「緑木様がいらっしゃいました」
壺の言葉に濡れ縁でお茶を飲んでいた水華が顔を上げた。
凛も茶菓子をと一緒にいさせてもらっている。
水華の傍にいられる嬉しさを噛みしめているときに壺が来たのだ。
壺の言葉に出迎えなければと立ちあがりかけたときだ。
「やーまいったよ」
廊下の先から緑木がやってきた。
その姿に水華がひょいと片眉を上げて、凛が慌てて立ち上がる。
「今拭くものを……壷さん!」
そういった物の場所がわからないので壺を見ると、緑木がひらひらと手を振った。
「大丈夫だから気にしなくていいよ~。狸ちゃんも、勝手にやるからさ」
緑木の言葉に壺が困ったように水華を見ると、抑揚のない声で「下がっていい」と指示を出した。
その言葉にぴょこりと一礼して壺が去って行く
凛は凛でどうしたらと立ったまま、濡れそぼった緑木を見るしかない。
緑木の足元も歩いてきた廊下もびしょ濡れだ。
「気にしないでね、凜ちゃん」
凛にひとこと声をかけると水華を見る。
(気にしないでと言われても……)
風邪をひくのではと思いながら、けれど神様は風邪などひくのかと疑問が浮かぶ。
葛藤していると、水華が緑木の全身をかるく目線でさらった。
途端に服や髪が乾いていく。
驚きで目を丸くしているあいだにも全身が乾いたかと思うと、緑木の体から水の塊が出てきた。
そしてその塊がふよりと浮いて庭にぱしゃりと落ちる。
あとにはすっかり水気のなくなった緑木の姿だ。
水華が緑木の体から余分な水分を奪ったらしい。
さっぱりしたと笑う緑木に、凛は驚きしかなかった。
(水を司るって、こんなことも出来るのね)
しげしげと見つめていると、水華が凛の眼差しに気づいて目線を向けた。
不躾だったと慌てて目をわずかに伏せる。
「そんな恰好で何をしている」
「いやあ用事があって山の方に行ったらひどい嵐でさ。雨も酷いけど風が凄いよ、落雷もありそう」
「そうか」
水華の返答はじつにあっさりとしたものだった。
それは大丈夫なのかとそわそわしてしまうけれど、それよりも気になるのは山ということだ。
凜の知るかぎり、山なんて祠のあった場所くらいしかない。
あとは滝に続く道だけだ。
胸騒ぎを感じながら、話に割って入るのはと躊躇する。
けれどどうしても気になって、凛は口を開いた。
「あ、あの、緑木様」
「どうかした?」
「や、山というのは、ここに繋がる滝のある場所ですか?」
凜の問いかけに、緑木が首をかしげた。
そして合点がいったように、ああと手を打つ。
「そういえば近くに小さな滝があったね。それじゃなくて、もうひとつ山があるんだよ。そっち。滝の方はそんなに荒れてないかな」
ひゅっと凛の喉が鳴る。
緑木の言うとおりなら、嵐に巻き込まれているのは凜の村だ。
つまり、祠の近く。
あんなボロボロの祠なんて、嵐のなかでは簡単に壊れてしまうだろう。
「まったく嫌になっちゃうよ、おかげでびしょ濡れ」
「運が悪かったな」
「ほんとそれ」
二人の神様は、何も気にとめた様子がなく淡々としている。
村ひとつが嵐に巻き込まれているのに。
「……その近くに村があるんです」
凜の小さな声に、二人の目がこちらへと向けられた。
その眼差しはいたって普通で、だからどうしたのだろうと語っている。
眼差しに気圧されたけれど、凛はごくりと唾を呑み込んで両手をぎゅっと握り合わせた。
「そ、そんなにひどい嵐、きっと、ひとたまりもありません」
震える声に、水華の目が細められた。
けれど、黙っているわけにはいかない。
「す、水華様は、水を司るんですよね。だったら、雨も、なんとかできませんか」
「凜ちゃん」
「いい」
凜の言葉に緑木の静かな声が重なる。
