契約更新はまだできていない。
それなのに、不知火は最近、よく外出するようになった。身なりを整えて、いそいそと出て行く。
おかしい。
最近は、何かを目指して張り切っているようなのだ。書物の中に回答を見つけた時にする、あの目の表情をしている。不知火さまは、何を見つけたのだろうか。
もしかしたら契約更新はなくて、実家に帰ることになるかもしれない。そう思い、星子は前の家に通い、庭の整理を始めた。
草を抜きながら思う。ちょっと態度が大きすぎたかな、体当たりがまずかったかな、と反省することがある。でも、紙に書いた契約ばかりを大切にして、なんて肝の小さな男なのだと腹が立つこともある。でも、そこが愛しいところでもある。いや、愛しいから、何をしても許せてしまうのかもしれない。そういう自分にも、腹が立つ。
腹を立てても、すぐに心配になる。不知火さまは、どこに通っているのだろう。自分よりあの方を理解してあげられる誰かがいるのだろうか。
その日、星子が実家から帰ると、女房たちが騒いでいた。星子の姿を見るなり、憧れの目をして取り囲んだ。
「星子さま、あの方が来られたのですよ」
「誰が来たのですか」
「霞若さまですよ」
話をよく聞いてみると、あの橘千歳がやってきたのだという。
彼はあれから家を出て、霞の緒という猿楽座を作り、そこで踊っていた。霞の緒の設立には橘家が資金を提供した。普通、貴族の子息が芸人になるということはない。しかし母親は「千歳が生きてさえいれば、何をしてもよい。好きなことをして、好きな人と結ばれてよい」という心境に達し、父親を説得した。父親のほうは鬱に沈んだ妻の姿を二度と見たくないので、すぐに賛成したのだった。
霞の緒で踊る千歳の人気ときたら、この賀茂の屋敷にさえ彼のファンがいるくらいだから、巷ではどれほど人気なのかがわかるというものだ。
その千歳が、わざわざ自分で、星子に手紙を届けにきたのだ。女房がその包みを震える手で差し出した。
「星子さま、早く見せてくださいませ」
「早く、早く」
女房や侍女たちにせがまれて、星子は手紙を開いてみた。
手紙は青がかった霞色の和紙に、にじみとぼかしが美しく出る墨で書かれていた。女房たちから歓声が上がった。
「かき曇る 心は晴れて 面影の 昔にまさる きみを見ほまし」
曇っていた心も晴れ渡り、目の前にあるのは、かつてよりも美しいあなたでした。どうぞ、どうか私と会ってください。
きゃーっとあの年増の女房の鏡が、一番甲高い叫び声を上げた。
「ああ、霞若さまは、星子さまを狙っていらっしゃるのですね。その幸運なお方が、うちにいらしたとは」
その時、不知火は奥にいたらしく、ゆっくりと歩いてきて、星子のそばを通りかかった。そして首を伸ばして、その手紙をちらりと覗き見た。しかし全く関心がない様子で、そのまま歩いて行った。
「ご主人さまはもう少し熱いところを見せないと、これでは負けてしまいます」
と鏡が星子を見た。
「そうですよ。私、もてるのですから」
夜になり、星子が机に向かっていた時、不知火が一枚の和紙を手にやってきた。
「これ」
彼がそれを手渡そうとした。その紙には契約更新のことが書いてあるのだろうが、好きに出歩いていて、契約だけはしてほしいとは、図々しいではないか。私を甘く見ないでほしい。気持ちのこもった和歌をもらうまでは、契約をするわけにはいかないぞ。
「今、手が離せないので、そこに置いておいてください」
星子は彼の顔を見ようともしない。
「なにがそんなに忙しいんだい」
なになに、と彼が覗き込んだ。
「あるお方がすてきな和歌を贈ってくださいましたから、お返事を考えているのです」
「あの千歳への返歌かい」
「そうですよ。聞きたいですか」
「別に」
星子は彼の反応におかまいなく、高らかに歌を詠み上げた。
「昔より 色は変わらぬ 花なれど 君のまなこに 咲きそめにけり」
昔から変わらぬ花でございますが、あなたの目に映ることで、今こうして咲きはじめたように思えます。
「どうですか、この和歌」
「どうかな」
「千歳さまはお上手だから、返事に困ってしまいます」
「本当にうまい歌というのはな、源氏物語の場面をそれとなく使うとか、本歌取りがしてあるものだ。字の背後に、余韻が必要なのだ」
「和歌を一首も詠んだことのない方が、よく言いますよね」
「詠んだことはある」
と不知火がぶっきらぼうに言った。
「いつですか」
「……よい。帰る」
不知火が不機嫌そうに立ち去った。
「なんなの、あの態度」
そう思って振り返ると、彼が置いたはずの紙がない。怒って、持ち帰ったのかしら。
でも、契約延長ができないと困るから、星子は駆けていった。
「契約更新の紙をください」
「それは、後で届ける」
「今、ください」
「これは更新ではない」
「じゃ、何ですか」
「これは、忘れてください」
「そう言われたら、ますます忘れられないではないですか」
「返して」
