定刻の鐘と、ケーキと、王太子と~前世は検察事務官。断罪を止めたら、恋人役のはずが本物の婚約者になりました~

以前担当した事件の犯人に、逆恨みで刺されたのだ。
詳細はよく覚えていない。たしか、出勤途中の駅前だったと思う。

走馬灯みたいに流れていく記憶のなかで、私が最後に考えたのは、昨日チーズケーキを二個食べておいてよかった、というひどく間の抜けたことだった気がする。

そして気がついたら、私はミルフィ・ベルランとして、この異世界に生まれていた。

……という事実を、今の今まで忘れていた。

いや、正確には、思い出せていなかった。
前世の記憶というものは、生まれ変わりの衝撃でぼやけてしまうことが多いのだろうか。
私の場合、子どもの頃から「なんとなくデジャヴのような感覚」として残っていた程度だったのだ。

それが今、『婚約破棄』という言葉をきっかけに、全部まとめて蘇ってきた。

「…………」

私はペンを持ったまま固まった。
二十七年間の前世の記憶が、一気に頭の中へ流れ込んでくる。
日本語。スマートフォン。電車が滑り込む音。コンビニの明るい照明。蛍光灯の下で紙をめくる職場の空気。

そして——『実果』と呼んでいた、あの男の顔。

「…………はあ」

深く、長いため息がこぼれた。

気分が悪い。

前世の記憶が戻ったこと自体は、別に悪くない。
むしろ前世知識を使えれば、仕事の効率が上がる可能性すらある。
けれど、よりによってこの瞬間に蘇ってくれた内容が、『三年間浮気されていた記憶』と『理不尽に殺された記憶』なのは、あまりにも趣味が悪い。

胸の奥に、もやもやとした怒りが湧いてくる。

浮気。逆恨み。
理不尽な暴力。

なんなんだ、一体。

私がなにをしたというんだ。
二十七年間、真面目に生きて、真面目に働いて、ただケーキを食べながら平和に暮らそうとしていただけなのに。
なんで、あんなふうに殺されなければならなかったのか。

……いや、もう前世の話だ。今さら怒ってもしょうがない。
わかっている。そんなことは、ちゃんとわかっている。
それでも感情というのは厄介で、頭で整理したくらいでは、込み上げてくる苦いものはそう簡単に消えてくれなかった。

そのとき、定時の鐘が鳴った。

「————」

私はペンを置いた。
ほとんど反射のように立ち上がり、上着を手に取る。
書類を所定の場所へしまい、インク瓶の蓋を閉める。机の上をひと目だけ確認する。
体はきちんと、いつもの順番を覚えていた。

今日はフルーツタルトを買う予定だった。
けれど今の気分には、たぶんガトーショコラのほうが合う。
甘すぎるものより、少しビターなほうがいい。

北棟の廊下は、夕方になると人の往来が増える。

日勤の文官や書記官たちがいっせいに退勤するため、通路は人の流れでごった返していた。
私はその流れに乗りながら、自分の歩調がいつもより少し速くなっていることに気づく。

苛立っている。
自覚はあった。

前世の記憶がよみがえったせいで、感情が普段の『無』の状態に戻りきっていない。
頭の中でぐるぐると、あの男の顔と、理不尽な暴力の記憶が回り続ける。

嫌だ。

本当に嫌だ。

ただ平和に生きたかっただけなのに。
前世でも、今世でも、私はただ淡々と仕事をして、美味しいものを食べて、穏やかに生きたいだけだったのに。

なんで世の中は、こうも理不尽なことばかり起きるのか。

廊下を曲がったところで、私は歩調を少し緩めた。
ここから先は北棟の主廊下につながる、少し格の高い通路だ。王族の方々が通ることも、たまにある。
うっかり早足のままでいると、礼儀知らずに見える。

