美光の姿がなくなって恐怖が薄れたことに息を吐くと、美しい指先が頬へと触れた。
そのまま手のひらに頬を包まれ上向かされる。
「すまぬ、苦しさは?」
「だ、大丈夫です。苦しくは、ないです」
「そうか」
顔にはりついていた前髪をかき上げられると、水華の顔がよく見えた。
綺麗に描かれている刺青を無意識に見つめてしまう。
心臓がひとつ大きく鳴った。
「悪かった、調停役のせいか警戒心が強い。緑木のときもそうだった」
「み、美光様は、水華様が大事なんですよ。私は、気にしません」
「そうか」
苦々しい顔で凛を見下ろす水華を納得させるために、何とか笑って見せる。
突然前触れもなく不機嫌そうな緑木華に抱き上げられて、凜は小さく悲鳴を上げた。
「あ、あの、水華様」
「風呂に行くぞ」
「自分、で」
「体が冷え切っている。私が運んだ方が早い」
そう言われてしまえば黙るほかない。
結局お茶を運んでいた壺と行き会い、急いで凛は風呂へと連れて行かれた。
湯舟につかると冷えた体に血がかよって、指先がぴりぴりとする。
体の強張りが緩まっていくのを感じながら、凛は美光の言葉を思い出した。
「どうして、あんなこと言われたのかしら」
緑木と同じように会いにきたと言っていた。
そして緑木のときと同じだったと。
やはり生贄には特別な意味があるのだろうか。
「それに鱗って何のことかしら」
さっさと渡せばいいと言っていた。
生贄に必要なものなのだろうか。
「水華様は、渡したくなさそうだったわ」
一体どういうものなのか。
けれどあの様子では訊くのは憚られる。
「傲慢になるな、か。そんなこと、ありえるわけないのに」
ぽつりと呟いた言葉は凛の本音だった。
その後、二、三日は水華が甲斐甲斐しかった。
体調を崩すのではないかと、布団から出ることを禁止されたのだ。
暇だろうと書物が運ばれ、滋養のあるものをといつも以上に栄養のありそうな食事。
そして頻繁に顔を出してくれる。
それがとても嬉しくて、けれど恐れ多いと恐縮してしまうのをなんとかこらえた。
どうしてか水華が顔を見に来てくれるのを止めたくなかった。
布団から出ることを許された朝、凜はちらりと鏡台の上を見た。
そこには花瓶に生けられた花がある。
庭にある白い花だ。
凛が祠の声にお供えしたのと同じ花。
そこで、ハッと気づく。
「神様のことを考える時間、減ってる……」
以前は四六時中考えていたのに。
そのことに強いショックを受けた。
ここに来て恵まれた生活をしているあいだに、存在を薄れさせるなんて。
凜は真っ青になった顔で白い花を見つめる。
「水華様のことばかり考えていたわ」
なんという薄情者だ。
ぎゅっと胸元を握りこむと、凜は脳裏に祠を思い浮かべた。
まだ、あの声は覚えている。
抑揚のない突き放したように喋るけれど、優しい凜の神様。
「忘れてなんてないわ……でも……水華様」
確実に凜のなかを侵食している。
祠の声に似ているとは思ったけれど重ね合わせてしまっていたのだろうか。
こんなのどちらにたいしても不誠実だ。
のろのろと朝食の席へと行くと、凛の顔を見て水華が目をわずかに細めた。
「体調が悪いか?」
「いえ、いいえ、そんなこと、ありません」
慌てて首を振ると、じっと見られたあとに納得したのか「そうか」と目線を外された。
それにほっとする。
さきほどまで考えていたことが顔に出ていたのだろうかと、心配になってしまった。
食事も終わり一服していると、おもむろに水華が口を開いた。
「今日は出かける」
「お、お仕事、ですか?」
「お前もだ」
「わ、私も?」
「こもりっぱなしだからな。準備させろ」
後半は壺への言葉だった。
はいと嬉しそうに頷くと「さあ凛様」と自室に促されてしまう。
とまどいながら、凛は壺へとついて行った。
あれやこれやと着物を出され、どれがいいですかと訊かれてしまうけれど凛にはよくわからない。
どうしたらと思った時に、ふと一着が目に入った。
淡い紫に青い小花の着物だ。
まるで水華の紫電の瞳のようだ。
じっとおもわずそれを見ると、壺が嬉しそうにそれを手に取った。
「水華様のようなお着物ですね」
「ち、ちがっ」
壺の言葉に凛は同じことに気づいて、慌てて否定した。
そんなつもりはない。
ないと言うのに壺はそれを準備して、さあとそれを凛に着せる気満々だ。
違うのだ。
