祭りから数日たっても、凛は気持ちが落ち着かなかった。
「神様に会いたいな……」
自室で鏡のなかの自分を見ながら、ぽつりと凛は呟いた。
呟いた自分は髪も肌艶もよく、美しい着物とかんざしを挿している。
すべて水華が与えてくれたものだ。
嬉しい。
嬉しいけれど、同時に罪悪感がある。
凜のいた村の人間たちにではない。
祠の声に何も言わずここにいることだ。
「お礼も言えなかったのに、こんな贅沢な暮らしをしてるなんて……」
泣くのを慰めてくれた。
空腹に魚を恵んでくれた。
ただの野花を大事にすると言ってくれた。
記憶は薄れてはいるけれど、それでも忘れることなんかなかった。
なのに今はその大事だった場所に水華が入り込んでいる。
それは酷い裏切りに思えた。
「行かなきゃ」
凛はぽつりと言葉を零した。
死ぬ前に、どうしてもひとこと。
どうしようもなく嬉しかったこと、花嫁にしてくれると言ったのになれなかったことへの謝罪。
今の凛は水華に食べられて死ぬことは怖くない。
ただ、未練は残したくない。
未練と言葉を考えたとたんに水華の美しい顔を思い出して、凛は振り切るように首を振った。
「水華様はただ生贄をちゃんとした状態にしておきたいだけよ」
けれど、そうしたら祭りへ連れて行ってくれたことは。
これから死ぬのに文字を教えてくれたことは。
触れるのも、まるで大切にするように柔らかく優しく触れる。
「期待しちゃ駄目よ。ただ、水華様がことさら優しいだけなんだから」
そう言い聞かせて凛は立ち上がった。
ちらりと自分を映す磨き上げられた鏡を見て、顔を歪める。
「裏切者」
祠の声を忘れられないと言いながら、水華を想っている。
自分がとてもあさましく思えた。
水華を探して仕事を部屋を覗くと姿はなかった。
濡れ縁だろうかとそちらへ向かうと、やはりそこにいた。
水の中から届く光に、淡く揺れてほんのり輝く白い花を眺めている。
ただの野花だ。
庭に咲かせるなら、もっと豪華なものも可愛らしいものもあるだろうに、水華はいつもこの花を満足そうに見ている。
凛が祠の声にあげた同じ花を。
「どうした」
こちらに背中を向けているのに凛がいることがわかったらしい。
そんなこと露ほども思わず、凛は体を一瞬強張らせた。
くるりと振り返る水華がいぶかしげな表情を浮かべている。
「あ、あの」
どう切り出したらいいかわからない。
両手を握り合わせて視線をさまよわせていると、水華が凛をじっと見上げてきた。
「座れ」
「は、はい」
ぎこちなく水華の隣に腰を下ろす。
うつむきそうになるのを、なんとかこらえた。
「それで?」
「は、はい……あの……あ、あの」
「ゆっくりでいい」
何度も言いだそうと焦っていると、抑揚のない、けれど凜がとてもやさしいと思う声で促された。
それに勇気をもらい、口を開く。
「わ、私、村に、行きたくて」
ぎゅっと目をつむって何とか言うと、凛は息を詰めた。
何も反応がないことに、おそるおそる目を開けると、そこには怜悧な眼差しの氷の顔がある。
その表情はまるで冷たい炎のようだ。
焼き尽くされそうな眼差しなのに、それ以上の凍えるような冷たい空気。
逃げ出したくなりそうな恐怖に、凛は背中に冷や汗が浮かぶのを感じた。
「村に未練でもあったのか」
声にもいつも以上に硬質な響きがあった。
一瞬たりとも体を動かせない。
重い何かに押しつぶされそうだった。
けれどここで口をつぐんだら、きっともう二度と、今度こそ祠のもとへは行けない。
凜は震えながらも、なんとか体を動かして頭を下げた。
「む、村の、はずれに祠が、あります。大事な祠です。どうか、行かせてください」
