翌日の午前中、リシャール殿下は国王陛下への報告に臨んだ。
その場に、私は同席していない。
当然だ。一書記官が、国王陛下への正式な報告の場に入る立場ではない。
殿下からは「報告が終わったら知らせる」とだけ言われていたので、私はいつも通り書記官室で仕事をしながら、結果を待つしかなかった。
でも、正直なところ、朝から少しも落ち着かなかった。
七年分の不正の証拠。筆跡鑑定。裏帳簿。書類の欠落パターン。
ここまで揃えれば、十分なはずだ。理屈では、そうだ。たぶん、だ。
……それでも、ドレイク宰相は七年間、これを隠し通してきた人物である。
そんな相手が、最後の最後まで何も仕掛けてこないとも思えなかった。
「ベルラン書記官、ペンが止まっていますよ」
上司に指摘されて、私ははっと我に返った。
「……すみません」
「珍しいですね。仕事中に考え事するなんて」
「少し、気になることがありまして」
「もしかして殿下の件ですか」
「……どうしてそう思うんですか」
「昨日、殿下が遅い時間にこちらに来ていたことは把握しています。何かある時は、だいたい殿下絡みのことでしょう」
この上司は、意外と部下をよく見ている。
「……まあ、少し」
「うまくいくといいですね」
それだけ言って、上司は自分の仕事に戻った。
ありがたい人だと思った。
余計な詮索はしない。でも、きちんと気にかけてはくれている。
王宮書記官というのは、こういう人ばかりではないけれど、こういう人はちゃんと信用できる。
昼を過ぎた頃、ラルフが現れた。
「殿下からのご伝言です。報告は無事終わりました。詳しくは後ほど執務室にて」
「わかりました」
無事、という言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。
夕方、私は執務室へ向かった。
殿下は、いつもより少しだけ疲れた顔をしていた。
けれど、それでも落ち着いた様子だった。
「座れ」
「お疲れ様でした」
「ああ」
殿下は椅子に深く座りながら、「父王は証拠を全て確認した」と言った。
「どのような反応でしたか」
「……最初は信じなかった」
「そうでしょうね。七年間、宰相として仕えてきた人物ですから」
「だが、裏帳簿と書状の鑑定結果を見て、沈黙した。その後、司法担当の責任者を呼び、正式な調査を開始することになった」
「ドレイク宰相は?」
「今日の午後、宰相の権限を一時停止する措置が取られた。正式な処分は調査の後だが、実質的には終わりだ」
「……そうですか」
私は静かに、その言葉を受け取った。
七年間続いた不正が、終わる。
エリーン令嬢を陥れた謀略の黒幕が、裁かれる。
「よかったです」
「ああ」
「殿下の婚約の件は」
「ドレイクの申し入れは白紙に戻された。イリス・ドレイク令嬢については、本人に罪はないとして身分的な保護は続ける予定だが、婚約の話は完全になくなった」
「それは……本当によかったです」
「お前のおかげだ」
「殿下がご決断をされたことが大きいです」
「それはそうだとしても、お前がいなければ、ここまで証拠は揃えられなかった」
殿下は、まっすぐ私を見た。
「約束のホールケーキは、来週届けさせる」
「……本当にいいんですか? 予約待ち一年って仰っていましたが」
「俺の頼みだから融通してもらえる。心配するな」
「……ありがとうございます。楽しみにしています」
「他に礼をしたいのだが、お前が欲しいものは大体ケーキ関連のものだと思っていたが、合っているか」
「……大体そうです。でも、礼は別に必要ありません。お仕事でしたし」
「そうは思っていないが」
殿下はそこで少しだけ間を置いた。
「ミルフィ」
「はい」
「一つ、追加で頼みたいことがある」
「……はい?」
その声色が、さっきまでの報告や礼の時とは、ほんの少しだけ違って聞こえた。
私は無意識に背筋を伸ばし、少しだけ身構えた。
この流れだ。また、どんな依頼をされるのか。
