陰陽師と契りの巫女ー冷酷な陰陽師と没落令嬢の契約結婚


 嵯峨野の奥、化野《あだしの》に近い竹林へと続く道は、都の喧騒から切り離されたように静かだった。
 竹が密生し、空が見えない。緑の天井の下に、細い光が縞模様を作っている。その光も、奥へ進むほどに薄くなっていった。
 星子は歩きながら、今日がどういう日なのかを、何度も胸の中で確かめていた。
 地図の最後の赤丸。これを封印すれば、すべてが終わる。
 うれしい気持ちと、寂しい気持ちが、入り混じっていた。
 不知火と並んで歩くのが好きだった。どこへ行くのかわからないまま、ただ隣を歩くのが。この日々が終わることが、少し悲しかった。しかしこの先に待っている日々のことを想像すると、胸が温かくなった。ふたりで食事をして、並んで座って、他愛もない話をして。そういう普通の日々が、今は何より贅沢に思えた。
 竹林に入ると、空気が変わった。
 単に冷たくなったのではない。空気の質が変わった。竹の葉がさらさらと鳴るたびに、風が生き物のように動き、その風の中に、死者の気配が混じっていた。
 化野は古くから、死者を葬る場所だった。行き倒れた旅人、身寄りのない貧者、疫病で亡くなった者たち。都から運ばれた無数の遺体が、この地に葬られてきた。その長い年月の分だけ、この土地には死者の気配が染み込んでいる。
 苔むした地蔵が、竹の間にいくつも並んでいた。風雨に削られ、顔が曖昧になっている。目鼻が溶けたような、表情のない顔。しかし星子には、その地蔵が自分を見ているような気がした。
 大きな竹の根の間に、裂け目があった。地面が割れているのではなく、空間が裂けているような、そういう裂け目だ。そこから、黒く濡れた闇が覗いていた。
「ここを封じれば、すべて終わる」
 不知火の言葉に星子は頷き、一歩ずつ歩を進めた。
 その時だった。
「……星子……」
 竹林の風の吹く中に、女性の声が聞こえた。
 星子の足が止まった。
「かわいい星子。わたしの星子や」
 声が、どこから来るのかわからない。竹の向こうから、風に乗って流れてくるような声だった。しかしそれは確かに、星子の名前を呼んでいた。
「えっ、お母さま?」
 声の方を見ると、竹の間に、白い単衣、肩までの黒髪の美しい女が、寂しそうに立っていた。その輪郭が、かすかに揺らいでいる。
「お母さま?」
 それは、幼い星子が記憶の奥底に持っている、母の面影そのままだった。三歳で別れた母の顔を、星子はほとんど覚えていない。しかし体が覚えていた。この声、この雰囲気、この温かさ。
「そうですよ。ようやく来てくれたのね、星子。あなたをずっと待っていたのよ」
 白い袖がゆらゆらと揺れている。
 星子の胸の奥で、何かが溶けていくような感覚があった。ずっとずっと会いたかった人が、ここにいる。母親に会いたいと思わない日は、一日もなかった。その人が、今、目の前にいる。
「お母さまは霊のままで、ここで私を待っていてくれたのですか。なぜ」
「あなたをもう一度、抱きしめたいからよ。愛する星子、さあ、母のところに来なさい。抱きしめさせて」
 母が、細くしなやかなその手を差し出した。
 星子の足が、動こうとした。
 しかし、何かが引っかかった。
 体の奥から、ひやりとするものが来た。あの感覚だ。あやかしを感じる時の、あの皮膚の感覚だ。
「お母さま、私のことは大丈夫ですから、どうぞ、成仏してください」
「母はこんなに星子に会いたいのよ。どうぞ、抱かせて。こちらに、来て」
「私、そちらには行けません」
「どうしてなの。母と一緒に暮らしましょう。あなたには、二度と、さみしい思いをさせませんから」
 その言葉は、甘かった。星子の弱いところを、正確に突いていた。さみしかった日々。母のいない夜。松江のそばで眠りながら、本当の母のことを夢に見た朝のことを、鮮明に思い出させてくれた。
「お母さま、私は、さみしくないです。私はこちらの世で、不知火さまと生きていきますから、祝福をしてください」
「それは、だめですよ」
 と母親が叫んだ。
 その叫び方が、少しおかしかった。母親らしい温かさではなく、何か必死な、焦りのような響きがあった。
「その男のところへ行ってはだめです」
「なぜですか」
「その男の母親が、私を刺し殺したのですよ。そんな男と一緒になっても、幸せにはなれません」
「どうして、そのようなことを言われるのですか」
「あなたのためよ。その男は、心の中で、あなたを憎んでいます」