ぶるぶると指先まで震えていると、ふっと体へのしかかっていた重みが消えた。
水華が力を抜いたのだと気づき、恐々と顔を上げる。
するとそこには何とも形容しがたい表情の水華の顔があった。
苦いものを口に入れて飲み込むことが出来ないような、微妙な顔だ。
普段無表情なだけに、本当にとても珍しい。
緑木や美光の前でも、ここまでの顔はしていなかった。
「祠か……」
「は、はい、私にとって、大事な祠です」
繰り返せば、さらに苦い顔をされる。
「何故、今頃になって」
何故だろう。
ぱちりぱちりと状況も忘れてまばたきを繰り返していると、水華は苦渋の決断とばかりに頷いた。
「わかった……」
「あ、ありがとうございます!我儘を言わせていただけるなら、一人で行かせてください」
「お前だけか」
「は、はい。出来ればで、いいんです」
罪悪感も未練もなく祠の声に別れを言いたいのだ。
祠に行くのはいつも一人だったから、一人じゃないと話しかけてくれないかもしれない。
深々と頭を下げて、どうかと繰り返せば、頭上から長い深々としたため息が落とされた。
「いいだろう」
たったひとこと。
その返事に、凛は勢いよく顔を上げた。
「ほ、本当ですか?」
「……ああ」
心底不本意そうだけれど、ここでやっぱりいいとは言えない。
凜は止められたくないし、行きたいのだから。
「あ、ありがとう、ございます」
感謝を込めてしっかりと頭を下げる。
きゅっと唇をひき結んで顔を上げると、何とも言えない顔をしながらも水華は玄関のある方向をちらりと見やった。
「繋げた」
そのひとことで、玄関の外が祠のある場所へと繋がったのだと理解した。
慌てて立ち上がり。
「いってまいります」
口早に言いながらも凜はパタパタと小走りで玄関へと向かった。
辿り着いた引き戸はぴったりと閉まっている。
一度目は緑木が帰っていった森。
二度目は祭りに行くための本殿の影。
三度目は。
ごくりと唾を呑み込んで、凛は引き戸に手をかけた。
ゆっくりと開いていくと、そこには木々のあいまに少し開けた場所。
見覚えがある。
凜は転がるように玄関から飛び出した。
勢いがよすぎて足をつんのめさせてしまい、体勢を崩す。
視界の端に玄関が消えていくのが見えた。
「あ……」
途端に、不安が胸をよぎる。
水華の元へ帰れるのかと。
けれど、ここにきてまだ水華のことを考えるのかと首を振って辺りを見回した。
見覚えのある池。
そして、凛の記憶よりもだいぶ痛んで古ぼけた祠。
「神様!」
凛はよくそうしていたように、祠の前へと膝をついた。
美しい着物が土で汚れるのも気がまわらない。
「か、神様、私です!」
呼びかけたところで、名前も教えていなかったことに気づいて泣きたくなった。
誰もちゃんと呼んでくれなかったから。
呼んでも忌々しげに蔑みながらだ。
だから名前を教えるなんてことを考えつかなかった。
「私の名前、ちゃんと呼んでくれたの……水華様たちだけだわ」
滑らかな低音で、抑揚はないのに負の感情なんてまったく感じさせず。
「神様……私……」
呼びかけても返事はない。
いつまでも来ない凛に呆れて見放してしまったのかもしれない。
祠だってボロボロで、ここを見捨ててしまったのかもしれない。
花嫁にしてくれると言ったのに、不義理をはたらいたことが申し訳ない。
ずっと探して欲しいと思っていた。
なのに。
(いま会えても、私は神様を選べるのかしら)
脳裏に美しい龍神が浮かぶ。
稀有な美貌の一見冷たい、けれどとても優しい人。
(水華様が神様と重なるなんて)
与えるばかりの優しい存在。
どちらに対しても、ずっと罪悪感があった。
(私は、ちゃんと水華様のものになりたい。ちゃんと生贄になりたい)
