正式な婚約の発表は、夏の初めに行われた。
春の夜会から約二か月。ドレイク宰相の失脚から約一か月半。
あの夜から積み重なってきた出来事が、ようやく一つの形になる日だった。
王宮の大広間で、国王陛下臨席のもと、リシャール王太子とミルフィ・ベルランの婚約が公式に発表される。
その日、私は殿下が用意してくれた白と薄金色のドレスを着ていた。
音楽会の夜の衣装より、さらに丁寧なつくりだった。
侍女が一時間かけて髪を結い上げ、耳元に小さな飾りを挿してくれる。
鏡の中の自分は、少しだけ自分ではない誰かのようにも見えて、でも確かに私だった。
「緊張していますか?」
侍女が優しく聞いた。
「……少し」
「大丈夫ですよ。殿下が一緒にいらっしゃいますから」
「そうですね」
「それに……殿下、今日はずっとそわそわしていらっしゃったみたいですよ」
「……殿下が?」
「側近の方がこっそり教えてくれました。今朝から時間を何度も確認されているって」
「…………」
眼鏡を外しながら、私は少し笑ってしまった。
あの落ち着き払った殿下が、そわそわしている。
そう思うと、不思議と自分の緊張も少し和らいでいく。
「かわいいですね」
「ミルフィ様、もし殿下の前でそれを仰ったら大変なことになりますよ」
「言いません。心の中にしまっておきます」
準備を終えて廊下に出ると、殿下がそこにいた。
深い紺色の正装。胸に王家の紋章。いつもより少し改まった姿で立っている。
目が合うと、一瞬だけ、殿下の方も止まった。
「……来たか」
「はい」
「……似合っている」
「ありがとうございます」
「……選んだかいがあった。きれいだ」
そう呟いた声が、少しだけ低かった。
私はその声に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「殿下も、お似合いです」
「俺はいつもこういう服を着ているが」
「いつも似合っていますが、今日は特に」
殿下は少し間を置いてから、「行こう」と言った。
歩き出しながら、私は隣の殿下を横目で見る。
耳がほんの少し赤い気がした。
……かわいい。
その言葉は、心の中にだけしまっておいた。
大広間は、春の夜会と同じように輝いていた。
ただ、あの夜とは空気がまるで違う。
あの時の私は、廊下の柱の陰から覗いていた。招待もされていない平民の書記官として。
今日は、殿下の隣に立っている。
それだけで、見える景色の高さまで違う気がした。
「……緊張しているか」
小声で聞かれた。
「はい。でも大丈夫です」
「大丈夫か」
「リシャールが隣にいるので」
殿下は前を向いたまま、でも少しだけ手を私の方へ動かした。
指先が触れる。
そのまま、ゆっくりと手を握られた。
「……っ」
「緊張したらここを握れ」
「……はい」
「返事が小さい」
「緊張しているので」
「さっき大丈夫と言っていたが」
「大丈夫ですが、緊張はしています」
「矛盾している」
「していないです。緊張していても大丈夫なんです」
殿下は小さく笑った。
そのまま手を繋いだまま、私たちは大広間の中央へ進む。
国王陛下の声が、広間に響いた。
「本日、余の名において、王太子リシャール・フォン・エルムローゼと、ミルフィ・ベルランの婚約を公式に宣言する」
広間が静まり返る。
それから、拍手が起きた。
私はまっすぐ前を向き、息を整えた。
手の中には、殿下の手の温もりがある。
その温もりが、ここに立っていいのだと教えてくれている気がした。
……これが本物だ、と思った。
ふりではない。演技でもない。
本当に、ここに立っている。
前世で理不尽に終わらされた命が、この世界でこんな場所に辿り着いた。
ケーキと定時退勤だけが目標だった私が、王太子殿下の手を握って、大広間の中央に立っている。
人生というのは、本当にわからないものだ。
でも——。
「ミルフィ」
殿下が小声で言った。
「はい」
「大丈夫か」
「……はい。大丈夫です。本当に」
殿下は私の手を、少しだけ強く握った。
私も握り返す。
