なんだか薄暗い。
少し怖いとわずかに後ずさりかけたけれど、鳥の音などが聞こえてくる。
それに興味をそそられ、じわじわと扉へ近づくと薄暗がりの向こうが明るいことに気づく。
そのことにほっとする。
怖さはほとんどなくなった。
「いってらっしゃいませ」
壺と見送りに来ていた峰が頭を下げると、水華が浅く頷いた。
「何をしている」
さっさと外に出てしまった水華に凛も二匹へ「いってきます」と頭をさげると、慌てて
続いた。
完全に外へ出ると、どうやら建物の裏手らしい。
そのせいで薄暗かったのかと思いつつ、建物を見ると大きい木造建築だけれど人が入るには小さいだろう。
裏手にいるせいか、何のための建物かはわからない。
上を見れば空があるので、玄関から出てからは暗さは感じなかった。
(玄関の外がこんなふうになっているなんて、不思議)
ぽかんとしながら玄関を振り返ると、もうなくなっている。
ぱちぱちとまばたきを繰り返していると、水華が建物の影から出るものだから慌ててついて行く。
けれど、建物の正面に来たことで凛は息を呑んだ。
その建物はどう見ても何かを祭っているとわかるものだった。
パッと見の作りが凜の知っている祠と同じ類だ。
どう見ても神様を祀っている。
「あ、あの、水華様、ここは」
「神社の本殿だ」
「ほ、本殿?」
「知らないか。神体とやらを祀っているそうだ」
凜は声にならない悲鳴を上げた。
自分はなんというところにいるのだ。
本殿という言葉は知らなくても、御神体は知っている。
商人に聞いたことがある。
神様が宿る御神体。
つまりこの建物は御神体を祀っている場所ということだ。
そんなところに踏み入っていいわけがない。
「す、水華様! ここは入ってはいけない場所です!」
「何故だ?」
「こ、ここは、他の神様の、いらっしゃる場所です。気分を害してしまわれたら、いけません」
はやくここを出なければと忙しなく凜は両手を開いたり握ったりするけれど、水華は「ふうん?」と不思議そうにするばかりだ。
何故そんなにのんびりしているのだろう。
神様同士で縄張りなどないのだろうか。
でも庭の水の奥は他の神様の領域と言っていたから、あるのではないかと心配になる。
「ここの奴は出不精だから気にするな。祭りがあるがどうだと声をかけてきたのもあちらだ」
「出不精……」
「そうだ」
神様にそんなのがいるのか。
ちょっと凜の中で常識的なものが崩れた。
「さ、誘われたと言うのは、ここの神様にですか?」
「ああ」
「他の、龍神様ですか?」
「違う。行くぞ」
とうとう水華は歩き出してしまった。
慌てて凛も追いかける。
どんどん進むのは本殿のさらに奥だ。
本当にここを通っていいのか半信半疑になる。
「り、龍神様以外にも、神様はいらっしゃるの、ですか?」
見慣れぬ黒髪を追いかけながらも、どうしても気になって質問してしまう。
気分を悪くするかと思ったけれど、水華はそんな素振りなど見せずによどみなく答えてくれた。
「龍神は五人だが、神は大量にいる」
「大量……そんなに」
「小さなものまでいるからな、数えていたらきりがない。ここにいるのはだいぶ古株だ。たまたま知り合って、それ以来なんだかんだ縁を繋いでいる」
「み、緑木様のように、お友達、なんですね」
何だか微笑ましくてそう答えると、水華がむすりとした顔で振り返った。
怒った様子ではないし、目も不快感を表していないので一応怖くはない。
何故そんな顔をと不思議に思ってしまう。
「友人ではなく知人だ」
友人扱いが駄目だったらしい。
そういえば緑木が友人はいないと言っていた。
水華のなかで何か線引きがあるらしい。
思わぬこだわりだと、ほんのちょっぴり微笑ましい気分になった。
「き、今日は、お祭りなのですか?」
「参道に出店が出る」
「でみせ……」
聞きなれない言葉だ。
あとを追いかけていくと、そのまま木々のあいだを抜けてしまう。
水華に続いて凜も木々のあいだから出ると、そこには大勢の人間がいた。
