悪いことってなんだろう。
犯罪は当然として、高校生の私の身近なところでいうと、悪口を言う、ルールを守らない、人を大切にできない、とか?
じゃあ悪い人っていうのは、そういうことをする人ってことになるよね。そういう、人のことを考えないし、基本的に自分ファーストで、人から搾取することを当たり前だと思ってる人。クラスの中でも結構多いよ。なんでそんなに自分に自信があるんだろう、みたいな疑問すら抱くんだけど、その人達はそれが許されるほどの価値が自分にあると信じてるんだろうね。だって悪いって気づいててやってるんでしょ? え、気づいてないとかある? いや、あるか。許されて当然だと思ってるんだから。
性格が悪いのか頭が悪いのか……そういう人がそのまますくすく成長して悪い大人になるんだよな。子どもの頃からもうすでに悪人。自覚がないままやってても関係ないし、わかっててやってるならそれこそ悪でしょ。
私はそんな人達が嫌い。自分がどれだけ周りに迷惑をかけてるのかが考えられない人なんだなと思う。自分は偉いしなんでもしていいと思ってるんだと思う。そういう考えを持った一番上に立つ人間が一番嫌い。
つまり同じクラスの仲渡サナのことね。この人に支配されたうちのクラスは、そのクラスで学級委員長にされてしまった私はもう、本当に最悪だった。
キーンコーンカーンコーン
五時間目の授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。
板書をしていた先生が驚いた様子で時計を確認すると、「嘘、もうこんな時間だったの!」と、慌てて私達の方へと向き直った。
「中途半端だけどごめん。今日はここまでなので、じゃあえっと〜、仲渡さん。申し訳ないんだけどこのあと宿題のプリントを集めてホームルームが終わったら職員室まで持ってきてくれないかな」
すっかり時間配分を間違えていたらしい先生が慌てた様子で仲渡さんにお願いするのを聞いて、つい顔をしかめてしまった。だってもう結末が見えたからだ。
「え、何でわたし?」
「ちょうど目が合ったので」
「え〜、先生が忙しいのもわかるけどぉ、わたし用があるんで無理です〜」
ほらね。
その丸みを帯びた感じの喋り方で、角が立たないようにしつつキッパリと先生のお願いを断る彼女に、やっぱりねと思った。仲渡サナとはそういう女なのだ。
「そうなの? じゃあ学級委員の小野田さん、お願いして大丈夫?」
「……わかりました」
そうして結局、その頼みごとは私に回ってくる。予想通りの結末に、もういつものことだからと、私はいつもの笑顔を貼り付けて受け入れた。
「じゃあよろしくね」と足早に先生は教室を出て行ったのでそれを見送ると、仕方なくみんなの注目を集める為に手を挙げる。担任が戻ってきてホームルームが始まる前に、さっさと今頼まれたプリントを集め終えてしまいたかったからだ。
「今から宿題のプリントを集めます。廊下側から私が回っていくので渡してもらえますか?」
そうクラス全体を見渡して伝えると、みんなはプリントを手元に用意してくれたのでほっとした。
——のに。
「はい、これ」
堂々と、今説明した方法なんて関係なく、隣の席からプリントを持った手が伸びてきた。
もちろん、仲渡さんだ。
「……順番に私が回るって言ったよね? まだ仲渡さんの番じゃないんだけど」
「隣なんだから別に良くない?」
「いや、誰の受け取ったかわかんなくなるし、最後に全員分あるかないか確認したいの。バラバラだと確認しにくいでしょ?」
「でももし足りなくても今出さなかったやつは自分で持ってけばいーだけじゃん? 全員分あるか確認しろって頼まれてないんだし、そこまで丁寧にやる必要なくない?」
当然のことのように言い返してくる仲渡さんに、じゃあおまえがやれよ!と、心の中で盛大に言い返しながらも、ことを荒立てる必要も時間もないので、「そうだね」と飲み込んで、結局彼女のプリントを預かった。
となると、「じゃあ俺も」「ごめん私も〜」と、近くの席からもどんどん手が伸びてくる。その内に担任の先生が教室に入ってきたことでホームルーム前に渡さなければと、各々バラバラに持ち寄られるそれを席に座ったままとにかく受け取ることになって、大慌てで預かったプリントが私の机の上に散乱したままホームルームを終えることとなってしまった。
あーあ、結局バラバラだ。
放課後を迎えてからもちらほらと持ってくるクラスメイト達からプリントを預かるそんな中で、
「小野田さん、大丈夫?」
声をかけてくれるクラスメイトが居た。皆川さんだ。
「これ、私の。遅くなっちゃってごめんね」
「全然。ありがとう」
「ううん……あのさ、小野田さん。さっき仲渡さんと話してたの聞こえてたんだけど、バラバラになったプリント揃えるの大変じゃない? 大丈夫?」
そして、「手伝おうか?」と訊いてくれる皆川さんの言葉に、あのやり取りからずっと重たくなっていた心がふっと軽くなったのがわかった。
皆川さん……! 気遣ってくれるなんて、良い人!