それは、幼い頃から縋っていた存在よりも水華が勝った瞬間だった。
自分のなかでの決別に、涙が滲んでくる。
「ありがとうございました」
立ち上がり涙を拭うと、凜は今まで心の支えになってくれていた礼を満干の想いで口にした。
満足いくまで頭を下げて顔を上げる。
その顔はもう晴れ晴れとしていた。
「よし!」
気分を切り替えて、思いきり息を吸い込み吐く。
これであとは、どう帰るかだけれどと周りを見まわしたときだ。
「凛?」
突然の聞き覚えがある声に、ぎくりと体を強張らせてそちらを見た。
すると、思った通りに孫一がいた。
凛を村の外へ連れ出そうとして以来だ。
見た目が変わっていないので、凜のいた水華の屋敷と時間の流れは変わらないのかもしれない。
「お前、何でこんなところにいるんだ!?」
木々のあいだから出て来ていた孫一は、何故か持っていた手桶を投げ捨てて凛へと詰め寄ってきた。
あいかわらずの怒鳴るような声に、肩がびくりと跳ねる。
「な、なんで、ここに」
「雨が降らなくて水が干上がりそうなんだよ!お前が祠だどうの言ってたから探してみたら、池があったからな。ここまで汲みにきてるんだ」
「水が……」
一瞬、水華の姿がよぎった。
水を司る神様。
けれど、ううんと首を振る。
水華がそんなことをする理由がない。
「生贄をやったのに、こんなのふざけてる。それともお前が逃げたからか?」
「ちが、わ、私はちゃんと、滝に落とされたわ」
「……知ってる。じゃあ何だよ、その上等な姿」
「これは……」
生贄として最高の状態に磨かれているのだと言っても、きっと信じてもらえない。
でもこれだけは誤解してほしくなかった。
「わ、私は、ちゃんと落とされた」
落とされる瞬間は体が震えて止まらなかった。
落ちていくあいだ体の中身が押し上げられるような感覚に恐怖した。
水に落ちた瞬間、体がバラバラになりそうだった。
はじめての水の中は息ができなくて死ぬのだと今までで一番恐ろしかった。
水華が助けてくれたから今は何ともないけれど、あの出来事は凛のなかで何よりも思い出したくないものとなっている。
それをなかったことにはされたくない。
びくびくとしながらも繰り返すと、孫一は目を眇めて「ふうん」と簡単に流してしまった。
それがひどく悔しい。
あれらの出来事が、たったそれだけで済まされるなんて。
けれど何か言えば怒鳴られる。
もしかしたら以前のように暴力を振るわれるかもしれない。
凛には両手を握りしめる以外何もできなかった。
「い、生贄の代わりに、何かしてくれるなんて、誰も言わなかったわ」
「それは、そうだけど」
村長は生贄を差し出すとは言ったけれど、差し出さなければ村に何かあるかもと言っただけだ。
何かを与えてくれるなんて、守ってくれるなんて言われていない。
「それでも神様なら何かするべきだろ!」
孫一のその言葉に、凛は揺さぶられた。
そうだ、神様だ。
どんなことだってしてしまえる、神様。
「村が大変なんだから、何かしてくれてもいいだろ!」
「それは」
そうかもしれないけれどと言いかけて、凛は口ごもった。
(本当に、そう思う?)
神様なら、ちっぽけな人間のために慈悲をくれてもいいのではないか。
でも、それは神様に求めていいのだろうか。
孫一に何も言えずに俯いたときだ。
ざぱりと水音がして池の水が飛沫を上げて噴き上がった。
驚きで目を瞠る孫一を無視するように、凛だけがその噴き上げられた水にさらわれる。
そして悲鳴を上げる間もなく池へとドポンと引きずり込まれた。
溺れる、ともがいて息を止めようとした瞬間には光る球体に包まれていた。
(水華様……!)
