夜の闇が深まる頃、星子のもとに女房が伝言を持ってやってきた。
なにかしら。こんな時間に。少しどきどきする。
不知火さまが屋敷の奥の書斎へと来るようにという。
夜に呼ばれるのは、初めてだわ。
それも、こんなに急に。
もしかして、昼間、自習をさぼっていたのがばれたのかしら。
そう思いながらも、また彼に会えると思うと、思わず顔が緩んでしまう。こんな顔をしたらまた叱られると、慌てて表情を引き締める。
用心、用心。
女房に案内された奥の書斎には、重厚な書物や古びた巻物が所狭しと積まれ、薄暗い灯火がゆらゆらと揺れていた。墨と古い紙の匂いが、ひんやりとした空気に混じっている。
「そこに座りなさい。大事な話がある」
不知火さまの声が静かに響いた。
「はい」
膝の上にそろえた手が、緊張でかすかに震えた。
飲み込みが遅い、態度が散漫、無駄な質問が多い。
そういった理由で、契約が打ち切りになる可能性を告げられるのではないか。そんな考えが頭をよぎった。
「封印にまつわる話だ」
「はい」
家に帰れという話ではなかったとわかり、星子は密かにほっとして、もう少しで微笑むところだった。
不知火さまは重い表情で書物を手に取り、ゆっくりと話し始めた。
「三十年前、白炎《はくえん》の暴走といわれる出来事があった。知っているか」「いいえ」
「何も」
「そんなことは聞いたことがありません」
「京の者なら、誰でも知っています」
「私、まだ生まれていませんし」
「私だって、生れていません」
「そうですよね」
「あなたは驚くほど、何も知らないのですね」
「はい。ほかの人にも、そう言われました。でも、何でも知りたいとは思っています」
不知火さまがやれやれというようにため息をついた。
「つまり、その時には、あやかしがこの世にこぞって押し寄せてきて、大きな災いをもたらしたのだ。しかし、賀茂家の陰陽師と幽世《かくりよ》の巫女が力を合わせて、それを封印した」
「はい」
「以来、その封印の効果が続いていたのだが、ここ数年、その封印が破られ、あちこちにあやかしが出没して暴れ回っている。その場所を、陰陽師が呪術をもって封印を強めていたのだ」
「お疲れさまです」
不知火さまはまっすぐには星子を見ないのだが、その目が怒っているように見えた。反応がまずかったのかもしれない。
「すみません。話がよくわかりませんので、最初からわかりやすく教えてくださいませんか」
「あやかしとは、人間の目には見えないが、時々姿を現しては人々を困らせる不思議な存在だ。三十年前は、祖父が呪術を使い、あやかしがこの世に現れないよう、通い路を封印した」
「つまり、あやかしが通う道を閉鎖したということですね」
「そうだ。見えない扉を閉めて、鍵をかけたようなものだ。その壁のおかげで、人々は安心して暮らせていた。しかし年月が経つうちにその封印が弱まってきて、ここ数年、あやかしの出現が続いている。以前に封印した箇所は地図に残っているから、それを手がかりに、安倍家の陰陽師が封印を施し直していた」
「どうして安倍家が」
「ある時期から、その役目が安倍家の管轄になったのだ。しかし今も、あやかしは出没し続けている」
「あやかしが、新しい道を作ったということですか」
「そうとしか考えられない」
「はい」
「その上、十月《とつき》前、七歳の親王様が発病なさり、床につかれている。いくら祈祷しても一向に熱が下がらず、悪くなられるばかりなのだ」
「それは大変なことです」
星子の胸に、重いものが落ちてくる感覚があった。七歳の子供が、熱にうなされている。その姿が目に浮かんで、胸が痛くなった。
「それで、この度、安倍家に代わり、賀茂家に命が下ったのだ。もともとこの役目は、わが一族のもの。どうしても、あやかしが出現する場所を見つけ、封印しなければならない」
「はい」
「星子、あなたにそのあやかしの道を見つけてほしい」
「この私にですか。そんなことができるのでしょうか。とてもできるとは思えませんが」
「あなたの祖母であられた月子様が、かつて都中のあやかしの道を見つけ、祖父の八虚空が呪術でその道を封印した。私も、星子と組んで、あやかしの道を封印したい」
「ご協力したい気持ちは山々ですが、私にはどのようにすればよいのか、全くわかりません」
