婚約が公になってから二週間が過ぎた頃、エリーン・ヴァンドール令嬢が書記官室を訪ねてきた。
手には、きちんとした菓子店の箱が抱えられている。
「以前、持ってくると言っていたので」
「ありがとうございます。嬉しいです」
にっこり笑う令嬢に、私も思わず笑い返した。
昼休みを利用して、私たちは書記官室の近くにある小さな談話室でケーキを食べることにした。
エリーン令嬢が持ってきてくれたのは、上品な焼き菓子の詰め合わせだった。
ヴァンドール公爵家御用達の菓子師が作ったものだという。
「ミルフィさんって、本当にケーキがお好きなんですね」
「好きです。というより、人生の中心と言っても過言ではないです」
「人生の中心に……」
令嬢は少し笑った。
今日の令嬢は、春の夜会の時の硬い表情とはまるで違う。
やわらかくて、少し茶目っ気のある顔をしていた。
「すみません。聞いていいのかわからないんですが……その後、婚約の件は」
エリーン令嬢は窓の外を見て、少しだけ間を置いた。
「第二王子殿下との婚約は、正式に解消されました。父もそれで良いと言っています」
「そうですか」
「……怖かったです、あの夜会は。公衆の前で断罪されて、周りが離れていって。どうすればいいのかわからなくて。でも、ミルフィさんが来てくれて」
「あの時は、なんとなく我慢できなくなってしまって」
「なんとなく、でも来てくれたんですよね」
令嬢はまっすぐに私を見た。
「感謝してもしきれないです。本当に」
「……エリーン様のせいではない謀略でしたから」
「ミルフィさんは、正義感が強いんですね」
「正義感というより……理不尽なことが苦手なんです。特に今世と前世でいろいろあって、その」
「前世?」
うっかり口を滑らせてしまった。
「あ、えっと……少し変わった経緯がありまして」
「転生者の方ですか」
「……ご存知なんですか、そういうことを」
「貴族の間では、たまにいると聞きます。リシャール殿下も、ミルフィさんが転生者だと仰っていましたよ」
「……殿下と親しいんですね」
ほんの少し。
自分が知らない場所で、自分のことを話されていた。
その事実が、胸の奥に小さく引っかかった。
「ふふ。ご安心ください。ジュリアン様のことで気にかけていただいているだけですわ」
「!! す、すいません。そんなつもりじゃ……」
たぶん、顔に出たのだろう。
そんなつもりじゃない、と言いながら、ではどんなつもりなのかと聞かれたら困る。
ほんの少しだけ。
本当に少しだけ、お二人の間に何かあるのでは、などと思ってしまった自分に驚いていた。
あんな目に遭ったエリーン令嬢が、そんなことをするはずもないのに。
「殿下、ミルフィさんのことをよく話してくださいます」
「どんな話を?」
「書類の読み方がすごいとか、正直な人だとか、ケーキの話をする時に目が輝くとか」
「……ケーキの話の時に目が輝く、というのは少し恥ずかしいですね」
「かわいいと仰っていましたよ」
「…………」
私は焼き菓子を一口食べて、視線を逸らした。
かわいい、なんて。
「殿下はそういうことを……」
「ミルフィさんのことを、すごく大切に思っていらっしゃるんだと思います。話し方でわかります」
「…………」
返事ができなかった。
焼き菓子の甘さはちゃんとわかるのに、それより胸の奥の方が落ち着かなくて仕方がなかった。
エリーン令嬢は、優しい目をしていた。
「ミルフィさんは、殿下のことをどう思っていますか?」
「……それは」
「聞き過ぎでしたか。ごめんなさい」
「いえ、その」
私は少しだけ考えてから、正直に言った。
「……好きだと思います。たぶん」
「たぶん、というのは、自信がないから?」
以前、自分が殿下に言った言葉を思い出す。
『人は、自信がないことに『思う』という言葉を口にするんです』
それが今、綺麗に自分へ返ってきていた。
よくわからない転生者で、身分も釣り合わない。
自信なんて、持てるわけがない。
持てないまま、でも気持ちだけは少しずつ育ってしまったのだと思う。
「自分の気持ちに、わりと鈍い方なので。判断が遅いんです。でも、あの人と話していると落ち着くし、笑ってくれると嬉しいし、名前を呼ばれると……その、心拍数が上がります」
「それは恋ですよ」
「……そうですか」
「確実に」
断言されて、私はまた焼き菓子を一口食べた。
甘いはずなのに、少しだけ落ち着かない。
むしろ、甘さのぶんだけ胸の中のざわつきが目立つ気がした。
「……まあ、そうかもしれないとはわかっているんですが、まだちゃんと伝えていなくて」
「どうして?」
「タイミングがなくて。あと、ちゃんと整理してから伝えたい性格で」
