次に向かったのは、路地裏にある製本工房だ。
こちらは文具店よりもずっと庶民的で、糊と革と紙の匂いが入り混じっている。
帳簿の綴じ直しに手慣れた職人がいれば、差し替え頁の綴じ方にも見覚えがあるかもしれない。
工房の親方に、ラルフが事前に用意していた見本の綴じを見せると、親方は「ああ」と低く唸った。
「この締め方は、うちじゃないな。でも王都でやれる奴は限られる」
「誰ですか」
「北市場の奥にいる老職人か、宰相府付きの工房の若いのか……まあ、たぶん後者だろうな。癖が若い」
「癖、ですか」
「綺麗に見せたがる締め方だ。慣れた職人は、こんな見栄えの方は気にしねえ」
なるほど、と私は思った。
偽造にも、技術と性格が出る。
工房を出る時、通りの向こうから若い令嬢が二人、こちらを見てひそひそと囁いているのが聞こえた。
「やっぱり本当なのね」
「王太子殿下のお相手って、あの方?」
「地味だけど、案外……」
最後までは聞こえなかった。
いや、聞こえなかったことにした。
私は足早に歩こうとしたが、その前に殿下がさりげなく私の歩幅に合わせてきた。
しかも、ほんの少しだけ腰のあたりに手を添える。
「……殿下」
「何だ」
「今の、必要でしたか」
「必要だった」
「本当に?」
「十分に」
顔が少し熱くなる。
演技だ。わかっている。
わかっているのに、実際に触れられると、それはそれで別問題だった。
「顔が赤い」
「気のせいです」
「そうか」
「そうです」
そのまま大通りへ戻ると、午後の街は賑わっていた。
果物売りの声。馬車の車輪の音。焼き菓子の匂い。
私は普段、定時後にしか王都を歩かないから、こうして明るいうちの街を見るのは少し新鮮だった。
「次はどちらへ」
「最後に一軒、寄りたいところがある」
「調査先ですか」
「半分」
「残り半分は」
「行けばわかる」
嫌な予感が、これで二度目を迎えた。
連れて行かれたのは、中央通りから少し外れた場所にある、落ち着いた雰囲気の菓子店だった。
高級店らしく、窓辺には宝石みたいなケーキが整然と並んでいる。
艶のある果実のタルト、鏡のように光るチョコレート菓子、繊細な飾りのついた小さな焼き菓子。
見ているだけで、自分の財布では縁がないとわかる種類の店だ。
私は思わず足を止めた。
「……ここ」
「入るぞ」
「え、あの」
「嫌か」
「嫌ではありませんが、価格帯が私の知っている世界ではありません」
「今日は知る日だ」
「ずいぶん豪快な学びですね」
店に入ると、店員が一瞬息を呑み、次いで完璧な笑みを浮かべた。
やはり王太子という肩書きは、いろいろな意味で便利らしい。
店の空気そのものが、一段静かに整えられた気がした。
殿下はショーケースを眺めながら、当然のように私に言った。
「選べ」
「……任務経費ですか」
「違う」
「では調査上の必要経費?」
「それも違う」
「では、なぜ」
「俺が買いたいだけだ」
あまりにあっさり言われて、私は数秒黙った。
店員が絶妙な角度で視線を逸らしてくれているのが、逆に気まずい。
「……王太子殿下」
「何だ」
「そういうことを平然と言わないでください」
「なぜ」
「周囲が誤解します」
「誤解ではないだろう。今日はそういう設定だ」
「設定と、今の台詞は少し種類が違います」
「そうか?」
「そうです」
殿下は首を傾げたが、それ以上は追及してこなかった。
代わりに、「この店のチョコレート菓子は評判がいいらしい」と言う。
それは困る。
そんなことを言われたら、選ばないわけにいかない。
結局私は、艶のある濃いチョコレートの小さなケーキと、季節の果実を使った焼き菓子を選んだ。
殿下は何も選ばなかった。
ただ、私が迷っている様子をなぜか静かに見ていた。