「うちの陰陽師を総動員して、病人が多く出ている場所、奇怪なことが起きている場所の地図を作っています。それと古い書物、また月子様が残された書付けも手元にあります。何かの参考になるかもしれない」
「はい。勉強してみます。あのう……」
「何ですか。何でも言ってください」
「ここのところ、勉強を教えてくださっていますよね。私の中に、祖母という人の血といいますか、巫女としての才能を、少しは感じられましたか」
不知火さまが驚いて星子の目を見た。というより、見てしまった、という感じだった。意図せず視線が合ってしまったような、そんな一瞬だった。
「それが、わからない」
「やっぱり」
星子は苦笑した。褒めてもらえると思っていたわけではない。でも、わからない、という答えは正直だと思った。
*
星子は部屋に戻り、さっそく書物を広げてみた。しかし難しい漢字で書かれているため、ほとんど読めない。いくら目を凝らしても意味がわからない。仕方がないから、今夜はおやつを食べて寝ることにした。
翌日の講義の時間に、読めなかった部分を尋ねると、不知火さまはすらすらと読み上げ、今の言葉に直してくれた。
「かつて、この世には『白炎』という名の大妖《おおあやかし》が存在した。月と星の光を呑み、世の中は暗くなり、都を滅ぼしかけた。だがその妖力を封じたのが、当時の陰陽頭と、ひとりの幽世の巫女だった。その幽世の巫女の血脈は、絶やしてはならない」
すごく頼もしくて、星子はつい笑顔が出そうになる。
「あのう、今さらながらで申し訳ないのですが、本当のところ、幽世の巫女とは何なのですか」
「それも、わかっていなかったのですか。わからないことは、そのつど聞きなさい」
「聞きたかったのですが、そんなことも知らないのかと叱られるかと思って、つい」「私が叱ったことはないでしょう」
「ありますけど」
「……私がこわいですか」
「はい」
「どこが」
「その問い詰めるような言い方と、目と」
不知火さまはわずかに目を逸らした。
「言い方を変えて、睨まないようにする。だから、何でも聞きなさい。理解してもらわないと、困ります」
「はい」
「幽世の巫女とは、この世ならざる世界と深く繋がる力を持つ、特別な巫女のことです」
「では、白炎とは」
「陰陽師が使う術によって生み出される、純粋で強力な霊力を持つ炎のことです」「はい」
「昨夜も申し上げましたが、つまり、幽世の巫女・月子様があやかしの通い道を見つけ、陰陽師の調伏によりあやかしの妖力は三十年間封印されてきた。しかし今、あやかしの出現が続き、飢饉や病気の被害が及んでいます。天皇一家にもご病気の方が増えておられる。ですから、あなたには一刻も早く、その道を見つけてほしいのです。私はその責任を負っており、あなたなしでは解決できないのです。今度は、理解されましたか」
「はい、なんとか」
星子はしばらく黙って、不知火さまの横顔を見つめた。
「不知火様、あなたは大変な責任をひとりで背負っていらっしゃるのですね」
その声が、少し震えた。かわいそうだと思ったのではない。ただ、この人がずっとひとりでこれを抱えていたのだということが、胸に刺さった。
「私には重すぎる大任だが、大勢の命がかかっている。一族の名誉の問題でもある」
不知火さまは硬く唇を結び、遠い目をした。その横顔が、ひどく孤独に見えた。
「あなたは私にあやかしの道を見つけさせるため、不本意な結婚をなさったのですね。だから、契約結婚だったのですね」
「……いや、それは違う」
「どこが違うのですか。これは気の染まない結婚ですよね」
「それも違う」
「それって、私をそんなに嫌いではないということですか」
「そういうことではないが。ここではっきり言っておく。私があなたを好きになることはないし、そもそもあなたが私を好きになることはない」
「どうしてですか。どうして、私の気持ちまでも、不知火さまが決めるのですか。私が、好きになるかもしれないではないですか」
「その話は、またいつかしよう。この騒ぎが終わった後で、ゆっくりと」
「絶対の約束ですよ。私、あやかしの道を探しますから、その後で必ず話してくださいね。忘れないでくださいよ」
ちょっとしつこかったかな。でも、叱られなかった。あんなことを言われても、私たちの関係は前進しているのだ。
