星子は、もう一週間も、夫になった人の顔を見ていない。
最後に会ったのが、八虚空さまのところへ案内された、あの朝のことだ。
あの後、不知火さまは星子の部屋の前まで送ってきて、「笑ってはいけない」などと憎たらしいことを言い置いて、自分の部屋へと帰っていった。
むかついた。それは確かだ。
けれど、不思議と憎んではいない。なぜだろう、と星子は時々思う。
この広い屋敷の中の、どの部屋で不知火さまが暮らしているのかさえ、星子は知らない。
夫の部屋がどこにあるか、それくらいは知っていてもよいはずだと思い、女房に尋ねてみたのだが、教えてもらえなかった。私が突然押しかけて行って、何かをしでかすと思っているのかしら。
女房が教えてくれたのは、彼は最近、帰りがたいへん遅いということだった。それは、日夜を通して皇居の結界《けっかい》の綱の張り直しの指揮にあたっているからだという。
「結界の綱とは何ですか」
星子が尋ねると、女房がきょとんとした顔をした。
「奥方様は、そのこともご存知ないのですか」
「ええ」
星子は知らないことは知らないのだから、仕方がないと思っている。恥ずかしいとは思わない。知らないことを知ったふりするほうが、よほど恥ずかしいではないか。
「あやかしの侵入を防ぐために張られた、呪力を持つ綱のことでございます」
「はぁ」
星子はこれまで、神社へ行って手を合わせたことはある。けれどそれは習慣のようなもので、願いが叶ったらよいなと思ったことはあっても、実際に叶ったためしはなかった。呪力などというものも、正直なところ、あまり信じてはいない。何が何だか、よくわからないのだった。
星子はひとり静かな座敷に座って、湯気の立つ茶碗を前にため息をついた。 とても変な家だわ。
たとえ契約結婚であっても、一応は夫婦のはずだ。それが、夫の姿も見られず、言葉もかけてもらえず、見知らぬ場所でひとり暮らしている。慣れない屋敷の静けさが、じんわりと重く肩にのしかかってくる。
女房や女中たちは「奥方様」と呼んで、衣を整え、おいしい食事を運び、世間話の相手をしてくれる。実家にいた頃は、自分で掃除をして、庭で野菜を育て、少ない材料で工夫して料理をしていた。ここではそのすべてを誰かがやってくれる。
きれいな着物が用意され、部屋は掃除が行き届き、庭はいつも美しく手入れされている。楽といえば、楽だ。だから満たされていいはずなのに、心の底にひっそりとさみしさが澱《おり》のように積もっていく。
その時、廊下の向こうから足音が近づいてくるのが聞こえた。
冷たくされていても、不知火さまに会えるのかと思うと、なぜか胸がどきどきする自分がいる。好きなはずはないのに。そう思うのに、耳がひとりでに音を追っている。
「失礼する」
青い直衣を身につけた不知火さまが入ってきた。
不本意ながら、ちょっとどきんとする。その瞳はやはり美しくて、じっと見ていると心を吸い取られてしまいそうになる。
しかし今夜は、顔色に灰色がかった疲れの色があった。
「お久しぶりです。ではなくて、お帰りなさい。お身体、大丈夫ですか」
言葉をかけると、不知火はわずかに眉を動かした。
「問題ない。式神が足りず、内裏の結界補修が難航しているだけだ」
「それはあやかしの侵入を防ぐためですか」
「そうだ」
「私に、何かできることがありますか」
「その時が来たら、お願いする」
その時が来たらということは、つまり、今はまだ役に立てないということだ。それはわかっている。
でも、何かしたかった。ただ綺麗な部屋に座って待っているだけでは、星子の性分に合わない。
「私、巫女のお仕事というものができるかどうか、全然自信がありません。でも、他にいろんなことができますよ」
「あなたには、どんなことができますか」
彼が初めて興味を持ってくれたようで、星子は少し張り切った。
「庭に大根を植えたり、伸びすぎた木を切ったり、お料理も得意です。少ない材料で、おいしくできます。あと、壁の穴の補修も、それなりに」
不知火さまが驚いたような顔をして、しばらく星子をじっと見ていた。 星子は、その反応を見て、少々得意な気分になった。
「そういうことはしなくてよろしい」
と彼が冷たく言った。
「ええっ、はい」
まるで急に水をかけられたようだった。
よい方向へ向かいかけたと思ったのに、あっさり戻ってしまった。まっ、そんなにうまくいくはずがないか。
「明日から、術の基礎を教える。封印に立ち会う者として、それなりの知識と技量がいる」
「 不知火さまが、教えてくださるのですか」
「他に誰がいる」
「そうですよね。勉強を教えてくださるのですね。うれしいです」
「必要だからだ」
「がんばります」
不知火さまの顔に、ほんのかすかな呆れの色が見えた。がんばるという問題ではない、きみは何もわかっていない、そう言っているようだった。
彼は私が嫌いなのだろうか。だから何でも腹が立つのかしら。
「では、明日」
たったそれだけだった。けれどその言葉一言で、星子の胸の奥に、小さな灯がともったような気がした。明日、会える。
我ながら、単純すぎるとは星子は思う。それでも、その灯は、胸の中で、炎を揺らしていた。
