陰陽師と契りの巫女ー冷酷な陰陽師と没落令嬢の契約結婚

 翌朝、星子は鳥の声で目覚めた。

 昨夜は不安が波のように押し寄せてきたけれど、いつの間にかぐっすりと眠ってしまっていたらしい。

 目を開けると、見慣れない天井がある。いつもの部屋とはまるで違う。布団は柔らかく、空気は澄んでいて、かすかに香の残り香がした。

 ここは、大きな寝殿の一隅。白い帳《とばり》の中。
 星子は身を起こして、白衣のまま庭を見やった。あれから、不知火さまは出て行ったまま戻ってこなかった。

 床をともにすることはない、と彼は言った。
 夫となった人が、そんな奇妙なことを言ったのだ。
 ほっとする気持ちと、どこかちくりとするものとが、胸の中で不思議に入り混じっている。
 まあ、なるようにしかならない。そろそろ食事が運ばれてくる頃だろう。食べてから、考えよう。

 庭では、夏椿の白い花が咲きはじめていた。紫陽花、睡蓮、花菖蒲。色とりどりの花が朝の光の中でしっとりと濡れている。よく手入れのされた美しい庭だった。
 うちの庭ときたら、なずなが生えているというのに。

 不知火さまは、この家の貴族の血がほしいのではなかったのかしら。
 でも昨夜は手を触れるどころか、顔さえ見てくださらなかった。どこがそんなに気に召さないのだろう。
 人から好かれていないということは、やはり寂しいことだわ。
 
 そんなことを考えていると、女房の鏡が静かに部屋へ入ってきた。
「ご主人様が、あちらへお越しくださいと申されております。奥殿にてお待ちでございます」
「不知火さまですか」
 星子の心が少し騒いだ。

「失礼いたしました。お待ちなのはご当主様、賀茂八虚空《かものやこくう》さまでございます」
「は、はい」
 彼とは一度、会ったことがある。あの穏やかな老人だ。

 女房が手際よく身支度を手伝い、屋敷の奥へと案内した。廊下を進むほどに物音が消え、静けさが深くなっていく。
 この屋敷は都の北にあるのだが、長く都に住んでいる者でも、その場所を知る者は少ないという。賀茂家の人々はここから都の中央にある陰陽寮《おんみょうりょう》へと通っているのだと、女房が道すがら教えてくれた。陰陽寮とは国が設けた専門機関で、天文の観察、暦の作成、吉凶の占いなどを扱う場所だという。

 賀茂家が代々担ってきたのは、占いと呪術の儀式だった。しかし八虚空の後からは別の陰陽師家がその役を引き継ぎ、賀茂家は書類の管理部門へと回されていたらしい。ところが今回、以前の役目を不知火が再び受け持つことになったのだという。

「それは名誉なことでございます。どうぞよろしくお願いいたします」
 女房の鏡がそう頭を下げたのだが、星子には何をお願いされているのかよくわからなかった。風変わりな夫の面倒を見てほしいということなのだろうか。

 白いしめ縄の張られた扉の前に、紫色の着物をまとった賀茂八虚空が待っていた。
「結婚の義、おめでとう。この日を迎えしは、星々の導き、宿命の巡り合わせなり」
「ありがとうございます。よろしくお願い申し上げます」
「はい。よろしく」
 と彼が笑った。穏やかで、柔らかい笑顔だった。孫の不知火とは、正反対に見える。

「星子さん、あなたは本当によく似ていますね」
「先日もそのようにおっしゃっていただきましたが、私はいったい、どなたに似ているのでしょうか」
「こちらに来なさい」

 聞き返す間もなく、老師はふすまを開けて中へ導いた。室内はひんやりとして、古い香の匂いが漂っている。八虚空が示したのは、緑と金色の絹地に巻かれた一本の巻物だった。
 ゆっくりと広げると、中に女性の姿が描かれていた。

「真柴月子様」
 星子は息を呑んだ。
「月子って……私の祖母です。真柴は母の旧姓で」
「そうです。あなたの祖母、月子様は、幽世《かくりよ》の巫女でございました」

「幽世とは何ですか」
「あやかしの住む世界のことです」
「では、幽世の巫女とは何ですか」
「あやかしと疎通のできる、特別な巫女のことです」
「はい。ええっ」
 星子はしばらく言葉を失った。