すぐに安心して力を抜くと、やはり息ができる。
ゆっくりと沈んでいく球体に、どこへ行くのだろうと思っていると、突然光が溢れた。
おもわず薄暗い池のなかから明るい場所に出たことに目を閉じていると、体がふわりと落下した。
落ちると慌てて顔を上げると光の球体は消えており、そこは屋敷の庭だった。
白い野花が敷き詰められた庭に、水華が立っている。
そして凛はその腕の中にいた。
「え、あの」
じっと見つめる水華に固まっていると、そのまま目を覗きこまれた。
冴えた美貌が間近にあるのが落ち着かない。
近くでみる刺青も優美で、凛はどこを見ていいか視線をさまよわせた。
「器の空いている部分も満たしたいが……」
「う、うつわ?」
「口からの方が手っ取り早いんだがな」
何のことだ。
けれど水華の「忌々しい」と言う言葉に、もしかして祠に行ったからだろうか、まだ食べられていないと孫一に知られたからだろうかと不安になる。
凛としても孫一には会いたくなかった。
(器って力をためられるのよね。水華様が必要になったときのために、ためてるはず。じゃあ口からって……)
そこまで考えて、以前口づけをされたことを思い出した。
ボンと火がついたように顔といわず体が熱くなる。
口からの方が手っ取り早いということは、水華としては口づけをしてしまいたいということだ。
(たとえお役に立ちたくても……それはむりよ……)
最後には絞り出すようだった。
しかも現在、抱き上げられている。
こんな状態で不埒なことを考えるなんて、はしたないと両手で顔を隠してしまうと。
「体調でも悪いのか?」
凛を抱き上げているせいで両手がふさがっているからか、耳元で尋ねられてしまった。
凛はもうどうしていいかわからず「はやくおろしてください」と蚊のように小さく震える声で訴えるのが精一杯だった。
「満足したか?」
訊かれて少し考える。
当初の目的は果たしたけれど、孫一の言葉のせいでしこりが残ってしまった。
それでも我儘をきいてもらった自覚があるので、凛は不明瞭なもやもやとした気持ちを押し殺して水華に頷いていた。
「神様に会いたいな……」
自室で鏡のなかの自分を見ながら、ぽつりと凛は呟いた。
呟いた自分は髪も肌艶もよく、美しい着物とかんざしを挿している。
すべて水華が与えてくれたものだ。
嬉しい。
嬉しいけれど、同時に罪悪感がある。
凜のいた村の人間たちにではない。
祠の声に何も言わずここにいることだ。
「お礼も言えなかったのに、こんな贅沢な暮らしをしてるなんて……」
泣くのを慰めてくれた。
空腹に魚を恵んでくれた。
ただの野花を大事にすると言ってくれた。
記憶は薄れてはいるけれど、それでも忘れることなんかなかった。
なのに今はその大事だった場所に水華が入り込んでいる。
それは酷い裏切りに思えた。
「行かなきゃ」
凛はぽつりと言葉を零した。
死ぬ前に、どうしてもひとこと。
どうしようもなく嬉しかったこと、花嫁にしてくれると言ったのになれなかったことへの謝罪。
今の凛は水華に食べられて死ぬことは怖くない。
ただ、未練は残したくない。
未練と言葉を考えたとたんに水華の美しい顔を思い出して、凛は振り切るように首を振った。
「水華様はただ生贄をちゃんとした状態にしておきたいだけよ」
けれど、そうしたら祭りへ連れて行ってくれたことは。
これから死ぬのに文字を教えてくれたことは。
触れるのも、まるで大切にするように柔らかく優しく触れる。
「期待しちゃ駄目よ。ただ、水華様がことさら優しいだけなんだから」
そう言い聞かせて凛は立ち上がった。
ちらりと自分を映す磨き上げられた鏡を見て、顔を歪める。
「裏切者」
祠の声を忘れられないと言いながら、水華を想っている。
自分がとてもあさましく思えた。