店を出る頃には、店員の目は完全に「仲睦まじい恋人」に向けるものになっていた。
非常に居心地が悪い。
でも、心のどこかでは少しだけ、こそばゆい。
見られているのに、完全に嫌だとは思っていない自分が少し厄介だった。
帰りの馬車の中で、私は買ってもらった小さな箱を膝の上に置いていた。
「……収穫はありましたね」
「ああ」
「紙の注文先、綴じ工房、宰相府経由の発注。だいぶ絞れました」
「お前を連れ出した甲斐があった」
「私としては、仕事をしに来たのか菓子を買いに来たのか、途中から少し怪しくなりましたが」
「両方だ」
「そうですか」
箱を見下ろす。
綺麗な紺色のリボンがかかっている。
自分ではまず買わない店だ。
だから余計に、なんとなく落ち着かない。
「……でも」
「何だ」
「少しだけ、楽しかったです」
「少しだけか」
「かなり、と言うと調子に乗りそうなので」
「もう十分乗っている」
「自覚がおありなら結構です」
殿下は笑った。
はっきりと、楽しそうに。
その顔を見て、私は少しだけ目を丸くした。
王太子としての顔でも、策を巡らせる時の顔でもない。
年相応の、ただ一人の男の顔だった。
「ベルラン」
「はい」
「次もある」
「それは、調査の外出ですか」
「それもある」
「またもがつくんですね」
「当然だろう」
私は箱を抱えたまま、ため息をついた。
定時退勤とケーキだけを考えていたはずの私の人生は、気づけばとんでもない方向へ転がり始めている。
その中心にいるのが王太子殿下で、その人が今、隣で妙に満ち足りた顔をしているのだから、なおさら始末が悪い。
でもまあ、今日のところはよしとしよう。
調査は進んだ。
ケーキも手に入った。
定時にも、ぎりぎり間に合いそうだ。
それくらいの現実的な条件がそろっているなら、少しばかり人生が予定外でも、たぶん何とかなる。
……たぶん。
こちらは文具店よりもずっと庶民的で、糊と革と紙の匂いが入り混じっている。
帳簿の綴じ直しに手慣れた職人がいれば、差し替え頁の綴じ方にも見覚えがあるかもしれない。
工房の親方に、ラルフが事前に用意していた見本の綴じを見せると、親方は「ああ」と低く唸った。
「この締め方は、うちじゃないな。でも王都でやれる奴は限られる」
「誰ですか」
「北市場の奥にいる老職人か、宰相府付きの工房の若いのか……まあ、たぶん後者だろうな。癖が若い」
「癖、ですか」
「綺麗に見せたがる締め方だ。慣れた職人は、こんな見栄えの方は気にしねえ」
なるほど、と私は思った。
偽造にも、技術と性格が出る。
工房を出る時、通りの向こうから若い令嬢が二人、こちらを見てひそひそと囁いているのが聞こえた。
「やっぱり本当なのね」
「王太子殿下のお相手って、あの方?」
「地味だけど、案外……」
最後までは聞こえなかった。
いや、聞こえなかったことにした。
私は足早に歩こうとしたが、その前に殿下がさりげなく私の歩幅に合わせてきた。
しかも、ほんの少しだけ腰のあたりに手を添える。
「……殿下」
「何だ」
「今の、必要でしたか」
「必要だった」
「本当に?」
「十分に」
顔が少し熱くなる。
演技だ。わかっている。
わかっているのに、実際に触れられると、それはそれで別問題だった。
「顔が赤い」
「気のせいです」
「そうか」
「そうです」
そのまま大通りへ戻ると、午後の街は賑わっていた。
果物売りの声。馬車の車輪の音。焼き菓子の匂い。
私は普段、定時後にしか王都を歩かないから、こうして明るいうちの街を見るのは少し新鮮だった。
「次はどちらへ」
「最後に一軒、寄りたいところがある」
「調査先ですか」
「半分」
「残り半分は」
「行けばわかる」
嫌な予感が、これで二度目を迎えた。