たしかに水華の色だとは思ったけれど、それが着たいとか思ったわけではない。
綺麗だと思っただけなのだ。
そう言いたいけれど、着々と着せられていく手際の良さに凛は何も言えなかった。
そのあともいつも挿しているかんざしで髪を結われる。
完全に水華を連想させる姿だった。
こんな姿、水華になんと説明すれば、そもそも見せていいものなのかと不安しかない。
「最後はこちらですね」
見せられたのは紅だった。
凛の知っているものよりも、色が淡い。
村の女達がときおりつけているのを見たけれど、それらは真っ赤で酷く顔に浮いているなと思ったものだ。
「あの、こんなの」
「これも、水華様からですよ」
「これも……?」
「水華様自ら、凜様へ選んだものです」
凛は驚きに目を丸くした。
女物なんて興味がなさそうなのに手ずから準備してくれたなんて、少し浮き足だってしまう。
いけないと思いつつも、にやけそうになるのを引き締めて玄関に行くと、そこにはすでに水華がいた。
そこで息を呑む。
青と白の着物はいつもどおりだけれど、その髪と瞳の色が違う。
白銀の髪は濡れ羽色に、紫電の瞳は黒曜石のように黒くなっていた。
美貌に描かれた目元の刺青だけがいつもどおりだ。
「来たか」
凛に気づいた水華が視線をよこす。
いつもの神秘的な雰囲気はあるけれど、神聖さが潜まれるせいか男性らしさが強調されている。
おもわず凛は動揺でごくりと喉を鳴らしてしまった。
直視しづらい。
「どうした」
凜の動揺を感じたのか、水華が小首を傾げる。
それすら別人のようで動揺した。
「な、なんでも、ありません。いつもと違うので、驚いただけです」
「変か? いつもこれなんだがな」
「おに、お似合いです!」
変なものか。
おもわず普段より動揺しながらも断言してしまう。
水華は凛の胸の内など知らずに「ならいいが」とあっさり流した。
とてもありがたい。
どこに行くのだろうと思いながら壺が用意してくれた草履に足をとおす。
凛が村で使っていた草鞋とは雲泥の差だ。
もっとも軟禁されてからは草鞋も取り上げられて裸足だったけれど。
「行くぞ」
凜が草履をはいたのを確認すると、水華は玄関扉を開けた。
その奥に続く風景は白い花でも森でもない。
そのまま手のひらに頬を包まれ上向かされる。
「すまぬ、苦しさは?」
「だ、大丈夫です。苦しくは、ないです」
「そうか」
顔にはりついていた前髪をかき上げられると、水華の顔がよく見えた。
綺麗に描かれている刺青を無意識に見つめてしまう。
心臓がひとつ大きく鳴った。
「悪かった、調停役のせいか警戒心が強い。緑木のときもそうだった」
「み、美光様は、水華様が大事なんですよ。私は、気にしません」
「そうか」
苦々しい顔で凛を見下ろす水華を納得させるために、何とか笑って見せる。
突然前触れもなく不機嫌そうな緑木華に抱き上げられて、凜は小さく悲鳴を上げた。
「あ、あの、水華様」
「風呂に行くぞ」
「自分、で」
「体が冷え切っている。私が運んだ方が早い」
そう言われてしまえば黙るほかない。
結局お茶を運んでいた壺と行き会い、急いで凛は風呂へと連れて行かれた。
湯舟につかると冷えた体に血がかよって、指先がぴりぴりとする。
体の強張りが緩まっていくのを感じながら、凛は美光の言葉を思い出した。
「どうして、あんなこと言われたのかしら」
緑木と同じように会いにきたと言っていた。
そして緑木のときと同じだったと。
やはり生贄には特別な意味があるのだろうか。
「それに鱗って何のことかしら」
さっさと渡せばいいと言っていた。
生贄に必要なものなのだろうか。
「水華様は、渡したくなさそうだったわ」
一体どういうものなのか。
けれどあの様子では訊くのは憚られる。
「傲慢になるな、か。そんなこと、ありえるわけないのに」
ぽつりと呟いた言葉は凛の本音だった。
その後、二、三日は水華が甲斐甲斐しかった。
体調を崩すのではないかと、布団から出ることを禁止されたのだ。
暇だろうと書物が運ばれ、滋養のあるものをといつも以上に栄養のありそうな食事。
そして頻繁に顔を出してくれる。
それがとても嬉しくて、けれど恐れ多いと恐縮してしまうのをなんとかこらえた。
どうしてか水華が顔を見に来てくれるのを止めたくなかった。
布団から出ることを許された朝、凜はちらりと鏡台の上を見た。
そこには花瓶に生けられた花がある。