真ん中に大きな通り道があり、その両脇をさまざまな店が並んでいる。
本殿からこちらへ抜けてくる道だったらしい。
目をまんまるにすると、行きあう人々を眺める。
見慣れないものから、乾物なんかを扱う店まである。
主に食べ物だけれど、子供達も射的なんかを楽しんでいた。
こんなに賑やかなのははじめてだ。
「楽しめそうか?」
「は、はい!」
おもわず大きな声が出てしまう。
水華がくつくつと笑って出店の通りへと歩いていくのを、凜も後を追った。
きょろきょろと見渡せば知らないものばかりだ。
色んな食べ物の匂いが鼻孔をくすぐっていく。
朝食を食べたばかりなのにと、興味を示してしまうのが少し恥ずかしかった。
上を見上げると、まだ暗くないので灯のついていない提灯が大量にぶら下がっている。
水華の屋敷につるされているぼんぼりとは、だいぶ雰囲気が違った。
「どうした、提灯がきになるか?」
「い、いえ、水華様の屋敷にあるのとは、違うなって、思いまして」
「ぼんぼりか。提灯の方が好きか?」
「いえ! いいえ!」
凛は慌てて声を上げた。
自分でも思わなかった声量に、口に手をあてて目を瞠る。
凜の反応に、水華も驚いたような眉を上げていた。
「その、ぼんぼり、好きです。可愛くて、その、水華様のお屋敷にもあっていて素敵、です」
言うたびに尻すぼみになりつつ俯いていくと、ふいに頬が撫でられた。
慌てて顔を上げると、そのまま指先がわずかに耳をなぞる。
ひゃっと声を出しそうになるのを喉で押しとどめていると、水華がやんわりと目をたわませた。
「そうか」
いつもよりも柔らかな声に、笑み。
耳から入る声にも視覚から入る笑みも、正気を保たせるのは難しい。
こんな水華ははじめて見た。
ただ、できるなら。
(いつものお姿で、笑っていただきたかったわ)
今は黒髪に黒目だ。
似合ってはいるし周りの人間、特に若い娘はずっと目で水華を追っている。
いつもの姿を知っている凛は、ほんの少しだけ水華の真実の姿を今ここで知っているのは自分だけだということに胸の奥が騒いだ。
たとえそこかしこから。
「あれが連れ?」「地味ねぇ、私の方がいいじゃない」「でもあの女、上等なもの身につけてるわ。金持ちが連れまわしているんじゃないかい」
圧倒的に見下されている。
見下されても仕方がないけれど、と思っているとひょいと水華が顔を覗き込んできた。
ずさりと後ずさる。
悲鳴を上げなかっただけ褒めて欲しい。
「気になるものはあったか?」
「え、いえ、あの」
水華のことだから買い与えようとしてくれているのではと思い当たり、そんなことはとわたわたしていると、視界にふと入ったものに目を奪われた。
持ち手のついた琥珀色の丸くうすっぺらい何か。
凛には何なのかさっぱりわからない。
目が吸い寄せられてじっと見ていると、水華がその目線を追って屋台を見やった。
「べっこう飴だな」
「あ、あんなに綺麗なのに、飴なのですか?」
「そうだ。行くぞ」
まさか買う気では。
やはりだ。
水華は優しい神様だから、いつも凜に与えようとする。
しかしそんなに毎度もらうわけにはと水華を止めようとしたところで、目の前を人垣に遮られた。
え、と思ったときには通りをひしめいていた人並みに攫われてしまう。
慌てて自分がいた場所を振り返れば、そこには何人かの女が水華を熱い目で見つめていた。
凛が邪魔だったらしい。
そのままどんどん人並みに流されて、ぺいと密集していた場所から弾かれる。
息ぐるしさを整えながらよろよろと通りから少し離れると、屋台なんかからは離れたところにいた。
凜のいるところは、一応太陽の光りは届くけれど薄暗い。
沢山の人が楽しそうにする明るい場所と、一人きりの凜がいる暗い場所。
なんだか線引きされているように思えて、かすかに唇が震えた。
けれどこれが正解だ。
凛は必要のない存在で、本来なら死んでいる存在だ。
水華がまだ生かしてくれているだけの、ただの生贄。
