臆病な少女は生贄として溺愛される

 次に視界に入ったのは、薄暗い場所だった。
 そのまま緑木が歩き出す。

「緑木様、ここは」

 言葉は途中でとぎれた。
 そこは賑やかな町のなかだった。
 以前祭りに行った町のように、活気にあふれている。
 ぽかんとしているあいだにも、緑木が通りかかりの女に声をかけていた。
 振り返った彼の目も髪も、いつのまにか黒になっている。
 べっこう飴を買ってくれた水華と同じように。

「水華様」

 小さく、本当に小さく呟いた。
 緑木も気づいていなかった。
 その背中を見て、黒髪の水華の背中を思い出す。
そしていつも見ていた、結ってある白銀の髪をその姿に重ねた。

「凜ちゃん、この人が住むところ探せるように手伝ってくれるから。お金はあとから俺が定期的に持ってくる」
「そ、そんなことしてもらうわけには、いきません」
「水華に頼まれたって言っただろ。お金は水華のものだから、気兼ねなく使ってやりなよ。その方があいつも喜ぶ」

 そんなわけがない。
 駄目だと言いかけたとき、女が緑木の影に隠れていた凛に気づいた。

「あんたびしょ濡れじゃないか。風邪ひくよ」

 そこで自分がしとどに濡れていることを思い出した。
 緑木が「忘れてた」と呟いている。
 慌てて凜がたもとを絞ろうとすると、とさりと軽い音を立てて小さな美しい巾着が落ちた。
 それを思わずじっと見る。
 水華がくれた金平糖だ。
 嬉しくて、無くなるのが惜しくて、でも駄目にしたくなくて、少しずつ食べていた大事なもの。
 のろのろとしゃがんで拾い上げていると、頭上で女の喋る声が聞こえた。

「東の方で酷い嵐があったらしくてさ、すぐにおさまったからよかったけど、あんまりにも凄いから神様の祟りなんじゃないかって、みんな言っていたんだよ」

 それは水華のことだろう。
 水華が自分をかえりみずに止めてくれた嵐だ。
 優しい神様のしたことだ。

「祟りなんかじゃないわ」

 呟いた声は、今度は緑木に聞こえていたらしい。
 凜は立ち上がると、まっすぐに女を見つめた。

「祟りなんかじゃありません。優しい神様が守ってくれたんです」

 いつものおどおどした口調ではなかった。
 ハッキリと意志をのせた言葉。

「凛ちゃん……」

 緑木が驚いた顔で凛を見る。
 女は凛に得体の知れなさでも感じたのか、やっぱりよそを当たってくれと足早に去って行った。
 ばくばくと心臓が鳴っている。
 人に対してあんなに断言する言葉を発したのははじめてだ。
 金平糖の入った巾着を持つ手は震えていた。

「そんなにハッキリとものが言えたんだね。それは?」

 少しおどけたように手元に目をやった緑木に、凜は両手でそれを握りしめた。

「こ、金平糖です」
「金平糖?」
「水華様が、くださいました。嬉しくて、大切で、少しずつ食べていました」
「そっか」

 凛の言葉に緑木は目を細めた。
 そして凜の手をそっと両手で包み込む。

「あいつは恐ろしかった?」
「いいえ、いいえ……とても優しかったです。会った時からずっと、だから私少しでも役に立ちたくて、立派な生贄になろうって、そう思ってたのに……お傍に、いたいと。少しでも長くと」

 凛の目尻からまた涙が溢れた。
 もう何度も泣いているから腫れあがって痛い。
 人前で泣きたくなんてないのに、おまじないを言うことも出来ないでいる。
 つっかえながらも自分の気持ちを口にすると、緑木がそっと顔を覗き込んできた。

