入浴を終えたところで、ハッと凛は気づいた。
「片付け!」
うっかりしていた。
気疲れしていたとはいえ、壺と峰がするであろう片付けを手伝うのを忘れていた。
緑木と水華はぐいぐいと酒を飲んでいたし、水華はめずらしくつまみをよく口に運んでいた。
緑木にいたってはつまみというより食事と言える量を食べていたのだ。
二匹だけでは大変なはずである。
ぱたぱたと早足で台所のある方へと廊下を進んでいると、向かいから壺が歩いて来た。
「つ、壺さん! あの、ごめんなさい、私ったら片付けも手伝わなくて」
「まあ凜様! 凛様はそんなことする必要はありませんよ、私達の仕事ですからね」
「でも……」
「それにほとんど終わっています。今も水華様にお酒を持っていったところですからね」
「え!?」
壺の言葉に凛は素っ頓狂な声を上げた。
さきほどまで緑木と大量に飲んでいたのに、また飲んでいるのか。
「あ、あの、お酒のこと、よく知らないんですけれど、そんなに飲んで、大丈夫なんですか?」
「酒は百薬の長とは申しますけれど、水華様の飲む量は大量ですからね、人間にはよくないでしょうが龍神様には関係ありませんよ」
壺の言葉に凛は顔色を悪くした。
壺は大丈夫と言うし水華も人ではないけれど、それでもよくないなんて聞いたら心配になる。
少しのあいだ落ち着かずそわそわとしたけれど、凛は足を水華がいるであろう濡れ縁へと向けることにした。
またぱたぱたと廊下を進めば、やはりほのかに光る青を眺めながら水華が盃を傾けていた。
その傍には徳利が三本並んでいる。
(さっきもたくさん召し上がっていたのに)
おもわず凛の眉間にわずかな皺がよる。
そして意を決して水華の方へと足を踏み出した。
凜の気配にでも気づいたのか、水華の紫電の瞳が凜へと向けられる。
「どうした」
「あ、あの」
「何だ」
水華のすることに口を出すのはどうなのだろうかと凜も思うけれど、それでも放っておくことは出来ない。
ぐっと拳を握りしめると、凜は足早に水華へ近づいた。
そして膝をつくなり徳利ののった、丸みのある形をした漆塗りの雅なお盆にさっと手を伸ばした。
そのまま自分の後ろへと隠してしまう。
水華はすこしだけ目を丸くしているので驚いているのだろう。
罵倒されたらと怖いけれど、それでも水華の体に万が一ということがある。
「お、お酒は、いけません」
凛の言葉に水華はますます目を丸くした。
「何を言っている?」
心底わからないという顔だ。
それでも凛は繰り返した。
「お酒は、体に悪いと、聞きました。だから、駄目です」
いっそふるりと体をふるわせそうになりながらも、凛は裏返った声でなんとか主張した。
何も言わない水華の眼差しが怖い。
小さくため息を吐かれて、びくりと肩がはねた。
「私に酒など害になるわけがない。ただ味が気に入っているから飲んでいるだけだ」
壺にもそう言われた。
それでも凜はやっぱり気にしてしまう。
大きなお世話だとわかっている。
叱責されるかもしれない。
たとえ凜が安心したいがための自己満足でも、酒を控えてほしかった。
「そ、それでも、駄目、です」
首を一度ゆるく振ると、もう一度ため息をこぼされた。
(ただの生贄なのに出しゃばってしまったわ……でも)
自分に良くしてくれる水華に健やかにいてほしいだけなのだ。
ぐっと下唇を噛んだときだ。
「それはお前が片付けておけ」
その言葉にほっとして体の力が抜ける。
出過ぎた真似をしたけれど、受け入れてくれたのが嬉しくて凛は口元をほころばせて「はい」と頷いた。
「座れ」
突然の言葉にまばたくと、水華が自分の隣を指さした。
