翌朝、私が書記官室に出勤すると、部屋の空気がいつもと違っていた。
全員が私を見た。
しかもただ見るだけではない。何かを言いたそうにしながら、でもどう切り出していいかわからない、そんな空気が部屋じゅうに満ちている。
「……おはようございます」
「お、おはようございます……ベルラン書記官」
マリウスの声が、わずかに上ずっていた。
私はいつも通り上着を椅子の背にかけ、何事もないような顔で席に着く。
落ち着いているふりはしていたが、さすがに全員から見られると少しだけ肩がこわばる。
「なにか?」
「いえ、その……今朝、王宮内に告示が出まして」
「はい」
「殿下の……リシャール王太子殿下の、ご婚約に関する、お知らせが……」
「はあ」
「……お相手が、ベルラン書記官だと、書かれておりまして……」
マリウスは今にも倒れそうな顔をしていた。
私は静かに頷く。
「……存じております」
「ご存知、なんですね」
「はい」
「…………」
「仕事します」
「ちょっと待ってください、それだけですか!」
マリウスが、ついに大きな声を出した。
三年間で初めて聞く、マリウスの大声だった。
「何か他に言うことがあったでしょうか」
「あったでしょうか、ではないですよ! 昨日まで一緒に写本していた書記官が、今朝起きたら王太子殿下のご婚約者になっているんですよ!」
「……大袈裟な変化のように聞こえますが」
「大袈裟じゃないですよ!!」
書記官室の他の同僚たちも、おろおろと私とマリウスを見比べていた。
少し考えてから、私はマリウスに向き直る。
「マリウスさん、落ち着いてください」
「落ち着けない方が普通だと思います!」
「……まあ、色々あって、こういうことになりました」
「色々?」
「はい。詳しくは話せないのですが、王宮の事情と絡んでいて」
「絡んで、いて」
「私自身は、今後もできるだけいつも通りに仕事をするつもりです」
「……いつも通り、って、書記官を続けるんですか?」
「殿下からは、続けても構わないと言われています。少なくともしばらくは」
「……な、なるほど……」
マリウスは何度か深呼吸してから、ようやく椅子に座り直した。
「ベルラン書記官が幸せなら、それでいいです」
「ありがとうございます」
「ただ一つだけ言わせてください」
「はい」
「そんな大事なこと、もう少し早く教えてもらいたかったです」
「……申し訳ありませんでした」
それに対しては、素直に頭を下げた。
マリウスは複雑な顔をしながらも首を振り、やがて机に向かう。
書記官室がようやく落ち着きを取り戻したところで、午前中の仕事が始まった。
それでも、紙をめくる音の合間に、ちらちらとこちらへ向く視線だけはしばらく消えなかった。
ただ、昼前になって廊下が少しざわめいたかと思うと、殿下が書記官室の前に現れた。
書記官室の全員が、反射的に立ち上がる。
「座っていい。ミルフィ、昼食は今日も一緒に」
「……あの、定時に仕事が終わりますし、そちらに伺います」
「今日は俺がここに来た」
「…………」
書記官室の全員が、再び固まった。
マリウスは完全に目が点になっていた。
「では、こちらで少しお待ちください」
「ああ」
殿下は室内の椅子に座り、なんでもない顔で私が仕事を片付けるのを待ち始めた。
書記官室の空気が、不思議なものを見る時の静けさになる。
私は手元の書類を急ぎすぎないよう注意しながら仕上げ、立ち上がった。
「終わりました」
「行こう」
殿下と並んで書記官室を出る直前、廊下に向かいながら殿下が小声で言った。
「みんな、目が丸くなっていたな」
「当然です。昨日まで一緒に写本をしていた書記官が、今朝から王太子殿下のご婚約者になっていたんですから」
「そうか」
「驚かないんですか」
「驚く必要がない。俺が決めたことだから」
その言い方があまりに自然で、私は少し笑ってしまった。
「……笑った」
「変なことを言うんだもの」
「変なことではない」
「変ですよ。驚く必要がないって、そんな」
「お前が俺の婚約者になることは、数日前から決めていたことだ。驚く理由がない」
「数日前、というのは」
「ドレイクの件が片付く前から、考えていた」
私は歩きながら、その言葉をゆっくり咀嚼した。
軽く言っているようでいて、ずいぶん前から決めていたのだとわかる。
そう思うと、胸の奥がまた落ち着かなくなる。
「……計算ずくだったんですか」
「計算、とは少し違う」
「どう違うんですか」
「計算なら、もっと政治的に都合のいい相手を選ぶ」
「…………」
「俺が選びたかったのが、お前だった。それだけだ」
廊下に差し込む朝の光は、白く、明るかった。
私はしばらく黙って歩いた。