生贄なのに浮かれているのがよくないのだと、凜は草木の影へとのろのろと向かい、しゃがみ込んだ。
村にいた頃は、こうやってよく逃げて隠れたりしていた。
凛を助けてくれる人なんていなかった。
祠に行ったときだけ優しくしてもらえたけれど、だれかが迎えになんてきてくれたことはない。
そのことを思い出すと、ツンと鼻の奥が痛んで目に水分がたまりだした。
「泣かない、泣かない」
最近は口にしていなかった、おまじない。
以前は泣きそうになるたびに言っていた。
祠の声にだけ無理に我慢せずに泣けと言われたなと、ぐすりと鼻をすする。
祠に行けなくなってからはおまじないを繰り返して泣かなかったけれど、今はどうしたらいいのかわからなくて、不安が押し寄せてきた。
「水華様……」
名前を呼ぶつもりなんかなかったのに口から名前が零れた。
途端、喉がひっと引きつる。
限界がきたのはすぐだった。
涙が滲んできて、ぽろりと頬を伝い落ちる。
そのままとうとう泣きだしてしまい、凛の肩がひくひくと跳ねだした。
「ふっ……ひっ」
息がしづらい。
凛は泣くのはうまくない。
泣き止もうとすることに気を取られて、呼吸がうまく吐けないのだ。
(くるしい)
泣き止もうとすればするほど、喉が絞まって息ができない。
けほ、と苦しさに小さく咳をしたときだ。
「おい」
もう聞きなれてしまった声が頭上から降ってきた。
おそるおそる顔を上げると、美しい神様が凛を見下ろしている。
「水華、様」
濡れた瞳で呟くと、またひくりと喉が跳ねた。
それを見て、水華が片眉を上げる。
「泣いているのか」
「ッ、ごめんなさ」
水華の言葉に、慌てて凛は目元をこすった。
まだ孫一たちの前で泣いてしまっていた頃、鬱陶しいだとか惨めったらしいと蔑まれた。
水華にそんなことを思われたくないと泣き止もうとするのに、やはり息がうまく出来ずに涙が零れるばかりだ。
「ちゃんと呼吸をしろ。それから泣け」
凜の横に片膝をついた水華が背中をさする。
けれど凛はそんなことに気がまわらなかった。
(いまの、神様が言ってくれたことと同じだわ)
最初に祠の声が気にかけてくれたときに言われた言葉。
あの言葉があったから、軟禁されるまで凛は罪悪感なく泣けた。
「どうして同じ……」
「一人にして悪かった」
ぽつりとした疑問は水華の言葉にかき消された。
美しい造形の指が伸ばされ、凜の目元をやわくなでる。
おもわずぱちりとまばたくと、涙がまたぽろりと一粒こぼれたのを水華の指先がうけとめた。
その指が口元に持っていかれ、涙で濡れた指先を水華の赤い舌が舐める。
ぼんっと凛の顔から火が噴きそうになった。
顔に触れられるのははじめてではないけれど、まさかそんなことをされるとは思うまい。
何だかとても恥ずかしい。
悲しいだとかそんな気持ちも、涙も、一瞬で吹き飛んでしまった。
別の意味で呼吸がしにくい。
おもに恥ずかしさで。
「も、もう大丈夫です!」
もう片方の目元にも指先が伸ばされそうになって、凛は悲鳴じみた声で主張した。
「そうか?」
「はい!大丈夫です!もう大丈夫です!」
動揺しているせいで、話す言葉も乱れなかった。
いつもみたいに話すのが怖いなんて気持ちが彼方へいってしまっている。
目をぐるぐるとまわしかけていると、目元の乾いていない涙を水華が着物の袖口で柔らかく拭った。
上等な着物でそんなことをしてはいけないと止めようとするけれど、それより水華が立ちあがるのが早かった。
帰るのだろうと動揺を押し込んで凛も立ち上がる。
まったく祭りの出店を見れなかったのは残念だ。
はじめてこんな場所に来たのに。
少し寂しく思っていると、右手が低い体温に包まれた。
驚いて自分の手を見ると、水華の大きな手に繋がれている。
「あ、あの」
「べっこう飴を食べるのだろう」
「でも」
「いらぬのなら、かまわぬ」
おもわず凛は一瞬言葉をつまらせてしまった。
さきほど見た琥珀色は美しかった。
飴は食べたことがある。
氷華から貰った金平糖だ。
