その朝、星子はいつものように屋敷の庭を歩いていた。
白砂が丁寧に均《なら》され、その真ん中には石灯籠が置かれている。周囲には青紫の桔梗や可憐な撫子が植えられていて、朝の光を受けてかすかな影が揺れている。夏の朝の庭は、静かで美しかった。
今日もがんばろうと星子は自分を励ます。
不知火さまとの距離は、少しずつ縮まってきたように感じる時もある。しかしそう思うと、また遠ざかってしまう。一瞬、ちょっと包み込めた気がしても、次の瞬間には手のひらからすり抜ける朝霧のようなお方だ。
星子は足を止めて、和歌をひとつ口の中で転がしてみた。
「想《おも》われて 遠ざかるかな わが恋は 朝霧のごと はかなく消えぬ」
(あの方が思ってくださったと感じても、その心はすぐに遠ざかってしまう。私の恋は、朝霧が消えるように、はかないのです)
なかなかうまく詠めたのではないかしら。
誰かから和歌を贈られたら、すぐに返せる心づもりはあるのに、肝心の機会がないのがつまらない。
彼の冷たい壁を突き崩すには、まだ長い道のりがある。その果てに壁を突き崩せるかどうかも、わからない。でも、前に進むしかない。
自分が一刻も早くあやかしの道を見つければ、彼と真正面から向き合える。その思いを胸に、星子は毎日の勉学に打ち込んでいる。
*
そんなある夕方、屋敷にひとりの訪問者が現れた。
静かすぎるこの家に誰かが来るのはうれしいことなので、星子はそっと覗きに行った。
その方は不知火さまと同じく朝廷に仕える陰陽師で、名前は安倍剛人《あべのつよひと》という。
日焼けした肌に、なかなかの男前の顔立ち。家の誇りを誇示しているかのように胸を張り、足音も堂々としている。とても自信のある人なのだろうと、遠目にもわかった。しかし、星子のタイプではない。
女房の鏡もいつの間にか横に来ていて、こっちこっちと手招きしながら耳打ちをした。鏡は噂話が得意なのだ。
「安倍の一族は、少し前まであやかしの封印係を担ってきた家柄なのですよ」
「不知火さまがなかなかあやかしの道を封じられずにおられるため、様子を見にやってきたのですよ」
と鏡がさらに声を潜めた。
星子は胸の奥に、じわりと不安が広がるのを感じた。
「賀茂不知火殿、親王のご容体がますます悪くなっておられます。つきましては、あなたの陰陽道の力を拝見したく参上いたしました。われら安倍一族であれば、すぐにでもあやかしの道を封じ、親王を快癒させてみせましょうと、関白殿にはお伝えしてあります」
安倍剛人の声は朗々として、自信に満ちていた。
「安倍殿、言葉を慎んでいただきたい。あなたがあやかしの道を発見できなかったからこそ、その任が私に下ったのではないですか」
不知火さまの声は静かだったが、その静けさの中に、鋼のような硬さがあった。
「それは少々語弊がありますな。あなたに任務が下されたのは、われらが多忙を極め、賀茂家に時間の余裕があったからに過ぎません。しかし今や、親王の病が深刻である以上、そんなことを言ってはおられません。一刻も早くあやかしの道を封じる必要があるのです」
「では、これまでどのような探索をされていたのか、その記録を拝見したく存じます。何度もお頼みしたはずですが、一向にご協力いただいておりません」
「それは我が一族の秘匿事項でございますゆえ、お見せするわけにはまいりません。しかし、われらが全面的に仕事を引き継ぐことは可能です」
「もともとあやかしの道の封印は、代々、賀茂家に託されてきた責務です」
「では、それがあなたの父上の代に変えられたのは、なぜでしょうな」
安倍剛人がにやりと笑った。
その瞬間、不知火さまが拳をぐっと握りしめるのが、星子の目に映った。
「では、不知火殿。ここで実力を比べてみてはいかがでしょうか。その結果をもって関白殿に報告し、任をこちらに戻していただくつもりです。もちろん、断ってくださっても構いません。ここで勝負して、あなたに得なことは何ひとつないのですから」
「実力比べですか。よろしいでしょう。では、ここでもし私が勝てば、ここ三年分の資料を開示してくださる。その条件であれば、喜んでお受けいたしましょう」
「わかりました。もっとも、あなたがそれを手にすることはないでしょうが」
不知火さまが固い表情で短く頷いた。剛人の家来たちがその指示のもと、準備に取りかかり始める。 星子は物陰でその様子を見ながら、胸が痛くなった。
私がすぐにあやかしの道を見つけることができていれば、不知火さまがこんな恥をかかされずにすんだのに。
自分に力がないことへのもどかしさと、痛いほど切ない想いが、胸の奥でゆっくりと渦を巻いていた。
星子は唇を噛んで、静かに不知火さまの姿を見つめていた。
その横顔は、いつもと変わらず凛として、冷たく美しかった。けれど今の星子には、その冷たさの奥に、ひとりで抱えてきた重さが透けて見えるような気がした。