「星子さん、あなたの祖母が幽世の巫女・月子様であり、あなたはそのお孫です。私はあなたをずっとお探ししていたのですよ。三条のお屋敷から突然姿を消されてから、長いこと行方がわかりませんでしたから」

「覚えているかぎり、私はあの都外れの家にずっと住んでおります。あのう、人違いではありませんか」
 老陰陽師が、そっと星子の額に指先を触れた。
 その瞬間、淡い光が指先から立ちのぼった。星子は目を見張った。

「あなたが幽世の巫女・月子様のお孫であることは、確かなことです。今、世の中はあなたの力を必要としています」
「ちょっとお待ちください。話についていけません」
 星子は少し声を上げた。

「たとえ私が幽世の巫女の孫だとしても、私は巫女の経験など一度もありませんし、魔術的なことは何ひとつしたことがございません。何かを期待されたとしても、私にはとてもできません」
「魔術ですか」
 老人がくすりと笑った。

「まずはお茶でも飲んで、ゆっくり話しましょう。あなたとこうしてお会いできるのを、楽しみにしていたのですよ」
「は、はい」
 星子は少し緊張をほぐして、座り直した。


 お茶と珍しい茶菓子が運ばれてきて、さていただこうというその時、青い直衣姿の不知火が現れた。

 昨日と同じく白く冷たい顔をしている。しかしその瞳の奥に、昨日とは違う何かがちらりと揺れたように見えて、星子はつい微笑んだ。
 すると、彼の目はたちまち拒絶の色に変わった。

「大殿、何か話されたのですか」
「いいや、特別なことは何も話しておらん」
 八虚空がわずかに取り繕うような口ぶりで言った。

「肝心なことは私が伝える手順のはずです」
「わかっておる」
 不知火が星子のほうを向いた。
「星子、すでに伝えたとおり、我々は夫婦になったとはいえ、心を交わす必要はない」
 やや大きな声だった。まるで祖父に聞かせるかのように。

「感情は術を乱す。そのことは理解してほしい」
「でも、結婚しましたのに、なぜ、そのようなことをおっしゃるのですか」
 星子が問い返すとは予想していなかったのか、不知火の瞳にかすかな怒りが見えた。

「感情は、弱さです」
「意味がわかりません」
「あなたにはわからないでしょうが、それはどうでもよいこと。大事なことは、私があやかしを調伏すること。それだけです」

「……でも、感情は強さなのではないでしょうか」
「違う」
 不知火がむっとして、首を横に振った。

「では、行きましょう」
「どこへですか」
「あなたの部屋に決まっています」
「どうして」
「あなたには、すべきことがあります」
「はい」
 星子は珍しい菓子に心を惹かれながらも、大殿に丁寧に礼をして、しぶしぶと不知火の後に従った。

「星子さん、またいつでも来なさい」
 八虚空が後ろから声をかけると、不知火が振り向いて、じろりと祖父を睨んだ。

 星子の部屋の前まで来ると、不知火が立ち止まった。
「言っておく。決して、笑顔を見せてはならない。私を見て、微笑むな」
「それは、なぜですか」
「感情は精神を乱す。呪術の邪魔だ」
「そうでしょうか」
「そうだ」
「でも、生きていたら笑ったりしたいじゃないですか。笑わないで生きていて、何が楽しいのですか」

 彼がじろりと見た。
「あなたは質問が多すぎる」
「だめですか」
「だめだ」
 そう言い捨てて、不知火は廊下の奥へと消えていった。
「あのう、私の仕事とは」
 星子は聞いてみたが、もちろん答えはない。

 あやかしを退治するのは大切なことだとは思う。それはわかる。でも、それにしても、お堅すぎるのではないかしら。
 星子はその背中をじっと見送った。
 
 お顔といい、雰囲気といい、正直なところ、心惹かれてしまう部分はある。でも、何かとても残念な人。性格が、問題。どうにかならないものかしら。