 星子は、胸の奥に冷たいものを感じながら、しかし落ち着いていた。
 この言葉を、星子はすでに知っている。安倍剛人が語った話と、同じ言葉だ。あの時は動揺した。しかし今は、真実を知っている。
「母親なら、どうして、私が決めた人との結婚を喜んではくれないのですか」
「星子、これ以上、あなたを苦しませたくないからよ。娘は母とともに暮らすのが、一番幸せなのですよ。星子、あなたは母親のやさしさを知らない不幸な娘だったけれど、これからは悲しい目にはあわせません。この世で、あなたのことを一番思っているのは、このわたし、あなたの母です。そして、この母も、あなたがいなくては寂しくてなりません」
「一番思ってくださっているのは、お母さま……、お母さまはさみしい……」
 星子がそう呟きながら、ふらりと一歩、母親のほうに歩き始めた。
 それは演技だった。
 しかしそれだけではなかった。母の声を聞いていると、本当に引き寄せられる感覚があった。これがあやかしの力なのだ、と星子は体で理解した。論理ではなく、感情に働きかけてくる。理性でわかっていても、体が引き寄せられていく。
「行ってはだめだ」
 と不知火が叫んだ。
 星子の耳に、不知火の声が届いた。
 その声が、体の引力を断ち切った。
 足が止まった。
 何が本当なの。何を信じれば、いいの。
 星子は目を閉じて、意識を集中させた。心の声を聞いた。体の奥から来る、あやかしを感じるあの感覚に、正直に向き合った。
 答えは、そこにあった。
「あなたは……、私のお母さまじゃない」
 星子が目をあけて、はっきりと叫んだ。
「あなたを産んで、育てた母親ですよ」
「……それならば、証拠を見せてください」
「母親に、母親だという証拠を見せよというのかい。なんて情けない」
 その女は竹の間を吹く細風のように弱々しく泣いた。星子の胸が痛んだ。本物の母であってほしいという気持ちが、まだ胸にある。だから痛いのだ。
「泣かないで」
「この母を泣かせたくないのなら、こちらへ来なさい」
「ああ、お母さま、風の音で、思い出しました。お母さまが歌ってくださったあの子守歌を。あれをもう一度、歌ってください。そうしたら、私は信じます」
 あやかしの顔に、一瞬、戸惑いが走った。それは星子の目には見えた。しかし次の瞬間、また母の顔に戻った。
「そうかい。わたしはいろんな歌を歌ってあげました。すぐにでもその子守歌を歌って、母親だと証明したいところだけれど、正直のところ、長い年月の間、こんな人気のない場所にいたから、すっかり忘れてしまいました。残念なことです。星子や、少し、歌ってはくれないかい。そしたら、思い出すから」
 星子はここで確信した。
 本物の母親なら、娘の子守歌を忘れるはずがない。しかしこのあやかしには、その記憶がない。だからこそ、星子に歌わせようとしている。
 でも、その前にもう一つ、確かめることがある。
「わかりました」
 と星子は歌い始めた。
 即興で作った歌だった。
「ねんねんころり よるのそら
つきのひかりに みすゆれて
ほしのひとつが ほほえめば
ねむれ ねむれ いとしきわが子」
「ああ、ああ、思い出してきましたよ」
 と母親だという女が泣いた。
 星子は続けた。次の節も、さらに次の節も、すべて今作った歌だ。
「ねんねんころり やみのなか
すだれのそとに かぜぞふく
こおろぎなけば こもりうた
ねむれ ねむれ よきゆめをみて
ねんねんころり おやすみなさい
かあさまここに おりまする
あなたのそばで うたいましょう
ねむれ ねむれ いとしきわが子」
 星子はさいごまで歌った。
「すっかり思い出しました。だって、これは私が作った歌なのですから。星子、一緒に歌いましょう」
「はい。お母さま」
 ふたりは一緒に、子守歌を歌った。
 二人が声を合わせて歌い終わった時、星子が不知火のほうを向いた。
「不知火さま、どうぞ、調伏してください。この女はあやかしです」
「どうして、星子は母親でないとわかるのだ」
「わかります」
 と星子が胸を張った。
「だって、この子守歌は、私が今、即興で作ったものですから」
 星子の言葉を受けて、女の頬に浮かんでいた微笑が消えた。
 ゆっくりと、その表情が変わっていった。
 目元に影がさした。口角が大きく歪んだ。そして肌の色が変わり始めた。白く美しかった肌が、灰色になり、ひび割れていく。ひび割れの奥から、墨を流したような黒が滲み出した。
 髪がゆっくりと逆巻き始め、風もないのに宙へと舞い上がった。