それを制したのは水華だった。
じっと凛を見つめる目は静かだ。
だから、凛はさらに口を開いた。
「あ、嵐を……とめてください」
「村の連中に情などかける必要があるか? ずいぶん泣かされたと記憶しているが」
水華の言葉に内心であれ、と思った。
どうして水華が村で泣いていたのを知っているのか。
祠の声以外の前で泣いたことはないのに。
それとも凛が軟禁されていた姿を見ていたのだろうか。
生贄として監視されていたのだろうか。
その考えにいたると、胸を強く引っ掻かれたような錯覚をしてしまった。
そんなことをしても、おかしくないのかもしれないと思う一方で、泣いているのを黙って見ていたのだと失望にも似た気持ちだ。
唇を一度噛むと、凛はぐっと目に力を込めて水華を見た。
その様子に、水華が静かに立ちあがる。
長身な水華が立ちあがると、凜は顔を見上げなければならない。
そのせいで威圧感があるけれど、それでも凛は足を踏ん張った。
「お、お願いします、嵐を、止めてください」
頭を下げて懇願した。
「そんなに村の連中が大事か」
大事かと訊かれたら、凛は違うと思う。
散々、虐げられて酷い目にあった場所だ。
思い入れなんてない。
薄情だとか恩知らずだとなじられることだと思う。
これは、ただの凛のわがままだ。
村よりも祠を守りたい。
別れを告げても、凜の特別な宝物のような場所だ。
村が水不足になっただけで池を見つけられて、人が立ち入った。
それだけでも心がどす黒くなるほどの不快感を感じたのだ。
孫一は神様をなじっていた。
祠の声と水華は違うけれど、村の人間にそんなことわかるわけない。
何かあったときに祠へ責任を求めて壊される可能性があるのだ。
それだけは絶対に嫌だ。
凛は祠を、自分の神様を守りたい。
水華を選んだのに。
(水華様が、私の神様になったのに)
それでも諦められないのだ。
我儘な自分に嫌気がさすのをこらえながら、言葉を絞り出した。
「な、何でも、します。お願いします……神様……かみさま、お願いです」
震える声に神罰を与えられてもおかしくないと、体まで震えだす。
がくがくと体を震わせていると、頬に体温がそえられた。
すっかり慣れた低い体温。
おそるおそる顔を上げると、水華がこちらを見つめている。
けれど、眉根をよせた痛みをこらえるような顔に、凛は息を詰まらせた。
こんな顔をさせたかったわけじゃない。
「わかった」
それだけ言うと、水華はそのまま庭へと出てしまった。
とまどっていると、緑木の声が水華へと投げかけられる。
「いいのか?」
「ああ」
それだけ言うと水華は水のなかへと入っていき、そのまま姿を消してしまった。
願いをきいてくれたらしい。
細く息を吐いて力が抜けそうになる。
「きゃっ」
突然ぐいと凛の細い手首が掴まれた。
小さな悲鳴を上げると、緑木が凛を見つめている。
怒らせた、と思う。
水華に無理やり願いを叶えてもらおうとしているのは、自覚がある。
だからだと思っていると、緑木が凜の手を掴んだまま歩き出した。
「行くよ、君には見届ける義務がある」
緑木の言葉の意味がわからない。
けれど声音から大事なことだというのはわかる。
さっさと歩く緑木の歩調について行けなくて、凛はほとんど小走りだ。
「あ、あの、義務って」
「当然でしょ」
なにが当然なのかわからない。
混乱しながら廊下を進むとそのまま玄関に向かう。
どこかに行くのだと理解した次の瞬間には、緑木が引き戸を開けていた。
途端にごうっと突風が吹く。
けれど気にせず外へ出る緑木に、凛は恐ろしくなって足を後ろにひきかけたけれど、そんな抵抗もむなしく緑木が進んでいく。
玄関を出ると、視界は荒れ狂っていた。
