華様のお屋敷じゃないのかしら」
呟いた瞬間、鼻の奥がツンと痛くなった。
「お傍においてもらえなかったのかしら……」
ずっと泣いてばかりだ。
泣かないようにしてたのに。
ひく、と喉が揺れたのをなんとか布団を握ることで耐えた。
「泣かない、泣かない」
久しぶりの口癖だった。
水華のもとにきてから、泣くようなことはなかった。
ずっと真綿でくるまれるように大切にされていたのだと今ならわかる。
嗚咽が出そうになったときだ。
すらりと襖が引かれた。
「またそれか」
聞こえてきたのは、もう聞きなれた声だった。
そこには行灯を片手に持った水華がいる。
手にある行灯は青い蝶が描かれていて、凛が水華に貰ったものだとひと目でわかった。
何も言えない凛に、水華は気にしたふうもなく行灯を畳みに下ろすと、布団の横へあぐらをかいた。
「それを口にするくらいなら泣けと言ったはずだ」
「どうして、それを知って……」
この言葉は祠の声しか知らないはずだ。
他人の前で言ったことは一度もない。
不思議そうに水華は首をかしげた。
何故そんな顔をされるのかがわからない。
「最初に言っていただろう?」
「……そ、それは、祠の神様との思い出なのに」
頭がまっしろになった。
凛だけの思い出だ。
あとは祠の向こうにいた声。
二人だけしか知らないはずだ。
「まさか、祠の……」
「同じだと気づいていなかったのか?」
震える声にこたえたのは困惑した声だった。
そんなことあるわけがないと思うだろう。
手を伸ばしたかった声と、傍にいたいと思った水華が同じだなんて。
「水辺に祭られた祠があるなんて珍しいと思ったら、お前が泣いていたのだ。花嫁になると言ってから来なくなったが、村にそれを伝えたからそのせいかと思っていた」
「ちが、生贄だって、だから閉じ込められて」
震えながら首を横に振ると、水華が深いため息を吐いた。
そのまま珍しく乱暴なしぐさで頭をかく。
「どうりで迎えに行く前に滝に落ちてきたわけだ。あれだけ懐いていたのによそよそしくなったのも、成長したからかと思っていたが……違ったようだな」
ギリギリのところで止めていた目が潤んできた。
祠の声は、凛の神様はずっとそばにいてくれたのだと思えば、胸が熱くなる。
「わ、私、祠の神様が、大好きでした。でも、名前も、顔も知らないのに水華様に似てるって、傍にいたいって思ったんです」
「そうか」
「わ、私、まだ花嫁に、なれますか?お傍において、いただけますか?」
ぎゅっと両手を合わせて握る。
凛は祈るように水華を見たけれど、凜の神様は苦い顔を浮かべていた。
そのことに胸が軋む。
(もう駄目かな)
遅かっただろうかと、凛はおもわず俯いた。
好意を素直に受け入れられず、水華の気持ちを無碍にした。
何度も祠の声と似ていると思ったのに、重ね合わせたのに、気づかなかった。
呆れられても仕方がない。
「まだも何もない」
するりと美しい指先が頬を撫でて顎へとなぞり、上向かされる。
存外近い場所にあった水華の顔に、凜はおもわず頬を染めた。
「最初からずっと、お前は私の花嫁のつもりだ」
ぐっと胸が掴まれたようだった。
小さく、は、と息を吐けば、その途端に体中に喜びが走った錯覚をしてしまう。
「で、でも、美光様も緑木様も、鱗を貰っていないなら、花嫁ではないと言われました」
「あれらは性急すぎるだけだ。傍に置いて体を馴染ませなければ負担がかかる」
「で、では、私がいただいてないのは……」
「馴染むのを待っているだけだ。まだ少し時間がいる」
「そう、だったのですね」
心の底からほっとした。
水華の花嫁は自分でいいのだと、自覚が出来た。
「さっさと渡せばよかったかもしれぬがな」
「す、水華様は、お優しいですから」
嬉しさで水華を見ると、至近距離で憮然とした眼差しをしている。
その顔は、凛がまだ花嫁ではないのが不本意なのだと、よくわかった。
嬉しさでばくばくと心臓が鳴りだし、その鼓動に押されるように目から涙がころりと落ちた。
慌てて手をやると、頬に触れた手に水華の唇が落とされる。
唇を落とされるのははじめてではないけれど、走り出したくなるような気持ちになった。
「お前はよく泣いているな」
「わ、私、人前でなんて、泣きません」
「そうか。旦那冥利につきるというものだ」
ふ、と柔らかく目がたわめられる。
そしてふと、庭を思い出す。