不知火さまの目を盗んで、星子はそっと微笑んだ。
なにかしら。こんな時間に。少しどきどきする。
不知火さまが屋敷の奥の書斎へと来るようにという。
夜に呼ばれるのは、初めてだわ。
それも、こんなに急に。
もしかして、昼間、自習をさぼっていたのがばれたのかしら。
そう思いながらも、また彼に会えると思うと、思わず顔が緩んでしまう。こんな顔をしたらまた叱られると、慌てて表情を引き締める。
用心、用心。
女房に案内された奥の書斎には、重厚な書物や古びた巻物が所狭しと積まれ、薄暗い灯火がゆらゆらと揺れていた。墨と古い紙の匂いが、ひんやりとした空気に混じっている。
「そこに座りなさい。大事な話がある」
不知火さまの声が静かに響いた。
「はい」
膝の上にそろえた手が、緊張でかすかに震えた。
飲み込みが遅い、態度が散漫、無駄な質問が多い。
そういった理由で、契約が打ち切りになる可能性を告げられるのではないか。そんな考えが頭をよぎった。
「封印にまつわる話だ」
「はい」
家に帰れという話ではなかったとわかり、星子は密かにほっとして、もう少しで微笑むところだった。
不知火さまは重い表情で書物を手に取り、ゆっくりと話し始めた。
「三十年前、白炎《はくえん》の暴走といわれる出来事があった。知っているか」「いいえ」
「何も」
「そんなことは聞いたことがありません」
「京の者なら、誰でも知っています」
「私、まだ生まれていませんし」
「私だって、生れていません」
「そうですよね」
「あなたは驚くほど、何も知らないのですね」
「はい。ほかの人にも、そう言われました。でも、何でも知りたいとは思っています」
不知火さまがやれやれというようにため息をついた。
「つまり、その時には、あやかしがこの世にこぞって押し寄せてきて、大きな災いをもたらしたのだ。しかし、賀茂家の陰陽師と幽世《かくりよ》の巫女が力を合わせて、それを封印した」
「はい」
「以来、その封印の効果が続いていたのだが、ここ数年、その封印が破られ、あちこちにあやかしが出没して暴れ回っている。その場所を、陰陽師が呪術をもって封印を強めていたのだ」
「お疲れさまです」
不知火さまはまっすぐには星子を見ないのだが、その目が怒っているように見えた。反応がまずかったのかもしれない。
「すみません。話がよくわかりませんので、最初からわかりやすく教えてくださいませんか」
「あやかしとは、人間の目には見えないが、時々姿を現しては人々を困らせる不思議な存在だ。三十年前は、祖父が呪術を使い、あやかしがこの世に現れないよう、通い路を封印した」
「つまり、あやかしが通う道を閉鎖したということですね」
「そうだ。見えない扉を閉めて、鍵をかけたようなものだ。その壁のおかげで、人々は安心して暮らせていた。しかし年月が経つうちにその封印が弱まってきて、ここ数年、あやかしの出現が続いている。以前に封印した箇所は地図に残っているから、それを手がかりに、安倍家の陰陽師が封印を施し直していた」
「どうして安倍家が」
「ある時期から、その役目が安倍家の管轄になったのだ。しかし今も、あやかしは出没し続けている」
「あやかしが、新しい道を作ったということですか」
「そうとしか考えられない」
「はい」
「その上、十月《とつき》前、七歳の親王様が発病なさり、床につかれている。いくら祈祷しても一向に熱が下がらず、悪くなられるばかりなのだ」
「それは大変なことです」
星子の胸に、重いものが落ちてくる感覚があった。七歳の子供が、熱にうなされている。その姿が目に浮かんで、胸が痛くなった。
「それで、この度、安倍家に代わり、賀茂家に命が下ったのだ。もともとこの役目は、わが一族のもの。どうしても、あやかしが出現する場所を見つけ、封印しなければならない」
「はい」
「星子、あなたにそのあやかしの道を見つけてほしい」
「この私にですか。そんなことができるのでしょうか。とてもできるとは思えませんが」
「あなたの祖母であられた月子様が、かつて都中のあやかしの道を見つけ、祖父の八虚空が呪術でその道を封印した。私も、星子と組んで、あやかしの道を封印したい」
「ご協力したい気持ちは山々ですが、私にはどのようにすればよいのか、全くわかりません」