庭にある白い花だ。
凛が祠の声にお供えしたのと同じ花。
そこで、ハッと気づく。
「神様のことを考える時間、減ってる……」
以前は四六時中考えていたのに。
そのことに強いショックを受けた。
ここに来て恵まれた生活をしているあいだに、存在を薄れさせるなんて。
凜は真っ青になった顔で白い花を見つめる。
「水華様のことばかり考えていたわ」
なんという薄情者だ。
ぎゅっと胸元を握りこむと、凜は脳裏に祠を思い浮かべた。
まだ、あの声は覚えている。
抑揚のない突き放したように喋るけれど、優しい凜の神様。
「忘れてなんてないわ……でも……水華様」
確実に凜のなかを侵食している。
祠の声に似ているとは思ったけれど重ね合わせてしまっていたのだろうか。
こんなのどちらにたいしても不誠実だ。
のろのろと朝食の席へと行くと、凛の顔を見て水華が目をわずかに細めた。
「体調が悪いか?」
「いえ、いいえ、そんなこと、ありません」
慌てて首を振ると、じっと見られたあとに納得したのか「そうか」と目線を外された。
それにほっとする。
さきほどまで考えていたことが顔に出ていたのだろうかと、心配になってしまった。
食事も終わり一服していると、おもむろに水華が口を開いた。
「今日は出かける」
「お、お仕事、ですか?」
「お前もだ」
「わ、私も?」
「こもりっぱなしだからな。準備させろ」
後半は壺への言葉だった。
はいと嬉しそうに頷くと「さあ凛様」と自室に促されてしまう。
とまどいながら、凛は壺へとついて行った。
あれやこれやと着物を出され、どれがいいですかと訊かれてしまうけれど凛にはよくわからない。
どうしたらと思った時に、ふと一着が目に入った。
淡い紫に青い小花の着物だ。
まるで水華の紫電の瞳のようだ。
じっとおもわずそれを見ると、壺が嬉しそうにそれを手に取った。
「水華様のようなお着物ですね」
「ち、ちがっ」
壺の言葉に凛は同じことに気づいて、慌てて否定した。
そんなつもりはない。
ないと言うのに壺はそれを準備して、さあとそれを凛に着せる気満々だ。
違うのだ。
たしかに水華の色だとは思ったけれど、それが着たいとか思ったわけではない。
綺麗だと思っただけなのだ。
そう言いたいけれど、着々と着せられていく手際の良さに凛は何も言えなかった。
そのあともいつも挿しているかんざしで髪を結われる。
完全に水華を連想させる姿だった。
こんな姿、水華になんと説明すれば、そもそも見せていいものなのかと不安しかない。
「最後はこちらですね」
見せられたのは紅だった。
凛の知っているものよりも、色が淡い。
村の女達がときおりつけているのを見たけれど、それらは真っ赤で酷く顔に浮いているなと思ったものだ。
「あの、こんなの」
「これも、水華様からですよ」
「これも……?」
「水華様自ら、凜様へ選んだものです」
凛は驚きに目を丸くした。
女物なんて興味がなさそうなのに手ずから準備してくれたなんて、少し浮き足だってしまう。
いけないと思いつつも、にやけそうになるのを引き締めて玄関に行くと、そこにはすでに水華がいた。
そこで息を呑む。
青と白の着物はいつもどおりだけれど、その髪と瞳の色が違う。
白銀の髪は濡れ羽色に、紫電の瞳は黒曜石のように黒くなっていた。
美貌に描かれた目元の刺青だけがいつもどおりだ。
「来たか」
凛に気づいた水華が視線をよこす。
いつもの神秘的な雰囲気はあるけれど、神聖さが潜まれるせいか男性らしさが強調されている。
おもわず凛は動揺でごくりと喉を鳴らしてしまった。
直視しづらい。
「どうした」
凜の動揺を感じたのか、水華が小首を傾げる。
それすら別人のようで動揺した。
「な、なんでも、ありません。いつもと違うので、驚いただけです」
「変か? いつもこれなんだがな」
「おに、お似合いです!」
変なものか。
おもわず普段より動揺しながらも断言してしまう。
水華は凛の胸の内など知らずに「ならいいが」とあっさり流した。
とてもありがたい。
どこに行くのだろうと思いながら壺が用意してくれた草履に足をとおす。
凛が村で使っていた草鞋とは雲泥の差だ。
もっとも軟禁されてからは草鞋も取り上げられて裸足だったけれど。
「行くぞ」
凜が草履をはいたのを確認すると、水華は玄関扉を開けた。
その奥に続く風景は白い花でも森でもない。