水華を探して仕事を部屋を覗くと姿はなかった。
濡れ縁だろうかとそちらへ向かうと、やはりそこにいた。
水の中から届く光に、淡く揺れてほんのり輝く白い花を眺めている。
ただの野花だ。
庭に咲かせるなら、もっと豪華なものも可愛らしいものもあるだろうに、水華はいつもこの花を満足そうに見ている。
凛が祠の声にあげた同じ花を。
「どうした」
こちらに背中を向けているのに凛がいることがわかったらしい。
そんなこと露ほども思わず、凛は体を一瞬強張らせた。
くるりと振り返る水華がいぶかしげな表情を浮かべている。
「あ、あの」
どう切り出したらいいかわからない。
両手を握り合わせて視線をさまよわせていると、水華が凛をじっと見上げてきた。
「座れ」
「は、はい」
ぎこちなく水華の隣に腰を下ろす。
うつむきそうになるのを、なんとかこらえた。
「それで?」
「は、はい……あの……あ、あの」
「ゆっくりでいい」
何度も言いだそうと焦っていると、抑揚のない、けれど凜がとてもやさしいと思う声で促された。
それに勇気をもらい、口を開く。
「わ、私、村に、行きたくて」
ぎゅっと目をつむって何とか言うと、凛は息を詰めた。
何も反応がないことに、おそるおそる目を開けると、そこには怜悧な眼差しの氷の顔がある。
その表情はまるで冷たい炎のようだ。
焼き尽くされそうな眼差しなのに、それ以上の凍えるような冷たい空気。
逃げ出したくなりそうな恐怖に、凛は背中に冷や汗が浮かぶのを感じた。
「村に未練でもあったのか」
声にもいつも以上に硬質な響きがあった。
一瞬たりとも体を動かせない。
重い何かに押しつぶされそうだった。
けれどここで口をつぐんだら、きっともう二度と、今度こそ祠のもとへは行けない。
凜は震えながらも、なんとか体を動かして頭を下げた。
「む、村の、はずれに祠が、あります。大事な祠です。どうか、行かせてください」
ぶるぶると指先まで震えていると、ふっと体へのしかかっていた重みが消えた。
水華が力を抜いたのだと気づき、恐々と顔を上げる。
するとそこには何とも形容しがたい表情の水華の顔があった。
苦いものを口に入れて飲み込むことが出来ないような、微妙な顔だ。
普段無表情なだけに、本当にとても珍しい。
緑木や美光の前でも、ここまでの顔はしていなかった。
「祠か……」
「は、はい、私にとって、大事な祠です」
繰り返せば、さらに苦い顔をされる。
「何故、今頃になって」
何故だろう。
ぱちりぱちりと状況も忘れてまばたきを繰り返していると、水華は苦渋の決断とばかりに頷いた。
「わかった……」
「あ、ありがとうございます!我儘を言わせていただけるなら、一人で行かせてください」
「お前だけか」
「は、はい。出来ればで、いいんです」
罪悪感も未練もなく祠の声に別れを言いたいのだ。
祠に行くのはいつも一人だったから、一人じゃないと話しかけてくれないかもしれない。
深々と頭を下げて、どうかと繰り返せば、頭上から長い深々としたため息が落とされた。
「いいだろう」
たったひとこと。
その返事に、凛は勢いよく顔を上げた。
「ほ、本当ですか?」
「……ああ」
心底不本意そうだけれど、ここでやっぱりいいとは言えない。
凜は止められたくないし、行きたいのだから。
「あ、ありがとう、ございます」
感謝を込めてしっかりと頭を下げる。
きゅっと唇をひき結んで顔を上げると、何とも言えない顔をしながらも水華は玄関のある方向をちらりと見やった。
「繋げた」
そのひとことで、玄関の外が祠のある場所へと繋がったのだと理解した。
慌てて立ち上がり。
「いってまいります」
口早に言いながらも凜はパタパタと小走りで玄関へと向かった。
辿り着いた引き戸はぴったりと閉まっている。
一度目は緑木が帰っていった森。