 体が大きくなった。女の形から、何か別のものへと変わっていく。輪郭が歪み、引き伸ばされ、もはや人の形ではなくなっていく。
 その変貌は、ゆっくりと、しかし確実だった。
 星子は一歩も退かなかった。
「ああ、そういうことか。星子、おまえは恐ろしい女だ」
 それはまるで土の底で響いてくるような男の声だった。女の形をしているのに、男の声が出る。その違和感が、かえって恐ろしかった。
「惜しかったのう、もう少しだったのに。賀茂の不知火、よく聞け。おまえにこの女は扱えない。食われてしまうぞ。この女の内側には、途方もない力が眠っている。それが目覚めた時、おまえは真っ先に飲み込まれるだろう」
 その目は赤く輝き、顔の輪郭は異様に細く引き伸ばされていった。体が揺れ、竹林の影と混ざり合い、どこからどこまでがあやかしなのかわからなくなっていく。
「何を言うか」
 星子がそう言ったかと思ったら、突然、あやかしを目指して突進し、どんと体当たりをした。
 ええっ、と不知火が仰天した。
 あやかしが地面にばたりと倒れ、星子がその上に乗って、あやかしを殴りつけた。
 不知火があわてて駆け寄り、星子の腕を引っ張って起こした。
「見たか、この女を。おまえの手には負えない」
「黙れ」
 と不知火が叫んだ。
「星子、離れていなさい」
 不知火は袖の奥から護符を取り出し、指先で一気に結界の印を切った。
 あやかしが嗤った。乾いた、底のない笑い声だった。
「人の子が、術者気取りか」
 しかしその笑い声には、わずかな焦りが混じっていた。体当たりをされたからではない。星子の力を、このあやかしは感じ取っていた。星子の中に眠る、まだ全ては目覚めていない、しかし確かにある、幽世の巫女の力を。
「おまえは、あやかしの国へ帰れ」
 不知火は護符を高く掲げた。
「封神結界──天と地の狭間にて、偽りの魂を縛り給え」
 彼の掌から蒼白い火が立ち上がり、空に神紋が浮かび上がる。それは鎖のように絡み合い、あやかしの身を締めつけた。
 あやかしが叫んだ。
「その術は、陰陽寮の秘印か。ああああ、悔しい」
 しかし不知火の術だけでは、足りなかった。あやかしは締めつける鎖に抵抗し、逃れようとしていた。
 星子は目を閉じた。
 体の奥から、あの熱を呼び起こす。指先が温かくなる。光が滲み出す。言葉はいらない。ただ、この場所から出ていけ、という強い意志だけを持つ。
 星子の手から、淡い光が流れ出した。
 不知火の白い光と、星子の淡い光が、絡み合った。
 あやかしが悲鳴を上げた。
「やめろ、その光は、その光だけはやめてくれ」
 幽世の巫女の力は、あやかしの弱点だったのかもしれない。不知火の封印の術とは違う、あやかしの根源に直接触れる力。ふたりの光が合わさって、あやかしを完全に包み込んだ。
 不知火が印を結び、光の環があやかしを包み込んだ。
「迷えるものよ、形を偽り、人を惑わし、望まぬ道へと引き込もうとした者よ、帰るべき場所に帰れ」
 あやかしの姿は一瞬、真っ黒な影の塊となったのち、霧のように散っていった。
 不知火はそっと手を下ろし、静かに息を吐いた。
 星子も、ゆっくりと手を下ろした。指先の熱が、少しずつ冷めていく。
 結界の光が消え、竹林に再び、夏の夜の静けさが戻ってきた。
 竹の葉が、さらさらと鳴っていた。
 星子は拳を握ったまま立っていた。
 母の声が、まだ耳の奥に残っていた。あれは偽物だった。わかっている。しかしその声は、本物の母の声に似ていた。似ていたから、引き寄せられそうになった。
「星子」
「はい」
「……怪我はないですか」
「ありません。不知火さまは」
「ない」
 ふたりはしばらく、竹林の静けさの中に立っていた。
「不知火さま」
「何ですか」
「今、あやかしが言っていたことは、本当ですか。私の中に、途方もない力が眠っていると」
 不知火がしばらく黙った。
「わからない。しかし、可能性はある」
「怖いですか。そういう力を持つ人間が、隣にいることが」
「怖くはない」
 不知火が、星子を見た。
「あなたの力は、私の術を助けてくれた。それだけだ」
 星子は少し笑った。
「これで、地図の赤丸はすべて消えましたね」
「そうだな」
 ふたりは並んで、竹林を出た。
 外に出ると、夕暮れの空が広がっていた。橙色と赤と紫が混じり合った、美しい空だった。
 星子はその空を見上げながら、歩き続けた。
 これで終わりだ。しかし、これから始まる。
 隣を歩く不知火の気配が、温かかった。