陰陽師と契りの巫女ー冷酷な陰陽師と没落令嬢の契約結婚

月はすでに出ていたが、まだ日は落ちきっていなかった。 

 不知火さまと剛人さまは庭へと出て、池のほとりに並んで立った。
 安倍家の家来たちが三人がかりで、用意してきた大岩を小舟に積み上げ、池の中央の小島へと運んでいく。その岩は人の背丈ほどもある、どっしりとした花崗岩だった。

「では、あれをお割りください」 
 剛人さまが池の中央、小島に据えられた岩を指した。

 えっ。霊力を使って、あの岩を割れということかしら。そんなことが本当にできるのだろうかと、星子は息を呑んだ。

「承知しました」
 不知火さまの表情は、まったく変わらない。 
 剛人さまの家来が籤《くじ》を十本入れた竹筒をさっと差し出した。この家の者は、周到な準備をしてきている。

「数字の大きな数を引いた者が先手を決める。それでよろしいですか」
「よろしいです」
 と不知火さまが答え、人々が固唾を呑んで見守る中、ふたりは同時に竹筒へと手を伸ばした。 

 剛人さまの籤は「八」。 
 にやりと笑い、この勝負はすでに勝ったという態度で、わざとらしくそれを掲げて見せた。

 不知火の籤は「九」。 九は忌み数《いみかず》。不知火の眉間にわずかな皺が寄った。 

 しかし、その時、星子が急いで近づき、不知火さまに襷《たすき》を手渡しながら耳打ちした。
「中国では、九は吉数とされています」
 不知火さまはわずかに目を細め、静かに言った。
「では、後手を頂きましょう」

「それでは、私が先に参ります」
 剛人さまは大きく息を吸い、「剛裂《ごうれつ》の型」を取った。
 足を肩幅に開き、腰を深く落とす。両手で地をなぞるように大きな円を描き、気をゆっくりと練り上げる。術式が満ちるにつれ、空気が張り詰めていくのがわかった。勢いよく両腕を天へとかざし、岩へ向けて衝撃波を放つ。
 しかし、岩はびくともしない。

 次は不知火さまの番。
「風裂《ふうれつ》の型」
 斜めに足を交差させ、片手を前へ、もう一方は胸元に構える。静寂の中で気が集まる刹那、空を切るように手を振り下ろした。烈風が岩を打ち、砂埃が舞い上がる。 
 だが、岩は静かなままだ。

 続いて、剛人さま。
「破邪《はじゃ》の印」
 右手を胸の前に立て、九字を唱える。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」

 掌から気が放たれるが、それでも岩は割れない。剛人さまの顔に、はじめてわずかな焦りの色が浮かんだ。 

 不知火さまが前へ出た。
「裂地《れっち》の印」
 指を絡め、胸の前で三角の印を結ぶ。呼吸を深く整え、長い沈黙の中で静かに呪を唱え始める。その声は低く、しかし庭の空気全体に染み込んでいくようだった。

「裂地の印」
 その言葉が聞こえた瞬間、星子の指がふいに動いた。 
 意識はしていなかったが、気がつけば不知火さまの所作を無意識に真似ていた。
指を絡め、三角の印を結んでいた。

「裂地の印」
 星子が、小さく口の中で言ってみる。
 その瞬間、体の奥から熱が走った。指先から、淡い光がふわりと揺らめく。 同時に、岩の表面に細かな亀裂が走った。かと思うと、突然、耳元で紙を裂くような、かすかな音がした。

 そして次の瞬間、ピシッ、バキバキッ! 
 重々しい音があたりに響き渡った。亀裂は蜘蛛の巣のように一気に広がり、岩全体を覆っていった。

 ゴウン……ッ! 
岩が、割れた。

「おおっ!」
 人々のざわめきが庭中に広がった。皆が興奮しながら口々に語り合い、何が起きたのかを確かめ合っている。
 その中で、不知火さまだけが、星子を見つめていた。
 星子、今のは、きみがしたのか。

 誰もが不知火の術によるものだと思っていた。だが、彼だけは知っていた。あの光が、あの亀裂が、どこから生まれたのかを。

 星子は自分の手をじっと見つめていた。まだじんわりと熱が残っている気がした。まるで、さっきまで熱いものを握っていたかのように。
 一体何が起こったの?
 私が、やったの?
 そんなはずはないという気持ちと、ありえないことが起きたという戸惑いが、波のように押し寄せてきた。

* 

その夜、不知火さまは星子の部屋を訪れた。
「感謝します、星子。あなたの力がなければ、賀茂家陰陽師の名誉は保てませんでした」
 不知火がそう言った。 星子は、彼が感謝の言葉を口にするのを、初めて聞いた気がした。
「本当に、私がしたのですか? 夢中だっただけで、何も覚えていません」

「あなたは集中すると、術ができます」
「そうなのでしょうか。わかりません」
「これからは市井《しせい》に出て、あやかしの気配を探してみましょう」

「不知火さまも、ご一緒ですか」
「そうです」
「はい。わかりました」
 星子の頬がほのかに紅潮し、笑みがこぼれそうになるのをぐっとこらえた。
 本当に術が使えるのかどうか。それはまだわからない。でも、彼と一緒に町へ出られることが、たまらなくうれしかった。