次の日から、星子の教育が始まった。
不知火さまが陰陽寮《おんみょうりょう》へ出勤する前の朝の時間に、まず講義をしてくれる。
術式の構造、あやかしの種類と性質、結界の仕組みと意味。星子にとっては何もかもが初めて聞く話で、頭の中がめまぐるしく回転した。
昼の間は、符《ふ》の書き方や結界の構築練習を自習する。夕方に不知火が帰宅すると、朝の復習と問答が待っていた。基礎が一通り終わると、実際に瘴気《しょうき》の強い場所へ出かけて実習をするらしい。
まるで修行僧のような日々だったと星子は思う。じっとしているよりも動いているほうが好きな星子としては、早く外へ出て実習がしたくてたまらない。しかし、それがいつになるのかはまだわからなかった。
星子にとって今も最大の壁が、漢字だった。
術式に使われる文字は、ほぼすべて漢字で書かれている。さっぱりわからない。どれだけ頑張ったところで、脳みその中から「読み方」が湧き出てくるわけがなかった。
「私は字はひらがなしか読めません」
「家に、漢字の本はなかったのか」
「あったのですが、全部売りました」
「なぜ」
「生活のためです。ひらがなは、母代わりの老婆が教えてくれました」
不知火さまが顔をしかめて黙った。
「では、漢字の初歩本を用意させる。少しずつ覚えるとよい」
「はい」
星子は微笑もうとして、ぐっと唇を引き締めた。笑うと叱られるから。
時々、教えてくれる時の不知火さまの瞳が、生き生きとして見えることがあった。難しい術式の仕組みを説明する時、あやかしの習性について語る時、その冷たい目の奥に、かすかに火が灯る。そんな時に星子がつい嬉しそうに笑うと、不知火が厳しい目をして叱るのだった。
「集中しなさい。もっと静かな心になることが肝心だ」
「はい、そうでした。難しいです」
「心が散漫だと、あやかしの道を見つけることができない。まず呼吸を整えてみなさい」
「はい」
星子は習ったとおりに、ゆっくりと深呼吸してみせた。
「悪くはない。まだまだだが、昨日よりはいい」
それだけだった。褒めているのか、呆れているのか、紙一重の物言いだったが、星子にとってはそれで十分だった。昨日よりはいい、という言葉が、じんわりと胸に残った。
教える声はいつも冷めていて、感情がほぼ見えない。それでも毎日話を聞いていると、ほんのわずかずつ、その角が取れていくのがわかる気がした。
星子は不知火さまのことを見るのが好きだったので、悟られないようにしながら、そっと観察した。きれいな男子を眺めるのは楽しい。中身がどうであれ。
その日の夕暮れ、学びの時間が終わって縁側に腰を下ろした星子の隣に、不知火さまが静かに腰を下ろした。
庭の向こうに、茜色の空が広がっていた。ふたりはしばらく、無言でその色を眺めた。
「不知火さま、大殿さまは私の祖母のことをご存知のようでしたが、私の母については何か知っておられますか。やはり巫女でしたか」
「知らない。早くに亡くなったと聞いている」
不知火が冷たい声で言い、恨みのこもったような鋭い目で星子を一瞥した。
「八虚空様は不知火さまのお祖父様ですよね。不知火さまのご両親は、どこにおられるのですか」
不知火は長い沈黙の後に、静かに答えた。
「母は、もうこの世にはいない。……父だった男は勘当され、京から追放された」
「なぜですか」
「知っていることは、これで全部だ」
彼からは、これ以上語りたくないという気配がびしびしと伝わってきた。それでも星子は、少しだけ続けた。
「不知火さまは、知りたくはないのですか」
「そういう問題ではない」
「そういう問題って。意味がわかりません」
「これでも私がここまで人に話したのは、初めてのことだ。このことについては、二度と聞いてはならない。よいか」
「でも」
「でも、なんだ」
「不知火さまは教えてくださったつもりかもしれませんが、肝心なところを何も教えてくださっていないと思うのですが」
「何が知りたい」
「どうしてお父様が勘当されてしまったのか、そういう肝心なところを聞かせてほしいです」
「あなたも噂好きな人ですか」
「噂は嫌いではないですが、これは噂ではないですよね。不知火さまのお父様のことを、息子のあなたから聞くわけですから」
「その話をしたのは、失敗だった。ことがややこしくなるばかりだ」
彼は文句を言いながら、すぐにはそこを立ち去ろうとはしなかった。
東の空から月が昇り始め、夜の帳《とばり》がゆっくりと下りてくる。ふたりの影が、並んで縁側に落ちた。
心の距離はまだ遠い。それでも星子は、この並んで座っているだけの時間が、好きだった。隣に誰かがいるということが、こんなにも暖かいものだとは、あのさびしい家にいた頃には、わからなかった。
不知火さまに、もっと近づきたい。
夕暮れの淡い光の中で、星子はそう思った。