「大丈夫だよ。大変ってほどの数でもないし、一人でできるから。ありがとう」
「いやこちらこそだよ。クラスのこととかいつも小野田さんがやってくれるから助かるよねってみんなで言ってたんだ、ありがとう」
そんな、みんなで言ってただなんて!
まさかの褒め言葉に単純な私はもうすっかりご機嫌だった。こうやって頑張りを認めてもらえて、気遣ってもらえるだけで私がやってよかったなと思えたから。
だけど。
「でもさ、今回もだけど、結局小野田さんがこういうことやることになるよね。先生もそうだけど……特に仲渡さんとか」
続いた皆川さんの言葉に、ワントーン落ちた話し声に、おや?と雲行きの怪しさを感じる。
……もしかしてこの会話、褒めてくれるのが目的じゃない?
みんなさっさとプリントを提出して帰ったから、今この教室は私と皆川さんの二人きりだ。つまり、そういう話にはうってつけのこの状況。
なんだ……喜んで損した。
「仲渡さんっていつも断るよね。気づいてるのかな、それを全部小野田さんがやってるってこと」
「あー、ね。どうなんだろう」
「てか、気づいてないわけないか。隣の席で毎回なんだから、逆に小野田さんの仕事たまには代われよって感じ」
じゃあ今も気づいてる皆川さんがプリント揃えて提出するの代わってくれてもいいんだよ?と思いつつ、微妙な笑顔を浮かべながら喉元まで来たそれをさっきみたいに飲み込んだ。胸が重たくなったけど仕方ない。皆川さんがこうして悪口に夢中になってIQを下げてしまうのもいつものことだから。
「仲渡さん達のグループってさ、いっつも文句ばっかだよね。すぐサボるし。この間なんて話してただけで元木さんに睨まれたし。自分達だって声デカいのに何?って思う」
「まぁ、それは確かにそう」
「やっぱり? 下に見られてるよねクラス全員。自分たちが法律だと思ってるよねってマナたちとも話してて、小野田さんもいつもこういう目に遭わされてるじゃん? ムカついてるだろうなって言ってたの!」
そして、やっぱそうだよねと盛り上がる皆川さんが、「この間もね、元木さんがさー、」と話し出すのを聞きながら、うんうんと頷きつつ、なるべく早く終われと願った。だってプリントの確認ができないから。こういう話って人間関係の中で一番大事まであるから片手間で聞く訳にはいかないのだ。そんなことをする人間は信頼を得られないので、存在を認めてもらえなくなる。
「最悪だよね? 酷いと思わない?」
「あー、ね」
「私達が我慢してるんだってわかってないよね、何様だよ的な」
「だね。そういうとこあるよね。皆川さんも大変だったね」
でもまぁ、皆川さんが言ってることもわかる。下に見てる態度とか、何様だよって言ってやりたくなる気持ちとか。私も思ってるから。でも悪口を言ったら向こうと同じ存在になる気がして嫌で、自分からは口に出さないようにしてる。今の皆川さんみたいにもなりたくないし。
正しさを証明するには自分が正しい立場からでないとできないし、いざという時に自分を正当化できなくなっちゃうから、そこだけはきちんと意識してきた。そこが多分、私の中の善と悪の境界線。
「小野田さんもさ、思ってることあるなら私達に言いなよ。みんな味方だから」
だから、そのうち悪口を言わないあいつは仲間じゃないみたいな流れになりませんようにと、願ってる。このほどほどの距離感はなかなか難しくて、皆川さんは特にこういう組織関係では厄介だった。集団のこういうのって本当に怖いからな。
「てか、言いな? 病んじゃう前に、こういう機会にさ」
……あれ、もしかして今もうそういう流れ? やけに目が真剣というか、なんかマズいかも。
「あるでしょ小野田さんも。あれだけ仲渡さんに『できない〜』って押し付けられてるんだから」
あー、やっぱそういうことだよね……もう勘弁してよ……思ってないわけないじゃん。何ならあんた達より思ってるし嫌ってるよ。でも別にここで話したいってわけじゃないんだよ、だってどうせ後で仲間達と共有するんでしょ? そういうの無理なんだって。仲渡さんとは別の意味で無理。もう解放してよ、プリント出さなきゃ帰れないんだよ……!