以前、祠にそなえた白い花。
「あ、あの、庭の花は」
「お前がよこしたものだ。丁重にあつかうと言っただろう」
「わ、わたしが供えた……だから、一緒の花だったんですね」
庭いっぱいの見慣れた白い花。
見るたびに不思議だったのだ。
いつも庭の見える濡れ縁にいたのは水のなかでも見ているのかと思っていたけれど。
「あ、あそこに、いつもいたのは」
「お前の花が咲いているからだ」
考えたこともなかった返答に、凛はじわじわと幸福で心が満たされていくようだった。
表面張力ぎりぎりで溢れそうだ。
「そ、そんなふうに、大事にしてもらえて、嬉しいです」
「そうか」
水華の表情は変わらない。
それでも目尻がほんの少し下がっていた。
凛も嬉しさに目を細めて、あっと声を上げた。
水華が何だというように眉を上げる。
「か、体は大丈夫なのですか?私のせいで、水華様が、苦しい思いをされて、申し訳ありません」
「問題ない、お前の注いだもので半分ほどは力が満ちた。それとお前のせいでもない。私が勝手にしたことだ」
半分という言葉に悔しくなった。
もともと水華が凛に入れた力を戻しただけとわかっているけれど、凜にはたいしたことは出来なかった。
それに、水華は勝手にやったことだと言うけれど、凛が何も言わなければ制約を破りはしなかっただろう。
「わ、私をずっと、水華様の傍に、おいていただけますか?」
「当たり前だ」
「でしたら、私が頼んだからといって、無理をしないでください。駄目なことは、駄目と言ってください。もう、水華様に無理なんて、させたくないんです」
必死で言いつのる。
水華の傍にいるなら、絶対に必要なことだ。
凛は人間だから、神様の理はわからない。
わからなければ水華に無理を言うかもしれない。
そんなことは繰り返したくなかった。
「わかった。お前の言うとおりにしよう」
小さく頷いた水華に、凛は安心したように笑った。
ああ起きたなと無意識に考えたのと、ゆっくり目を開けたのは同時だった。
目の前にあるのは知らない天井だ。
見慣れた凛の部屋のものではない。
暗いことから水華のくれた行灯がないことに気づき、ここがどこなのかわからなかった。
そっと起き上がり、体を見下ろす。
濡れていないし、体もなんともない。
「私、滝に飛び込んだはずなのに」
そんな形跡はかけらもない。
部屋を見まわすけれど、凛が寝ている布団以外は何もなかった。
広い部屋のまんなかに凛の寝ている布団がある。
「もしかして水華様のお屋敷じゃないのかしら」
呟いた瞬間、鼻の奥がツンと痛くなった。
「お傍においてもらえなかったのかしら……」
ずっと泣いてばかりだ。
泣かないようにしてたのに。
ひく、と喉が揺れたのをなんとか布団を握ることで耐えた。
「泣かない、泣かない」
久しぶりの口癖だった。
水華のもとにきてから、泣くようなことはなかった。
ずっと真綿でくるまれるように大切にされていたのだと今ならわかる。
嗚咽が出そうになったときだ。
すらりと襖が引かれた。
「またそれか」
聞こえてきたのは、もう聞きなれた声だった。
そこには行灯を片手に持った水華がいる。
手にある行灯は青い蝶が描かれていて、凛が水華に貰ったものだとひと目でわかった。
何も言えない凛に、水華は気にしたふうもなく行灯を畳みに下ろすと、布団の横へあぐらをかいた。
「それを口にするくらいなら泣けと言ったはずだ」
「どうして、それを知って……」
この言葉は祠の声しか知らないはずだ。
他人の前で言ったことは一度もない。
不思議そうに水華は首をかしげた。
何故そんな顔をされるのかがわからない。
「最初に言っていただろう?」
「……そ、それは、祠の神様との思い出なのに」
頭がまっしろになった。
凛だけの思い出だ。
あとは祠の向こうにいた声。
二人だけしか知らないはずだ。
「まさか、祠の……」
「同じだと気づいていなかったのか?」
震える声にこたえたのは困惑した声だった。
そんなことあるわけがないと思うだろう。
手を伸ばしたかった声と、傍にいたいと思った水華が同じだなんて。
「水辺に祭られた祠があるなんて珍しいと思ったら、お前が泣いていたのだ。花嫁になると言ってから来なくなったが、村にそれを伝えたからそのせいかと思っていた」
「ちが、生贄だって、だから閉じ込められて」
震えながら首を横に振ると、水華が深いため息を吐いた。
