夏の盛りの、ある休日。
リシャールの婚約者と正式に決まってから、警備の都合もあり、私の住まいは王宮の一室へ移っていた。
静かで広くて、雨風の心配もない。侍女たちの気配もほどよく遠い。
けれど、ときどき自分がどこに住んでいるのか、まだ不思議になる。
部屋の扉を、コンコン、と叩く音がした。
休日の朝に訪ねてくる人間は、そう多くない。
扉を開けると、ラルフが立っていた。
「……ラルフさん、休日ですが」
「殿下からのお届けものです」
ラルフの後ろには、大きな木箱を抱えた使用人が二名いる。
「……なんですか、それは」
「殿下よりの言伝です。『約束を果たす』と」
私は少し考えてから、ぱちりと目を見開いた。
「……ホールケーキですか」
「はい」
部屋の中へ運び込まれた木箱を開けると、中には氷に守られた、大きな丸いケーキがあった。
真っ白なクリームの上に、繊細な飴細工の花。薔薇と、小さな葡萄の粒。側面には金箔を使った装飾。
前世でネットの記事の写真でしか見たことがないような、圧倒的な存在感だった。
宝石と見紛う、とはたぶんこういうことを言うのだろう。
「……これが」
「王都でも有数の菓子師、フラン・マリーニ氏の作です。通常一年待ちのところ、殿下のご依頼で特別に」
「……本当に一年待ちなんですね」
「はい。大変光栄なことです」
しばらく、私はただケーキを見つめていた。
それから、もう一通の手紙が木箱の中にあることに気づく。
開くと、殿下の字で書かれていた。
——約束通り、届ける。
今日の夕方、一緒に食べよう。
——リシャール
手紙を読んで、もう一度読んで、そっと折りたたんだ。
「ラルフさん、殿下に伝えてください」
「はい」
「夕方、お茶を用意してお待ちしていると」
「かしこまりました」
ラルフたちが去った後、私は一人で部屋に残った。
木箱の中のホールケーキを、またしみじみと見る。
こんなに大きいケーキ、どうやって食べ切ればいいのか、正直なところはよくわからない。
でも、殿下が一緒に食べると言っているのだから、二人なら何とかなるかもしれない。
……いや、それでも相当な量ではあるのだけれど。
前世の記憶を辿っても、ホールケーキを丸ごと一個前にしたことはない。
でもこれは約束のケーキだ。
ドレイクの件を全部終わらせたら用意すると言っていた、最初の約束の。
始まりの約束。
私がケーキに目がくらんでこの件に首を突っ込み、その結果として今ここにいる、その始まりの印みたいなものだ。
思わず、笑いがこみ上げてきた。
前世の私が見たら、なんと言うだろう。
チーズケーキを二個食べて死んだお前が、なんで異世界で王子の婚約者になって、ホールケーキを前にしているんだ、と言うかもしれない。
それでも、前世の私に言いたかった。
大丈夫だよ、と。
理不尽に終わらされた命の後にも、ちゃんと別の場所があった。
穏やかに生きたかっただけの私が、穏やかな日常の延長線上で、思いがけない幸せを見つけた。
ケーキも美味しい世界で、好きな人もできた。
十分すぎるくらい、恵まれている。
夕方、殿下が来た。
二人でテーブルに向かい合い、木箱を開ける。
「……大きいな」
「ですね」
「食べ切れるか」
「二人ではおそらく」
「何日かかけて食べるか」
「日持ちがどのくらいか、確認しましょうか」
「リサに聞く」
「では明日、聞きましょう」
私はケーキナイフを取り、一番外側からそっと切り分けた。
刃が入るたび、白いクリームがきれいな断面を見せる。
中には苺の層と、薄い海綿状の生地。丁寧に重ねられていて、見ているだけでうっとりする。
皿に盛って、殿下の前に置いた。
「どうぞ」
「お前も切ってくれ」
「はい」
自分の分も取り分けて、フォークを手に取る。
「……では、いただきます」
「いただきます」
一口食べた。
……美味しい。