二度目は祭りに行くための本殿の影。
三度目は。
ごくりと唾を呑み込んで、凛は引き戸に手をかけた。
ゆっくりと開いていくと、そこには木々のあいまに少し開けた場所。
見覚えがある。
凜は転がるように玄関から飛び出した。
勢いがよすぎて足をつんのめさせてしまい、体勢を崩す。
視界の端に玄関が消えていくのが見えた。
「あ……」
途端に、不安が胸をよぎる。
水華の元へ帰れるのかと。
けれど、ここにきてまだ水華のことを考えるのかと首を振って辺りを見回した。
見覚えのある池。
そして、凛の記憶よりもだいぶ痛んで古ぼけた祠。
「神様!」
凛はよくそうしていたように、祠の前へと膝をついた。
美しい着物が土で汚れるのも気がまわらない。
「か、神様、私です!」
呼びかけたところで、名前も教えていなかったことに気づいて泣きたくなった。
誰もちゃんと呼んでくれなかったから。
呼んでも忌々しげに蔑みながらだ。
だから名前を教えるなんてことを考えつかなかった。
「私の名前、ちゃんと呼んでくれたの……水華様たちだけだわ」
滑らかな低音で、抑揚はないのに負の感情なんてまったく感じさせず。
「神様……私……」
呼びかけても返事はない。
いつまでも来ない凛に呆れて見放してしまったのかもしれない。
祠だってボロボロで、ここを見捨ててしまったのかもしれない。
花嫁にしてくれると言ったのに、不義理をはたらいたことが申し訳ない。
ずっと探して欲しいと思っていた。
なのに。
(いま会えても、私は神様を選べるのかしら)
脳裏に美しい龍神が浮かぶ。
稀有な美貌の一見冷たい、けれどとても優しい人。
(水華様が神様と重なるなんて)
与えるばかりの優しい存在。
どちらに対しても、ずっと罪悪感があった。
(私は、ちゃんと水華様のものになりたい。ちゃんと生贄になりたい)
それは、幼い頃から縋っていた存在よりも水華が勝った瞬間だった。
自分のなかでの決別に、涙が滲んでくる。
「ありがとうございました」
立ち上がり涙を拭うと、凜は今まで心の支えになってくれていた礼を満干の想いで口にした。
満足いくまで頭を下げて顔を上げる。
その顔はもう晴れ晴れとしていた。
「よし!」
気分を切り替えて、思いきり息を吸い込み吐く。
これであとは、どう帰るかだけれどと周りを見まわしたときだ。
「凛?」
突然の聞き覚えがある声に、ぎくりと体を強張らせてそちらを見た。
すると、思った通りに孫一がいた。
凛を村の外へ連れ出そうとして以来だ。
見た目が変わっていないので、凜のいた水華の屋敷と時間の流れは変わらないのかもしれない。
「お前、何でこんなところにいるんだ!?」
木々のあいだから出て来ていた孫一は、何故か持っていた手桶を投げ捨てて凛へと詰め寄ってきた。
あいかわらずの怒鳴るような声に、肩がびくりと跳ねる。
「な、なんで、ここに」
「雨が降らなくて水が干上がりそうなんだよ!お前が祠だどうの言ってたから探してみたら、池があったからな。ここまで汲みにきてるんだ」
「水が……」
一瞬、水華の姿がよぎった。
水を司る神様。
けれど、ううんと首を振る。
水華がそんなことをする理由がない。
「生贄をやったのに、こんなのふざけてる。それともお前が逃げたからか?」
「ちが、わ、私はちゃんと、滝に落とされたわ」
「……知ってる。じゃあ何だよ、その上等な姿」
「これは……」
生贄として最高の状態に磨かれているのだと言っても、きっと信じてもらえない。
でもこれだけは誤解してほしくなかった。
「わ、私は、ちゃんと落とされた」
落とされる瞬間は体が震えて止まらなかった。
落ちていくあいだ体の中身が押し上げられるような感覚に恐怖した。
水に落ちた瞬間、体がバラバラになりそうだった。
はじめての水の中は息ができなくて死ぬのだと今までで一番恐ろしかった。