もったいないので、ちびちびと口にしている。
峰に、大丈夫だろうけれど飴はくっついてしまうと言われたからだ。
美しい金平糖が形を崩す前にと、食べている。
べっこう飴とやらは金平糖とはまるで見た目が違う。
凛の好奇心はそれだけでくすぐられていた。
そのせいで返事が遅れた凛を振り返ると、じっと見つめたあとで「行くぞ」とべっこう飴の出店へと歩きだしてしまう。
水華に手をひかれるままに出店へ到着すると、やはり美しい。
さっさと勘定をしてしまった水華に気づいて慌てたけれど、凛が反応を示すよりはやく。
「ほら」
無造作に飴を差し出されてしまった。
水華を見上げてもいつもの顔だ。
次にべっこう飴を見て、凛はおそるおそる持ち手に手を伸ばした。
受け取った飴をじっと見下ろして見つめてから、はたと思う。
これは齧っていいのだろうか。
困って眉を下げてしまった。
「どうした」
「こ、これは、どうやって食べれば……」
「齧るなり舐めるなり好きにしろ」
「な、舐める……?」
食べ物を舐める、とは。
疑問が顔に出ていたのだろう。
おもむろに水華が凛のべっこう飴を持つ手に、手を重ねた。
ひゃっと凛が肩をそびやかす。
そのまま口元にひきよせると、水華はべっこう飴を小さく舐めた。
「同じようにしてみろ。まあ手間がかかるから齧った方が早いがな」
水華はなんてことない様子だ。
凛だけ耳が熱くなっていく。
「は、はい」
水華の手が離れていくと、凛は恥ずかしさで俯いてしまった。
けれど終わりではなかった。
「行くぞ」
さきほどと同じように、べっこう飴を持っていない方の手を握られ歩き出されたのだ。
とまどいながらも手元と、いつもとは違う、けれど美しい後ろ姿を交互に見る。
胸がばくばくと内側から叩かれているようだった。
恥ずかしいし、胸が苦しい。
けれど、手を離したくないと思う。
(私を食べるひとなのに)
どうしてか、傍にいると温かで幸せな気持ちになってしまう。
それは祠の声に対しての罪悪感もつのらせていた。
少し怖いとわずかに後ずさりかけたけれど、鳥の音などが聞こえてくる。
それに興味をそそられ、じわじわと扉へ近づくと薄暗がりの向こうが明るいことに気づく。
そのことにほっとする。
怖さはほとんどなくなった。
「いってらっしゃいませ」
壺と見送りに来ていた峰が頭を下げると、水華が浅く頷いた。
「何をしている」
さっさと外に出てしまった水華に凛も二匹へ「いってきます」と頭をさげると、慌てて
続いた。
完全に外へ出ると、どうやら建物の裏手らしい。
そのせいで薄暗かったのかと思いつつ、建物を見ると大きい木造建築だけれど人が入るには小さいだろう。
裏手にいるせいか、何のための建物かはわからない。
上を見れば空があるので、玄関から出てからは暗さは感じなかった。
(玄関の外がこんなふうになっているなんて、不思議)
ぽかんとしながら玄関を振り返ると、もうなくなっている。
ぱちぱちとまばたきを繰り返していると、水華が建物の影から出るものだから慌ててついて行く。
けれど、建物の正面に来たことで凛は息を呑んだ。
その建物はどう見ても何かを祭っているとわかるものだった。
パッと見の作りが凜の知っている祠と同じ類だ。
どう見ても神様を祀っている。
「あ、あの、水華様、ここは」
「神社の本殿だ」
「ほ、本殿?」
「知らないか。神体とやらを祀っているそうだ」
凜は声にならない悲鳴を上げた。
自分はなんというところにいるのだ。
本殿という言葉は知らなくても、御神体は知っている。
商人に聞いたことがある。
神様が宿る御神体。
つまりこの建物は御神体を祀っている場所ということだ。
そんなところに踏み入っていいわけがない。
「す、水華様! ここは入ってはいけない場所です!」
「何故だ?」
「こ、ここは、他の神様の、いらっしゃる場所です。気分を害してしまわれたら、いけません」
はやくここを出なければと忙しなく凜は両手を開いたり握ったりするけれど、水華は「ふうん?」と不思議そうにするばかりだ。
