陰陽師と契りの巫女ー冷酷な陰陽師と没落令嬢の契約結婚


 冬が来た。
 賀茂家の庭に初霜が降りた朝、星子は縁側に座って白く染まった庭を眺めていた。松江が温かい茶を持ってきて、隣に座った。
「寒くないですか」
「大丈夫よ。きれいでしょ、霜」
「風邪をひきます」
 松江がいつもの小言を言いながら、星子の肩に薄い綿入れをかけてくれた。この仕草が、星子は好きだった。何十年経っても、松江は松江だ。
 その時、鏡が足早にやってきた。その顔に、いつもの余裕がなかった。
「星子さま、少々よろしいですか」
「どうしたの、鏡さん。そんな顔をして」
「実は、調べてわかったことがございまして」
「また調べたのですか。今度は何を」
 鏡が松江を見た。松江が立ち上がろうとすると、星子が止めた。
「松江さまも聞いてください。関係あることでしょうから」
 


 鏡が調べていたのは、星子の母・日子と、不知火の母・常盤緑の死の真相だった。
 安倍剛人が語った話によれば、常盤緑が日子を刺し殺し、その後自らのみで喉を突いて自刃したということになっていた。しかし不知火は、運ばれてきた母の姿がずぶ濡れだったと言っていた。のみで喉を突いた人間が、なぜずぶ濡れなのか。そこに、ずっと引っかかりがあった。
「私はここ数ヶ月、あの事件を知っている人物を探してきました」
 鏡が懐から、何枚かの紙を取り出した。
「当時、常盤緑さまの近くに仕えていた女房が、今も京に生きておりました。今は尼になっておられますが、事情を話したら、話してくださいました」
「何がわかりましたか」
 鏡がゆっくりと話し始めた。

 あの夜のことを、その女房は今も忘れられないと言ったという。
 常盤緑は確かに、日子が心之丞と密かに会っていることを知っていた。しかしその怒りは、世間が思うほど単純なものではなかった。常盤緑は誇り高い女だったが、同時に、深く傷ついた女でもあった。
 心之丞は常盤緑のことを愛していた。しかし心之丞には、陰陽師としての重圧があった。賀茂家の期待を一身に背負い、日夜術の研究に没頭するうちに、常盤緑との心の距離が開いていった。常盤緑はそれでも夫を支えようとしたが、心之丞の目はいつも、遠くを見ていた。
 そんな時に、日子という女が現れた。
心之丞は日子に和歌を送った。日子はそれに返歌した。それだけのことだったかもしれない。しかし常盤緑にとっては、夫が自分に向けてくれなかった言葉を、別の女に向けているということだった。
 あの夜、常盤緑は日子のもとを訪れた。
 しかしその女房によれば、常盤緑が日子を刺したという事実はなかった。
「では、日子さまは」
「ご自身で、川に身を投げられたのだそうです」
 鏡が静かに言った。
 星子は息を呑んだ。
「常盤緑さまと話した後、日子さまは川のほとりに行かれて、そのまま飛び込まれた。常盤緑さまはそれを止めようとして、後を追いかけたのです。川に飛び込んで、日子さまを引き上げようとした。しかし間に合わなかった」
「では、常盤緑さまは」
「日子さまを救おうとして、川に入ったのです。しかし冬の川は冷たく、常盤緑さまも体力を消耗して、岸に上がることができなかった」
 松江が小さく声を上げた。両手で口を覆っている。
「ずぶ濡れだったのは、川から引き上げられたからだったのですか」
「そうです。ふたりとも、川から引き上げられました。しかし日子さまはすでに息がなく、常盤緑さまはかろうじて息があったものの、翌朝には亡くなられた」
「では、常盤緑さまは、のみで喉を突いたのではなく」
「そのような事実は、なかったそうです。剛人さまが語ったことは、作り話でした」
 星子はしばらく、言葉が出なかった。
 安倍剛人が語った話は、ふたりの関係を最も残酷に見えるように作り上げた、作り話だったのだ。常盤緑が日子を殺したという話は、不知火と星子の間に決して越えられない壁を作るための、嘘だったのだ。
「では、母は」
「日子さまがなぜ川に身を投げられたのか、その理由はわかりません。常盤緑さまとどんな話をされたのかも。しかし少なくとも、常盤緑さまが日子さまを殺したというのは、嘘です」
 松江が泣いていた。声を出さずに、静かに涙を流していた。
「おばば」
「日子さまは、優しいお方でした。自分を責めやすい、そういうお方でした。常盤緑さまに会って、自分のせいで家が壊れたと思われたのでしょう。あのお方らしい」
 松江が袖で目を拭いた。
「星子、あなたのお母さまは、あなたのことが大好きでした。あなたを置いていくつもりなど、なかったはずです。でも、追い詰められてしまったのでしょう。許してあげてください」
「怒っていないわよ、おばば」
 星子の目からも、涙が落ちた。
「ずっと知りたかったけれど、知ることが怖かった。でも、これで、少しわかった気がする」