水華が助けてくれたから今は何ともないけれど、あの出来事は凛のなかで何よりも思い出したくないものとなっている。
それをなかったことにはされたくない。
びくびくとしながらも繰り返すと、孫一は目を眇めて「ふうん」と簡単に流してしまった。
それがひどく悔しい。
あれらの出来事が、たったそれだけで済まされるなんて。
けれど何か言えば怒鳴られる。
もしかしたら以前のように暴力を振るわれるかもしれない。
凛には両手を握りしめる以外何もできなかった。
「い、生贄の代わりに、何かしてくれるなんて、誰も言わなかったわ」
「それは、そうだけど」
村長は生贄を差し出すとは言ったけれど、差し出さなければ村に何かあるかもと言っただけだ。
何かを与えてくれるなんて、守ってくれるなんて言われていない。
「それでも神様なら何かするべきだろ!」
孫一のその言葉に、凛は揺さぶられた。
そうだ、神様だ。
どんなことだってしてしまえる、神様。
「村が大変なんだから、何かしてくれてもいいだろ!」
「それは」
そうかもしれないけれどと言いかけて、凛は口ごもった。
(本当に、そう思う?)
神様なら、ちっぽけな人間のために慈悲をくれてもいいのではないか。
でも、それは神様に求めていいのだろうか。
孫一に何も言えずに俯いたときだ。
ざぱりと水音がして池の水が飛沫を上げて噴き上がった。
驚きで目を瞠る孫一を無視するように、凛だけがその噴き上げられた水にさらわれる。
そして悲鳴を上げる間もなく池へとドポンと引きずり込まれた。
溺れる、ともがいて息を止めようとした瞬間には光る球体に包まれていた。
(水華様……!)
すぐに安心して力を抜くと、やはり息ができる。
ゆっくりと沈んでいく球体に、どこへ行くのだろうと思っていると、突然光が溢れた。
おもわず薄暗い池のなかから明るい場所に出たことに目を閉じていると、体がふわりと落下した。
落ちると慌てて顔を上げると光の球体は消えており、そこは屋敷の庭だった。
白い野花が敷き詰められた庭に、水華が立っている。
そして凛はその腕の中にいた。
「え、あの」
じっと見つめる水華に固まっていると、そのまま目を覗きこまれた。
冴えた美貌が間近にあるのが落ち着かない。
近くでみる刺青も優美で、凛はどこを見ていいか視線をさまよわせた。
「器の空いている部分も満たしたいが……」
「う、うつわ?」
「口からの方が手っ取り早いんだがな」
何のことだ。
けれど水華の「忌々しい」と言う言葉に、もしかして祠に行ったからだろうか、まだ食べられていないと孫一に知られたからだろうかと不安になる。
凛としても孫一には会いたくなかった。
(器って力をためられるのよね。水華様が必要になったときのために、ためてるはず。じゃあ口からって……)
そこまで考えて、以前口づけをされたことを思い出した。
ボンと火がついたように顔といわず体が熱くなる。
口からの方が手っ取り早いということは、水華としては口づけをしてしまいたいということだ。
(たとえお役に立ちたくても……それはむりよ……)
最後には絞り出すようだった。
しかも現在、抱き上げられている。
こんな状態で不埒なことを考えるなんて、はしたないと両手で顔を隠してしまうと。
「体調でも悪いのか?」
凛を抱き上げているせいで両手がふさがっているからか、耳元で尋ねられてしまった。
凛はもうどうしていいかわからず「はやくおろしてください」と蚊のように小さく震える声で訴えるのが精一杯だった。
「満足したか?」
訊かれて少し考える。
当初の目的は果たしたけれど、孫一の言葉のせいでしこりが残ってしまった。
それでも我儘をきいてもらった自覚があるので、凛は不明瞭なもやもやとした気持ちを押し殺して水華に頷いていた。