何故そんなにのんびりしているのだろう。
神様同士で縄張りなどないのだろうか。
でも庭の水の奥は他の神様の領域と言っていたから、あるのではないかと心配になる。
「ここの奴は出不精だから気にするな。祭りがあるがどうだと声をかけてきたのもあちらだ」
「出不精……」
「そうだ」
神様にそんなのがいるのか。
ちょっと凜の中で常識的なものが崩れた。
「さ、誘われたと言うのは、ここの神様にですか?」
「ああ」
「他の、龍神様ですか?」
「違う。行くぞ」
とうとう水華は歩き出してしまった。
慌てて凛も追いかける。
どんどん進むのは本殿のさらに奥だ。
本当にここを通っていいのか半信半疑になる。
「り、龍神様以外にも、神様はいらっしゃるの、ですか?」
見慣れぬ黒髪を追いかけながらも、どうしても気になって質問してしまう。
気分を悪くするかと思ったけれど、水華はそんな素振りなど見せずによどみなく答えてくれた。
「龍神は五人だが、神は大量にいる」
「大量……そんなに」
「小さなものまでいるからな、数えていたらきりがない。ここにいるのはだいぶ古株だ。たまたま知り合って、それ以来なんだかんだ縁を繋いでいる」
「み、緑木様のように、お友達、なんですね」
何だか微笑ましくてそう答えると、水華がむすりとした顔で振り返った。
怒った様子ではないし、目も不快感を表していないので一応怖くはない。
何故そんな顔をと不思議に思ってしまう。
「友人ではなく知人だ」
友人扱いが駄目だったらしい。
そういえば緑木が友人はいないと言っていた。
水華のなかで何か線引きがあるらしい。
思わぬこだわりだと、ほんのちょっぴり微笑ましい気分になった。
「き、今日は、お祭りなのですか?」
「参道に出店が出る」
「でみせ……」
聞きなれない言葉だ。
あとを追いかけていくと、そのまま木々のあいだを抜けてしまう。
水華に続いて凜も木々のあいだから出ると、そこには大勢の人間がいた。
真ん中に大きな通り道があり、その両脇をさまざまな店が並んでいる。
本殿からこちらへ抜けてくる道だったらしい。
目をまんまるにすると、行きあう人々を眺める。
見慣れないものから、乾物なんかを扱う店まである。
主に食べ物だけれど、子供達も射的なんかを楽しんでいた。
こんなに賑やかなのははじめてだ。
「楽しめそうか?」
「は、はい!」
おもわず大きな声が出てしまう。
水華がくつくつと笑って出店の通りへと歩いていくのを、凜も後を追った。
きょろきょろと見渡せば知らないものばかりだ。
色んな食べ物の匂いが鼻孔をくすぐっていく。
朝食を食べたばかりなのにと、興味を示してしまうのが少し恥ずかしかった。
上を見上げると、まだ暗くないので灯のついていない提灯が大量にぶら下がっている。
水華の屋敷につるされているぼんぼりとは、だいぶ雰囲気が違った。
「どうした、提灯がきになるか?」
「い、いえ、水華様の屋敷にあるのとは、違うなって、思いまして」
「ぼんぼりか。提灯の方が好きか?」
「いえ! いいえ!」
凛は慌てて声を上げた。
自分でも思わなかった声量に、口に手をあてて目を瞠る。
凜の反応に、水華も驚いたような眉を上げていた。
「その、ぼんぼり、好きです。可愛くて、その、水華様のお屋敷にもあっていて素敵、です」
言うたびに尻すぼみになりつつ俯いていくと、ふいに頬が撫でられた。
慌てて顔を上げると、そのまま指先がわずかに耳をなぞる。
ひゃっと声を出しそうになるのを喉で押しとどめていると、水華がやんわりと目をたわませた。
「そうか」
いつもよりも柔らかな声に、笑み。
耳から入る声にも視覚から入る笑みも、正気を保たせるのは難しい。
こんな水華ははじめて見た。
ただ、できるなら。
(いつものお姿で、笑っていただきたかったわ)
今は黒髪に黒目だ。
似合ってはいるし周りの人間、特に若い娘はずっと目で水華を追っている。