「ドレイクが失脚した後、王宮内の権力バランスは一時的に不安定になる。その中で、俺の婚約問題も改めて表面化してくる可能性がある」
「……ああ、そうか。後継者としての婚約は、別途必要になってくるんですね」
「そうだ。父王は今、俺の婚約について動こうとしている。複数の候補家から話が来ている」
「……それは、おめでとうございます。が、私には関係のない話では」
「関係ある」
「え?」
「お前に、しばらく俺の婚約者のふりを続けてもらいたい」
固まった。
脳内で、言葉の意味がうまく処理できない。
さっきまで書類の話をしていたはずなのに、急に別の世界の会話へ放り込まれた気分だった。
「え、でも、ドレイクの件は終わりましたよね」
「終わった。だが、俺が自分で選ぶ時間が必要だ。各家からの圧力を一時的に抑えるために、お前がいてくれると助かる」
「……それは、つまり、まだしばらく」
「身代わりの婚約者として、というわけではなく——正確には、根拠として弱いんだ」
「根拠、とは?」
「婚約を断るための根拠が。俺の意志だけでは、政治的に動き始めた話を全部止めることはできない。お前がいることで、それを示せる」
「……それはわかりますが。でも、私は書記官で」
「身分の問題は解決策を考える」
「解決策」
「お前を正式に俺の……この場合、婚約者として表向きに扱うことで、他の話を止める」
「…………」
内容をうまく飲み込めないまま、話だけが先へ進んでいく。
「それは……恋人のふりより、さらに踏み込んだ話ですね」
「ああ」
「断っても」
「構わない」
殿下は、いつものように『強制はしない』という声音で言った。
「ただ——俺は、お前にやってほしいと思っている」
「……なぜですか」
「お前と一緒にいると、話が楽だ。仕事の話も、そうでない話も。そういう人間は、そうそういない」
「それは……書記官として仕えればいいのでは」
「書記官では近すぎる距離に置けない。俺の婚約者という立場なら、正式に傍に置いておける」
「……それは、えっと、その」
「それ以上の意味があるかどうかは、お前に委ねる」
……それを言ったら、それ以上の意味がある、ということになるのではないか。
私は頭の中がぐるぐるしていた。
突っ込むべきか、突っ込まないべきか。その線引きさえ曖昧になる。
ただ、ここで踏み込んだら、もう後には戻れない。
それだけは、なんとなくわかった。
わかったのに、逃げるように話題を逸らすこともできなかった。本気で。
「ケーキを出しましょうか」
「……なぜ」
「考える時間が欲しくて、口が何かを言いたがっているんです」
殿下が、わずかに苦笑した気配があった。
「残念ながら今は手元にない」
「では、考えます」
「ゆっくり考えていい」
私はしばらく黙って、自分の気持ちを整理しようとした。
……この件が終わったら、また書記官室に戻る予定だった。
でもこの人は、「終わった後も傍に置いておきたい」と言っている。
それが政治的な方便なのか、それとも——。
「一つ、正直に聞いていいですか」
「なんだ」
「殿下は、私のことを——その、政治的な方便以上の意味で考えていますか」
聞いてから、自分でも少し大胆だったと思った。
でも、嘘をつくのが苦手な私には、遠回しに確かめる方法がわからない。
だから、結局まっすぐ聞くしかなかった。
殿下はしばらく黙っていた。
「……ある」
「……どの程度」
「かなり」
短い返事が、静かな執務室に落ちた。
私はしばらく、呼吸の仕方を忘れていた。
心臓だけがやけにうるさくて、自分の耳の奥で鳴っているみたいだった。
「……それは、私が想像しているような意味で」
「お前が想像している通りだと思う」
「…………」
胸の中が、またあの騒がしさでいっぱいになる。
でも今度は、仕事だと念押ししようとしても、その言葉自体がうまく浮かんでこなかった。
「……思う、ですか」
「だめか?」
「人は、自信がないことには『思う』って言うんです」
「ふっ。お前らしいな。では、お前の想像通りだと断言しよう」