「で、でも」
「最後の一杯くらい付きあえ」
そう言われてしまえば断れない。
凜のわがままを受け入れて、飲むのをやめてくれるのだから。
おそるおそる横に座ると、水華は凛から目をそらして盃を少し傾けた。
さきほども見た男らしい喉仏を見つめてしまい、そのまま水華の美貌へ視線が向いて凛は頬を赤らめた。
とくとくと胸が鳴る。
最近、水華を前にするといつもこうだ。
壺たちに訊こうかとも思ったけれど、何となく胸に秘めておきたくて口にしていない。
まだ酒の入っている盃を水華が床に置くと、膝に頬杖をついて凜の顔をじっと見つめてきた。
それが恥ずかしくて目が泳いでしまう。
「前から思っていたが」
「は、はい」
「お前はずいぶんと器がでかいな」
「器、ですか?」
どういう意味だろう。
器がでかいと言われてもさっぱりわからない。
「あ、あの、どういう意味、ですか?」
「ちょうどいいな」
水華は凛の疑問をさらりと流してしまった。
そして、ぐいと荒れひとつない指が凛の顎にそえられ、顔を上向かされる。
じっと見つめてくる紫電の瞳が間近にあると思った瞬間、唇に柔らかいものが触れていた。
そして、何か熱いものが水華から注がれ喉の奥へと滑り落ちていく。
目を見開いた凛が首まで真っ赤になったのと、水華の顔が離れたのは同時だった。
「きゃあああ! きゃあ!きゃあ!きゃああ!」
なにが起こったのかを自覚したとたんに、凜の絶叫が白い花の揺れる庭に響き渡った。
唇を押さえて慌ててバタバタと水華から距離をとる。
その顔は可哀想なくらいに茹でだこになっている。
水華はと言えば、不思議そうに首を傾げていた。
何故そんな反応なのだ。
まるで凜の反応の方がおかしいかのようで、問い詰めたくなる。
距離を取ったことで背後に隠していた徳利のひとつが倒れる音がした。
ちらりと見れば漆塗りのお盆に酒が零れている。
高価そうなものをと真っ青になったけれど。
「どうした?」
今の接吻をまったく気にしているそぶりのない水華が凛の頬へと手を伸ばしてきた。
それがまた恥ずかしくて、凛はとうとう勢いよく立ち上がった。
「お、お先に、失礼、します!」
もうここにいる根性はない。
正気を保てる気がしないのだ。
転びそうな勢いで廊下を走り去る凛の背後で、水華の何とも呑気な声が聞こえた。
「まだ早かったか」
まだってどういうことだろう。
けれど今はそれどころではない。
内心悲鳴を上げながら自室へと飛び込んだ。
結局その日は一睡も眠れず朝を迎えたけれど、朝食時になっても仕事部屋に行っても、昨日のことなどなかったかのように水華の態度は変わらなかった。
気にしているのは凛だけだ。
そのことが気まずい。
一応受け答えはするけれど、必死に平静を保っている。
数日たってもそのことは消化できずに凛はため息を吐いた。
今日は珍しく水華は出かけているので、いつも彼がいる濡れ縁に凛はいた。
ほんの少しぶすくれた顔をして、膝の上に置いてある手を見下ろす。
「どうして、あんなことをしたのかしら。だってあれは恋人や夫婦がするもののはずでしょう?」
凛だってそれくらいは知っている。
牢を見張っていた男たちの下世話な会話や女たちの恋話が小窓から聞こえたりしていたのだ。
間近で見た綺麗な顔と、柔らかい唇への感触。
それに喉を滑り落ちた熱いなにか。
全部はじめてで、どうしていいかわからず走り回りたくなるくらいだ。
「水華様が接吻なんかするなんて……神様は接吻をするものなのかしら?」
素朴な疑問が浮かんだ。
祠の声はきっとしないだろう。
緑木はほぼ会話をしていないので、わからない。
ならば水華は?