いつもの姿を知っている凛は、ほんの少しだけ水華の真実の姿を今ここで知っているのは自分だけだということに胸の奥が騒いだ。
たとえそこかしこから。
「あれが連れ?」「地味ねぇ、私の方がいいじゃない」「でもあの女、上等なもの身につけてるわ。金持ちが連れまわしているんじゃないかい」
圧倒的に見下されている。
見下されても仕方がないけれど、と思っているとひょいと水華が顔を覗き込んできた。
ずさりと後ずさる。
悲鳴を上げなかっただけ褒めて欲しい。
「気になるものはあったか?」
「え、いえ、あの」
水華のことだから買い与えようとしてくれているのではと思い当たり、そんなことはとわたわたしていると、視界にふと入ったものに目を奪われた。
持ち手のついた琥珀色の丸くうすっぺらい何か。
凛には何なのかさっぱりわからない。
目が吸い寄せられてじっと見ていると、水華がその目線を追って屋台を見やった。
「べっこう飴だな」
「あ、あんなに綺麗なのに、飴なのですか?」
「そうだ。行くぞ」
まさか買う気では。
やはりだ。
水華は優しい神様だから、いつも凜に与えようとする。
しかしそんなに毎度もらうわけにはと水華を止めようとしたところで、目の前を人垣に遮られた。
え、と思ったときには通りをひしめいていた人並みに攫われてしまう。
慌てて自分がいた場所を振り返れば、そこには何人かの女が水華を熱い目で見つめていた。
凛が邪魔だったらしい。
そのままどんどん人並みに流されて、ぺいと密集していた場所から弾かれる。
息ぐるしさを整えながらよろよろと通りから少し離れると、屋台なんかからは離れたところにいた。
凜のいるところは、一応太陽の光りは届くけれど薄暗い。
沢山の人が楽しそうにする明るい場所と、一人きりの凜がいる暗い場所。
なんだか線引きされているように思えて、かすかに唇が震えた。
けれどこれが正解だ。
凛は必要のない存在で、本来なら死んでいる存在だ。
水華がまだ生かしてくれているだけの、ただの生贄。
生贄なのに浮かれているのがよくないのだと、凜は草木の影へとのろのろと向かい、しゃがみ込んだ。
村にいた頃は、こうやってよく逃げて隠れたりしていた。
凛を助けてくれる人なんていなかった。
祠に行ったときだけ優しくしてもらえたけれど、だれかが迎えになんてきてくれたことはない。
そのことを思い出すと、ツンと鼻の奥が痛んで目に水分がたまりだした。
「泣かない、泣かない」
最近は口にしていなかった、おまじない。
以前は泣きそうになるたびに言っていた。
祠の声にだけ無理に我慢せずに泣けと言われたなと、ぐすりと鼻をすする。
祠に行けなくなってからはおまじないを繰り返して泣かなかったけれど、今はどうしたらいいのかわからなくて、不安が押し寄せてきた。
「水華様……」
名前を呼ぶつもりなんかなかったのに口から名前が零れた。
途端、喉がひっと引きつる。
限界がきたのはすぐだった。
涙が滲んできて、ぽろりと頬を伝い落ちる。
そのままとうとう泣きだしてしまい、凛の肩がひくひくと跳ねだした。
「ふっ……ひっ」
息がしづらい。
凛は泣くのはうまくない。
泣き止もうとすることに気を取られて、呼吸がうまく吐けないのだ。
(くるしい)
泣き止もうとすればするほど、喉が絞まって息ができない。
けほ、と苦しさに小さく咳をしたときだ。
「おい」
もう聞きなれてしまった声が頭上から降ってきた。
おそるおそる顔を上げると、美しい神様が凛を見下ろしている。
「水華、様」
濡れた瞳で呟くと、またひくりと喉が跳ねた。
それを見て、水華が片眉を上げる。
「泣いているのか」
「ッ、ごめんなさ」
水華の言葉に、慌てて凛は目元をこすった。
まだ孫一たちの前で泣いてしまっていた頃、鬱陶しいだとか惨めったらしいと蔑まれた。
水華にそんなことを思われたくないと泣き止もうとするのに、やはり息がうまく出来ずに涙が零れるばかりだ。
「ちゃんと呼吸をしろ。それから泣け」
凜の横に片膝をついた水華が背中をさする。
けれど凛はそんなことに気がまわらなかった。