胸の中が、また騒がしくなっていく。
全員が私を見た。
しかもただ見るだけではない。何かを言いたそうにしながら、でもどう切り出していいかわからない、そんな空気が部屋じゅうに満ちている。
「……おはようございます」
「お、おはようございます……ベルラン書記官」
マリウスの声が、わずかに上ずっていた。
私はいつも通り上着を椅子の背にかけ、何事もないような顔で席に着く。
落ち着いているふりはしていたが、さすがに全員から見られると少しだけ肩がこわばる。
「なにか?」
「いえ、その……今朝、王宮内に告示が出まして」
「はい」
「殿下の……リシャール王太子殿下の、ご婚約に関する、お知らせが……」
「はあ」
「……お相手が、ベルラン書記官だと、書かれておりまして……」
マリウスは今にも倒れそうな顔をしていた。
私は静かに頷く。
「……存じております」
「ご存知、なんですね」
「はい」
「…………」
「仕事します」
「ちょっと待ってください、それだけですか!」
マリウスが、ついに大きな声を出した。
三年間で初めて聞く、マリウスの大声だった。
「何か他に言うことがあったでしょうか」
「あったでしょうか、ではないですよ! 昨日まで一緒に写本していた書記官が、今朝起きたら王太子殿下のご婚約者になっているんですよ!」
「……大袈裟な変化のように聞こえますが」
「大袈裟じゃないですよ!!」
書記官室の他の同僚たちも、おろおろと私とマリウスを見比べていた。
少し考えてから、私はマリウスに向き直る。
「マリウスさん、落ち着いてください」
「落ち着けない方が普通だと思います!」
「……まあ、色々あって、こういうことになりました」
「色々?」
「はい。詳しくは話せないのですが、王宮の事情と絡んでいて」
「絡んで、いて」
「私自身は、今後もできるだけいつも通りに仕事をするつもりです」
「……いつも通り、って、書記官を続けるんですか?」
「殿下からは、続けても構わないと言われています。少なくともしばらくは」
「……な、なるほど……」
マリウスは何度か深呼吸してから、ようやく椅子に座り直した。
「ベルラン書記官が幸せなら、それでいいです」
「ありがとうございます」
「ただ一つだけ言わせてください」
「はい」
「そんな大事なこと、もう少し早く教えてもらいたかったです」
「……申し訳ありませんでした」
それに対しては、素直に頭を下げた。
マリウスは複雑な顔をしながらも首を振り、やがて机に向かう。
書記官室がようやく落ち着きを取り戻したところで、午前中の仕事が始まった。
それでも、紙をめくる音の合間に、ちらちらとこちらへ向く視線だけはしばらく消えなかった。
ただ、昼前になって廊下が少しざわめいたかと思うと、殿下が書記官室の前に現れた。
書記官室の全員が、反射的に立ち上がる。
「座っていい。ミルフィ、昼食は今日も一緒に」
「……あの、定時に仕事が終わりますし、そちらに伺います」
「今日は俺がここに来た」
「…………」
書記官室の全員が、再び固まった。
マリウスは完全に目が点になっていた。
「では、こちらで少しお待ちください」
「ああ」
殿下は室内の椅子に座り、なんでもない顔で私が仕事を片付けるのを待ち始めた。
書記官室の空気が、不思議なものを見る時の静けさになる。
私は手元の書類を急ぎすぎないよう注意しながら仕上げ、立ち上がった。
「終わりました」
「行こう」
殿下と並んで書記官室を出る直前、廊下に向かいながら殿下が小声で言った。
「みんな、目が丸くなっていたな」
「当然です。昨日まで一緒に写本をしていた書記官が、今朝から王太子殿下のご婚約者になっていたんですから」
「そうか」
「驚かないんですか」
「驚く必要がない。俺が決めたことだから」
その言い方があまりに自然で、私は少し笑ってしまった。
「……笑った」
「変なことを言うんだもの」
「変なことではない」
「変ですよ。驚く必要がないって、そんな」
「お前が俺の婚約者になることは、数日前から決めていたことだ。驚く理由がない」
「数日前、というのは」
「ドレイクの件が片付く前から、考えていた」
私は歩きながら、その言葉をゆっくり咀嚼した。
軽く言っているようでいて、ずいぶん前から決めていたのだとわかる。
そう思うと、胸の奥がまた落ち着かなくなる。
「……計算ずくだったんですか」
「計算、とは少し違う」
「どう違うんですか」
「計算なら、もっと政治的に都合のいい相手を選ぶ」
「…………」
「俺が選びたかったのが、お前だった。それだけだ」
廊下に差し込む朝の光は、白く、明るかった。
私はしばらく黙って歩いた。
胸の中が、また騒がしくなっていく。



