陰陽師と契りの巫女ー冷酷な陰陽師と没落令嬢の契約結婚


 松江が都に戻ってきたのは、木枯らしが吹き始めた頃のことだった。
 星子が賀茂家に嫁いでからというもの、松江はひとり、あの都外れのあばら家に残っていた。足が悪くて遠出ができない上に、慣れない土地に移るのも難しい。だから星子が時々会いに行き、食べ物や薬代を届けていた。
 しかし不知火があやかしの封印を成し遂げ、都に平穏が戻ると、賀茂家の評判は一気に高まった。弟子の数が倍に増え、それに伴い収入も増えた。その余裕が、ようやく松江を呼び寄せることを可能にしたのだ。
 星子は朝から落ち着かなかった。
 松江が来る。おばばが来る。あの小言の多い、心配性の、世界で一番大切な人が来る。
 星子は朝のうちに松江の部屋を何度も確認し、布団の向きを直し、枕の高さを調整し、窓から庭が見えるかどうかを確かめた。女房の鏡が呆れ顔でそれを眺めていた。
「星子さま、もう十分でございますよ」
「でも、おばばは腰が悪いから、布団が低すぎると起き上がれないのよ」
「わかっております」
「それと、足が冷えるから、炭をもうひとつ」
「はい、はい」
 鏡がため息をついた。
 昼過ぎに、松江を乗せた牛車が賀茂家の門をくぐった。
 星子は門まで走って出迎えた。牛車の扉が開き、小柄な老婆がゆっくりと足を踏み出した瞬間、星子は思わず駆け寄って、その手を取った。
「おばば!」
「星子さま……」
 松江の目が、みるみる赤くなった。しかし泣くまいとして、唇をぎゅっと結んでいる。この人はいつもそうだ。泣きたい時ほど、泣くまいとする。
「おばば、元気だった?足は?」
「足は相変わらずです。でも、まあ、なんとか」
 松江がぐるりと屋敷を見回した。その目が、大きくなった。立派な門、広い庭、手入れの行き届いた植木。都外れのあばら家とは、何もかもが違う。
「星子、ここが、あなたの嫁ぎ先ですか」
「そうよ」
「はあ」
 松江がまた唇を結んだ。今度は何かをこらえているような顔だ。
「どうしたの、おばば」
「いいえ。よかったと思っています」
 それだけ言って、松江は松江らしくなく、それ以上何も言わなかった。
 夕方、星子が松江の部屋に茶を運ぶと、松江は窓から庭を眺めていた。夕暮れの光が庭の木々を橙色に染めている。
「きれいなお庭ですね」
「そうでしょ。毎朝、庭師が手入れするのよ」
「うちの庭はナズナばかりでしたね」
「でも、ナズナはおいしいでしょ」
 松江がふふ、と笑った。その笑い方が、星子の記憶の中にある笑い方と、まったく同じだった。
「ご主人さまは、どのようなお方ですか」
「……今夜、紹介するから」
「先ほど、廊下で見かけました」
「え、もう見たの」
「背が高くて、顔が整っていて、冷たそうな目をした方ですね」
「そうそう、そうなのよ。でも、本当はそんなに冷たくないのよ」
「そうですか」
 松江がじっと星子の顔を見た。
「星子、あなたは、そのお方が好きなのですね」
 星子は少し黙った。それから、頷いた。
「大好き」
 松江の目が、また赤くなった。今度は本当に泣きそうだった。
「よかった」
「どうしてよかったの」
「あなたが好きな人と一緒にいられるのなら、それでよいのです。お母さまも、きっと、そう思っておられますよ」
 夜、星子が不知火を松江のいる部屋に連れていくと、不知火は松江に対して、丁寧に頭を下げた。
「星子がお世話になりました」
 松江はじっと不知火を見上げた。その小さな目が、鋭く光っている。値踏みするような、あの目だ。星子は少しはらはらした。
 しばらくして、松江が言った。
「ご立派なお方ですね」
 不知火が少し驚いた顔をした。
「いいえ、まだまだです」
「星子が、ご迷惑をおかけしていないでしょうか」
「迷惑どころか、助けていただいています」
 松江がまた、星子を見た。その目に、穏やかな光があった。
「星子、この方は、本物ですよ」
「わかってるわよ、おばば」
 星子は少し照れながら、そう言った。
 その夜、星子は久しぶりに松江と並んで座り、夜が更けるまで話した。子供の頃のこと、母のこと、ナズナ料理のこと、そして不知火のこと。松江は時々うなずき、時々小言を言い、時々笑った。
 風が吹いて、庭の木が揺れる音がした。
 ああ、帰ってきた、と星子は思った。
 おばばが帰ってきた。これで、家族が揃った。