そう思って速度を落とした、その瞬間だった。
角を曲がってきた人影と、正面からぶつかった。

「っ!」

手に持っていた書類の束が、ばさばさと廊下に散らばる。
相手も書類を持っていたらしく、床の上はあっという間に羊皮紙の海になった。

「申し訳ございません、前を見ておらず——」

私は素早く頭を下げ、ずり落ちたメガネを戻しながら床に膝をつく。
まず謝罪。次に書類の回収。
王宮での基本的な衝突対応である。

散らばった羊皮紙を手早く集めながら、相手の気配を感じた。

男性だ。
私より少し早く腰を落とし、同じように書類を拾っている。
ちらりと視界に入った手は、文官の白い手ではなかった。上質な手袋をはめた手だ。

「気にするな。こちらも前を見ていなかった」

低い、よく通る声だった。
耳に届いた瞬間、廊下のざわめきがわずかに遠のいた気がする。

私は顔を上げかけて——止まった。

視界に入ってきた書類に、ふと目が止まったからだ。
拾い上げかけた羊皮紙の一枚。そこに書かれていた文字を、私は反射的に読んでしまった。

『エリーン・ヴァンドール公爵令嬢による不正行為の記録』

その下に続く文章。
日付。場所。証言者の名前。

……おかしい。

前世で三年、証拠書類と向き合ってきた感覚が、ざわりと肌を粟立てた。
理屈より先に、指先のほうが異物を弾いたような感覚だった。

証言者は三名と記されている。だが、そのうち二名の名前に微妙な違和感があった。
筆跡が、他の部分とほんの少しだけ違うのだ。
後から書き足した時に出る、あのわずかな線の強弱の差。意識しなければ見落とす程度の、けれど見慣れていれば引っかかる不自然さだった。

それだけではない。

日付の記載も妙だった。
『三月十二日』とあるが、記録にある出来事が起きたとされるその日は、私の記憶が正しければ公爵令嬢が王都を離れていた時期と重なっている。
王宮の物資記録を写していた時に見た、ヴァンドール公爵家の地方赴任記録が頭に引っかかった。

あの記録が正しければ、この日付の『事件』が起きた日、エリーン・ヴァンドール令嬢は王都にいない。
つまり、この書類は——少なくとも、そのまま鵜呑みにしていい代物ではない。

「——どうした」

声がして、私ははっと顔を上げた。
一気に現実へ引き戻される。
目の前に、男がいた。

二十代半ばだろうか。
深い青灰色の目が、こちらをまっすぐ見ている。
整った顔立ち。やや長めで、光の加減によって金がかって見える淡い茶色の髪。
身に着けている衣服は一見すると質素だが、素材はどう見ても最上級のものだった。
胸元にあしらわれた紋章が、斜めにずれて少しだけ見えている。

その紋章を認識した瞬間、頭の中で何かがかちりと噛み合った。

王室の紋章。

翼を広げた獅子と、七つの星。

……あれ。

私は固まった。
背筋が、すっと冷える。
目の前のこの人は、もしかして。

「書類を拾ってくれるのはありがたいが、そのまま読み込まれるのは困る」
「も、申し訳ございません」

穏やかだが、きちんと釘を刺す口調だった。
怒鳴られたわけでもないのに、心臓が数秒遅れて強く跳ねる。
私は慌てて書類を相手のほうへ押しやりながら立ち上がろうとした——が、膝が少しもたついた。

「慌てなくていい」

男は書類を受け取りながら、流れるような所作ですっと立ち上がる。
私も続いて立ち上がり、深々と頭を下げた。

「大変失礼いたしました、殿下」

確認はしていない。けれど、まあ間違いないだろう。
あの紋章と、あの立ち居振る舞いなら。

「ああ」

短い返事に、怒っている気配はない。
私は慎重に顔を上げた。
男——王太子殿下は、受け取った書類を手際よく重ねながら、ちらりとこちらを見る。

「お前、書記官か」
「はい。北棟第七書記官のミルフィ・ベルランと申します」
「第七書記官……ああ、文書管理局の」
「さようでございます」

殿下はしばらく私を見ていた。
値踏みするような目ではない。ただ、純粋に観察しているような目だった。
その静かな視線のせいで、かえってこちらの落ち着きが削られていく。