最後に会ったのが、八虚空さまのところへ案内された、あの朝のことだ。
あの後、不知火さまは星子の部屋の前まで送ってきて、「笑ってはいけない」などと憎たらしいことを言い置いて、自分の部屋へと帰っていった。
むかついた。それは確かだ。
けれど、不思議と憎んではいない。なぜだろう、と星子は時々思う。
この広い屋敷の中の、どの部屋で不知火さまが暮らしているのかさえ、星子は知らない。
夫の部屋がどこにあるか、それくらいは知っていてもよいはずだと思い、女房に尋ねてみたのだが、教えてもらえなかった。私が突然押しかけて行って、何かをしでかすと思っているのかしら。
女房が教えてくれたのは、彼は最近、帰りがたいへん遅いということだった。それは、日夜を通して皇居の結界《けっかい》の綱の張り直しの指揮にあたっているからだという。
「結界の綱とは何ですか」
星子が尋ねると、女房がきょとんとした顔をした。
「奥方様は、そのこともご存知ないのですか」
「ええ」
星子は知らないことは知らないのだから、仕方がないと思っている。恥ずかしいとは思わない。知らないことを知ったふりするほうが、よほど恥ずかしいではないか。
「あやかしの侵入を防ぐために張られた、呪力を持つ綱のことでございます」
「はぁ」
星子はこれまで、神社へ行って手を合わせたことはある。けれどそれは習慣のようなもので、願いが叶ったらよいなと思ったことはあっても、実際に叶ったためしはなかった。呪力などというものも、正直なところ、あまり信じてはいない。何が何だか、よくわからないのだった。
星子はひとり静かな座敷に座って、湯気の立つ茶碗を前にため息をついた。 とても変な家だわ。
たとえ契約結婚であっても、一応は夫婦のはずだ。それが、夫の姿も見られず、言葉もかけてもらえず、見知らぬ場所でひとり暮らしている。慣れない屋敷の静けさが、じんわりと重く肩にのしかかってくる。
女房や女中たちは「奥方様」と呼んで、衣を整え、おいしい食事を運び、世間話の相手をしてくれる。実家にいた頃は、自分で掃除をして、庭で野菜を育て、少ない材料で工夫して料理をしていた。ここではそのすべてを誰かがやってくれる。
きれいな着物が用意され、部屋は掃除が行き届き、庭はいつも美しく手入れされている。楽といえば、楽だ。だから満たされていいはずなのに、心の底にひっそりとさみしさが澱《おり》のように積もっていく。
その時、廊下の向こうから足音が近づいてくるのが聞こえた。
冷たくされていても、不知火さまに会えるのかと思うと、なぜか胸がどきどきする自分がいる。好きなはずはないのに。そう思うのに、耳がひとりでに音を追っている。
「失礼する」
青い直衣を身につけた不知火さまが入ってきた。
不本意ながら、ちょっとどきんとする。その瞳はやはり美しくて、じっと見ていると心を吸い取られてしまいそうになる。
しかし今夜は、顔色に灰色がかった疲れの色があった。
「お久しぶりです。ではなくて、お帰りなさい。お身体、大丈夫ですか」
言葉をかけると、不知火はわずかに眉を動かした。
「問題ない。式神が足りず、内裏の結界補修が難航しているだけだ」
「それはあやかしの侵入を防ぐためですか」
「そうだ」
「私に、何かできることがありますか」
「その時が来たら、お願いする」
その時が来たらということは、つまり、今はまだ役に立てないということだ。それはわかっている。
でも、何かしたかった。ただ綺麗な部屋に座って待っているだけでは、星子の性分に合わない。
「私、巫女のお仕事というものができるかどうか、全然自信がありません。でも、他にいろんなことができますよ」
「あなたには、どんなことができますか」
彼が初めて興味を持ってくれたようで、星子は少し張り切った。
「庭に大根を植えたり、伸びすぎた木を切ったり、お料理も得意です。少ない材料で、おいしくできます。あと、壁の穴の補修も、それなりに」
不知火さまが驚いたような顔をして、しばらく星子をじっと見ていた。 星子は、その反応を見て、少々得意な気分になった。
「そういうことはしなくてよろしい」
と彼が冷たく言った。
「ええっ、はい」
まるで急に水をかけられたようだった。
よい方向へ向かいかけたと思ったのに、あっさり戻ってしまった。まっ、そんなにうまくいくはずがないか。
「明日から、術の基礎を教える。封印に立ち会う者として、それなりの知識と技量がいる」
「 不知火さまが、教えてくださるのですか」
「他に誰がいる」
「そうですよね。勉強を教えてくださるのですね。うれしいです」
「必要だからだ」
「がんばります」
不知火さまの顔に、ほんのかすかな呆れの色が見えた。がんばるという問題ではない、きみは何もわかっていない、そう言っているようだった。
彼は私が嫌いなのだろうか。だから何でも腹が立つのかしら。
「では、明日」
たったそれだけだった。けれどその言葉一言で、星子の胸の奥に、小さな灯がともったような気がした。明日、会える。
我ながら、単純すぎるとは星子は思う。それでも、その灯は、胸の中で、炎を揺らしていた。