殿下は静かに、けれど逃がさないように聞いた。
「……お前はどうだ」
「……私は」
答えかけて、止まる。
前世で三年間、浮気に気づかなかった。
自分の気持ちに鈍い人間だと、もうわかっている。
だからこそ、ここで曖昧なまま頷きたくはなかった。
今この場の空気に流されて返事をしたら、たぶん後で自分が嫌になる。
「……少し、時間をください」
「わかった」
「自分の気持ちを整理したいんです。判断が速い方ではないので」
「ゆっくりでいい」
「ただ」
「うん」
「婚約者のふりについては、お引き受けします。今すぐここで決めます。殿下の事情もわかりましたし、王国のためになる話だとも思いますし——それと、まあ」
私は少しだけ視線を逸らした。
「それ以上の意味については保留ですが、殿下の傍にいること自体は、嫌ではありませんので」
「……そうか」
少し間があった。
そのあと返ってきた声は、さっきよりわずかに柔らかかった。
「では、ケーキの話に戻ると」
「……急に戻るのか」
「ホールケーキは今回の件の報酬として、すでに約束されていますよね。今回の新しい依頼に対する報酬は、別途必要です」
「……またケーキか」
「ケーキ以外に、今ほしいものが思い浮かびません」
「……では、お前が気に入った菓子師に、定期的に依頼を出す権限をやる」
「それは大変ありがたいです」
「本当に、お前という人間は」
殿下は笑っていた。
本当に、楽しそうに笑っていた。
私は遠慮なく笑い返した。
こういうふうに笑い合えること自体が、なんだか少し不思議だった。
「……では、改めてよろしくお願いします。リシャール」
「ああ」
殿下——リシャールは、小さく頷いた。
「よろしく、ミルフィ」
その夜、私はパティスリー・ルルンの閉店五分前に飛び込んで、残っていたシュークリームを三つ買った。
家に帰って、全部食べた。
美味しかった。
でも、それよりも。
胸の中にあった騒がしさの方が、ずっとずっと大きかった。
その場に、私は同席していない。
当然だ。一書記官が、国王陛下への正式な報告の場に入る立場ではない。
殿下からは「報告が終わったら知らせる」とだけ言われていたので、私はいつも通り書記官室で仕事をしながら、結果を待つしかなかった。
でも、正直なところ、朝から少しも落ち着かなかった。
七年分の不正の証拠。筆跡鑑定。裏帳簿。書類の欠落パターン。
ここまで揃えれば、十分なはずだ。理屈では、そうだ。たぶん、だ。
……それでも、ドレイク宰相は七年間、これを隠し通してきた人物である。
そんな相手が、最後の最後まで何も仕掛けてこないとも思えなかった。
「ベルラン書記官、ペンが止まっていますよ」
上司に指摘されて、私ははっと我に返った。
「……すみません」
「珍しいですね。仕事中に考え事するなんて」
「少し、気になることがありまして」
「もしかして殿下の件ですか」
「……どうしてそう思うんですか」
「昨日、殿下が遅い時間にこちらに来ていたことは把握しています。何かある時は、だいたい殿下絡みのことでしょう」
この上司は、意外と部下をよく見ている。
「……まあ、少し」
「うまくいくといいですね」
それだけ言って、上司は自分の仕事に戻った。
ありがたい人だと思った。
余計な詮索はしない。でも、きちんと気にかけてはくれている。
王宮書記官というのは、こういう人ばかりではないけれど、こういう人はちゃんと信用できる。
昼を過ぎた頃、ラルフが現れた。
「殿下からのご伝言です。報告は無事終わりました。詳しくは後ほど執務室にて」
「わかりました」
無事、という言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。
夕方、私は執務室へ向かった。
殿下は、いつもより少しだけ疲れた顔をしていた。
けれど、それでも落ち着いた様子だった。
「座れ」
「お疲れ様でした」
「ああ」