「花嫁だって言われて、どう思った?」

 その言葉に凛の瞳が揺れた。
 生贄でも傍にいたかった。
 花嫁なら傍にいられるのだろうか。
 だったら。

「何よりも、嬉しかったです」
「よかった」

 ぐす、と鼻をすすって緑木を見ると、とても真剣な眼差しで貫かれた。

「水華を眠らせずにすむ方法がある」

 凛はハッと息を呑んだ。
 もう一度、水華に会える。

「凛ちゃんなら、助けられる」
「私なら?」
「凜ちゃんは水華に力を入れられたね?」

 口づけのことだと思い出して、ぎこちなく凛は頷いた。
 恥ずかしさよりも水華のことを考えて、先を進めるようにしっかりと緑木を見返す。

「俺達は人間に力を入れることができる。花嫁を守れるように。でも入れられる器の大きさはそれぞれ違う。凛ちゃんは、その器がでかいんだ」
「力、ということは美光様に奪われた水華様の力を、戻せるということですか?」
「そう、水華の力を完全に戻すのは無理でも、眠らせないことは可能だ。そのくらい君のなかに水華の力がためられてる」
「だったら!」
「みっつ問題がある」

 弾んだ声を上げかけた凛を制するように緑木がさえぎった。
 そして包んでいた凜の手をぎゅっと握る。

「水華の眠っている場所は、人間が立ち入れない場所だ。これは俺が連れて行ける」

 緑木の言葉に、理解したと示すように凛は頷いた。
 それを見て、緑木も頷く。

「ふたつ目は水華の眠っている場所は大滝の底だ。君が最初に落ちた滝なんか比べものにならない。そしてそこは他の龍は入ってはいけないから、凜ちゃん一人で滝のなかに行くしかない。そしてみっつ目、水華は龍の姿で眠ってる。その姿に口づけて、力を注がなくちゃいけない。出来る?」

 凜は緑木の説明に一瞬、息を止めてしまった。
 あの恐ろしかった滝よりもっと比べ物にならないものへ、身を投げなければならないのだ。
 かたりと手指が震えた。
 緑木にも伝わっているはずなのに、彼は何も言わない。
 そして龍の姿へ、あの鋭い牙の並ぶ口へと口づける。
 けれど、水華の龍の姿を思い出すと、何故かストンと覚悟が決まった。
 あの白銀に輝く美しい龍を取り戻すのだと。

(水華様にもう一度会えるなら)

 ぎゅっと金平糖の入れ物を強く強く握りしめると、凛は緑木を覚悟の決まった眼差しで見つめた。

「水華様のためなら、どんな滝にだって飛んで見せます」

 固い決意を口にすると、緑木は「そうこなくちゃ」と嬉しそうに笑った。
 二人は頷きあうと、もう一度緑木の力で山へと戻った。
 神聖な場所なので、人里からは行けないらしい。
 そこには生々しく、水華の倒れ伏していた跡がある。

「凛ちゃん行くよ」

 緑木に呼ばれると、凛はじっとその跡を見た。
 水華のもとへ行くのだ。

(もし許していただけるなら、花嫁としてお傍においてもらいたい)

 ぐっと唇をひき結ぶと、凛は緑木の方へと向かった。
 緑木の手によって辿りついた先。
 目の前に広がったのは、圧巻の光景だった。
 三つの大滝が轟音を立てて流れている。
岩肌のむき出しになった、滝の上にある足場まで水しぶきが飛んでくるので体がどんどん濡れていた。
そっと下を見ると、果てが見えず三つの滝がはるか底まで落ちていく。
ごくりと恐怖で凜はつばを飲み込んだ。
以前滝に落ちて溺れたことを思い出し、体が震えだす。

「神聖な場所だから水華に害をなさなければ、死ぬことはないよ。大丈夫」
「は、はい」

 何度も頷くと、じりじりと足場の先まで凛は進んだ。
 ここにいるだけで腰が抜けそうだった。
 震える足を何とか踏ん張って立ち続ける。
 生贄として滝に飛び込んだときは背中を押されたので、ある意味楽だった。
 恐怖を持つ暇もなく落ちたからだ。
 今度は自分で飛び込まなければいけない。
 カタカタと動く手を握りしめる。
 金平糖の入っている袂を見て、凛はぎゅっと目を閉じた。