そのまま珍しく乱暴なしぐさで頭をかく。
「どうりで迎えに行く前に滝に落ちてきたわけだ。あれだけ懐いていたのによそよそしくなったのも、成長したからかと思っていたが……違ったようだな」
ギリギリのところで止めていた目が潤んできた。
祠の声は、凛の神様はずっとそばにいてくれたのだと思えば、胸が熱くなる。
「わ、私、祠の神様が、大好きでした。でも、名前も、顔も知らないのに水華様に似てるって、傍にいたいって思ったんです」
「そうか」
「わ、私、まだ花嫁に、なれますか?お傍において、いただけますか?」
ぎゅっと両手を合わせて握る。
凛は祈るように水華を見たけれど、凜の神様は苦い顔を浮かべていた。
そのことに胸が軋む。
(もう駄目かな)
遅かっただろうかと、凛はおもわず俯いた。
好意を素直に受け入れられず、水華の気持ちを無碍にした。
何度も祠の声と似ていると思ったのに、重ね合わせたのに、気づかなかった。
呆れられても仕方がない。
「まだも何もない」
するりと美しい指先が頬を撫でて顎へとなぞり、上向かされる。
存外近い場所にあった水華の顔に、凜はおもわず頬を染めた。
「最初からずっと、お前は私の花嫁のつもりだ」
ぐっと胸が掴まれたようだった。
小さく、は、と息を吐けば、その途端に体中に喜びが走った錯覚をしてしまう。
「で、でも、美光様も緑木様も、鱗を貰っていないなら、花嫁ではないと言われました」
「あれらは性急すぎるだけだ。傍に置いて体を馴染ませなければ負担がかかる」
「で、では、私がいただいてないのは……」
「馴染むのを待っているだけだ。まだ少し時間がいる」
「そう、だったのですね」
心の底からほっとした。
水華の花嫁は自分でいいのだと、自覚が出来た。
「さっさと渡せばよかったかもしれぬがな」
「す、水華様は、お優しいですから」
嬉しさで水華を見ると、至近距離で憮然とした眼差しをしている。
その顔は、凛がまだ花嫁ではないのが不本意なのだと、よくわかった。
嬉しさでばくばくと心臓が鳴りだし、その鼓動に押されるように目から涙がころりと落ちた。
慌てて手をやると、頬に触れた手に水華の唇が落とされる。
唇を落とされるのははじめてではないけれど、走り出したくなるような気持ちになった。
「お前はよく泣いているな」
「わ、私、人前でなんて、泣きません」
「そうか。旦那冥利につきるというものだ」
ふ、と柔らかく目がたわめられる。
そしてふと、庭を思い出す。
以前、祠にそなえた白い花。
「あ、あの、庭の花は」
「お前がよこしたものだ。丁重にあつかうと言っただろう」
「わ、わたしが供えた……だから、一緒の花だったんですね」
庭いっぱいの見慣れた白い花。
見るたびに不思議だったのだ。
いつも庭の見える濡れ縁にいたのは水のなかでも見ているのかと思っていたけれど。
「あ、あそこに、いつもいたのは」
「お前の花が咲いているからだ」
考えたこともなかった返答に、凛はじわじわと幸福で心が満たされていくようだった。
表面張力ぎりぎりで溢れそうだ。
「そ、そんなふうに、大事にしてもらえて、嬉しいです」
「そうか」
水華の表情は変わらない。
それでも目尻がほんの少し下がっていた。
凛も嬉しさに目を細めて、あっと声を上げた。
水華が何だというように眉を上げる。
「か、体は大丈夫なのですか?私のせいで、水華様が、苦しい思いをされて、申し訳ありません」
「問題ない、お前の注いだもので半分ほどは力が満ちた。それとお前のせいでもない。私が勝手にしたことだ」
半分という言葉に悔しくなった。
もともと水華が凛に入れた力を戻しただけとわかっているけれど、凜にはたいしたことは出来なかった。
それに、水華は勝手にやったことだと言うけれど、凛が何も言わなければ制約を破りはしなかっただろう。
「わ、私をずっと、水華様の傍に、おいていただけますか?」
「当たり前だ」
「でしたら、私が頼んだからといって、無理をしないでください。駄目なことは、駄目と言ってください。もう、水華様に無理なんて、させたくないんです」
必死で言いつのる。
水華の傍にいるなら、絶対に必要なことだ。
凛は人間だから、神様の理はわからない。
わからなければ水華に無理を言うかもしれない。
そんなことは繰り返したくなかった。
「わかった。お前の言うとおりにしよう」
小さく頷いた水華に、凛は安心したように笑った。