殿下は椅子に深く座りながら、「父王は証拠を全て確認した」と言った。
「どのような反応でしたか」
「……最初は信じなかった」
「そうでしょうね。七年間、宰相として仕えてきた人物ですから」
「だが、裏帳簿と書状の鑑定結果を見て、沈黙した。その後、司法担当の責任者を呼び、正式な調査を開始することになった」
「ドレイク宰相は?」
「今日の午後、宰相の権限を一時停止する措置が取られた。正式な処分は調査の後だが、実質的には終わりだ」
「……そうですか」
私は静かに、その言葉を受け取った。
七年間続いた不正が、終わる。
エリーン令嬢を陥れた謀略の黒幕が、裁かれる。
「よかったです」
「ああ」
「殿下の婚約の件は」
「ドレイクの申し入れは白紙に戻された。イリス・ドレイク令嬢については、本人に罪はないとして身分的な保護は続ける予定だが、婚約の話は完全になくなった」
「それは……本当によかったです」
「お前のおかげだ」
「殿下がご決断をされたことが大きいです」
「それはそうだとしても、お前がいなければ、ここまで証拠は揃えられなかった」
殿下は、まっすぐ私を見た。
「約束のホールケーキは、来週届けさせる」
「……本当にいいんですか? 予約待ち一年って仰っていましたが」
「俺の頼みだから融通してもらえる。心配するな」
「……ありがとうございます。楽しみにしています」
「他に礼をしたいのだが、お前が欲しいものは大体ケーキ関連のものだと思っていたが、合っているか」
「……大体そうです。でも、礼は別に必要ありません。お仕事でしたし」
「そうは思っていないが」
殿下はそこで少しだけ間を置いた。
「ミルフィ」
「はい」
「一つ、追加で頼みたいことがある」
「……はい?」
その声色が、さっきまでの報告や礼の時とは、ほんの少しだけ違って聞こえた。
私は無意識に背筋を伸ばし、少しだけ身構えた。
この流れだ。また、どんな依頼をされるのか。
「ドレイクが失脚した後、王宮内の権力バランスは一時的に不安定になる。その中で、俺の婚約問題も改めて表面化してくる可能性がある」
「……ああ、そうか。後継者としての婚約は、別途必要になってくるんですね」
「そうだ。父王は今、俺の婚約について動こうとしている。複数の候補家から話が来ている」
「……それは、おめでとうございます。が、私には関係のない話では」
「関係ある」
「え?」
「お前に、しばらく俺の婚約者のふりを続けてもらいたい」
固まった。
脳内で、言葉の意味がうまく処理できない。
さっきまで書類の話をしていたはずなのに、急に別の世界の会話へ放り込まれた気分だった。
「え、でも、ドレイクの件は終わりましたよね」
「終わった。だが、俺が自分で選ぶ時間が必要だ。各家からの圧力を一時的に抑えるために、お前がいてくれると助かる」
「……それは、つまり、まだしばらく」
「身代わりの婚約者として、というわけではなく——正確には、根拠として弱いんだ」
「根拠、とは?」
「婚約を断るための根拠が。俺の意志だけでは、政治的に動き始めた話を全部止めることはできない。お前がいることで、それを示せる」
「……それはわかりますが。でも、私は書記官で」
「身分の問題は解決策を考える」
「解決策」
「お前を正式に俺の……この場合、婚約者として表向きに扱うことで、他の話を止める」
「…………」
内容をうまく飲み込めないまま、話だけが先へ進んでいく。
「それは……恋人のふりより、さらに踏み込んだ話ですね」
「ああ」
「断っても」
「構わない」
殿下は、いつものように『強制はしない』という声音で言った。
「ただ——俺は、お前にやってほしいと思っている」
「……なぜですか」
「お前と一緒にいると、話が楽だ。仕事の話も、そうでない話も。そういう人間は、そうそういない」
「それは……書記官として仕えればいいのでは」
「書記官では近すぎる距離に置けない。俺の婚約者という立場なら、正式に傍に置いておける」
「……それは、えっと、その」