「水華様」

 美しい神様を思い出すと、勇気が湧いてくる。
 瞼をゆっくりと開くと、見えない滝の底を睨みつけて凛は足場から飛び出した。
 急激な落下に臓腑が一気に浮き上がる感覚が恐怖を誘う。
 顔にあたる豪快な水しぶきは最初の滝を思い出させた。
 悲鳴を上げないように力いっぱい歯を食いしばる。
どこまでも落ちていく感覚に、どれだけ時間が経ったのかわからない。
そう思った時、けたたましい音と共に水へと落ちたことを息苦しさで理解した。
水を飲まないように何とか息を止めるけれど苦しい。
泳いだことなんてないから、バタバタと手足を動かすしかない。
水のなかにいるときは守ってくれていた水華の光りの球体は、ここには来ないのだと言い聞かせてあたりを見回す。
すぐ下に巨大な龍がとぐろを巻いていることに気づいて、凛は驚きで口を開けそうになった。
慌てて両手で塞ぎ、龍を見下ろす。
固く閉じられている目と濁った鱗に泣きたくなった。

(水華様、今参ります)

 ジタバタと何とか進みながら底の方へと向かっていく。
 水華の顔までようやくたどり着くと、凛は必死で手を伸ばして触れた。
 口をと思うけれど、しっかりと閉じられている。
 これは考えていなかったと思いながら、凛は口元をめいいっぱい叩いた。
 平手ではまったく気づいてもらえそうにないので、両手を使って拳で叩く。

(水華様、気づいて!)

 少しずつ息苦しくなってきた。
 緑木は死ぬことはないと言っていたけれど、普通に苦しい。
 とん、ともう一度叩いたときだ。
 うっすらと水華の紫電の瞳が開かれた。
 そして小さく口が開かれる。

『……凛』

 ひとことだけ。
 けれどそのひとことで、びっしりと生えた鋭い牙に凛はためらわなかった。
 ぐっと唇を押しつけるようにして、息を吹き込む。
 力を入れるなんてどうすればいいかわからないけれど、これくらいしか思いつかない。
 何か熱いものが胸からこみ上げてきたと思ったら、口からそれが零れ落ちていった。
 さすがに口を開ければ溺れるしかない。
 がぼりと大量の泡が口から沸いた瞬間、うっすらと開いていた目が大きく見開かれた。
 起きた、と思ったのと、龍が凛を口に入れたのは同時だった。
 水がさえぎられて呼吸が楽になる。
 何度も咳をしていると、水華が滝をのぼっているのだと気づいた。
 恐怖を覚えた滝なのに、水華の口のなかにいるだけで不思議と安心した。
 普通は怖いだろうと思うのに。
 そして口のなかにいることで暗かった視界が一気に明るくなる。
 そこには安心したような緑木の姿があった。
 水華はと思ったと同時に。

「馬鹿者!!」

 怒声が響きわたった。
 いきなりのことに肩が跳ねる。
 見れば、怒りだとか心配だとかがないまぜになった水華の顔がある。
 もう龍の姿ではなく、いつもの美しい人の姿だ。
 それに心底安堵した。
 ただ、こんなに感情を露わにしているのを見るのははじめてだ。
 場違いにも、それが凜への感情だと思うと嬉しい。

「何を考えている! 人間がここに飛び込むなど。それに何故来た? 人里に返したはずだ」
「わ、私」
「緑木! 私は頼んだはずだな、何故凛に起こす方法を教えた」
「私が、緑木様に連れてきてもらったんです!」

 水華の怒涛の言葉に、けれど凛は大声でそれをさえぎった。
 今までなら考えられないことだ。
水華もおもわず口を閉じてしまった。
目を丸くして凛を見ている。

「わ、私が水華様に会いたかったのです。水華様に会いたくて、自分から滝に飛び込んだんです。全部、私が決めたんです」
「凛が決めた……」

 ぽつりとこぼした水華に何度も頷き返す。
 くらくらと頭のなかが揺れているけれど、それでもなんとか意識を保っていた。
 そこに緑木が近づいて来て、ゆるりと笑う。

「水華に会いたいって、人間が自分から飛び込んだんだよ。その覚悟と度胸は認めてやれよ」

 緑木の言葉に水華がぐっと奥歯を噛んだ。
 その形のいい唇をもう一度開こうとするけれど、凛の方が限界だった。
 視界が暗く揺れて、意識が遠のいていく。
 それでもこれだけは言わなければ。

「あなたの傍にいられるなら、なんでもいいんです」

 なんとかそれだけ言うと、凛は意識を手放した。
 耳にうっすら聞こえたのは水華の声で、もう一度声を聞けたことが嬉しかった。