不知火が紙を高く上げたから、星子は飛び上がったが、背が低いから届かない。
「返して」
「届いたら、返してやる」
背が高い彼は、星子が届かないと思っているようで、不敵な笑みを浮かべている。
よし。言ったな。
星子は彼の後ろに回り、肩に飛び乗って、その紙を取り返した。彼がまたそれを取り返そうとしたけれど、星子はうまくかわして部屋に駆け戻った。
取り返しにこないうちに、さっさと署名をしてしまおう。そう思って紙を開くと、それは契約書ではなかった。
そこには、和歌が書かれていた。
「言の葉に 尽くしもやらぬ 想ひ路を 思ひ入るほど 君をぞ願ふ」
どういう意味かしら、と星子は首を傾げた。わかりそうで、わからない。でも、これを不知火さまが作られたかと思うと、その顔を想像して、星子は笑ってしまった。
その時、女房の鏡が、茶と菓子を持って部屋に入ってくるなり隣に座った。
「星子さま、どうなさるのですか。不知火さまですか、霞若さまですか」
「鏡さん、あなたは本当に、噂が好きですよね」
「この独身女の鏡、変わり映えのない仕事ばかりの日々で、この世の中に、他にはおもしろいことがありません」
「そうですか。困りました」
「ところで、星子さま、先日は、不知火さまの後をつけていたでしょう」
おお、世の中、狭い。ばれていた。
「よくご存知ね」
星子は冷静を装って、茶をすすった。
「実は、私もつけていました」
と鏡が首をすくめた。
「鏡さんも。そうなの?」
ふたりは顔を見合わせて笑った。
「でも、私は見失いましたが」
「私は突き止めましたよ」
と鏡が誇ったように言った。
どうして身軽な自分が見失って、鏡が見つけられるのだろうか。
「鏡さんは、よく尾行をしているの?」
「はい。私の趣味であり、唯一の特技ですから」
「では、不知火さまが行かれた場所がわかったのですか」
「もちろんです」
「それはどんな女性、……いいえ、そこはどこですか」
星子が思わず、身を乗り出した。
鏡が意味深に笑った。
「星子さまのお気持ちを聞かせていただけたら、お教えします」
「何の気持ちですか」
「お心は、不知火さまですか、霞若さまですか」
「……そんなこと、決まっているではないですか」
星子は少し頬を染めて、冗談めかすように笑った。
「どちらですか」
「私は不知火さま、一筋ですから」
「それを伺って、安心いたしました。不知火さまが通われていたのは、御所の南門の前にある藤原定家さまのお屋敷です」
「あの和歌で有名なお方ですか」
「そうです。あの方に、和歌の心を習いに行かれていたようです」
「ああ。そうだったのですか」
不知火は和歌を作るために、藤原家に通っていたのだった。
星子はしばらく、その事実を胸の中でゆっくりと温めた。あの不知火が。感情は弱さだと言い張っていたあの人が。星子のために、和歌を習いに。
胸の奥から、じんわりと温かいものが広がってくる。
鏡が部屋を出ると、星子はひとりになった。
その夜、星子は墨を摺りながら、不知火が贈ってくれた和歌を何度も読み返した。
「言の葉に 尽くしもやらぬ 想ひ路を 思ひ入るほど 君をぞ願ふ」
言葉ではうまく言えないけれど、心の中に続く道をたどりながら、あなたを思っています。
最初は難しい言葉が並んでいる堅苦しい和歌だと思ったけれど、藤原定家さまが見てくださった作だと思うと、だんだんとよく見えてきた。本歌取りのような気もするし、源氏物語の匂いもする。ただ、どこがそうなのかはわからないけれど。
これって、ずっと私のことを思ってくださっているという歌。つまり、一緒に暮らしたいと言っているのだわ。
ああ、なんてよい歌なのかしら。頭のよいお方は、少し習うとすぐに上達してしまうものなのね。
星子は頬を染めながら、返歌を考えた。
窓の外に月が見えた。あの人と初めて縁側に並んで座った夜も、こんな月が出ていた気がする。感情は弱さだと言い張っていた人が、今は和歌を習いに通っている。人は変われるのだ。いや、もともと変わりたかったのかもしれない。ただ、変わり方を知らなかっただけで。
星子は筆を取った。
「忘れめや うまくと告げし あの夜より 恋しき色の 褪せぬままなり」
あなたは、忘れてはいないでしょうね。ふたりでうまくやりましょうねと告げた夜から、私は、あなたに、ずうっと恋しています。
書き終えて、星子は筆を置いた。
月明かりが部屋に差し込み、和紙の上の文字を静かに照らしていた。
偽りの契約から始まった関係が、いつの間にか、本物の何かになっていた。いつからだったのかは、わからない。七条市場の裏路地で、ふたりで初めてあやかしの道を見つけた夜だったかもしれない。縁側に並んで座り、月を眺めた夜だったかもしれない。それとも、背中に乗せてもらって、夜道を帰ったあの時だったかもしれない。
どれでもよかった。
星子はていねいに返歌を折りたたみながら、これをいつ、どんな時に渡そうと思いいながら、笑みを浮かべた。