接吻は色恋だけれど、とても水華が色恋をするなんて思えない。
凛には優しく親切にしてくれるけれど、誰かと恋仲になる想像がつかないのだ。
というか想像すると、なんだか胸がもやつく。
心臓の音が早く鳴ったり、もやついたりと最近胸のなかがおかしい。
「病気かしら。生贄として価値が下がってしまったら困るわ」
そこでハッと我に返った。
そうだ、凛は生贄だ。
何をもやもやしていたのか。
「味見だったんだわ」
ぽつりと呟いた言葉が凜には真実に思えた。
それなら納得できる。
よくある色恋の接吻でなくて味見。
「まだ早かったって言葉は、食べごろじゃないってことだったのね」
おもわず自分の腕を見る。
まだまだ棒切れで食いではないだろうと、ひと目でわかる状態だ。
「そりゃあ、そうよね」
水華が特別な意味で接吻なんてするはずがない。
どうしてか瞳に水分がたまった。
「片付け!」
うっかりしていた。
気疲れしていたとはいえ、壺と峰がするであろう片付けを手伝うのを忘れていた。
緑木と水華はぐいぐいと酒を飲んでいたし、水華はめずらしくつまみをよく口に運んでいた。
緑木にいたってはつまみというより食事と言える量を食べていたのだ。
二匹だけでは大変なはずである。
ぱたぱたと早足で台所のある方へと廊下を進んでいると、向かいから壺が歩いて来た。
「つ、壺さん! あの、ごめんなさい、私ったら片付けも手伝わなくて」
「まあ凜様! 凛様はそんなことする必要はありませんよ、私達の仕事ですからね」
「でも……」
「それにほとんど終わっています。今も水華様にお酒を持っていったところですからね」
「え!?」
壺の言葉に凛は素っ頓狂な声を上げた。
さきほどまで緑木と大量に飲んでいたのに、また飲んでいるのか。
「あ、あの、お酒のこと、よく知らないんですけれど、そんなに飲んで、大丈夫なんですか?」
「酒は百薬の長とは申しますけれど、水華様の飲む量は大量ですからね、人間にはよくないでしょうが龍神様には関係ありませんよ」
壺の言葉に凛は顔色を悪くした。
壺は大丈夫と言うし水華も人ではないけれど、それでもよくないなんて聞いたら心配になる。
少しのあいだ落ち着かずそわそわとしたけれど、凛は足を水華がいるであろう濡れ縁へと向けることにした。
またぱたぱたと廊下を進めば、やはりほのかに光る青を眺めながら水華が盃を傾けていた。
その傍には徳利が三本並んでいる。
(さっきもたくさん召し上がっていたのに)
おもわず凛の眉間にわずかな皺がよる。
そして意を決して水華の方へと足を踏み出した。
凜の気配にでも気づいたのか、水華の紫電の瞳が凜へと向けられる。
「どうした」
「あ、あの」
「何だ」
水華のすることに口を出すのはどうなのだろうかと凜も思うけれど、それでも放っておくことは出来ない。
ぐっと拳を握りしめると、凜は足早に水華へ近づいた。
そして膝をつくなり徳利ののった、丸みのある形をした漆塗りの雅なお盆にさっと手を伸ばした。
そのまま自分の後ろへと隠してしまう。
水華はすこしだけ目を丸くしているので驚いているのだろう。
罵倒されたらと怖いけれど、それでも水華の体に万が一ということがある。
「お、お酒は、いけません」
凛の言葉に水華はますます目を丸くした。
「何を言っている?」
心底わからないという顔だ。
それでも凛は繰り返した。
「お酒は、体に悪いと、聞きました。だから、駄目です」
いっそふるりと体をふるわせそうになりながらも、凛は裏返った声でなんとか主張した。
何も言わない水華の眼差しが怖い。
小さくため息を吐かれて、びくりと肩がはねた。
「私に酒など害になるわけがない。ただ味が気に入っているから飲んでいるだけだ」
壺にもそう言われた。
それでも凜はやっぱり気にしてしまう。
大きなお世話だとわかっている。
叱責されるかもしれない。
たとえ凜が安心したいがための自己満足でも、酒を控えてほしかった。
「そ、それでも、駄目、です」
首を一度ゆるく振ると、もう一度ため息をこぼされた。
(ただの生贄なのに出しゃばってしまったわ……でも)
自分に良くしてくれる水華に健やかにいてほしいだけなのだ。
ぐっと下唇を噛んだときだ。
「それはお前が片付けておけ」
その言葉にほっとして体の力が抜ける。
出過ぎた真似をしたけれど、受け入れてくれたのが嬉しくて凛は口元をほころばせて「はい」と頷いた。
「座れ」
突然の言葉にまばたくと、水華が自分の隣を指さした。
「で、でも」