ルルンさんのケーキとは、また違う種類の美味しさだった。
ルルンさんのケーキには温かみがある。手作りの親しみがあって、食べるとほっとする。
このケーキは、もっと技巧的で、精密で、それでいて食べるとちゃんと幸せになる。
なるほど。一年待ってでも食べたくなる理由が、少しわかる気がした。
どちらも本物の美味しさだ。
「どうだ」
「……すごく美味しいです」
「そうか」
「リシャールは?」
「美味い」
「初めて、こういうケーキを食べましたか」
「ホールケーキは初めてだ」
「ホールケーキって、特別な時に食べるものだと思っていました。前世ではそういうものでしたから」
「前世でも好きだったか」
「好きでした。ただ、一人で食べていましたね。大体」
「一人で?」
「誰かと一緒に食べる相手が、あまりいなかったので」
「……そうか」
「でも今は」
私は殿下を見た。
一年待って食べるケーキも、きっと一人ならここまで感動しなかっただろう。
「リシャールがいるので」
殿下はしばらく私を見ていた。
「……俺もいる」
「知っています」
「これからも、いる」
「知っています」
「それでいいか」
「……それ以上のことを言わせますか」
「言ってくれたら嬉しい」
私は少し笑った。
「……それ以上に、良いです。これ以上の話をするなら、ケーキを全部食べ終えてからにしたいです」
「なぜだ」
「美味しいものには、集中したいので」
殿下は少し笑ってから、二人でしばらく黙ってケーキを食べた。
夏の夕暮れが窓から差し込み、白いクリームを橙色に染めている。
甘さの中に少しだけ黄昏の色が混じって、今日のケーキはいつもより特別に見えた。
全部食べ終えて、皿を脇へよける。
「さっきの話の続きをしていいか」
「どうぞ」
「これからも、一緒にいたい」
殿下は静かに、でもはっきりと言った。
「婚約者として、という意味だけではなく。隣に、ずっといてほしい」
「……ずっと、というのはどのくらいですか」
「これから先、全部だ」
「……全部」
「長いか」
「……長くないです。転生前は二十七年で終わってしまったので」
「そうか」
「……私も、そうしたいです。可能な限り、全部、一緒にいたい」
殿下は少しだけ目を細めた。
その顔が何を意味するのか、私はもう知っていた。
嬉しい時の顔だ。言葉にしなくても、ちゃんとわかる。
「……ミルフィ」
「はい」
「一つだけ聞いていいか」
「どうぞ」
「ケーキと俺、どちらが大事か」
少し考えた。
考えなくても、本当はもう答えなんて決まっているのに、少し考える時間がほしかった。
「……甲乙つけがたいですが」
「甲乙つけてくれ」
「……リシャールが、少しだけ、多いです」
「少しだけ、か」
「ケーキがないと辛いですが、リシャールがいなくなる方がもっと辛いので。差はわずかですが、差はあります」
「……お前と話していると、笑ってしまう」
「それは良いことだと思います」
「ああ。良いことだ」
窓の外には、夏の星が出始めていた。
私はもう一度、空になった皿を見る。
ホールケーキが、こんなに綺麗に消えていくとは思っていなかった。
始まりはケーキだった。
定時退勤して、ケーキ屋に寄るだけが目標だった、平凡な私の毎日。
それが今、ここにある。
信じられないのに、もうちゃんと現実だった。
「……リシャール」
「うん」
「ありがとうございます」
「何に対して」
「……全部に対して」
殿下は少し間を置いてから、「こちらこそ」と言った。
「あの日、ぶつからなかったら、どうなっていたんでしょうね」
「廊下でぶつかった書記官が、この人で良かった」
「……廊下でぶつかった王太子殿下が、リシャールで良かったです」
夏の夜が、静かに深まっていった。
ケーキの甘さがまだ口の中に残っていて、その甘さごと、今の幸せを覚えていたいと思った。