「うちの陰陽師を総動員して、病人が多く出ている場所、奇怪なことが起きている場所の地図を作っています。それと古い書物、また月子様が残された書付けも手元にあります。何かの参考になるかもしれない」
「はい。勉強してみます。あのう……」
「何ですか。何でも言ってください」
「ここのところ、勉強を教えてくださっていますよね。私の中に、祖母という人の血といいますか、巫女としての才能を、少しは感じられましたか」
不知火さまが驚いて星子の目を見た。というより、見てしまった、という感じだった。意図せず視線が合ってしまったような、そんな一瞬だった。
「それが、わからない」
「やっぱり」
星子は苦笑した。褒めてもらえると思っていたわけではない。でも、わからない、という答えは正直だと思った。
*
星子は部屋に戻り、さっそく書物を広げてみた。しかし難しい漢字で書かれているため、ほとんど読めない。いくら目を凝らしても意味がわからない。仕方がないから、今夜はおやつを食べて寝ることにした。
翌日の講義の時間に、読めなかった部分を尋ねると、不知火さまはすらすらと読み上げ、今の言葉に直してくれた。
「かつて、この世には『白炎』という名の大妖《おおあやかし》が存在した。月と星の光を呑み、世の中は暗くなり、都を滅ぼしかけた。だがその妖力を封じたのが、当時の陰陽頭と、ひとりの幽世の巫女だった。その幽世の巫女の血脈は、絶やしてはならない」
すごく頼もしくて、星子はつい笑顔が出そうになる。
「あのう、今さらながらで申し訳ないのですが、本当のところ、幽世の巫女とは何なのですか」
「それも、わかっていなかったのですか。わからないことは、そのつど聞きなさい」
「聞きたかったのですが、そんなことも知らないのかと叱られるかと思って、つい」「私が叱ったことはないでしょう」
「ありますけど」
「……私がこわいですか」
「はい」
「どこが」
「その問い詰めるような言い方と、目と」
不知火さまはわずかに目を逸らした。
「言い方を変えて、睨まないようにする。だから、何でも聞きなさい。理解してもらわないと、困ります」
「はい」
「幽世の巫女とは、この世ならざる世界と深く繋がる力を持つ、特別な巫女のことです」
「では、白炎とは」
「陰陽師が使う術によって生み出される、純粋で強力な霊力を持つ炎のことです」「はい」
「昨夜も申し上げましたが、つまり、幽世の巫女・月子様があやかしの通い道を見つけ、陰陽師の調伏によりあやかしの妖力は三十年間封印されてきた。しかし今、あやかしの出現が続き、飢饉や病気の被害が及んでいます。天皇一家にもご病気の方が増えておられる。ですから、あなたには一刻も早く、その道を見つけてほしいのです。私はその責任を負っており、あなたなしでは解決できないのです。今度は、理解されましたか」
「はい、なんとか」
星子はしばらく黙って、不知火さまの横顔を見つめた。
「不知火様、あなたは大変な責任をひとりで背負っていらっしゃるのですね」
その声が、少し震えた。かわいそうだと思ったのではない。ただ、この人がずっとひとりでこれを抱えていたのだということが、胸に刺さった。
「私には重すぎる大任だが、大勢の命がかかっている。一族の名誉の問題でもある」
不知火さまは硬く唇を結び、遠い目をした。その横顔が、ひどく孤独に見えた。
「あなたは私にあやかしの道を見つけさせるため、不本意な結婚をなさったのですね。だから、契約結婚だったのですね」
「……いや、それは違う」
「どこが違うのですか。これは気の染まない結婚ですよね」
「それも違う」
「それって、私をそんなに嫌いではないということですか」
「そういうことではないが。ここではっきり言っておく。私があなたを好きになることはないし、そもそもあなたが私を好きになることはない」
「どうしてですか。どうして、私の気持ちまでも、不知火さまが決めるのですか。私が、好きになるかもしれないではないですか」
「その話は、またいつかしよう。この騒ぎが終わった後で、ゆっくりと」
「絶対の約束ですよ。私、あやかしの道を探しますから、その後で必ず話してくださいね。忘れないでくださいよ」
ちょっとしつこかったかな。でも、叱られなかった。あんなことを言われても、私たちの関係は前進しているのだ。
不知火さまの目を盗んで、星子はそっと微笑んだ。