(いまの、神様が言ってくれたことと同じだわ)
最初に祠の声が気にかけてくれたときに言われた言葉。
あの言葉があったから、軟禁されるまで凛は罪悪感なく泣けた。
「どうして同じ……」
「一人にして悪かった」
ぽつりとした疑問は水華の言葉にかき消された。
美しい造形の指が伸ばされ、凜の目元をやわくなでる。
おもわずぱちりとまばたくと、涙がまたぽろりと一粒こぼれたのを水華の指先がうけとめた。
その指が口元に持っていかれ、涙で濡れた指先を水華の赤い舌が舐める。
ぼんっと凛の顔から火が噴きそうになった。
顔に触れられるのははじめてではないけれど、まさかそんなことをされるとは思うまい。
何だかとても恥ずかしい。
悲しいだとかそんな気持ちも、涙も、一瞬で吹き飛んでしまった。
別の意味で呼吸がしにくい。
おもに恥ずかしさで。
「も、もう大丈夫です!」
もう片方の目元にも指先が伸ばされそうになって、凛は悲鳴じみた声で主張した。
「そうか?」
「はい!大丈夫です!もう大丈夫です!」
動揺しているせいで、話す言葉も乱れなかった。
いつもみたいに話すのが怖いなんて気持ちが彼方へいってしまっている。
目をぐるぐるとまわしかけていると、目元の乾いていない涙を水華が着物の袖口で柔らかく拭った。
上等な着物でそんなことをしてはいけないと止めようとするけれど、それより水華が立ちあがるのが早かった。
帰るのだろうと動揺を押し込んで凛も立ち上がる。
まったく祭りの出店を見れなかったのは残念だ。
はじめてこんな場所に来たのに。
少し寂しく思っていると、右手が低い体温に包まれた。
驚いて自分の手を見ると、水華の大きな手に繋がれている。
「あ、あの」
「べっこう飴を食べるのだろう」
「でも」
「いらぬのなら、かまわぬ」
おもわず凛は一瞬言葉をつまらせてしまった。
さきほど見た琥珀色は美しかった。
飴は食べたことがある。
氷華から貰った金平糖だ。
もったいないので、ちびちびと口にしている。
峰に、大丈夫だろうけれど飴はくっついてしまうと言われたからだ。
美しい金平糖が形を崩す前にと、食べている。
べっこう飴とやらは金平糖とはまるで見た目が違う。
凛の好奇心はそれだけでくすぐられていた。
そのせいで返事が遅れた凛を振り返ると、じっと見つめたあとで「行くぞ」とべっこう飴の出店へと歩きだしてしまう。
水華に手をひかれるままに出店へ到着すると、やはり美しい。
さっさと勘定をしてしまった水華に気づいて慌てたけれど、凛が反応を示すよりはやく。
「ほら」
無造作に飴を差し出されてしまった。
水華を見上げてもいつもの顔だ。
次にべっこう飴を見て、凛はおそるおそる持ち手に手を伸ばした。
受け取った飴をじっと見下ろして見つめてから、はたと思う。
これは齧っていいのだろうか。
困って眉を下げてしまった。
「どうした」
「こ、これは、どうやって食べれば……」
「齧るなり舐めるなり好きにしろ」
「な、舐める……?」
食べ物を舐める、とは。
疑問が顔に出ていたのだろう。
おもむろに水華が凛のべっこう飴を持つ手に、手を重ねた。
ひゃっと凛が肩をそびやかす。
そのまま口元にひきよせると、水華はべっこう飴を小さく舐めた。
「同じようにしてみろ。まあ手間がかかるから齧った方が早いがな」
水華はなんてことない様子だ。
凛だけ耳が熱くなっていく。
「は、はい」
水華の手が離れていくと、凛は恥ずかしさで俯いてしまった。
けれど終わりではなかった。
「行くぞ」
さきほどと同じように、べっこう飴を持っていない方の手を握られ歩き出されたのだ。
とまどいながらも手元と、いつもとは違う、けれど美しい後ろ姿を交互に見る。
胸がばくばくと内側から叩かれているようだった。
恥ずかしいし、胸が苦しい。
けれど、手を離したくないと思う。
(私を食べるひとなのに)
どうしてか、傍にいると温かで幸せな気持ちになってしまう。
それは祠の声に対しての罪悪感もつのらせていた。