リシャールの婚約者と正式に決まってから、警備の都合もあり、私の住まいは王宮の一室へ移っていた。
静かで広くて、雨風の心配もない。侍女たちの気配もほどよく遠い。
けれど、ときどき自分がどこに住んでいるのか、まだ不思議になる。
部屋の扉を、コンコン、と叩く音がした。
休日の朝に訪ねてくる人間は、そう多くない。
扉を開けると、ラルフが立っていた。
「……ラルフさん、休日ですが」
「殿下からのお届けものです」
ラルフの後ろには、大きな木箱を抱えた使用人が二名いる。
「……なんですか、それは」
「殿下よりの言伝です。『約束を果たす』と」
私は少し考えてから、ぱちりと目を見開いた。
「……ホールケーキですか」
「はい」
部屋の中へ運び込まれた木箱を開けると、中には氷に守られた、大きな丸いケーキがあった。
真っ白なクリームの上に、繊細な飴細工の花。薔薇と、小さな葡萄の粒。側面には金箔を使った装飾。
前世でネットの記事の写真でしか見たことがないような、圧倒的な存在感だった。
宝石と見紛う、とはたぶんこういうことを言うのだろう。
「……これが」
「王都でも有数の菓子師、フラン・マリーニ氏の作です。通常一年待ちのところ、殿下のご依頼で特別に」
「……本当に一年待ちなんですね」
「はい。大変光栄なことです」
しばらく、私はただケーキを見つめていた。
それから、もう一通の手紙が木箱の中にあることに気づく。
開くと、殿下の字で書かれていた。
——約束通り、届ける。
今日の夕方、一緒に食べよう。
——リシャール
手紙を読んで、もう一度読んで、そっと折りたたんだ。
「ラルフさん、殿下に伝えてください」
「はい」
「夕方、お茶を用意してお待ちしていると」
「かしこまりました」
ラルフたちが去った後、私は一人で部屋に残った。
木箱の中のホールケーキを、またしみじみと見る。
こんなに大きいケーキ、どうやって食べ切ればいいのか、正直なところはよくわからない。
でも、殿下が一緒に食べると言っているのだから、二人なら何とかなるかもしれない。
……いや、それでも相当な量ではあるのだけれど。
前世の記憶を辿っても、ホールケーキを丸ごと一個前にしたことはない。
でもこれは約束のケーキだ。
ドレイクの件を全部終わらせたら用意すると言っていた、最初の約束の。
始まりの約束。
私がケーキに目がくらんでこの件に首を突っ込み、その結果として今ここにいる、その始まりの印みたいなものだ。
思わず、笑いがこみ上げてきた。
前世の私が見たら、なんと言うだろう。
チーズケーキを二個食べて死んだお前が、なんで異世界で王子の婚約者になって、ホールケーキを前にしているんだ、と言うかもしれない。
それでも、前世の私に言いたかった。
大丈夫だよ、と。
理不尽に終わらされた命の後にも、ちゃんと別の場所があった。
穏やかに生きたかっただけの私が、穏やかな日常の延長線上で、思いがけない幸せを見つけた。
ケーキも美味しい世界で、好きな人もできた。
十分すぎるくらい、恵まれている。
夕方、殿下が来た。
二人でテーブルに向かい合い、木箱を開ける。
「……大きいな」
「ですね」
「食べ切れるか」
「二人ではおそらく」
「何日かかけて食べるか」
「日持ちがどのくらいか、確認しましょうか」
「リサに聞く」
「では明日、聞きましょう」
私はケーキナイフを取り、一番外側からそっと切り分けた。
刃が入るたび、白いクリームがきれいな断面を見せる。
中には苺の層と、薄い海綿状の生地。丁寧に重ねられていて、見ているだけでうっとりする。
皿に盛って、殿下の前に置いた。
「どうぞ」
「お前も切ってくれ」
「はい」
自分の分も取り分けて、フォークを手に取る。
「……では、いただきます」
「いただきます」
一口食べた。
……美味しい。