「それ以上の意味があるかどうかは、お前に委ねる」
……それを言ったら、それ以上の意味がある、ということになるのではないか。
私は頭の中がぐるぐるしていた。
突っ込むべきか、突っ込まないべきか。その線引きさえ曖昧になる。
ただ、ここで踏み込んだら、もう後には戻れない。
それだけは、なんとなくわかった。
わかったのに、逃げるように話題を逸らすこともできなかった。本気で。
「ケーキを出しましょうか」
「……なぜ」
「考える時間が欲しくて、口が何かを言いたがっているんです」
殿下が、わずかに苦笑した気配があった。
「残念ながら今は手元にない」
「では、考えます」
「ゆっくり考えていい」
私はしばらく黙って、自分の気持ちを整理しようとした。
……この件が終わったら、また書記官室に戻る予定だった。
でもこの人は、「終わった後も傍に置いておきたい」と言っている。
それが政治的な方便なのか、それとも——。
「一つ、正直に聞いていいですか」
「なんだ」
「殿下は、私のことを——その、政治的な方便以上の意味で考えていますか」
聞いてから、自分でも少し大胆だったと思った。
でも、嘘をつくのが苦手な私には、遠回しに確かめる方法がわからない。
だから、結局まっすぐ聞くしかなかった。
殿下はしばらく黙っていた。
「……ある」
「……どの程度」
「かなり」
短い返事が、静かな執務室に落ちた。
私はしばらく、呼吸の仕方を忘れていた。
心臓だけがやけにうるさくて、自分の耳の奥で鳴っているみたいだった。
「……それは、私が想像しているような意味で」
「お前が想像している通りだと思う」
「…………」
胸の中が、またあの騒がしさでいっぱいになる。
でも今度は、仕事だと念押ししようとしても、その言葉自体がうまく浮かんでこなかった。
「……思う、ですか」
「だめか?」
「人は、自信がないことには『思う』って言うんです」
「ふっ。お前らしいな。では、お前の想像通りだと断言しよう」
殿下は静かに、けれど逃がさないように聞いた。
「……お前はどうだ」
「……私は」
答えかけて、止まる。
前世で三年間、浮気に気づかなかった。
自分の気持ちに鈍い人間だと、もうわかっている。
だからこそ、ここで曖昧なまま頷きたくはなかった。
今この場の空気に流されて返事をしたら、たぶん後で自分が嫌になる。
「……少し、時間をください」
「わかった」
「自分の気持ちを整理したいんです。判断が速い方ではないので」
「ゆっくりでいい」
「ただ」
「うん」
「婚約者のふりについては、お引き受けします。今すぐここで決めます。殿下の事情もわかりましたし、王国のためになる話だとも思いますし——それと、まあ」
私は少しだけ視線を逸らした。
「それ以上の意味については保留ですが、殿下の傍にいること自体は、嫌ではありませんので」
「……そうか」
少し間があった。
そのあと返ってきた声は、さっきよりわずかに柔らかかった。
「では、ケーキの話に戻ると」
「……急に戻るのか」
「ホールケーキは今回の件の報酬として、すでに約束されていますよね。今回の新しい依頼に対する報酬は、別途必要です」
「……またケーキか」
「ケーキ以外に、今ほしいものが思い浮かびません」
「……では、お前が気に入った菓子師に、定期的に依頼を出す権限をやる」
「それは大変ありがたいです」
「本当に、お前という人間は」
殿下は笑っていた。
本当に、楽しそうに笑っていた。
私は遠慮なく笑い返した。
こういうふうに笑い合えること自体が、なんだか少し不思議だった。
「……では、改めてよろしくお願いします。リシャール」
「ああ」
殿下——リシャールは、小さく頷いた。
「よろしく、ミルフィ」
その夜、私はパティスリー・ルルンの閉店五分前に飛び込んで、残っていたシュークリームを三つ買った。
家に帰って、全部食べた。
美味しかった。
でも、それよりも。
胸の中にあった騒がしさの方が、ずっとずっと大きかった。



