その夜、鏡が星子の部屋にやってきた。
「ご主人様が、来てくださいとのことです」
「い、今ですか」
「今日はずっと外出なさっていまして、先ほど帰られました。ずいぶんとお疲れの様子です」
「はい。不知火さまは、大丈夫ですか」
書斎に行くと、不知火は机の上の書類に目を通していた。灯火が揺れ、その顔に疲労の影が落ちている。それでも目だけは、いつもと変わらず鋭かった。
「調べてきましたよ」
「橘千歳さまのことでしょうか」
「そうです」
確かに二年前、京の都から橘千歳という青年が突然失踪した事件があった。まるで狐につままれたみたいに、何の痕跡も残さず、急にいなくなってしまったのだ。家族は捜索を依頼し、神仏に願掛けもしたが、手がかりはついに得られなかった。
しかし若者の失踪というのは、それほど珍しいことではない。その頃、千歳はよくもの思いをしていて、しきりに机に向かっていたという。それを聞いた検非違使は、失恋だろうと判断した。
「伊勢か、出雲大社、いや、はるか遠い岩木山神社に、願をかけに行ったに違いない。そのうちに戻ってきますよ」
しかし彼は戻ってこなかった。
不知火は橘家の屋敷を訪れてみたのだが、千歳の母親は心労のあまり床に伏せたままだった。
「私は、あやかしが橘千歳さまに取り憑いたのだと思います」
「あやかしが、取り憑いている?」
「はい。あやかしは橘千歳さまに乗り移り、少年の姿に化け、関白を思いのままに動かし、この世を混乱させているのです。あの霞若は、きっと橘千歳さまです」
不知火が額に手を当てながらしばらく考えた。
「可能性はなくはない」
「しかし星子、それを確かめる方法はあるのかい」
「はい。一つだけ、あります」
星子の瞳に強い光が宿っていた。
「関白と霞若が外出される場所に、私を連れて行ってください。そして、私の声が霞若にはっきりと聞こえる場所に立たせてください」
「それは、危険です。そんなことをしたら、相手は関白なのですから、逮捕されてしまいますよ」
「でも、それしか方法がありません。このままでは都はますますあやかしで溢れ、大変な世の中になってしまいます」
不知火は少し黙った。反論しなかった。それが、彼なりの答えだと、星子にはわかった。
やがて不知火は、祇園祭の神幸祭に関白が出席するという情報を得た。毎年七月十七日に開催されるこの儀式は、八坂神社から御旅所へ神輿が渡御する祭りだ。
「その時です。その時しかありません。どうか、私の声が霞若にはっきりと届く場所に連れていってください。お願いします」
その夜、不知火は安倍剛人の屋敷を訪問した。
「断る。そんな危ない橋は渡りたくはない」
「頼む」
「同期のおまえが、おれにものを頼むのは初めてだ。しかし今は、陰陽師は目の敵にされている状況なのだ。火中の栗を拾いたくはない」
「我が家のためだけではないぞ。陰陽師家が生き残る最後の試みだ。これしかない」
「何をするというのだ」
「星子に、作戦がある」
「詳しいことを話してみろ」
「詳しいことは、知らない」
剛人がしばらく不知火を見つめた。それから、呆れたように笑った。
「それは、実に珍しいことだ。おまえは緻密な計画を立て、それに従って行動する石頭の男だった。それだけ、彼女を信じているということか。呆れて口がきけない」
不知火は何も言わなかった。しかし剛人は、その沈黙の意味を読んだのか、やれやれと息をついてから、頷いた。
*
祇園祭当日。
八坂神社の石段下は、人々の熱気に包まれていた。鈴の音と太鼓が鳴り響き、見物人のざわめきが波のように押し寄せる。松明の炎が夕暮れの空に揺れ、祭りの匂いが夜風に漂っていた。
巨大な神輿がゆっくりと石段を下り、いよいよ差し上げの儀式が始まった。男たちの勇壮な掛け声が空に轟き、神輿が高く差し上げられるたびに見物人から大きな歓声が沸き起こる。
その興奮と熱狂の中心に、関白・藤原孝道と、並んで立つ深紅の衣装を着た霞若の姿があった。霞若は美しく、しかし人形のように無表情で、その目はどこか虚ろだった。
神輿がいよいよ出発しようと、最後の差し上げが最高潮に達し、人々の視線が一点に集中した。
その時だった。
見物人のざわめきの中で、星子が不知火に守られながら周囲の人々を押し退けて進み、一番前に出た。