ルルンさんのケーキとは、また違う種類の美味しさだった。
ルルンさんのケーキには温かみがある。手作りの親しみがあって、食べるとほっとする。
このケーキは、もっと技巧的で、精密で、それでいて食べるとちゃんと幸せになる。
なるほど。一年待ってでも食べたくなる理由が、少しわかる気がした。
どちらも本物の美味しさだ。
「どうだ」
「……すごく美味しいです」
「そうか」
「リシャールは?」
「美味い」
「初めて、こういうケーキを食べましたか」
「ホールケーキは初めてだ」
「ホールケーキって、特別な時に食べるものだと思っていました。前世ではそういうものでしたから」
「前世でも好きだったか」
「好きでした。ただ、一人で食べていましたね。大体」
「一人で?」
「誰かと一緒に食べる相手が、あまりいなかったので」
「……そうか」
「でも今は」
私は殿下を見た。
一年待って食べるケーキも、きっと一人ならここまで感動しなかっただろう。
「リシャールがいるので」
殿下はしばらく私を見ていた。
「……俺もいる」
「知っています」
「これからも、いる」
「知っています」
「それでいいか」
「……それ以上のことを言わせますか」
「言ってくれたら嬉しい」
私は少し笑った。
「……それ以上に、良いです。これ以上の話をするなら、ケーキを全部食べ終えてからにしたいです」
「なぜだ」
「美味しいものには、集中したいので」
殿下は少し笑ってから、二人でしばらく黙ってケーキを食べた。
夏の夕暮れが窓から差し込み、白いクリームを橙色に染めている。
甘さの中に少しだけ黄昏の色が混じって、今日のケーキはいつもより特別に見えた。
全部食べ終えて、皿を脇へよける。
「さっきの話の続きをしていいか」
「どうぞ」
「これからも、一緒にいたい」
殿下は静かに、でもはっきりと言った。
「婚約者として、という意味だけではなく。隣に、ずっといてほしい」
「……ずっと、というのはどのくらいですか」
「これから先、全部だ」
「……全部」
「長いか」
「……長くないです。転生前は二十七年で終わってしまったので」
「そうか」
「……私も、そうしたいです。可能な限り、全部、一緒にいたい」
殿下は少しだけ目を細めた。
その顔が何を意味するのか、私はもう知っていた。
嬉しい時の顔だ。言葉にしなくても、ちゃんとわかる。
「……ミルフィ」
「はい」
「一つだけ聞いていいか」
「どうぞ」
「ケーキと俺、どちらが大事か」
少し考えた。
考えなくても、本当はもう答えなんて決まっているのに、少し考える時間がほしかった。
「……甲乙つけがたいですが」
「甲乙つけてくれ」
「……リシャールが、少しだけ、多いです」
「少しだけ、か」
「ケーキがないと辛いですが、リシャールがいなくなる方がもっと辛いので。差はわずかですが、差はあります」
「……お前と話していると、笑ってしまう」
「それは良いことだと思います」
「ああ。良いことだ」
窓の外には、夏の星が出始めていた。
私はもう一度、空になった皿を見る。
ホールケーキが、こんなに綺麗に消えていくとは思っていなかった。
始まりはケーキだった。
定時退勤して、ケーキ屋に寄るだけが目標だった、平凡な私の毎日。
それが今、ここにある。
信じられないのに、もうちゃんと現実だった。
「……リシャール」
「うん」
「ありがとうございます」
「何に対して」
「……全部に対して」
殿下は少し間を置いてから、「こちらこそ」と言った。
「あの日、ぶつからなかったら、どうなっていたんでしょうね」
「廊下でぶつかった書記官が、この人で良かった」
「……廊下でぶつかった王太子殿下が、リシャールで良かったです」
夏の夜が、静かに深まっていった。
ケーキの甘さがまだ口の中に残っていて、その甘さごと、今の幸せを覚えていたいと思った。



