不知火が、婚姻の証書に名前を書き入れた。
その漢字は達筆だった。一画一画に迷いがなく、墨の流れが堂々として、紙の上で揺るぎない存在感を放っている。心の大きな人なのかもしれない、と星子はぼんやりと思った。
次に、星子がその横にかなで小さく名前を書いた。
並べてみると、恥ずかしくなった。自分の字は、まるで子供が書いたもののように頼りなく見える。
家にあった本はほぼ売り払ってしまったし、教師を招くお金もなかったから、文字の読み書きも、その他の学問も、すべて松江から習ったのだ。松江は丁寧に教えてくれたけれど、松江自身もさほど学のある人ではなかった。
星子は自分の名前からそっと目をそらした。
「これで、式は終わりました」
儀式が終わると同時に、陰陽師がすっと立ち上がり、何も言わずに部屋を出て行った。ふたりきりになる。
私の結婚式って、こんなに簡単なものなのね。
星子は、正直、少々がっかりしていた。もっと華やかなものを望んでいたわけではない。ただ、もう少し何か、特別な空気があってもよいような気がしたのだ。誓いの言葉でも、祝いの盃でも、あるいはほんの短い沈黙でもいい。何かが。
でも、とにかく、これで私たちは表向きには夫婦ということ。
この時くらいは、新妻の顔を見てくれてもいいのではないかしら。
さて、次は何が起こるのかしら。
しばらくして、一度会ったことのある年かさの女房、鏡がはいってきた。彼女は静かな足取りで近づき、ふたりを寝殿の奥へと案内した。
白絹の帳《とばり》がふわりと揺れ、その内側に、白い布団が几帳面に敷かれている。契約結婚といっても、今からいわゆる初夜というものが始まるのだろうか。
そもそも、契約結婚とは何なのだろう。普通の結婚生活に、二年という期限がついているだけのことなのだろうか。どこからどこまでが契約の範囲に含まれるのか。そのことは聞かなければと思っていたのだが、いざとなると恥ずかしすぎて、どうしても口に出せなかった。
星子は黙って、長いこと布団の上に座っていた。
不知火は何も言わない。気配だけがある。その沈黙が、じわじわと星子の息を苦しくさせた。じっとしているのは、星子の最も苦手とするところだ。黙って待つなど、どうにも性に合わない。
このまま黙っていては、いつまで経ってもこのままのような気がした。
意を決して、星子は声をかけた。
「不知火さま」
返事はなかった。
ご主人様、と呼ぶべきだったのだろうか。あるいは、不束者《ふつつかもの》ですがよろしくお願いいたします、と先に申し上げるべきだったのだろうか。それとも、相手が何か言うまで、じっと黙って待つのが作法だったのだろうか。
星子が次の言葉を探していると、突然、不知火が口を開いた。
「この婚礼は、心を交わすものではない」
へっ。
星子は思わず目を見開いた。
「は、はい。でも、それはどういうことでしょうか」
「我々は、決して、床を共にすることはない」
「つまり、あのう、それは心だけではなく、……」
言いかけて、詰まった。さすがに続きが言いにくい。星子は思い切って彼を見上げた。
しかし不知火は問いには答えず、すっと立ち上がり、ぷいと部屋を出て行ってしまった。残されたのは、白い布団と、白い帳と、星子ひとり。
結婚したばかりなのに、もう憎まれている気がする。
それなら、なぜ申し込んだのだろうか?
少し腹が立ってきた。
時は六月で、夜風は生ぬるく、寒くはなかった。けれど星子の背中には、じっとりと汗をかいていた。
その漢字は達筆だった。一画一画に迷いがなく、墨の流れが堂々として、紙の上で揺るぎない存在感を放っている。心の大きな人なのかもしれない、と星子はぼんやりと思った。
次に、星子がその横にかなで小さく名前を書いた。
並べてみると、恥ずかしくなった。自分の字は、まるで子供が書いたもののように頼りなく見える。
家にあった本はほぼ売り払ってしまったし、教師を招くお金もなかったから、文字の読み書きも、その他の学問も、すべて松江から習ったのだ。松江は丁寧に教えてくれたけれど、松江自身もさほど学のある人ではなかった。
星子は自分の名前からそっと目をそらした。
「これで、式は終わりました」
儀式が終わると同時に、陰陽師がすっと立ち上がり、何も言わずに部屋を出て行った。ふたりきりになる。
私の結婚式って、こんなに簡単なものなのね。
星子は、正直、少々がっかりしていた。もっと華やかなものを望んでいたわけではない。ただ、もう少し何か、特別な空気があってもよいような気がしたのだ。誓いの言葉でも、祝いの盃でも、あるいはほんの短い沈黙でもいい。何かが。
でも、とにかく、これで私たちは表向きには夫婦ということ。
この時くらいは、新妻の顔を見てくれてもいいのではないかしら。
さて、次は何が起こるのかしら。
しばらくして、一度会ったことのある年かさの女房、鏡がはいってきた。彼女は静かな足取りで近づき、ふたりを寝殿の奥へと案内した。
白絹の帳《とばり》がふわりと揺れ、その内側に、白い布団が几帳面に敷かれている。契約結婚といっても、今からいわゆる初夜というものが始まるのだろうか。
そもそも、契約結婚とは何なのだろう。普通の結婚生活に、二年という期限がついているだけのことなのだろうか。どこからどこまでが契約の範囲に含まれるのか。そのことは聞かなければと思っていたのだが、いざとなると恥ずかしすぎて、どうしても口に出せなかった。
星子は黙って、長いこと布団の上に座っていた。
不知火は何も言わない。気配だけがある。その沈黙が、じわじわと星子の息を苦しくさせた。じっとしているのは、星子の最も苦手とするところだ。黙って待つなど、どうにも性に合わない。
このまま黙っていては、いつまで経ってもこのままのような気がした。
意を決して、星子は声をかけた。
「不知火さま」
返事はなかった。
ご主人様、と呼ぶべきだったのだろうか。あるいは、不束者《ふつつかもの》ですがよろしくお願いいたします、と先に申し上げるべきだったのだろうか。それとも、相手が何か言うまで、じっと黙って待つのが作法だったのだろうか。
星子が次の言葉を探していると、突然、不知火が口を開いた。
「この婚礼は、心を交わすものではない」
へっ。
星子は思わず目を見開いた。
「は、はい。でも、それはどういうことでしょうか」
「我々は、決して、床を共にすることはない」
「つまり、あのう、それは心だけではなく、……」
言いかけて、詰まった。さすがに続きが言いにくい。星子は思い切って彼を見上げた。
しかし不知火は問いには答えず、すっと立ち上がり、ぷいと部屋を出て行ってしまった。残されたのは、白い布団と、白い帳と、星子ひとり。
結婚したばかりなのに、もう憎まれている気がする。
それなら、なぜ申し込んだのだろうか?
少し腹が立ってきた。
時は六月で、夜風は生ぬるく、寒くはなかった。けれど星子の背中には、じっとりと汗をかいていた。