壺の言葉に濡れ縁でお茶を飲んでいた水華が顔を上げた。
凛も茶菓子をと一緒にいさせてもらっている。
水華の傍にいられる嬉しさを噛みしめているときに壺が来たのだ。
壺の言葉に出迎えなければと立ちあがりかけたときだ。
「やーまいったよ」
廊下の先から緑木がやってきた。
その姿に水華がひょいと片眉を上げて、凛が慌てて立ち上がる。
「今拭くものを……壷さん!」
そういった物の場所がわからないので壺を見ると、緑木がひらひらと手を振った。
「大丈夫だから気にしなくていいよ~。狸ちゃんも、勝手にやるからさ」
緑木の言葉に壺が困ったように水華を見ると、抑揚のない声で「下がっていい」と指示を出した。
その言葉にぴょこりと一礼して壺が去って行く
凛は凛でどうしたらと立ったまま、濡れそぼった緑木を見るしかない。
緑木の足元も歩いてきた廊下もびしょ濡れだ。
「気にしないでね、凜ちゃん」
凛にひとこと声をかけると水華を見る。
(気にしないでと言われても……)
風邪をひくのではと思いながら、けれど神様は風邪などひくのかと疑問が浮かぶ。
葛藤していると、水華が緑木の全身をかるく目線でさらった。
途端に服や髪が乾いていく。
驚きで目を丸くしているあいだにも全身が乾いたかと思うと、緑木の体から水の塊が出てきた。
そしてその塊がふよりと浮いて庭にぱしゃりと落ちる。
あとにはすっかり水気のなくなった緑木の姿だ。
水華が緑木の体から余分な水分を奪ったらしい。
さっぱりしたと笑う緑木に、凛は驚きしかなかった。
(水を司るって、こんなことも出来るのね)
しげしげと見つめていると、水華が凛の眼差しに気づいて目線を向けた。
不躾だったと慌てて目をわずかに伏せる。
「そんな恰好で何をしている」
「いやあ用事があって山の方に行ったらひどい嵐でさ。雨も酷いけど風が凄いよ、落雷もありそう」
「そうか」
水華の返答はじつにあっさりとしたものだった。
それは大丈夫なのかとそわそわしてしまうけれど、それよりも気になるのは山ということだ。
凜の知るかぎり、山なんて祠のあった場所くらいしかない。
あとは滝に続く道だけだ。
胸騒ぎを感じながら、話に割って入るのはと躊躇する。
けれどどうしても気になって、凛は口を開いた。
「あ、あの、緑木様」
「どうかした?」
「や、山というのは、ここに繋がる滝のある場所ですか?」
凜の問いかけに、緑木が首をかしげた。
そして合点がいったように、ああと手を打つ。
「そういえば近くに小さな滝があったね。それじゃなくて、もうひとつ山があるんだよ。そっち。滝の方はそんなに荒れてないかな」
ひゅっと凛の喉が鳴る。
緑木の言うとおりなら、嵐に巻き込まれているのは凜の村だ。
つまり、祠の近く。
あんなボロボロの祠なんて、嵐のなかでは簡単に壊れてしまうだろう。
「まったく嫌になっちゃうよ、おかげでびしょ濡れ」
「運が悪かったな」
「ほんとそれ」
二人の神様は、何も気にとめた様子がなく淡々としている。
村ひとつが嵐に巻き込まれているのに。
「……その近くに村があるんです」
凜の小さな声に、二人の目がこちらへと向けられた。
その眼差しはいたって普通で、だからどうしたのだろうと語っている。
眼差しに気圧されたけれど、凛はごくりと唾を呑み込んで両手をぎゅっと握り合わせた。
「そ、そんなにひどい嵐、きっと、ひとたまりもありません」
震える声に、水華の目が細められた。
けれど、黙っているわけにはいかない。
「す、水華様は、水を司るんですよね。だったら、雨も、なんとかできませんか」
「凜ちゃん」
「いい」
凜の言葉に緑木の静かな声が重なる。
それを制したのは水華だった。