「ねぇ、小野田さんはどう思う?」
「あー、もういい加減にしろって感じ」
全部にね、全部だぞ、わかってんのか? おまえにも言ってんだぞ皆川!
なんて私の心境を皆川さんが察するわけもなく、ようやく聞けた私の本音に皆川さんは大喜びで「だよね! わかる〜」と返事をすると、「あ、マナ達待ってんだった、そろそろ行くね。じゃあまた明日!」と清々しく教室を出て行った。
この時間なんだったんだろ本当……時々あるんだよな、皆川さんの裏ボスになりたい欲に付き合わされる時間。
結局彼女も私を下に見てるからこういうことができるんだって知ってる。私が悪意を外に出さないから。何を言われてもどんな扱いを受けても文句を言わないから。
言葉にしないで態度に出さないようにしてるだけなのに、私が自分には言い返してこないし、自分は私に何も悪く思われてないと思ってるんだ。んなわけないだろ。
私は平和主義だから基本的に悪いことはしたくない。だって同じになっちゃうから。あんな人たちと同じになんてなりたくない。
なのに今回、ついに言葉にしてしまった……頑張ってきたのに、最悪だ。全部皆川さんのせい。それに皆川さんを苛立たせた元木さんと、この時間のきっかけを作った仲渡さんのせい。
あーあ。まぁでも……仕方ないか。あのままじゃ納得しなかっただろうし、私の悪意に触れたい、共通の感覚を共有したい、みたいな皆川さんの行動は私への信頼の証でもあるんじゃないか、とも思うから……私はそれに応えただけってことだよね? だから私は悪くない。
てか、元を辿れば全部仲渡さん達がこのクラスに階級社会を持ち出したせいでしょ? 皆川さんだってその被害者になるわけで。そのせいでこんな風に歪んでしまって、その慰めがかりが私だった、ただそれだけのことだ。このクラスの平穏の為に彼女を慰めた、ただそれだけ。だってこのクラスは私が間に居ないときちんと回らないんだから。仲渡さん達が好き勝手にするせいで先生達だって困ってるし。
——本当、そこんとこちゃんとみんなわかってるのかな。
誰も居なくなった教室で一人、プリントを手についため息をついた。どうせ誰もわかってないんだよなと気疲れしつつ、気を取り直して一枚ずつプリントを数え始める。
うん、枚数ちゃんと合ってる。名前の確認までしてないけど、数があってるならもういいかな……って、もうこんな時間じゃん! あー、もう本当、
「全員もっと私に感謝してくれて良くない?」
私だけじゃん、みんなのこと考えて頑張ってんの。
鞄を肩に下げてプリントの束を持ちながら、教室を出たその時だった。
——え?
出てすぐの教室の壁側に、しゃがんでいる生徒が居た。綺麗に手入れされた茶髪に見覚えがありすぎて、スッと背筋が凍る。
……仲渡さんだ。
思わず立ち止まった私をゆっくり見上げる仲渡さんはニコリと微笑むと、「お疲れ〜」と私に告げる。
そして、
「皆川さんも手伝ってくれてもいいのにねー。仲渡さんいつもありがと〜」
そう言うと、ポンと私の肩に手を置いて去っていった。
……マジか。
聞かれた。聞かれていたのだ全部、仲渡さんに。
——終わったでしょ、流石に。
私と皆川さん。