「橘千歳さま、よく聞いて!」
凛とした声が、祭りの熱気を切り裂くように響き渡った。
周囲の人々がざわめき始める。何事かと視線が集まる。しかし星子は揺るがなかった。
彼女は懐から一枚の短冊を取り出し、頭上高く掲げた。そして、その短い言葉を、魂を込めて歌い上げた。
「風吹けば なずなゆらるる きみの歌 胸に染み入り 言の葉ほしき 明原星子」
風が吹いて、あのナズナが揺れると詠んでくれたあなたの歌が、今も私の胸に深く染み入っています。どうか、あなたの言葉が聞きたいのです、何か言ってください。
その歌が響き渡ると、一瞬、祭りの喧騒が遠のいたかのように、場が静まり返った。だがすぐに我に返った警備の役人たちが、星子に向かって猛然と駆け寄ってきた。
「近づくな」
不知火が冷静な声でそう言い放ち、背に差していた儀式用の刀にゆっくりと手をかけた。
「動いてはならぬ」
そう言って刀を抜いたのは、安倍剛人だった。安倍家の弟子たちが、素早く星子を取り囲んだ。役人たちの足が止まり、周囲の空気が一瞬で張り詰めた。
星子はその隙を逃さなかった。
「風吹けば なずなゆらるる きみの歌 胸に染み入り 言の葉ほしき 明原星子」
もう一度、渾身の力を込めて詠った。声が震えていた。しかし星子は最後まで歌い切った。
その瞬間、祭りの中心で、関白の隣に石像のように立っていた霞若の体が、微かに揺れた。まるで何かに突き動かされたかのように、彼がゆっくりと顔を上げた。
漆黒の瞳が、雑踏の前に立つ星子を捉えた。
誰もが息を呑む中、霞若の表情に変化が起きた。凍りついていた顔に、何かがじわりと滲んでくる。人間の、感情というものが。
「風吹いて なずなそよげば 君見つつ 胸うち騒ぎ 言葉出でずも」
その声は弱々しかったが、確かに星子に届いた。
「和歌を覚えていてくれたのですね」
星子の瞳から、喜びの涙が溢れ落ちた。彼女はさらに大きな声で、もう一度詠じた。
「風吹けば なずなゆらるる きみの歌 胸に染み入り 言の葉ほしき 明原星子!」
霞若の目が、その場に固まった関白孝道をちらりと見た。孝道の顔には、得体の知れない動揺と、わずかな怒りが浮かんでいた。霞若は、その視線から逃れるように再び星子に向き直ると、今度は声にもっと力がこもっていた。
「風吹いて なずなそよげば 君見つつ 胸うち騒ぎ 言葉出でずも。橘千歳」
橘千歳という名前が、霞若の唇から絞り出された瞬間、祭りの騒めきが突如として奇妙な静けさに包まれた。
霞若の体が地面に倒れ、稲妻に打たれたかのように大きく震え始めた。
「橘千歳さま!」
星子が叫んだ。
「橘千歳さま、戻ってきてください」
霞若、いや橘千歳は、一瞬、目を見開いた。その瞳が揺れた瞬間、彼の身体がぐらりと揺らぎ、細い指先が震え出した。そして次の瞬間、彼の口から黒々とした気味悪い何かが、煙のように噴き出した。
「う……うう……っ」
千歳は額を押さえ、膝をついた。耐え難い苦痛が全身を貫いているようだ。
黒煙の内から、言葉にならぬ呻き声が響いた。まるで何者かが咆哮とも断末魔ともつかぬ声をあげ、地の底から呪詛を吐いているかのようだった。その黒煙はじわじわと形を変えながら伸び、突如として跳ね上がったかと思うと、近くの役人のひとりに蛇のように牙を剥いた。
「下がれ!」
不知火が大声で叫び、刹那、結界の印を切って空間を裂いた。剛人もそれに続いて印を切る。煙は寸前で弾かれ、甲高い金属音のような悲鳴をあげて後ずさった。
「出ていくのだ。ここは、もう、お前の居場所ではない!」
不知火が再び印を切ると、黒煙は天を仰ぐように立ち上がり、螺旋を描いて空へと渦を巻きながら昇っていった。その呻き声は次第に細く消え入り、最後に一際鋭い音を立てて空に散った。夜空に染みのような影を残しながら、それは風に裂かれて、闇の彼方へと消えていった。
霞若と呼ばれた少年は、震えながら地に伏していた。
星子が駆け寄って、やさしく背中を撫でた。
「頑張りましたね、千歳さま。もう大丈夫ですよ、私がついていますから」
関白孝道は、目の前で起きたあまりに異常な出来事に言葉を失い、蒼白な顔で立ち尽くしていた。祭りの人々も、神輿の担ぎ手も、皆がその劇的な変化に凍りつき、静まり返った石段下には、ただ風が吹き抜ける音だけが響いていた。