じっと凛を見つめる目は静かだ。
だから、凛はさらに口を開いた。
「あ、嵐を……とめてください」
「村の連中に情などかける必要があるか? ずいぶん泣かされたと記憶しているが」
水華の言葉に内心であれ、と思った。
どうして水華が村で泣いていたのを知っているのか。
祠の声以外の前で泣いたことはないのに。
それとも凛が軟禁されていた姿を見ていたのだろうか。
生贄として監視されていたのだろうか。
その考えにいたると、胸を強く引っ掻かれたような錯覚をしてしまった。
そんなことをしても、おかしくないのかもしれないと思う一方で、泣いているのを黙って見ていたのだと失望にも似た気持ちだ。
唇を一度噛むと、凛はぐっと目に力を込めて水華を見た。
その様子に、水華が静かに立ちあがる。
長身な水華が立ちあがると、凜は顔を見上げなければならない。
そのせいで威圧感があるけれど、それでも凛は足を踏ん張った。
「お、お願いします、嵐を、止めてください」
頭を下げて懇願した。
「そんなに村の連中が大事か」
大事かと訊かれたら、凛は違うと思う。
散々、虐げられて酷い目にあった場所だ。
思い入れなんてない。
薄情だとか恩知らずだとなじられることだと思う。
これは、ただの凛のわがままだ。
村よりも祠を守りたい。
別れを告げても、凜の特別な宝物のような場所だ。
村が水不足になっただけで池を見つけられて、人が立ち入った。
それだけでも心がどす黒くなるほどの不快感を感じたのだ。
孫一は神様をなじっていた。
祠の声と水華は違うけれど、村の人間にそんなことわかるわけない。
何かあったときに祠へ責任を求めて壊される可能性があるのだ。
それだけは絶対に嫌だ。
凛は祠を、自分の神様を守りたい。
水華を選んだのに。
(水華様が、私の神様になったのに)
それでも諦められないのだ。
我儘な自分に嫌気がさすのをこらえながら、言葉を絞り出した。
「な、何でも、します。お願いします……神様……かみさま、お願いです」
震える声に神罰を与えられてもおかしくないと、体まで震えだす。
がくがくと体を震わせていると、頬に体温がそえられた。
すっかり慣れた低い体温。
おそるおそる顔を上げると、水華がこちらを見つめている。
けれど、眉根をよせた痛みをこらえるような顔に、凛は息を詰まらせた。
こんな顔をさせたかったわけじゃない。
「わかった」
それだけ言うと、水華はそのまま庭へと出てしまった。
とまどっていると、緑木の声が水華へと投げかけられる。
「いいのか?」
「ああ」
それだけ言うと水華は水のなかへと入っていき、そのまま姿を消してしまった。
願いをきいてくれたらしい。
細く息を吐いて力が抜けそうになる。
「きゃっ」
突然ぐいと凛の細い手首が掴まれた。
小さな悲鳴を上げると、緑木が凛を見つめている。
怒らせた、と思う。
水華に無理やり願いを叶えてもらおうとしているのは、自覚がある。
だからだと思っていると、緑木が凜の手を掴んだまま歩き出した。
「行くよ、君には見届ける義務がある」
緑木の言葉の意味がわからない。
けれど声音から大事なことだというのはわかる。
さっさと歩く緑木の歩調について行けなくて、凛はほとんど小走りだ。
「あ、あの、義務って」
「当然でしょ」
なにが当然なのかわからない。
混乱しながら廊下を進むとそのまま玄関に向かう。
どこかに行くのだと理解した次の瞬間には、緑木が引き戸を開けていた。
途端にごうっと突風が吹く。
けれど気にせず外へ出る緑木に、凛は恐ろしくなって足を後ろにひきかけたけれど、そんな抵抗もむなしく緑木が進んでいく。
玄関を出ると、視界は荒れ狂っていた。