「整理に時間がかかりそうですか」
「もう少し、かかるかもしれません」
エリーン令嬢は、にっこり笑った。
「殿下は待てる方だと思います。でも、あまり待たせすぎるのも可哀想かもしれませんよ」
「……可哀想、ですか」
「殿下、ミルフィさんの話をする時の顔が、すごく……なんというか、穏やかなんです。普段の殿下は、もう少し緊張感があるというか、隙がない感じがするのに」
「……そうなんですか」
「私、夜会以来何度か殿下とお話しする機会があったんですが、ミルフィさんの話をする時だけ、表情が違うんですよ」
「どう違うんですか」
「……うーん、なんというか……やわらかい、感じです」
私は焼き菓子の箱を見ながら、ひとつひとつその言葉を受け取っていた。
やわらかい、という言葉が、胸の奥に静かに残る。
あの人の表情を思い返すたび、思い当たるものがいくつもあって困ってしまう。
「……ありがとうございます、エリーン様。教えてくれて」
「様はやめてください。エリーンで」
「……エリーンさん」
「はい!」
令嬢——エリーンさんは、本当に嬉しそうに笑った。
「これからも仲良くしてください。王子の婚約者になったミルフィさんと友達でいられるなんて、すごいことですから」
「私の方こそ。エリーンさんみたいな人が友達にいてくれると、心強いです」
「私は力になれることがあまりないですけれど」
「ただ話せる相手がいることが、力になります」
エリーンさんは、少し目を細めて笑った。
「……私も、夜会の前日、誰かに話せていたら少し違ったかもしれないな、と思います」
「これからは話してください。聞きます」
「……ありがとう」
午後の陽光の中で、焼き菓子の箱はすっかり空になった。
帰り際、エリーンさんが「次は二人でパティスリー・ルルンに行きましょう」と言う。
「ぜひ」
「殿下は抜きで」
「……殿下に言ったら、なぜか来ると言いそうです」
「それはそれで楽しそうですが、今度は二人でね」
「わかりました。約束します」
談話室を出た後、私はしばらく窓の外を見ていた。
エリーンさんの言葉が、頭の中でゆっくり反響している。
やわらかい顔。
穏やかな話し方。
……そんなふうに、私のことを話してくれているのか。
自分の中の何かが、少しずつほどけていく気がした。
焦らなくてもいいのかもしれない、と、ほんの少しだけ思えた。
手には、きちんとした菓子店の箱が抱えられている。
「以前、持ってくると言っていたので」
「ありがとうございます。嬉しいです」
にっこり笑う令嬢に、私も思わず笑い返した。
昼休みを利用して、私たちは書記官室の近くにある小さな談話室でケーキを食べることにした。
エリーン令嬢が持ってきてくれたのは、上品な焼き菓子の詰め合わせだった。
ヴァンドール公爵家御用達の菓子師が作ったものだという。
「ミルフィさんって、本当にケーキがお好きなんですね」
「好きです。というより、人生の中心と言っても過言ではないです」
「人生の中心に……」
令嬢は少し笑った。
今日の令嬢は、春の夜会の時の硬い表情とはまるで違う。
やわらかくて、少し茶目っ気のある顔をしていた。
「すみません。聞いていいのかわからないんですが……その後、婚約の件は」
エリーン令嬢は窓の外を見て、少しだけ間を置いた。
「第二王子殿下との婚約は、正式に解消されました。父もそれで良いと言っています」
「そうですか」
「……怖かったです、あの夜会は。公衆の前で断罪されて、周りが離れていって。どうすればいいのかわからなくて。でも、ミルフィさんが来てくれて」
「あの時は、なんとなく我慢できなくなってしまって」
「なんとなく、でも来てくれたんですよね」
令嬢はまっすぐに私を見た。
「感謝してもしきれないです。本当に」
「……エリーン様のせいではない謀略でしたから」
「ミルフィさんは、正義感が強いんですね」
「正義感というより……理不尽なことが苦手なんです。特に今世と前世でいろいろあって、その」
「前世?」
うっかり口を滑らせてしまった。
「あ、えっと……少し変わった経緯がありまして」
「転生者の方ですか」
「……ご存知なんですか、そういうことを」
「貴族の間では、たまにいると聞きます。リシャール殿下も、ミルフィさんが転生者だと仰っていましたよ」
「……殿下と親しいんですね」
ほんの少し。
自分が知らない場所で、自分のことを話されていた。
その事実が、胸の奥に小さく引っかかった。
「ふふ。ご安心ください。ジュリアン様のことで気にかけていただいているだけですわ」
「!! す、すいません。そんなつもりじゃ……」
たぶん、顔に出たのだろう。