「最後の一杯くらい付きあえ」
そう言われてしまえば断れない。
凜のわがままを受け入れて、飲むのをやめてくれるのだから。
おそるおそる横に座ると、水華は凛から目をそらして盃を少し傾けた。
さきほども見た男らしい喉仏を見つめてしまい、そのまま水華の美貌へ視線が向いて凛は頬を赤らめた。
とくとくと胸が鳴る。
最近、水華を前にするといつもこうだ。
壺たちに訊こうかとも思ったけれど、何となく胸に秘めておきたくて口にしていない。
まだ酒の入っている盃を水華が床に置くと、膝に頬杖をついて凜の顔をじっと見つめてきた。
それが恥ずかしくて目が泳いでしまう。
「前から思っていたが」
「は、はい」
「お前はずいぶんと器がでかいな」
「器、ですか?」
どういう意味だろう。
器がでかいと言われてもさっぱりわからない。
「あ、あの、どういう意味、ですか?」
「ちょうどいいな」
水華は凛の疑問をさらりと流してしまった。
そして、ぐいと荒れひとつない指が凛の顎にそえられ、顔を上向かされる。
じっと見つめてくる紫電の瞳が間近にあると思った瞬間、唇に柔らかいものが触れていた。
そして、何か熱いものが水華から注がれ喉の奥へと滑り落ちていく。
目を見開いた凛が首まで真っ赤になったのと、水華の顔が離れたのは同時だった。
「きゃあああ! きゃあ!きゃあ!きゃああ!」
なにが起こったのかを自覚したとたんに、凜の絶叫が白い花の揺れる庭に響き渡った。
唇を押さえて慌ててバタバタと水華から距離をとる。
その顔は可哀想なくらいに茹でだこになっている。
水華はと言えば、不思議そうに首を傾げていた。
何故そんな反応なのだ。
まるで凜の反応の方がおかしいかのようで、問い詰めたくなる。
距離を取ったことで背後に隠していた徳利のひとつが倒れる音がした。
ちらりと見れば漆塗りのお盆に酒が零れている。
高価そうなものをと真っ青になったけれど。
「どうした?」
今の接吻をまったく気にしているそぶりのない水華が凛の頬へと手を伸ばしてきた。
それがまた恥ずかしくて、凛はとうとう勢いよく立ち上がった。
「お、お先に、失礼、します!」
もうここにいる根性はない。
正気を保てる気がしないのだ。
転びそうな勢いで廊下を走り去る凛の背後で、水華の何とも呑気な声が聞こえた。
「まだ早かったか」
まだってどういうことだろう。
けれど今はそれどころではない。
内心悲鳴を上げながら自室へと飛び込んだ。
結局その日は一睡も眠れず朝を迎えたけれど、朝食時になっても仕事部屋に行っても、昨日のことなどなかったかのように水華の態度は変わらなかった。
気にしているのは凛だけだ。
そのことが気まずい。
一応受け答えはするけれど、必死に平静を保っている。
数日たってもそのことは消化できずに凛はため息を吐いた。
今日は珍しく水華は出かけているので、いつも彼がいる濡れ縁に凛はいた。
ほんの少しぶすくれた顔をして、膝の上に置いてある手を見下ろす。
「どうして、あんなことをしたのかしら。だってあれは恋人や夫婦がするもののはずでしょう?」
凛だってそれくらいは知っている。
牢を見張っていた男たちの下世話な会話や女たちの恋話が小窓から聞こえたりしていたのだ。
間近で見た綺麗な顔と、柔らかい唇への感触。
それに喉を滑り落ちた熱いなにか。
全部はじめてで、どうしていいかわからず走り回りたくなるくらいだ。
「水華様が接吻なんかするなんて……神様は接吻をするものなのかしら?」
素朴な疑問が浮かんだ。
祠の声はきっとしないだろう。
緑木はほぼ会話をしていないので、わからない。
ならば水華は?
接吻は色恋だけれど、とても水華が色恋をするなんて思えない。
凛には優しく親切にしてくれるけれど、誰かと恋仲になる想像がつかないのだ。
というか想像すると、なんだか胸がもやつく。
心臓の音が早く鳴ったり、もやついたりと最近胸のなかがおかしい。
「病気かしら。生贄として価値が下がってしまったら困るわ」
そこでハッと我に返った。
そうだ、凛は生贄だ。
何をもやもやしていたのか。
「味見だったんだわ」
ぽつりと呟いた言葉が凜には真実に思えた。
それなら納得できる。
よくある色恋の接吻でなくて味見。
「まだ早かったって言葉は、食べごろじゃないってことだったのね」
おもわず自分の腕を見る。
まだまだ棒切れで食いではないだろうと、ひと目でわかる状態だ。
「そりゃあ、そうよね」
水華が特別な意味で接吻なんてするはずがない。
どうしてか瞳に水分がたまった。