それだけで、十分に思えてしまう。
春の夜会から約二か月。ドレイク宰相の失脚から約一か月半。
あの夜から積み重なってきた出来事が、ようやく一つの形になる日だった。
王宮の大広間で、国王陛下臨席のもと、リシャール王太子とミルフィ・ベルランの婚約が公式に発表される。
その日、私は殿下が用意してくれた白と薄金色のドレスを着ていた。
音楽会の夜の衣装より、さらに丁寧なつくりだった。
侍女が一時間かけて髪を結い上げ、耳元に小さな飾りを挿してくれる。
鏡の中の自分は、少しだけ自分ではない誰かのようにも見えて、でも確かに私だった。
「緊張していますか?」
侍女が優しく聞いた。
「……少し」
「大丈夫ですよ。殿下が一緒にいらっしゃいますから」
「そうですね」
「それに……殿下、今日はずっとそわそわしていらっしゃったみたいですよ」
「……殿下が?」
「側近の方がこっそり教えてくれました。今朝から時間を何度も確認されているって」
「…………」
眼鏡を外しながら、私は少し笑ってしまった。
あの落ち着き払った殿下が、そわそわしている。
そう思うと、不思議と自分の緊張も少し和らいでいく。
「かわいいですね」
「ミルフィ様、もし殿下の前でそれを仰ったら大変なことになりますよ」
「言いません。心の中にしまっておきます」
準備を終えて廊下に出ると、殿下がそこにいた。
深い紺色の正装。胸に王家の紋章。いつもより少し改まった姿で立っている。
目が合うと、一瞬だけ、殿下の方も止まった。
「……来たか」
「はい」
「……似合っている」
「ありがとうございます」
「……選んだかいがあった。きれいだ」
そう呟いた声が、少しだけ低かった。
私はその声に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「殿下も、お似合いです」
「俺はいつもこういう服を着ているが」
「いつも似合っていますが、今日は特に」
殿下は少し間を置いてから、「行こう」と言った。
歩き出しながら、私は隣の殿下を横目で見る。
耳がほんの少し赤い気がした。
……かわいい。
その言葉は、心の中にだけしまっておいた。
大広間は、春の夜会と同じように輝いていた。
ただ、あの夜とは空気がまるで違う。
あの時の私は、廊下の柱の陰から覗いていた。招待もされていない平民の書記官として。
今日は、殿下の隣に立っている。
それだけで、見える景色の高さまで違う気がした。
「……緊張しているか」
小声で聞かれた。
「はい。でも大丈夫です」
「大丈夫か」
「リシャールが隣にいるので」
殿下は前を向いたまま、でも少しだけ手を私の方へ動かした。
指先が触れる。
そのまま、ゆっくりと手を握られた。
「……っ」
「緊張したらここを握れ」
「……はい」
「返事が小さい」
「緊張しているので」
「さっき大丈夫と言っていたが」
「大丈夫ですが、緊張はしています」
「矛盾している」
「していないです。緊張していても大丈夫なんです」
殿下は小さく笑った。
そのまま手を繋いだまま、私たちは大広間の中央へ進む。
国王陛下の声が、広間に響いた。
「本日、余の名において、王太子リシャール・フォン・エルムローゼと、ミルフィ・ベルランの婚約を公式に宣言する」
広間が静まり返る。
それから、拍手が起きた。
私はまっすぐ前を向き、息を整えた。
手の中には、殿下の手の温もりがある。
その温もりが、ここに立っていいのだと教えてくれている気がした。
……これが本物だ、と思った。
ふりではない。演技でもない。
本当に、ここに立っている。
前世で理不尽に終わらされた命が、この世界でこんな場所に辿り着いた。
ケーキと定時退勤だけが目標だった私が、王太子殿下の手を握って、大広間の中央に立っている。
人生というのは、本当にわからないものだ。
でも——。
「ミルフィ」
殿下が小声で言った。
「はい」
「大丈夫か」
「……はい。大丈夫です。本当に」
殿下は私の手を、少しだけ強く握った。
私も握り返す。
それだけで、十分に思えてしまう。