 その夜、星子は不知火の書斎を訪ねた。
 不知火は例のごとく、書物に向かっていた。星子が入ってきた気配に気づいて顔を上げた。
 星子の目が赤いのを見て、不知火の表情が変わった。
「どうしましたか」
「話があります。座ってください」
 ふたりは向かい合って座った。星子はゆっくりと、鏡から聞いたことを話した。
 日子が川に身を投げたこと。常盤緑が止めようとして川に飛び込んだこと。ふたりとも川から引き上げられたが、助からなかったこと。安倍剛人の話が嘘だったこと。
 不知火は黙って聞いていた。
 その顔に、何の表情も浮かばなかった。
 しかし星子は、その無表情の奥で何かが大きく動いているのを、感じていた。
「……母は」
 不知火が初めて口を開いた。声が、かすかに震えていた。
「母は、誰かを殺したわけではなかったのか」
「そうです」
「母は、川で死んだのか」
「はい。でも、日子さまを止めようとして」
 不知火がゆっくりと目を閉じた。
 長い沈黙があった。
 星子は何も言わなかった。この沈黙を、埋めてはいけないと思った。
 やがて不知火が目を開けた。その目が、いつもより少し、潤んでいるように見えた。
「母は、人殺しではなかった」
「はい」
「私はずっと、母が誰かを殺したと思っていた。だから、感情というものを、信じられなかった。感情が人を狂わせると、思っていた」
「でも、違った」
「……違った」
 不知火が静かに言った。
「母は最後まで、人を救おうとしていたのか」
「そう思います」
 またしばらく、沈黙があった。
 庭の木が風に揺れる音がした。冬の風だった。
「星子」
「はい」
「あなたの母上は、なぜ川に」
「わかりません。でも、おばばが言っていました。追い詰められていたのだろうと。自分を責めやすい方だったと」
「そうか」
「私はお母さまのことを、怒っていません。ただ、会いたかったと、思っています」
 不知火がまた黙った。

「私も。私も、母に会いたかったです。父にも」
 星子は立ち上がり、不知火の隣に座った。そして、何も言わずに、その手を両手で包んだ。
 不知火は手を引かなかった。
 しばらく、そのままでいた。
 ふたりの影が、灯火に照らされて、壁に並んで映っていた。
「不知火さま」
「何ですか」
「心之丞さまのことも、調べています。播磨のほうにいらっしゃるかもしれないという話があります」
「……そうか」
「いつか、会いに行きませんか。私も一緒に行きます」
 不知火はしばらく黙っていた。
「……考えてみる」
 それは、この人なりの、はいという答えだと、星子にはわかった。
「それから、もうひとつ」
「何ですか」
「あの和歌の返歌を、渡しそびれていました」
 星子は懐から、折りたたんだ紙を取り出した。不知火に手渡す。
 不知火がゆっくりと紙を開いた。
「忘れめや うまくと告げし あの夜より 恋しき色の 褪せぬままなり」
 不知火は声には出さず、その歌を目で読んだ。
 一度読んで、また読んだ。
 それから、静かに紙を折りたたんで、懐にしまった。
「不知火さま、意味はわかりましたか」
「わかりました」
「どういう意味ですか」
「……あなたが、私のことを、ずっと好きだということです」
「そうです」
 星子がはっきりと答えた。
「ずっと好きです。最初に賀茂家でお見かけした時から、今まで、ずっと」
 不知火はしばらく、手の中の紙を見ていた。
「星子」
「はい」

「私も、あなたのことを」
 言いかけて、不知火が少し口ごもった。
「……好きだ」
 書斎が、静かになった。
 灯火が揺れた。壁の影が揺れた。
 星子の目から、涙がひとつ落ちた。泣くつもりはなかったのに、出てきてしまった。
「泣いているのですか」
「泣いていません」
「泣いているでしょう」
「涙って、勝手に出てくるものだと、今知りました」
 不知火がわずかに笑った。その笑顔が、灯火の光の中で揺れた。
 星子はその笑顔を見て、また涙が出そうになった。

「不知火さま」
「何ですか」
「契約更新の紙、いつ持ってきてくれるのですか」
「もう、そんなものはいらないでしょう」
「なぜですか」
「契約ではなく、本物の婚儀をしましょう」
 星子は目を丸くした。
「本物の、婚儀ですか」
「今度は、参列者を呼んで、昼間に、きちんと」
「八虚空さまも、松江も、鏡さんも呼んで」
「そうです」
「橘千歳さまも」
「それは、多すぎます」
「剛人さまは」
「……いやです」
 星子がまた笑った。不知火も、笑った。
 ふたりの笑い声が、冬の夜の書斎に広がっていった。
 庭の霜が、月明かりに白く輝いていた。
 偽りの契約から始まったふたりの物語が、今夜、本物になった。