連れて行かれたのは、中央通りから少し外れた場所にある、落ち着いた雰囲気の菓子店だった。
高級店らしく、窓辺には宝石みたいなケーキが整然と並んでいる。
艶のある果実のタルト、鏡のように光るチョコレート菓子、繊細な飾りのついた小さな焼き菓子。
見ているだけで、自分の財布では縁がないとわかる種類の店だ。
私は思わず足を止めた。
「……ここ」
「入るぞ」
「え、あの」
「嫌か」
「嫌ではありませんが、価格帯が私の知っている世界ではありません」
「今日は知る日だ」
「ずいぶん豪快な学びですね」
店に入ると、店員が一瞬息を呑み、次いで完璧な笑みを浮かべた。
やはり王太子という肩書きは、いろいろな意味で便利らしい。
店の空気そのものが、一段静かに整えられた気がした。
殿下はショーケースを眺めながら、当然のように私に言った。
「選べ」
「……任務経費ですか」
「違う」
「では調査上の必要経費?」
「それも違う」
「では、なぜ」
「俺が買いたいだけだ」
あまりにあっさり言われて、私は数秒黙った。
店員が絶妙な角度で視線を逸らしてくれているのが、逆に気まずい。
「……王太子殿下」
「何だ」
「そういうことを平然と言わないでください」
「なぜ」
「周囲が誤解します」
「誤解ではないだろう。今日はそういう設定だ」
「設定と、今の台詞は少し種類が違います」
「そうか?」
「そうです」
殿下は首を傾げたが、それ以上は追及してこなかった。
代わりに、「この店のチョコレート菓子は評判がいいらしい」と言う。
それは困る。
そんなことを言われたら、選ばないわけにいかない。
結局私は、艶のある濃いチョコレートの小さなケーキと、季節の果実を使った焼き菓子を選んだ。
殿下は何も選ばなかった。
ただ、私が迷っている様子をなぜか静かに見ていた。
店を出る頃には、店員の目は完全に「仲睦まじい恋人」に向けるものになっていた。
非常に居心地が悪い。
でも、心のどこかでは少しだけ、こそばゆい。
見られているのに、完全に嫌だとは思っていない自分が少し厄介だった。
帰りの馬車の中で、私は買ってもらった小さな箱を膝の上に置いていた。
「……収穫はありましたね」
「ああ」
「紙の注文先、綴じ工房、宰相府経由の発注。だいぶ絞れました」
「お前を連れ出した甲斐があった」
「私としては、仕事をしに来たのか菓子を買いに来たのか、途中から少し怪しくなりましたが」
「両方だ」
「そうですか」
箱を見下ろす。
綺麗な紺色のリボンがかかっている。
自分ではまず買わない店だ。
だから余計に、なんとなく落ち着かない。
「……でも」
「何だ」
「少しだけ、楽しかったです」
「少しだけか」
「かなり、と言うと調子に乗りそうなので」
「もう十分乗っている」
「自覚がおありなら結構です」
殿下は笑った。
はっきりと、楽しそうに。
その顔を見て、私は少しだけ目を丸くした。
王太子としての顔でも、策を巡らせる時の顔でもない。
年相応の、ただ一人の男の顔だった。
「ベルラン」
「はい」
「次もある」
「それは、調査の外出ですか」
「それもある」
「またもがつくんですね」
「当然だろう」
私は箱を抱えたまま、ため息をついた。
定時退勤とケーキだけを考えていたはずの私の人生は、気づけばとんでもない方向へ転がり始めている。
その中心にいるのが王太子殿下で、その人が今、隣で妙に満ち足りた顔をしているのだから、なおさら始末が悪い。
でもまあ、今日のところはよしとしよう。
調査は進んだ。
ケーキも手に入った。
定時にも、ぎりぎり間に合いそうだ。
それくらいの現実的な条件がそろっているなら、少しばかり人生が予定外でも、たぶん何とかなる。
……たぶん。