そんなつもりじゃない、と言いながら、ではどんなつもりなのかと聞かれたら困る。
ほんの少しだけ。
本当に少しだけ、お二人の間に何かあるのでは、などと思ってしまった自分に驚いていた。
あんな目に遭ったエリーン令嬢が、そんなことをするはずもないのに。
「殿下、ミルフィさんのことをよく話してくださいます」
「どんな話を?」
「書類の読み方がすごいとか、正直な人だとか、ケーキの話をする時に目が輝くとか」
「……ケーキの話の時に目が輝く、というのは少し恥ずかしいですね」
「かわいいと仰っていましたよ」
「…………」
私は焼き菓子を一口食べて、視線を逸らした。
かわいい、なんて。
「殿下はそういうことを……」
「ミルフィさんのことを、すごく大切に思っていらっしゃるんだと思います。話し方でわかります」
「…………」
返事ができなかった。
焼き菓子の甘さはちゃんとわかるのに、それより胸の奥の方が落ち着かなくて仕方がなかった。
エリーン令嬢は、優しい目をしていた。
「ミルフィさんは、殿下のことをどう思っていますか?」
「……それは」
「聞き過ぎでしたか。ごめんなさい」
「いえ、その」
私は少しだけ考えてから、正直に言った。
「……好きだと思います。たぶん」
「たぶん、というのは、自信がないから?」
以前、自分が殿下に言った言葉を思い出す。
『人は、自信がないことに『思う』という言葉を口にするんです』
それが今、綺麗に自分へ返ってきていた。
よくわからない転生者で、身分も釣り合わない。
自信なんて、持てるわけがない。
持てないまま、でも気持ちだけは少しずつ育ってしまったのだと思う。
「自分の気持ちに、わりと鈍い方なので。判断が遅いんです。でも、あの人と話していると落ち着くし、笑ってくれると嬉しいし、名前を呼ばれると……その、心拍数が上がります」
「それは恋ですよ」
「……そうですか」
「確実に」
断言されて、私はまた焼き菓子を一口食べた。
甘いはずなのに、少しだけ落ち着かない。
むしろ、甘さのぶんだけ胸の中のざわつきが目立つ気がした。
「……まあ、そうかもしれないとはわかっているんですが、まだちゃんと伝えていなくて」
「どうして?」
「タイミングがなくて。あと、ちゃんと整理してから伝えたい性格で」
「整理に時間がかかりそうですか」
「もう少し、かかるかもしれません」
エリーン令嬢は、にっこり笑った。
「殿下は待てる方だと思います。でも、あまり待たせすぎるのも可哀想かもしれませんよ」
「……可哀想、ですか」
「殿下、ミルフィさんの話をする時の顔が、すごく……なんというか、穏やかなんです。普段の殿下は、もう少し緊張感があるというか、隙がない感じがするのに」
「……そうなんですか」
「私、夜会以来何度か殿下とお話しする機会があったんですが、ミルフィさんの話をする時だけ、表情が違うんですよ」
「どう違うんですか」
「……うーん、なんというか……やわらかい、感じです」
私は焼き菓子の箱を見ながら、ひとつひとつその言葉を受け取っていた。
やわらかい、という言葉が、胸の奥に静かに残る。
あの人の表情を思い返すたび、思い当たるものがいくつもあって困ってしまう。
「……ありがとうございます、エリーン様。教えてくれて」
「様はやめてください。エリーンで」
「……エリーンさん」
「はい!」
令嬢——エリーンさんは、本当に嬉しそうに笑った。
「これからも仲良くしてください。王子の婚約者になったミルフィさんと友達でいられるなんて、すごいことですから」
「私の方こそ。エリーンさんみたいな人が友達にいてくれると、心強いです」
「私は力になれることがあまりないですけれど」
「ただ話せる相手がいることが、力になります」
エリーンさんは、少し目を細めて笑った。
「……私も、夜会の前日、誰かに話せていたら少し違ったかもしれないな、と思います」
「これからは話してください。聞きます」
「……ありがとう」
午後の陽光の中で、焼き菓子の箱はすっかり空になった。
帰り際、エリーンさんが「次は二人でパティスリー・ルルンに行きましょう」と言う。
「ぜひ」
「殿下は抜きで」
「……殿下に言ったら、なぜか来ると言いそうです」
「それはそれで楽しそうですが、今度は二人でね」
「わかりました。約束します」
談話室を出た後、私はしばらく窓の外を見ていた。
エリーンさんの言葉が、頭の中でゆっくり反響している。
やわらかい顔。
穏やかな話し方。
……そんなふうに、私のことを話してくれているのか。
自分の中の何かが、少しずつほどけていく気がした。
焦らなくてもいいのかもしれない、と、ほんの少しだけ思えた。



